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第三十四話 レオ・メディチエールの表の顔 ⑬
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「クレスト教にとっての薔薇……か」
五年前に初めてジョルジュと出会ったときのことを思い出すと、レオは水を打ったように静まり返っている地下牢獄の環境に改めて辟易した。
ソルボンス修道騎士団の宿舎地下には、犯罪を起こした罪人たちを押し込めておく雑居房が存在する。
殺人、強盗、強姦などを起こした重犯罪人や喧嘩、掏りなどの軽犯罪人たちを厳命に区別し、犯罪の度合いによって個人房や集団房かを決められていた。
中でも殺人や強盗を犯した人間は罪が重く、裁判が開かれたとしても死刑を宣告されることは珍しくない。
だが身内の中に資産を多く持った人間がいた場合、裁判官に多額の賄賂を贈ることで罪を軽減させることも十分に可能だった。
(大丈夫だ。俺にはジョルジュ大司教がついている)
重犯罪を起こした罪人が収容される独房のさらに奥の独房には、両手を手枷で拘束されている〈黒獅子〉ことレオ・メディチエールがいた。
動き易い麻布製の上着と脚衣。
金属製のバックルが付いた革のベルト。
履いている靴も捕まったときと同じ革靴である。
ただ頭巾だけはストラニアスに切り裂かれていたので今のレオは素顔が露にされていた。
また自分の身など寸毫も心配していなかったレオだが、自分が収容されている独房内の環境の最低さには目を見張るものがあった。
日頃からまったく清掃がされていないのだろう。
レオ一人だけが収容されていた独房は吐き気を催す悪臭が充満し、湿り気を帯びた壁には痛ましい血痕が残されていた。
おそらく、以前に収容されていた罪人が壁に自分の頭を打ちつけたのだろう。
死刑を宣告された罪人の中には独房内で精神に異常を来たす者が多い。
医者として何度か死刑囚の精神と肉体状態を診てきたレオにはすぐに察しがついた。
「ねえ、何がクレスト教にとっての薔薇なの?」
不意に隣の独房から少女の声が響いてきた。
「君には関係ないことだ」
レオは素っ気なく突き放つ。すると少女――リ・シェンファは「何よ、少しは話し相手になってよ」と両頬を膨らませた。
相変わらず剛毅な性格だ。
彼女は自分の境遇が分かっているのだろうか。
この独房に入れられたということは重度の犯罪人に認定されたことを意味することを。
「そんな深刻な顔しなくても大丈夫。貴方と私は言ってみれば義のために動いたのよ。こうして牢屋に入れられたのも何か理由があるはずだわ」
鉄格子を通してシェンファは満面の笑みで親指だけを突き立てて見せた。
そんなシェンファを見据えたまま、レオは暗澹たる溜息を吐いた。
やはりシェンファは事の重大性を理解してないらしい。
それに義のために動いたと主張しても相手に通じる道理はない。
それはこうして同じ階の独房に収容されたことが何よりの証である。
ただ腑に落ちない点は幾つもあった。
なぜ、修道騎士団は〈戦乱の薔薇団〉の潜伏場所を特定することができたのか。
なぜ、シェンファが自分と同じ階の独房に入れられたのか。
なぜ、この階だけ自分とシェンファ以外の囚人がいないのか。
ざっと思案しただけでもこれだけの疑問が浮かぶ。
特に修道騎士団があれほど的確な間で現れたことには得心がいかない。
〈戦乱の薔薇団〉の中に修道騎士団と通じていた裏切り者がいたのだろうか。
「あ~あ、でも異国の地で手枷を嵌められるとは夢にも思わなかったな。こんなこと国元の師父に知られたら抹殺ものよ」
シェンファの愚痴を聞いていたレオは、シェンファに向けていた視線を自分の両手首に巻きついている拘束具に移行させた。
レオとシェンファの両手首には頑丈な鎖で作られた手枷が嵌められている。
幸いにも両足は拘束されていなかったため独房内を歩くことも可能だったが、身体を動かす度にジャラジャラと摩擦音を響かせる手枷は汚臭に惹かれた蝿の羽音と相まって不快感をさらに増長させた。
だが、そんなことをして余計な体力を浪費するつもりはない。
レオは埃が溜まっている床に胡坐を掻いたまま、続いて鉄格子の隙間から遠くに見える蝋燭の灯りに顔を向けた。
同僚である修道騎士団に拿捕されてから一昼夜。
そろそろ何かしらの動きが見られる頃合であった。
修道騎士団がではない。
〈黒獅子〉の生みの親とも呼べるジョルジュ・ロゼがである。
大司教に就任したジョルジュならば自分を独房から解き放つことなど簡単だろう。
このローレザンヌは他の都市のように伯や諸侯が市政を取り仕切っているのではなく、フランベル皇国の国教とも言われるほど広く布教したクレスト教の司教が裁判権や徴税権を持っているのだ。
つまり、すべてはジョルジュの匙加減一つで決まる。
ならば壁に頭を打ちつけた精神異常者と違って心配する必要はない。
十人以上の異端者を人知れず葬ってきた暗殺者を無罪にすることもジョルジュには十分可能だろう。
そんなことを漠然と思ったときである。
日の光が差さない地下牢獄の中に誰かの足音が響いた。
人数は一人。
歩き方には人間の気性が現れるというが、その足音からは日頃から周囲の人間に忌み嫌われていた本人の気性が存分に読み取れた。
いや、足音など聞かなくても本人の顔を見れば一目瞭然である。
レオは鉄格子の隙間から自分の独房へと歩み寄ってくる男を注視した。
やがて足音の持ち主はレオの独房前でぴたりと歩みを止める。
「よう、元気にしていたか?」
鉄格子を通して男は陽気な口調で声をかけてきた。
ソルボンス修道騎士団の甲冑を着込んだマルクスである。
革のベルトには修道騎士団を表す六芒星が彫られた長剣が吊るされていた。
「元気かと問われたら元気ではない、としか答えられませんね」
レオはたった一人で独房を訪れたマルクスに生返事をする。
「皆を騙していた薄汚い殺し屋が生意気な口を叩くな!」
マルクスは怒声とともに鉄格子を渾身の力で蹴った。
「てめえはもう終わりなんだよ、レオ。修道騎士団が異端者を殺し回った〈黒獅子〉なんて情報が世間に知られたら終わりだからな」
「どういうことです?」
「はあ? この期に及んでまた自分の境遇を理解していねえのか。てめえの処遇を決めるのに裁判なんて必要ねえってことさ」
そのときのマルクスは実に嫌な相貌をしていた。
まるで獲物を発見した野獣のように白い歯を覗かせる。
「まさか……私を人知れず葬るつもりですか?」
そうとしか考えられない。
マルクスは修道騎士団員が実は〈黒獅子〉だったという事実を世に知られてはならないと言った。
「さすがに医者でもあった野郎は頭の回転が速いな。そうさ、てめえは誰にも知られずにここで死ぬんだよ」
マルクスは予め用意していた鍵を錠前に差し込むと、半回転させて独房の扉を開けた。
そのまま慎重に独房内へ入ってくる。
「そして、てめえらの始末を請け負ったのは俺ってことだ」
すらり、とマルクスは長剣を鞘から抜き放った。
修道騎士団に支給される長剣は必要に応じて片手でも両手でも使用できるように造られている。
別名、片手半剣。
都市内を巡回する際に盾は不要となり、技量の乏しい人間でもある程度は扱えるように考案された長剣だ。
「ちょっと待って! てめえ〝ら〟の始末ってことは私も中に含まれているわけ?」
一気に表情が青ざめたシェンファに対して、マルクスは「異国の女は少し黙ってろ」とシェンファの問いを一蹴した。
「一つ訊かせてほしい。私たちの暗殺を決めたのは団長のライオットですか?」
とマルクスに質問したレオだったが、内心はライオットとは考えられなかった。
実家の権力で団長に選ばれたライオットは表向き仕事熱心で知られていたものの、裏では余計な仕事は決して行わないという職務怠慢な男でもあった。
そのような男が自ら部下の始末をマルクスに与えたとは考えられない。
そもそも世間体を気にするほどライオットは修道騎士団の仕事に熱心ではないはずだ。
ならばマルクスに暗殺を指示したのは誰か?
レオは予備動作を省いた動きで颯爽と立ち上がった。
両手首を拘束している手枷の鎖が甲高く鳴る。
「馬鹿が。教えるわけねえだろ……と、言いたいところだが特別に教えてやるよ」
斬ることも突くことにも適していた長剣の切っ先をレオに差し向け、マルクスは絶対的優勢な自分の立場を憂慮して饒舌に語り始めた。
「俺にレオ・メディチエールの暗殺を指示したのはジョルジュ・ロゼ大司教だ」
五年前に初めてジョルジュと出会ったときのことを思い出すと、レオは水を打ったように静まり返っている地下牢獄の環境に改めて辟易した。
ソルボンス修道騎士団の宿舎地下には、犯罪を起こした罪人たちを押し込めておく雑居房が存在する。
殺人、強盗、強姦などを起こした重犯罪人や喧嘩、掏りなどの軽犯罪人たちを厳命に区別し、犯罪の度合いによって個人房や集団房かを決められていた。
中でも殺人や強盗を犯した人間は罪が重く、裁判が開かれたとしても死刑を宣告されることは珍しくない。
だが身内の中に資産を多く持った人間がいた場合、裁判官に多額の賄賂を贈ることで罪を軽減させることも十分に可能だった。
(大丈夫だ。俺にはジョルジュ大司教がついている)
重犯罪を起こした罪人が収容される独房のさらに奥の独房には、両手を手枷で拘束されている〈黒獅子〉ことレオ・メディチエールがいた。
動き易い麻布製の上着と脚衣。
金属製のバックルが付いた革のベルト。
履いている靴も捕まったときと同じ革靴である。
ただ頭巾だけはストラニアスに切り裂かれていたので今のレオは素顔が露にされていた。
また自分の身など寸毫も心配していなかったレオだが、自分が収容されている独房内の環境の最低さには目を見張るものがあった。
日頃からまったく清掃がされていないのだろう。
レオ一人だけが収容されていた独房は吐き気を催す悪臭が充満し、湿り気を帯びた壁には痛ましい血痕が残されていた。
おそらく、以前に収容されていた罪人が壁に自分の頭を打ちつけたのだろう。
死刑を宣告された罪人の中には独房内で精神に異常を来たす者が多い。
医者として何度か死刑囚の精神と肉体状態を診てきたレオにはすぐに察しがついた。
「ねえ、何がクレスト教にとっての薔薇なの?」
不意に隣の独房から少女の声が響いてきた。
「君には関係ないことだ」
レオは素っ気なく突き放つ。すると少女――リ・シェンファは「何よ、少しは話し相手になってよ」と両頬を膨らませた。
相変わらず剛毅な性格だ。
彼女は自分の境遇が分かっているのだろうか。
この独房に入れられたということは重度の犯罪人に認定されたことを意味することを。
「そんな深刻な顔しなくても大丈夫。貴方と私は言ってみれば義のために動いたのよ。こうして牢屋に入れられたのも何か理由があるはずだわ」
鉄格子を通してシェンファは満面の笑みで親指だけを突き立てて見せた。
そんなシェンファを見据えたまま、レオは暗澹たる溜息を吐いた。
やはりシェンファは事の重大性を理解してないらしい。
それに義のために動いたと主張しても相手に通じる道理はない。
それはこうして同じ階の独房に収容されたことが何よりの証である。
ただ腑に落ちない点は幾つもあった。
なぜ、修道騎士団は〈戦乱の薔薇団〉の潜伏場所を特定することができたのか。
なぜ、シェンファが自分と同じ階の独房に入れられたのか。
なぜ、この階だけ自分とシェンファ以外の囚人がいないのか。
ざっと思案しただけでもこれだけの疑問が浮かぶ。
特に修道騎士団があれほど的確な間で現れたことには得心がいかない。
〈戦乱の薔薇団〉の中に修道騎士団と通じていた裏切り者がいたのだろうか。
「あ~あ、でも異国の地で手枷を嵌められるとは夢にも思わなかったな。こんなこと国元の師父に知られたら抹殺ものよ」
シェンファの愚痴を聞いていたレオは、シェンファに向けていた視線を自分の両手首に巻きついている拘束具に移行させた。
レオとシェンファの両手首には頑丈な鎖で作られた手枷が嵌められている。
幸いにも両足は拘束されていなかったため独房内を歩くことも可能だったが、身体を動かす度にジャラジャラと摩擦音を響かせる手枷は汚臭に惹かれた蝿の羽音と相まって不快感をさらに増長させた。
だが、そんなことをして余計な体力を浪費するつもりはない。
レオは埃が溜まっている床に胡坐を掻いたまま、続いて鉄格子の隙間から遠くに見える蝋燭の灯りに顔を向けた。
同僚である修道騎士団に拿捕されてから一昼夜。
そろそろ何かしらの動きが見られる頃合であった。
修道騎士団がではない。
〈黒獅子〉の生みの親とも呼べるジョルジュ・ロゼがである。
大司教に就任したジョルジュならば自分を独房から解き放つことなど簡単だろう。
このローレザンヌは他の都市のように伯や諸侯が市政を取り仕切っているのではなく、フランベル皇国の国教とも言われるほど広く布教したクレスト教の司教が裁判権や徴税権を持っているのだ。
つまり、すべてはジョルジュの匙加減一つで決まる。
ならば壁に頭を打ちつけた精神異常者と違って心配する必要はない。
十人以上の異端者を人知れず葬ってきた暗殺者を無罪にすることもジョルジュには十分可能だろう。
そんなことを漠然と思ったときである。
日の光が差さない地下牢獄の中に誰かの足音が響いた。
人数は一人。
歩き方には人間の気性が現れるというが、その足音からは日頃から周囲の人間に忌み嫌われていた本人の気性が存分に読み取れた。
いや、足音など聞かなくても本人の顔を見れば一目瞭然である。
レオは鉄格子の隙間から自分の独房へと歩み寄ってくる男を注視した。
やがて足音の持ち主はレオの独房前でぴたりと歩みを止める。
「よう、元気にしていたか?」
鉄格子を通して男は陽気な口調で声をかけてきた。
ソルボンス修道騎士団の甲冑を着込んだマルクスである。
革のベルトには修道騎士団を表す六芒星が彫られた長剣が吊るされていた。
「元気かと問われたら元気ではない、としか答えられませんね」
レオはたった一人で独房を訪れたマルクスに生返事をする。
「皆を騙していた薄汚い殺し屋が生意気な口を叩くな!」
マルクスは怒声とともに鉄格子を渾身の力で蹴った。
「てめえはもう終わりなんだよ、レオ。修道騎士団が異端者を殺し回った〈黒獅子〉なんて情報が世間に知られたら終わりだからな」
「どういうことです?」
「はあ? この期に及んでまた自分の境遇を理解していねえのか。てめえの処遇を決めるのに裁判なんて必要ねえってことさ」
そのときのマルクスは実に嫌な相貌をしていた。
まるで獲物を発見した野獣のように白い歯を覗かせる。
「まさか……私を人知れず葬るつもりですか?」
そうとしか考えられない。
マルクスは修道騎士団員が実は〈黒獅子〉だったという事実を世に知られてはならないと言った。
「さすがに医者でもあった野郎は頭の回転が速いな。そうさ、てめえは誰にも知られずにここで死ぬんだよ」
マルクスは予め用意していた鍵を錠前に差し込むと、半回転させて独房の扉を開けた。
そのまま慎重に独房内へ入ってくる。
「そして、てめえらの始末を請け負ったのは俺ってことだ」
すらり、とマルクスは長剣を鞘から抜き放った。
修道騎士団に支給される長剣は必要に応じて片手でも両手でも使用できるように造られている。
別名、片手半剣。
都市内を巡回する際に盾は不要となり、技量の乏しい人間でもある程度は扱えるように考案された長剣だ。
「ちょっと待って! てめえ〝ら〟の始末ってことは私も中に含まれているわけ?」
一気に表情が青ざめたシェンファに対して、マルクスは「異国の女は少し黙ってろ」とシェンファの問いを一蹴した。
「一つ訊かせてほしい。私たちの暗殺を決めたのは団長のライオットですか?」
とマルクスに質問したレオだったが、内心はライオットとは考えられなかった。
実家の権力で団長に選ばれたライオットは表向き仕事熱心で知られていたものの、裏では余計な仕事は決して行わないという職務怠慢な男でもあった。
そのような男が自ら部下の始末をマルクスに与えたとは考えられない。
そもそも世間体を気にするほどライオットは修道騎士団の仕事に熱心ではないはずだ。
ならばマルクスに暗殺を指示したのは誰か?
レオは予備動作を省いた動きで颯爽と立ち上がった。
両手首を拘束している手枷の鎖が甲高く鳴る。
「馬鹿が。教えるわけねえだろ……と、言いたいところだが特別に教えてやるよ」
斬ることも突くことにも適していた長剣の切っ先をレオに差し向け、マルクスは絶対的優勢な自分の立場を憂慮して饒舌に語り始めた。
「俺にレオ・メディチエールの暗殺を指示したのはジョルジュ・ロゼ大司教だ」
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