【完結】声の海 ~声優になりたいと強く願う俺が、オタクの巣窟の八天春学園ラジオ放送同好会に入会した件について~

岡崎 剛柔

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第5話    強制入会は計画的に

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 カーボン紙。

 それは表の紙に書いた字を、裏の紙に複写する際に使う感圧紙である。

「何でコピー用紙の間にカーボン紙なんか挟まって」

 いるんだ、と二の句を紡ごうとしたときだ。

 武琉の左手がカーボン紙の下にあった裏の紙を瞬時に抜き取った。

「悪いな」

 夜一は武琉が摘み取った紙を見て仰天した。

 紙は紙でもカーボン紙の下に敷かれていた紙は真っ白なコピー用紙ではなく、入会届けと印刷されていた紙だったのだ。

「よくやった、武琉! 早くこっちに渡せ!」

「ほらよ」

 武琉は入会届けの用紙を四つ折りにして秋彦へ投げつけた。

 今の今ほどまで悶絶していたはずの秋彦は颯爽と飛び起き、四つ折にされた入会届けの用紙を空中でキャッチする。

「んん? あっ、こりゃあ駄目だ。字がちゃんと名前欄に入ってない」

 用紙を開いて中身を確認した秋彦は、苦虫を噛み潰したような顔で舌打ちした。

「夜一、悪いけど書き直してくれ。これじゃあ生徒会に受理されない」

「円能寺先輩……大丈夫なんですか?」

 夜一は秋彦の言葉を無視して尋ねる。

「大丈夫って何が?」

「何がって腹ですよ腹! 俺が殴った腹は痛くないんですか?」

「幸いにもこれのお陰でな」

 秋彦は神経を逆撫でするような軽薄な笑みを浮かべるなり、おもむろにブレザーの下に着用していたシャツを捲り上げた。

 夜一は眉間に激しく皴を寄せる。

 秋彦のシャツの下には肌にぴたりと密着している黒色のベストのような代物が身につけられていた。

「いや~、武琉の忠告通りに防護ベストを着用していてよかったぜ。さすが剛柔流空手二段。こんな薄くて耐久性と衝撃性に優れたベストを持っているとは驚きだ」

「あんなことされたら誰でも腹が立つと思ったからな。だが殴られた場所が腹でよかった。顔だったら今頃は出血大サービスだ」

 鼻先を親指で軽く弾いた武琉は、もう自分の役目を終えたとばかりに顔を背けた。

 パソコンの電源を入れて淡々とOSを起動させる。

「すいません。ぜんぜん話が飲み込めないんですけど」

 普通にパソコンを弄り始めた武琉の態度もおかしかった。

 だが、それよりもおかしかったのはカーボン紙まで用意して無理やり入会届けの名前欄に名前を書かせた秋彦たちだ。

「話なんて飲み込まなくていいから入会届けに名前を記入してくれ。今度こそ名前欄からはみ出ないようにな」

「ふざけないでください!」

 腹の底から抗議の声を上げた夜一だったが、秋彦はどこ吹く風とばかりに入会届けの用紙をちらつかせた。

「往生際が悪いぞ、夜一。お前も男だったら腹を括ってラジオ放送同好会の仲間になれ」

「嫌です」

「仲間になってください。お・ね・が・い」

「変な声色で頼んでも嫌なものは嫌です」

 やがて夜一と秋彦が壮絶な視殺戦を開始したときだ。

 事の成り行きを見守っていた君夜が落ち着き払った声で呟いた。

「あらあら、あんなに手の込んだお膳立てを仕掛けたのに無駄になっちゃったわね」

(何だって?)

 君夜が漏らした何気ない一言を夜一は聞き逃さなかった。

「ちゃうやん。そもそも君夜ちゃんが余計なこと言うから」

「別にいいじゃない。遅かれ早かれ教えなくちゃいけなかったんだから。そうでしょう?」

「ちょっと待ってください」

 不意に夜一は十数分前の出来事を脳裏に蘇えらせた。

「まさか、サークル棟での一件からすべて……」

「仕込みに決まってんだろ。曲がり角で女とぶつかって恋のフラグが立つのは二次元の世界だけなんだよ。三次元の世界でぶつかって立つフラグは恋じゃなくて怒りか恨み」

 それか、と秋彦は得意気に鼻を鳴らす。

「策略のどれかさ」

(この人は馬鹿だ。真性の馬鹿だ)

 クラブに新入生を入会させるため、ここまで大げさなことを考える高校生などいない。

 それを目の前にいる円能寺秋彦という男は平然とやって見せた。

 危ない。

 ここはラジオ放送同好会という名の魔境だ。

「と、とにかく俺は同好会なんかに入りませんよ。俺は放送部に入部しますから」
 一応の礼儀として頭を下げると、夜一は「失礼します」と出入り口の扉へと歩を進めた。

「そんな逃げるように帰るなよ、ジョルジュ・ラゼ」

 秋彦の言葉を聞いた夜一は、一瞬で固まった。

 ゆっくりと顔だけを振り向かせる。

「今、何て言いました?」

「だーかーらー。そんな急に帰るなって言ったんだよ、ジョルジュ・ラゼ。もうちょっと俺の話を聞いてから帰ればいいじゃないか、ジョルジュ・ラゼ。何だったら飲み物でも出そうか、ジョルジュ・ラゼ。部屋の片隅に小さいけど冷蔵庫も置いてある、ジョルジュ・ラゼ。お茶からジュースまで飲み物なら何でも揃っているぞ、ジョルジュ・ラゼ」

「うああああ――――っ! いちいち語尾にジョルジュ・ラゼをつけるな!」

「何をそんなに怒っているんだ、エントリーナンバー一番の朝霧夜一君。ジョルジュ・ラゼの役を選んだ理由は年齢が同じで共通点も多く、自分の分身として演技ができるから選びましたと審査員やギャラリーに堂々と答えた、エントリーナンバー一番の朝霧夜一君。将来は声優として活動したいと答えた、エントリーナンバー一番の朝霧夜一君」

 突如、夜一は激しい眩暈に襲われた。

 加えて血の気が引き潮のように引き、両膝が面白いように震え始める。

「どうしてそのことを知っている……って面しているな。ふっ、答えはこういうことだ」

 秋彦は勝ち誇ったように右手の中指と親指を摩擦させてスナップ音を鳴らした。

『エントリーナンバー一番、朝霧夜一です。今日はよろしくお願いします!』

 スナップ音が鳴り終わったとき、パソコンのスピーカーから誰よりも聞き慣れた声が聞こえてきた。

 夜一は目元をひくつかせながら液晶モニターに目をやる。

 十七インチの液晶モニターにはイベント・ホールの光景が映っていた。約一ヶ月と半月前、東京神田のイベント・ホールで行われた公開オーディションの光景が。

「懐かしいだろ? 一年後に発売されるPS5用のゲームソフトに登場するキャラの声優を募集した公開オーディションの様子だ。そう、君が登場キャラの一人であるジョルジュ・ロゼのアテレコを行った公開オーディションだよ!」

「ど、どうやって公開オーディションの映像を?」

「公開オーディションの様子は、ゲーム会社のホームページで普通に公開されていたぞ」

「それは俺もスタッフの人に聞きました。だけどホームページでオーディションの様子を公開するのは三月の半ばまでと」

「はあ? こんなもん三月の頭には色々な動画投稿サイトに転載されていたぞ。あとはフリーなツールを使ってちょちょっと……ね」

 秋彦は液晶モニターの中に映っている朝霧夜一に視線を移行させた。

「袖振り合うも他生の縁。因果律の定め。運命の悪戯。どんな言葉で形容してもいい。俺は昨日ほど天上に住まわれる神に感謝したことはなかった。三百人の応募者の中から最終審査の十人にまで残った人間が八天春学園に入学してきたばかりか、全校生徒の前で新入生代表の挨拶をしてくれたんだからな。そうでなければ俺たちは朝霧夜一という逸材をみすみす見逃すところだったよ」

「俺は逸材なんかじゃない。結局、オーディションには落ちたんですから」

 夜一は悔しそうに奥歯をぎりりと歯噛みさせた。

 あの日の屈辱は絶対に忘れられない。身も凍るほどの寒日に東京の神田で行われた公開オーディション。

 身なりからコンディションまで完璧に整え、自分が声を当てたジョルジュ・ロゼというキャラの台詞や設定まで頭の中に叩き込んでアテレコに望んだ。

 しかし、夜一の演技は審査員やギャラリーの心を掴むことはできなかった。

 公開オーディションの合否はプロの声優を含めた五人の審査員と約百人のギャラリーの投票に加え、ゲーム会社のホームページに公開されていたボイスサンプルの投票を含めた合計点で合否が決まるという方式だった。

 そこで夜一は最終審査まで残った十人の中で最低点を与えられて落選した。

 キャラの気持ちになりきっていない。

 演技力と表現力が他の参加者よりも乏しい。

 絶対に合格するという熱意が表に出すぎて、キャラのイメージと声が重ならなかった。

 などアンケートに散々な意見が書かれていたことは今でも忘れられない。

「あんまり自分を過小評価するな。お前は逸材さ。少なくとも俺はそう思う」

「あんたに俺の何が分かる!」

 夜一は怒りを込めた右拳で出入り口の扉を強く叩いた。

「もう少しで声優になれたんだ! 本当にもう少しだったんだ……それが最下位の点数で落選したんだぞ! そんな人間のどこが逸材なんだよ!」

 くそ、と夜一は出入り口の扉をもう一度渾身の力を込めて殴りつける。

「じゃあ、お前は声優になるという夢を諦めたのか? 違うだろ? 声優になる夢を諦めたんなら放送部なんて声に関わるクラブに入ろうとするはずがない」

 心臓に鋭い痛みが走った。

 その痛みが病気から来る痛みでないことは分かっている。

「取り乱してすいませんでした。今日はもう帰ります」

 夜一は出入り口の扉を静かに開け放った。

 四月特有の暖かな微風が夜一の髪を撫で回す。

「夜一、帰る前にこれだけは聞いてくれ。お前が入ろうとした放送部は学校行事のときしか活動しない地味なクラブだ。そんなクラブに入っても面白くないぞ」

 だが、と背中越しに秋彦の快活な声が聞こえてくる。

「お前が入会して俺たちのラジオ放送同好会が晴れて正規クラブになった暁には、俺たちラジオ放送同好会改めラジオ放送部は名前に相応しい活動を行うつもりだ。頼む、夜一。そのためにお前の力を貸してくれ」

「失礼……しました」

 はっきりとした返事をせずに夜一はプレハブ小屋を後にした。

「お前の見込み違いだったようだな。あいつ、多分もうここへは来ないぞ」

 完全に閉められた扉を見つめながら武琉が抑揚を欠いた口調で言った。

「いや、奴は必ず俺たちの仲間になるさ。そう俺のゴーストが囁いている」

「会話の中にさり気なくアニメネタを含ますのは止めろ、フリムン(馬鹿たれ)」

 苦笑した秋彦は液晶モニターに映っていた夜一を見つめる。

 液晶モニターに映っていた夜一は司会者の男に「将来の夢は?」と訊かれていた。

『はい、将来の夢は多くの人に親しんでもらえるようなキャラを演じる――』

 夜一は何の迷いもない毅然とした態度で答えた。

『声優になることです!』
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