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第9話

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 たかが数分歩いただけでそこは別世界になった。

 先ほどまでは鳥の鳴き声が心地よい演奏のように耳に届いていたはずなのに、この場所では一切その音色が聞こえてこない。

 ただ不気味な静寂が森を覆い隠し、肉食獣どころか虫もいないのではないかと錯覚してしまうほどの雰囲気があった。それほど暗く冷たい漆黒の空間が広がっている。

「何ここ……本当に森なの」

 イエラはこみ上げてくる恐怖感と同時に、持ち前の好奇心も掻き立てられた。

 木の根が複雑に絡み合っている地面や、頑丈な屋根のように太陽の光を遮っている森の木々を見上げながらどんどん奥へと歩を進めていく。

 その足取りは自分が思っていたものよりも軽快であった。

 てっきり森の奥に足を踏み入れた時点で足がすくんでしまうのではないかとも危惧していたが、予想に反して身体は誰かに導かれるように前に進んでいく。

 明かりが必要かもしれない森の奥。イエラはただ真っ直ぐ前だけを見つめ、足元の木の根を綺麗に避けていく。

「あ……」

 声を漏らしたイエラは、奥に見えてきた光景に目を奪われた。

 暗闇の森の中に立てられていた一本の輝く柱。イエラは率直にそう感じた。

 だがそれは柱ではなかった。

 光である。

 まるでその場だけを避けているかのように開いている木々の上から、燦々と輝く陽光が一本の柱のように降り注いでいたのである。

 神秘的な光景であった。芸術的と言い換えてもいい。

 イエラにはその光景が一枚の絵画のように神々しく映っていた。

 そして気がつくと、イエラは光の中に身を投じていた。

 半径数メートルはある楕円形をした空間。その一角には光り輝く陽光を反射している泉があった。水面は風で微かに波立てられ透明度は驚くほど高い。

 それに泉の周囲を囲っている深緑の芝生は、人の手が入っていないにもかかわらず精妙に計測されて刈られたように平坦であった。

「綺麗……何て澄んでいる水なの」

 泉の水面に自分の顔を映したイエラは、両手の掌を桶代わりに泉の水を掬った。

 光に反射して手の中で揺らいでいる水は、どんな高級なお茶よりも価値がある飲み物のようにも見える。

 ゴクリ、と大きな音が鳴った。イエラの手の中にあった水は、口内から喉を通り五臓六腑の隅々まで染み渡っていく。

「ぷはーっ、おいしい」

 イエラは乾いていた喉の渇きを泉の水で満たしていると、ふと目線が泉を挟んだ向こうの芝生に合わせられた。

 遠目からなのではっきりとは確認できないが、降り注ぐ陽光とはまた違う異質な光が見えた。一瞬宝石かとも思ったが、森の奥深くにそんな物があるはずがない。

 イエラはその正体を確かめようと泉をぐるりと迂回して歩いていった。目的の場所に辿り着くと、両膝を曲げて顔を近づかせた。

 芝生の中にあった物体は、子供の握り拳ほどの大きさであった石であった。だが、路傍に落ちている石とは微妙に違う。形はどちらかというと鉱物に似ているかもしれない。

 イエラは恐る恐る手を伸ばすと、その石を手に取った。

 温かい。イエラの手の平に置かれている石からは、生物特有の体温ともいえる熱が感じられた。じっと耳を澄ませば、心臓の鼓動が聞こえてくるような気さえする。

「これってどう考えても普通の石じゃないよね」

 イエラはしばらくの間、手の平の上で不思議な石を転がして考えていた。

 この不思議な石を自分のコレクションに加えるかどうかである。

 イエラには魔術や呪術に関する書物を密かに読むことの他に、不思議な物を収集するという特異な趣味があった。

 様々な国から珍しい物品が集まるミゼオンで育ったせいもあり、オークション市が開かれるたびに怪しげな工芸品やアクセサリーが自室の棚を占領していく。

 父親はその収集癖に呆れ果てていたが、好きなものは好きなので仕方がない。それが趣味というものである。

 一分ほど思案すると、イエラは手にしていた石を木の籠に放り込んだ。自室の棚に陳列することを決意したらしい。

「まさか森の中でこんな一品に出会えるなんて今日は運もいいわ」

 イエラは一切金銭をかけずに手に入れた不思議な物体に顔をほころばせた。

 オークション市で手に入る品物は、子供の小遣いではどうしても買える物が限定されてしまう。そう考えると、今日の成果は思いのほか高かった。これで本来の目的の品である香草も手に入れば言うことはないのだが。

 そう思った矢先、イエラの瞳孔が大きく開いた。信じられないという顔つきとともに、ゆっくりと足が動く。

 不思議な石が落ちていた芝生の奥。距離にして数メートルの場所に、目的の香草が何本といわず何十本も生えていたのである。

 ここは魔の領域どころか神の領域だ。

 思わずそう叫びそうになったイエラは、市場で売られている野菜の何倍もの値段がする香草を嬉しそうに摘み始めた。
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