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第3話

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 数分後、イエラは一冊の本を両手に抱えながらリビングに戻ってきた。

 イエラは「これが証拠だ」と抱えていた本をテーブルの上に置いた。全体的に黒ずんでいたが、十分な厚みに堅牢な装丁が施されたその本は、目にした者すべてを魅了するような不思議な雰囲気を放つ古書であった。

「これは」

 シュミテッドとリンゼの顔つきが明らかに変わった。二人とも、テーブルの上に置かれた古書に目が釘付けになっている。

「何年か前に父さんの仕事に付き合ってミシュラの街に行ったときに手に入れた本なんだ。といっても買ったわけじゃなくて貰い物なんだけどね」

 イエラはテーブルの上に置いた本の項を慣れた手つきでめくっていくと、挿絵が描かれている項を見開いた。

 両開きにした本の右の項には古代文字がビッシリと記されており、左の項には大きな蛇と宙に浮かんでいる何人もの人間の姿が描かれていた。

「ほらこの本には空を飛ぶ人間が化け物と戦っている絵が描かれているでしょう。これは当時の人々が魔法を使っていた何よりの証拠だよ。う~ん、すごいよ!」

 イエラは何百年前に起こったとされる光景を想像しながら、目を輝かせている。

 シュミテッドは古書の項をめくりながら中身を目で追っている。

「でもこの本に使われているのは古代文字だ。お前、古代文字なんて読めるのかよ」

 問われた本人のイエラはきっぱりと答えた。

「ぜんぜん。まったく読めない」

 シュミテッドは思わず座っている椅子から転げ落ちそうになった。

「はあ? じゃあ何で大昔の人間が魔法を使っていたとか、魔物を倒しただのがお前にわかるんだよ」

 イエラは視線を空に彷徨わせながら答えた。

「何となくかな。内容はわからないけど、文字に目を通していくと頭の中にぼんやりと映像が浮かんでくるんだよね」

「何とまあ……」

 シュミテッドはパタンと古書を閉じた。古い書物にもかかわらず、閉じたときに埃の一つも出ないのは持ち主が日頃からきちんと管理している証拠であった。

「純真無垢な子供の夢を打ち砕くようで悪いが」

 シュミテッドは大きく背伸びをすると、両手を頭の後ろで組んだ。

「魔法なんてものはこの世には存在しない。ただのおとぎ話さ」

 イエラは身を乗り出して反論する。

「な、何でそんなことを言い切れるのさ! もしかしたらこの世のどこかで魔法の力を受け継いだ魔法使いたちが生きてるかもしれないじゃないか!」

 シュミテッドの顔を真っ向から直視するイエラの表情は真剣そのものであった。この大陸では子供の夢物語として語られている魔法の存在を、確固たる現実のものとしてイエラは信じていた。たとえ他者からどんなに罵倒されてもである。

「第一、魔法魔法って言ってるけどお前はどうなんだ? その目で実際に魔法を見たことがあるのか?」

 シュミテッドがさらに追撃を放つと、ついにイエラの堪忍袋がズタズタに引き裂かれた。

「う、うるさいうるさいうるさーい! 無一文の宿無しの分際でわかったようなことを言うな!」

 イエラは硬く握った拳でテーブルを叩いていると、寝室の扉が開いた。

「うるさいのはお前だ、イエラ! 騒音を撒き散らすならさっさと寝ろ!」

 寝室から顔を出したカールがイエラを一喝すると、再び寝室の扉は閉じられた。

 イエラは置物のように固まった。普段は男勝りで同年代の少年たちよりも腕っぷしが強かったイエラも、さすがに父親には勝てないらしい。

 何やら口をもごもごとさせていたイエラだったが、軽いため息をつくと椅子から立ち上がった。

「もう寝る。アンタたちも明日には出て行ってよね」

 頭を掻きながら自分の寝室に歩いていくイエラ。その小さな背中を見送っていたシュミテッドとリンゼの視線は、イエラの姿が見えなくなると同時にテーブルの上に注がれた。

 テーブルの上に置かれた一冊の古書。持ち主がその場にいなくなっても本自体から醸し出される威厳にも似た雰囲気は損なわれることはない。

「まさかな」

 シュミテッドは置かれていた古書を手に取った。

「サバダージが書いた本にこんなところで出会うなんてな」

 シュミテッドは黒ずんだ本の正面をなぞりながら、懐かしさに打ち震えている。

 そう、もうあれから五百年近くが経過していた。

 人間を食らうために深い地の底から産み出てきた人外の存在――魔族。

 数こそは人間に及ばなかったが、その比類ない闘争心と戦闘能力の高さは人間の常識を遥かに逸脱していた。それゆえに当時の人間たちの武器では抵抗するだけで精一杯。互いに争っていた国々も協力し合い人類の天敵に立ち向かったが、圧倒的な彼我との差にゆくゆくは敗北を免れなかった。

 だからこそ人類は必死で探した。人間が持って生まれた力で抵抗する手段がないのならば、それ以外の力で魔族と称された人外の化け物を葬り去ろうと。

 そしてついに見つけたのである。

 古来より各国に密かに受け継がれた文献の中に散りばめられていた天界の神々と契約し、その神の力の一端を人の身に降ろす幻の秘術。

 元は一つであった物がバラバラになって各国に受け継がれていたため、今までは人類がその秘術を獲得することはなかった。

 おそらくこの文献を散り散りにした人間は、この神の力が動乱の引き金にならないように危惧したのだろう。文献の一端を面識がない様々な国に受け継がせれば、受け継いだ国が一つにならない限り秘術を手に入れることはできない。

 だが人類は一つとなり獲得したのである。精霊魔法と呼ばれる秘術を。

 しかし問題は残されていた。集まった文献に記されていた複雑な呪韻や神字で記されている内容を解読できる人間がいなかったのである。

 当時の国々に十人はいたという王宮魔導師という人間たちもそのほとんどが国の明暗を占うだけの人間たちであり、実際に超常現象を引き起こせるような力は持ち合わせてはいなかった。もちろん、精霊魔法の使用法が記されている文献の内容を理解することなどもできなかった。

 各国の王たちは頭を抱えた。ようやく数百年、もしかすると数千年ぶりに袂を分かれた国々が一つになったというのに、このままではその甲斐も虚しく魔物の軍勢により滅ぼされてしまう。

 だが、希望と不幸は予告もなしに天から舞い降りてくる。

 人類の行く末に頭を悩ませていた各国の王たちの元に一人の男が現れたのである。

 女性のように流麗な黒髪を腰まで伸ばした、民族服装に身を包んだ長身の青年。辺境の片田舎から出てきたという青年は、夢に出てきた神からこの王都に行くようにお告げを聞いたと口にした。

 各国の王たちは試しに文献を青年に閲覧させると、青年は見事に奇跡を起こした。

 青年が文献の中身を朗読するに従い、声に出された文字の一つ一つが青年の身体に浮かび上がったのである。そしてすべての文字の朗読を終えたときには、青年の身体は刺青のように文献に記されていた呪韻や神字で埋め尽くされていた。

 これらは人類最後の希望の土地であった王都ア・バウアーで起きた奇跡として国中に広がった。そして〈ア・バウアーの聖痕者〉と呼ばれた青年は、身体に宿った神の力で素質のある人間を見極めて手を差し伸べていった。

 青年に才能を見込まれた人間は、神の祝福を受けた証として特殊な力を開眼した。

 それが魔族と対等に戦える術を身につけた魔術師と称される人間たちであった。

 そして魔術師たちは死に物狂いで魔族と戦った。

 自分の命を犠牲にしてでも平和な世界を取り戻してみせる。魔術師たちの尊い信念と多大な犠牲により、人類は徐々に魔族の猛攻を退けていった。

 だが希望が訪れれば不幸も押し寄せてくる。

 劣勢を強いられた魔族はついに自分たちの王をこの世に顕現させた。

 その姿は直立すれば天空にまで達し、腹の底から湧き上がる咆哮は広大な大地すら震動させる戦慄と破壊の衝動が込められていた。

 この世のすべての負の感情が塊となって人類の目の前に現れた物体は、もはや生物や怪物などの範疇に入らない異形な巨大さと禍々しさを兼ね備えた蛇龍であった。

 背中に生やした十二枚の漆黒の翼を羽ばたかせながら、巨大な尾を一振りすれば山の一つぐらい一瞬で崩壊できるかもしれない。

 それほどの圧倒的な存在感と威圧感を放っていた蛇龍をその目で見た人間たちは、口を揃えて恐ろしさと一緒に吐き出した。

 神と敵対する絶対的な悪――魔王と。

 形勢は再び逆転した。

 たとえ魔術師たちが精霊魔法を発動させる詠唱言霊を唱えたとしても、ニーズヘッグという魔王との実力の差は圧倒的だった。

 金属よりも硬質化していたニーズヘッグの肌は精霊魔法による攻撃を阻み、口内より吐き出された煉獄の業火は一気に数十人もの魔術師を塵へと変えた。

 このとき人類は絶望という真の意味を理解した。

 どんなに抗ったところで絶対に覆せない現実がある。

 神の力を授かった魔術師たちの中ですら両膝を地面につけ、両手を組んで祈ることしかできない人間が出始めていた。

 だが結果的には魔族と魔王はこの世から姿を消し、人類は再びこの世に種を存続させる権利を得ていた。

〈ア・バウアーの聖痕者〉、〈導きの救世主〉、〈地上に降臨した神の代理人〉。

 呼び方は様々だが、王都に風のように現れた青年の死と引き換えに人類は勝利したのである。

 これらは五百年前に実際起こった出来事であったが、現在ではその真実は闇の中へと葬り去られていた。

 神の化身とまで言われた青年と、精霊魔法に関するすべての事柄がである。

「もう五百年ですか。シュミテッド、やはりまだ旅は続けるのですか?」

「当然だ。まだやらなきゃいけないことが多すぎる……それに」

 シュミテッドは椅子の背もたれに深く身を預けると、カーテンが閉められていない窓を眺めた。窓の向こうには暗闇に混じってうっすらと輝いている光点が見えた。ミゼオンの繁華街から漏れ出る光である。

「これ以外することなんてないしな」

 言葉にもできないほどの哀愁を漂わせるシュミテッドを横目に、人形のように一切の表情を崩さなかったリンセが少しだけ苦笑したように見えた。

「それは殊勝な心がけです、シュミテッド。そうでなければ私の存在意義もなくなってしまいます」

 リンゼが言い終えると同時に、イエラの母親の診察が行われていた寝室の扉が開いた。部屋の中からシモンとカールが出てくる。

「では今日はこの辺で。もし夜になると咳が激しくなるのなら薬を出しておきます。また明日にでも経過を見に来ますから」

 シモンは何度も頭を下げているカールからシュミテッドとリンゼに視線を向けた。だがそれはほんの一瞬のことで、余所者であるシュミテッドとリンゼに会話を促すこともなく玄関へと歩きだした。カールもシモンを見送るためか自分も玄関へと付き添っていく。

「医者っていうよりも錬金術師とかそっち系の雰囲気が強いな。まあ、特殊な職業にはそういった人間のほうが向いているかもしれんが……ってどうした?」

「いえ、何でも」

 シュミテッドはいつまでも玄関のほうに視線を向けているリンゼに首を傾げた。

 長年リンゼとは行動をともにしているが、リンゼが上の空になるときは決まって〝何か〟が起こるときだとシュミテッドは理解している。

 だが、それがいつかはシュミテッドにもリンゼ本人にもわからない。ただ、極近いうちだということだけは今までの経験から推測できる。

 つまりあせる必要はなかった。運命とは来るべきときは本人が望まずとも必ず来る。この世はそういう風に出来ているのである。

「今日はもう遅い。イエラの好意に甘えて休ませてもらおう」

 身長が大きければ欠伸も大きかった。シュミテッドは早々に身体を休ませようとモーフがかけられていたソファーに向かうと、途端に衣類に何かが引っかかった。

「私がソファーでシュミテッドは床です。先ほどのジャンケンでそう決まりました」

 シュミテッドの裾を摑んでいたリンゼは、自分よりも頭二つ分は大きなシュミテッドの巨体を軽々とリビングの端まで投げ捨てると、あっという間に自分の身体をソファーに預けた。

 結局、シュミテッドは泣く泣く床で寝ることになったのだが、次の日の朝にカールに粗大ゴミと間違われたことは言うまでもない。
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