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第五十八話 異世界の剣聖と日ノ本の剣聖
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「お主がトーガ・カムイ・ブラフマン?」
武蔵は怪訝な表情で呟いた。
同時に心の中で「そんな馬鹿な」と高らかに叫ぶ。
トーガ・カムイ・ブラフマンはこの異世界において、1500年もの大昔にのみ実在していた男なはずだ。
つまり、当たり前だが今の世まで生きているはずがない。
だとすると、六間(約10メートル)ほど先にいる着流しの男はトーガ・カムイ・ブラフマンを名乗る偽物なのだろうか。
「俺は偽物ではない。自分で言うのもなんだが、俺は正真正銘のトーガ・カムイ・ブラフマンだ」
ただし、とトーガは抑揚を欠いた口調で二の句を紡ぐ。
「今の俺は生きているとも死んでいるとも呼べない不確定な存在だ……もちろん、俺だけではなく今のお前もだがな」
(生きているとも死んでいるとも呼べない存在?)
武蔵はトーガの言葉を胸中で反芻する。
「そうだ。今の俺たちは肉体の呪縛から解き放たれた、言わば魂体と呼ばれる思念のみで模られた状態だ。しかし、その状態でなければこの蓬莱山には来ることが出来ないのでな」
トーガは無表情で空になった盃に酒を注いでいく。
武蔵は改めて周囲を見回した。
嵐のあとのような静寂の中、肌に心地よい微風が桜の花片と枝木をさわさわと揺らしている。
「蓬莱山? それがこの場所の名前か?」
こくり、とトーガは首を縦に振る。
「ちなみにこの蓬莱山は現世と幽世(あの世)の狭間にある、三次元空間とは隔絶された虚数空間にある世界だ」
武蔵は眉間に谷のような深いしわを寄せた。
こやつは何を言っているんだ、と言わんばかりの表情である。
一方のトーガはそんな武蔵の表情など気にならない様子だった。
「要するにこの場所は、実際に存在しているとも存在していないとも呼べる不干渉領域の一つ……まあ、それでも分からなければ単純に亜空間とだけ認識すればいい」
などと説明してトーガは一気に酒を飲み干していく。
この瞬間、武蔵は深く考えることを止めた。
おそらく、トーガに対して様々な疑問をぶつけても徒労に終わるだろう。
トーガは〝起こっている事実〟を口にしているだけなのだ。
どれだけ頭に浮かんだ疑問を矢継ぎ早に投げかけたとしても、トーガはありのままのことを淡々と正確に答えてくれるに違いない。
けれども、その答えをよく吟味《ぎんみ》して咀嚼し、飲み込めるほどの知識と理解が自分にはないことを武蔵は短い会話の中で痛感した。
この不可思議な場所にしてもそうだ。
小難しい異世界の言葉を並べられても何一つ理解できない。
しかし、その中で武蔵にも分かることがあった。
(この男も黄姫殿と同じく〈聴剄〉とやらを使うのか)
武蔵とトーガは先ほどから会話が成立していないのに、なぜか破綻せずに意志の疎通が出来ていたのだ。
〈聴剄〉。
黄姫の説明によると練り上げた自分の〝気〟を大きく広げ、その広げた〝気〟の範囲内にいる生き物の行動や心情を読み取れるという。
そしてトーガが本物の〈聴剄〉を使っているのならば、即ちトーガは天理もしくは魔法のどちらかを使えることを意味していた。
「少し違うな。俺は天理か魔法のどちらかを使えるのではない」
トーガは酒で濡れていた口元を左手の甲で拭った。
「俺は天理と魔法のどちらも使える二天一流だ。それはあの上位耳長族の女からも聞いているはずだが」
上位耳長族の女とは黄姫のことに違いない。
武蔵は改めて思う。
元を辿ればこの異世界の詳しい事情を聞いたのは黄姫からである。
そして、そのときに武蔵は知ったのだ。
この異世界には魔法以外にも天理という別の異能の力が存在していることを。
それだけではない。
かつて凶悪な魔物たちによって滅ぼされかけたこの異世界を、天理と魔法の二つの力で救った一人の英傑がいたこともこのときに知ったのである。
トーガ・カムイ・ブラフマン。
天理と魔法を後世に広め、人々から〈大剣聖〉と呼ばれたという最強者。
その男がどういうわけか目の前に生きて存在している。
「厳密には生きてはいないのだが……」
まあいい、とトーガは徳利と盃を足元に置いた。
「俺としてはこうしてガイアの剣聖である宮本武蔵と会えただけで目的の一部は果たせたのだからな」
そう言うとトーガは落ち着いた足取りでこちらに向かってくる。
武蔵の全身に緊張が走った。
いつでも抜刀できるように下丹田に意識と力を集中させる。
やがてトーガは武蔵から二間(約6.6メートル)の位置で止まった。
「だが、俺は情報としての宮本武蔵しか知らん。それゆえ本当にお前がアルガイアを救うことの出来る〈勇者の卵〉なのかどうか見極めさせてもらう」
不意にトーガから大気を震わせるほどの闘気が沸き上がった。
その闘気の凄まじさによって、トーガの周囲の桜の花片だけが不自然なほどに舞い上がっていく。
「よく分からんが問答無用ということか」
武蔵も負けじと下丹田を中心に強く〝気〟を練り上げる。
魂体だろうと何だろうと関係なかった。
肉体の隅々までに〝気〟を行き渡らせる感覚はいつもと同じだ。
「一つ聞きたい」
すっと身体が脱力していく実感を味わいながら、武蔵はトーガに対して尋ねた。
「お主を倒せばこの異様な場所から抜け出せるのか?」
こればかりはどうしても聞いておかねばならないことだった。
今の自分には余計な時を浪費する暇などない。
一刻も早く迷宮に行って〈ソーマ〉を見つけ、生死の境を彷徨っている伊織を助けなくてはならないのだ。
「時間の浪費についてだけは安心しろ。この場所で経過する年月と、現実世界で流れている時間は繋がってはいない。つまりここで何十年と過ごしてから帰ったとしても、お前が元の世界から飛ばされてきた天魔法や魔物が存在する世界――アルガイアでは時間が経過していないということになる」
そして、とトーガは射貫くような鋭い視線で武蔵を見る。
「この俺を倒せたならばむろんのこと、何であろうと俺に一太刀でも浴びせることが出来たならすぐにでも元の場所に返してやろう」
トーガは「ただし」と口調を強めて言葉を続けた。
「裏を返せばこの俺に一太刀すら浴びせられないのならば、お前はこの場所から永遠に帰ることはできない……だが、それでも良いのかもな。その程度すら出来ないということは、たとえアルガイアに帰ったところで宮本伊織ともども近いうちに死ぬのが落ちだ」
近いうちに伊織が死ぬ。
その言葉を聞いて武蔵の目眉が大きく動く。
「伊織に何をする気だ!」
殺意を剥き出しにした武蔵に対して、トーガは「勘違いするな」と言った。
「俺は何もせぬし何も出来ない……弟子を殺すのはお前だ、宮本武蔵」
トーガはおもむろに両手の掌を上に向けた。
「〈外丹法〉も満足に扱えない今のお前の弱さでは、少しでも格上の相手と遭遇すればそこで終わりだ。そしてお前が死ねば頼りの綱を無くした宮本伊織は必然的に死ぬ、と俺は言っている」
「俺が弱い……だと?」
「まさか、強いとでも思っていたのか? 自惚れるなよ。アルガイアには今のお前以上の強者などごまんといる。もちろん、お前が向かうべき先の迷宮にもな」
だからこそ、とトーガは力強い口調で言い放った。
「お前のすべてを出して掛かって来い。俺に一太刀でも浴びせられるようになった頃には、少しは今よりもマシになっているだろう……ただ、その一太刀を浴びせられるまでに何十年かかるかはお前次第だがな」
直後、トーガは「天掌板、顕現――〈色即是空〉」と口にした。
するとトーガの右手の掌上に一振りの刀が出現する。
鍔のない白鞘の三尺(約90センチ)を超える長刀だ。
続いてトーガは間を置かずに「魔掌板、顕現――〈空即是色〉」と言った。
今度はトーガの左手の掌上に別の刀が出現する。
同じく鍔のない白鞘の刀だったが、こちらは二尺三寸五分(約70センチ)の大刀であった。
トーガは右手に長刀、左手に大刀という異様な二刀流となる。
「二天一流、トーガ・カムイ・ブラフマン。さあ、どこからでも掛かって来い」
面と向かって名乗られた以上は自分も名乗る。
それが兵法者としての作法であり決意だ。
ゆえに武蔵も魂を奮い立たせて名乗った。
「円明流、宮本武蔵――」
次の瞬間、武蔵は大刀を抜いて八相に構える。
そして――。
「いざ参る!」
異世界の剣聖と日ノ本の剣聖。
その剣聖同士の戦いの火蓋が激しく切られた――。
武蔵は怪訝な表情で呟いた。
同時に心の中で「そんな馬鹿な」と高らかに叫ぶ。
トーガ・カムイ・ブラフマンはこの異世界において、1500年もの大昔にのみ実在していた男なはずだ。
つまり、当たり前だが今の世まで生きているはずがない。
だとすると、六間(約10メートル)ほど先にいる着流しの男はトーガ・カムイ・ブラフマンを名乗る偽物なのだろうか。
「俺は偽物ではない。自分で言うのもなんだが、俺は正真正銘のトーガ・カムイ・ブラフマンだ」
ただし、とトーガは抑揚を欠いた口調で二の句を紡ぐ。
「今の俺は生きているとも死んでいるとも呼べない不確定な存在だ……もちろん、俺だけではなく今のお前もだがな」
(生きているとも死んでいるとも呼べない存在?)
武蔵はトーガの言葉を胸中で反芻する。
「そうだ。今の俺たちは肉体の呪縛から解き放たれた、言わば魂体と呼ばれる思念のみで模られた状態だ。しかし、その状態でなければこの蓬莱山には来ることが出来ないのでな」
トーガは無表情で空になった盃に酒を注いでいく。
武蔵は改めて周囲を見回した。
嵐のあとのような静寂の中、肌に心地よい微風が桜の花片と枝木をさわさわと揺らしている。
「蓬莱山? それがこの場所の名前か?」
こくり、とトーガは首を縦に振る。
「ちなみにこの蓬莱山は現世と幽世(あの世)の狭間にある、三次元空間とは隔絶された虚数空間にある世界だ」
武蔵は眉間に谷のような深いしわを寄せた。
こやつは何を言っているんだ、と言わんばかりの表情である。
一方のトーガはそんな武蔵の表情など気にならない様子だった。
「要するにこの場所は、実際に存在しているとも存在していないとも呼べる不干渉領域の一つ……まあ、それでも分からなければ単純に亜空間とだけ認識すればいい」
などと説明してトーガは一気に酒を飲み干していく。
この瞬間、武蔵は深く考えることを止めた。
おそらく、トーガに対して様々な疑問をぶつけても徒労に終わるだろう。
トーガは〝起こっている事実〟を口にしているだけなのだ。
どれだけ頭に浮かんだ疑問を矢継ぎ早に投げかけたとしても、トーガはありのままのことを淡々と正確に答えてくれるに違いない。
けれども、その答えをよく吟味《ぎんみ》して咀嚼し、飲み込めるほどの知識と理解が自分にはないことを武蔵は短い会話の中で痛感した。
この不可思議な場所にしてもそうだ。
小難しい異世界の言葉を並べられても何一つ理解できない。
しかし、その中で武蔵にも分かることがあった。
(この男も黄姫殿と同じく〈聴剄〉とやらを使うのか)
武蔵とトーガは先ほどから会話が成立していないのに、なぜか破綻せずに意志の疎通が出来ていたのだ。
〈聴剄〉。
黄姫の説明によると練り上げた自分の〝気〟を大きく広げ、その広げた〝気〟の範囲内にいる生き物の行動や心情を読み取れるという。
そしてトーガが本物の〈聴剄〉を使っているのならば、即ちトーガは天理もしくは魔法のどちらかを使えることを意味していた。
「少し違うな。俺は天理か魔法のどちらかを使えるのではない」
トーガは酒で濡れていた口元を左手の甲で拭った。
「俺は天理と魔法のどちらも使える二天一流だ。それはあの上位耳長族の女からも聞いているはずだが」
上位耳長族の女とは黄姫のことに違いない。
武蔵は改めて思う。
元を辿ればこの異世界の詳しい事情を聞いたのは黄姫からである。
そして、そのときに武蔵は知ったのだ。
この異世界には魔法以外にも天理という別の異能の力が存在していることを。
それだけではない。
かつて凶悪な魔物たちによって滅ぼされかけたこの異世界を、天理と魔法の二つの力で救った一人の英傑がいたこともこのときに知ったのである。
トーガ・カムイ・ブラフマン。
天理と魔法を後世に広め、人々から〈大剣聖〉と呼ばれたという最強者。
その男がどういうわけか目の前に生きて存在している。
「厳密には生きてはいないのだが……」
まあいい、とトーガは徳利と盃を足元に置いた。
「俺としてはこうしてガイアの剣聖である宮本武蔵と会えただけで目的の一部は果たせたのだからな」
そう言うとトーガは落ち着いた足取りでこちらに向かってくる。
武蔵の全身に緊張が走った。
いつでも抜刀できるように下丹田に意識と力を集中させる。
やがてトーガは武蔵から二間(約6.6メートル)の位置で止まった。
「だが、俺は情報としての宮本武蔵しか知らん。それゆえ本当にお前がアルガイアを救うことの出来る〈勇者の卵〉なのかどうか見極めさせてもらう」
不意にトーガから大気を震わせるほどの闘気が沸き上がった。
その闘気の凄まじさによって、トーガの周囲の桜の花片だけが不自然なほどに舞い上がっていく。
「よく分からんが問答無用ということか」
武蔵も負けじと下丹田を中心に強く〝気〟を練り上げる。
魂体だろうと何だろうと関係なかった。
肉体の隅々までに〝気〟を行き渡らせる感覚はいつもと同じだ。
「一つ聞きたい」
すっと身体が脱力していく実感を味わいながら、武蔵はトーガに対して尋ねた。
「お主を倒せばこの異様な場所から抜け出せるのか?」
こればかりはどうしても聞いておかねばならないことだった。
今の自分には余計な時を浪費する暇などない。
一刻も早く迷宮に行って〈ソーマ〉を見つけ、生死の境を彷徨っている伊織を助けなくてはならないのだ。
「時間の浪費についてだけは安心しろ。この場所で経過する年月と、現実世界で流れている時間は繋がってはいない。つまりここで何十年と過ごしてから帰ったとしても、お前が元の世界から飛ばされてきた天魔法や魔物が存在する世界――アルガイアでは時間が経過していないということになる」
そして、とトーガは射貫くような鋭い視線で武蔵を見る。
「この俺を倒せたならばむろんのこと、何であろうと俺に一太刀でも浴びせることが出来たならすぐにでも元の場所に返してやろう」
トーガは「ただし」と口調を強めて言葉を続けた。
「裏を返せばこの俺に一太刀すら浴びせられないのならば、お前はこの場所から永遠に帰ることはできない……だが、それでも良いのかもな。その程度すら出来ないということは、たとえアルガイアに帰ったところで宮本伊織ともども近いうちに死ぬのが落ちだ」
近いうちに伊織が死ぬ。
その言葉を聞いて武蔵の目眉が大きく動く。
「伊織に何をする気だ!」
殺意を剥き出しにした武蔵に対して、トーガは「勘違いするな」と言った。
「俺は何もせぬし何も出来ない……弟子を殺すのはお前だ、宮本武蔵」
トーガはおもむろに両手の掌を上に向けた。
「〈外丹法〉も満足に扱えない今のお前の弱さでは、少しでも格上の相手と遭遇すればそこで終わりだ。そしてお前が死ねば頼りの綱を無くした宮本伊織は必然的に死ぬ、と俺は言っている」
「俺が弱い……だと?」
「まさか、強いとでも思っていたのか? 自惚れるなよ。アルガイアには今のお前以上の強者などごまんといる。もちろん、お前が向かうべき先の迷宮にもな」
だからこそ、とトーガは力強い口調で言い放った。
「お前のすべてを出して掛かって来い。俺に一太刀でも浴びせられるようになった頃には、少しは今よりもマシになっているだろう……ただ、その一太刀を浴びせられるまでに何十年かかるかはお前次第だがな」
直後、トーガは「天掌板、顕現――〈色即是空〉」と口にした。
するとトーガの右手の掌上に一振りの刀が出現する。
鍔のない白鞘の三尺(約90センチ)を超える長刀だ。
続いてトーガは間を置かずに「魔掌板、顕現――〈空即是色〉」と言った。
今度はトーガの左手の掌上に別の刀が出現する。
同じく鍔のない白鞘の刀だったが、こちらは二尺三寸五分(約70センチ)の大刀であった。
トーガは右手に長刀、左手に大刀という異様な二刀流となる。
「二天一流、トーガ・カムイ・ブラフマン。さあ、どこからでも掛かって来い」
面と向かって名乗られた以上は自分も名乗る。
それが兵法者としての作法であり決意だ。
ゆえに武蔵も魂を奮い立たせて名乗った。
「円明流、宮本武蔵――」
次の瞬間、武蔵は大刀を抜いて八相に構える。
そして――。
「いざ参る!」
異世界の剣聖と日ノ本の剣聖。
その剣聖同士の戦いの火蓋が激しく切られた――。
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