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第四十七話 夜の密談
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アルビオン王国の王女であるアリーゼの自室には、王女の部屋に相応しいほどの豪華な調度品や天蓋付きのベッドなどが置かれている。
それだけではない。
床には血のように紅い絨毯が敷かれており、天井には室内を煌々と照らす魔道具による照明器具が設置されていた。
時刻は夜――。
すでに寝静まっている者たちが大半のアルビオン城内において、アリーゼだけは広々とした自室において日課である拳術の鍛錬をこなしていた。
鋭い踏み込みから連続した直突きを放ち、続いて半円の軌道を描いた回し蹴りを眼前の仮想敵手に向かって繰り出す。
アリーゼは鋭い回し蹴りを放った直後、颯爽と振り返って跳躍した。
すかさず右足と左足による、二連蹴りを仮想敵手に向かって蹴り上げる。
二連蹴りから重力を感じさせない動きで着地したアリーゼは、ここからが本番とばかりに間を置かず様々な攻撃を放っていく。
その攻撃方法は多彩を極めていた。
一般的な突きや蹴りはもちろんのこと、肘打ちや膝蹴り、果ては特殊な打ち方である手の甲や掌といった様々な部位を駆使した攻撃だったのだ。
しかし、真に特質すべきは攻撃方法ではなかった。
一つ一つの攻撃に纏糸剄――力のねじりを加えていることと、その攻撃範囲の広さに他ならない。
今のアリーゼは一人だけの敵を仮想してはいなかった。
複数の敵、それも人間以外のモノも想定して身体を動かしている。
そして、その動きの大半は我流ではなかった。
しかし熟練者の指導を受けている印象がありながらも、全体の動きからは独自の工夫や経験を反映させていることが見て取れる。
どれほどの時間が経っただろうか。
アリーゼは雷鳴のような激しさがあった攻撃を止めると、そのまま肩幅ほどの広さで平行に立ち、ゆっくりと呼吸を整えていく。
と、ほぼ同時に自室の扉がノックされた。
「……入りなさい」
アリーゼが扉のほうに顔を向けると、「失礼いたします」という声とともに一人の若い女が入ってくる。
背丈は百六十センチのアリーゼよりも頭一つ分は高く、制服である黒いドレスと白いエプロンを着用しており、艶のある黒髪の上からフリル付きの白いキャップをかぶっていた。
侍女の香鈴である。
香鈴は部屋に入ると、アリーゼの姿を見て嘆息した。
「アリーゼ様……またそのような格好で鍛錬をしておられたのですか」
香鈴がため息を漏らすのも頷けた。
今のアリーゼは一国の王女にあるまじき、下着一枚というあられもない姿だったからだ。
けれども、アリーゼの表情に羞恥の色はまったく見られない。
裸同然の姿を見られていながらも、むしろ見られて困るものなどない、とばかりにアリーゼは平然としている。
「ここは私の部屋なのだから、どんな格好で何をしようと私の勝手よ。それとも、あなたは私についてあれこれと指図する権利があるのかしら?」
香鈴は「もちろん、ございません」と首を横に振った。
「わたくしはアリーゼ様の侍女であり、親衛隊の一人でしかないのですから……ですが、そのような格好で鍛練をされると風邪を引いてしまいます」
「そのときは真っ先にあなたに移してあげる。それでいいでしょう?」
「はい、それならば問題はございません」
今度はアリーゼがため息をついた。
「冗談よ……真に受けないでちょうだい」
「アリーゼ様のお言葉ならばすべて真に受けるつもりでおります」
「それは侍女として? それとも親衛隊として?」
「アリーゼ様に命を救われた一人の女として、です」
ふっ、とアリーゼは他人の前では見せない無邪気な笑みを浮かべた。
「大げさね。私はただ道端に落ちていた猫を拾ってあげただけよ。中西人でありながら、魔法という素晴らしい才能を持っていた猫をね」
「おだてないでください、アリーゼ様。常日頃からアリーゼ様にご指導いただいているにもかかわらず、未だにステータスの〈練精化〉止まりの自分が情けなくて仕方ないです」
「こればかりは地道に鍛錬を積み重ねていくしかないわね。それに本人がいくら悩もうと、出来るときはいきなり出来るようになるから。それを信じて〈内丹法〉の鍛錬を続けなさい」
そう言うとアリーゼは、天蓋付きの豪華なベッドに向かって歩き出した。
ベッドの上には折り畳まれていた絹布(タオル)が置かれており、アリーゼはその絹布(タオル)を取ろうと手を伸ばそうとする。
そのときであった。
ダンッ、という床を蹴る音が鳴ったかと思うと、数メートルは離れた場所にいた香鈴がアリーゼの真横に現れたのである。
いや、現れたという表現は適切ではない。
香鈴は数メートルの距離を一気に跳躍してきたのだ。
そして香鈴はアリーゼよりも速く絹布(タオル)を手に取る。
「アリーゼ様、汗を拭かれるならば一声かけてください」
顔色一つ変えずそう言った香鈴は、手に取った絹布(タオル)でアリーゼの汗を優しい手つきで拭っていく。
そんな香鈴にアリーゼは「見事ね」と微笑んだ。
「中西国術(中西国の伝統武術)に伝わる特殊歩法――〈箭疾歩〉だったかしら? この距離を一息で詰められるなんて、さすがは私の拳術の師匠ね」
「お褒めにあずかり光栄ですが、私の拳の腕前などまだまだです。この〈箭疾歩〉にしても拳を極めた達人が使えば、それこそ十数メートル……いいえ、数十メートルの距離でも一息で詰められると言われているのですから」
ぴくり、とアリーゼの目眉が動いた。
「数十メートルの距離を一息で? さすがにそれは眉唾物でしょう。それが本当なら空の属性における空間転移魔法とほとんど同じじゃない」
空間転移魔法。
その言葉を口にしたとき、アリーゼの脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。
自分の魔法使いとしての師匠であり、アルビオン王国内に存在する魔法使いの中でも最強の魔法使いと言われている男の姿がである。
男の名前はメルヴェイユ。
地水火風という魔法の四属性のさらに先――真に才ある者しか到達できないとされている、空の属性に足を踏み入れた人間である。
すなわち、ステータスの最後の領域である〈練神化〉まで魔力を練ることが出来たことを意味していた。
そのため、このメルヴェイユには国に関わる大役が数多く任されている。
異世界から〈勇者の卵〉たちを表向きは召喚魔法と偽っている空間転移魔法で呼び寄せたこともそうだが、街災級の凶悪な魔物を別種の空間転移魔法で〈断罪の森〉に封じ込めていたことも、すべてメルヴェイユの実力によるものだった。
アリーゼの全身の汗を綺麗に拭き取った香鈴は、「そうかもしれません」と今度は絹布(タオル)の横に置かれていた衣服を手に取った。
それは清潔感のある水色の貫頭衣であり、香鈴は慣れた手つきでアリーゼに貫頭衣を着させていく。
水色の貫頭衣を着たアリーゼは、仕上げとばかりにベッドの上に置かれていたガラス製の小瓶を掴んだ。
ガラス製の小瓶の中身は香水である。
しかもこの香水は市場に出回るような代物ではなかった。
ガラス製の小瓶の上部にある突起物を人差し指で押すだけで、専用の射出口から中身が霧状になって噴出するという優れものだ。
確か中身も特別な花から抽出したものだと、この香水をくれたメルヴェイユは言っていた。
着替え終わったアリーゼは、残っていた汗の匂いを消そうと全身にまんべんなく香水を吹きかける。
もちろん、香鈴は嫌な顔など一切しない。
それどころか、匂いなど気にせず淡々と会話を続けていく。
「わたくしも実際に数十メートルの距離を詰められる、箭疾歩の使い手は見たことがありません。あくまでもどこかにいるだろう、という話を聞いた程度です」
「たとえば地下迷宮――〈魔海〉に、とか? あそこの〈黒龍幇〉になら、その域に達した達人の一人や二人はいるでしょう。いえ、それぐらいの達人を何人も組織に抱えていないと〈魔海〉を牛耳れなかったのかもしれないわね」
「かもしれません……ですが〈黒龍幇〉にいたところで、しょせんは裏世界でしか生きられない下賤な天理使いでしょうから、そういった連中は地下で好きなように殺し合っていれば良いのです」
むしろ、と香鈴は語気を強めながら言葉を紡いでいく。
「わたくし的にはあのような連中が地下世界であろうとも平気でのさばっていること自体が信じられません。一刻も早く〈魔海〉ごとこの世から消えて無くなってしまえばいいのですが」
「その点にだけは同意するけど、父上が在命中にそれはないわ。アルビオン王国が光ならば〈黒龍幇〉は闇。そして光と闇は古来より蜜月の関係と相場が決まっている。何十年も培ってきた裏の関係はそんな簡単には崩れない。それこそ、事情を知らない不穏分子でも現れない限りはね」
「まさか、そんな人間や組織など現れるはずがありません。今さら〈黒龍幇〉に闘いを仕掛けることなど国王でも無理でしょう」
「そうね。実際に父上も〈魔海〉を牛耳る〈黒龍幇〉との関係は壊したくないと考えているでしょうから。たとえ表向きは迷宮騎士団を派遣して管理していると謳っていてもね」
「口惜しいことです。けれども、それもアリーゼ様が国王の座につけば……」
「香鈴」
アリーゼが低い声とともに鋭い視線を飛ばすと、香鈴はハッとして深々と頭を下げる。
「軽率な発言でした。申し訳ございません」
アリーゼは表情を緩めると、「まあ、別にいいわ」と言った。
「だけど、どこで誰が聞いているか分からない以上、うかつな発言は慎みなさい。いいわね? 香鈴」
香鈴は再び「申し訳ございません」と謝罪する。
そんな香鈴を見て、アリーゼは「ところで」と話を切り替えた。
「例の〈勇者の卵〉たちはどんな様子? まだ、全員とも回復しないの?」
顔を上げた香鈴は重苦しく頷く。
「はい……あれからも高名な薬師や回復専門の治癒師たちに診てもらっていますが、どうも回復する様子が一向にありません。理由としてはおそらく環境と食事に馴染めなかったことと、ステータスの〈練精化〉に際する注意事項を無視していたことが挙げられるとのことです」
アリーゼはどっと肩を落とした。
現在、異世界からやってきた〈勇者の卵〉たちは全員とも病床に臥せっている。
理由はあまりにも信じられないことだった。
食事が合わずに体調を崩したことに加えて、魔力を消費するので無闇にステータスの顕現化をしないよう注意していたことを、連中はゲームの世界ではどうのこうのという訳の分からないことを言ってまったく守らなかったのだ。
そのせいで〈勇者の卵〉たちは魔力切れを起こし、体調を崩したことも相まって深刻な状況に追い込まれていた。
間違いなく、このままでは全員とも近いうちに命を落とすだろう。
「最初は魔法の才能が高い〈勇者の卵〉ということで期待していたんだけれど、蓋を開けてみれば心身ともにひ弱な最低限の注意事項も守れない〈愚者の卵〉だった……ということね。このままだと全滅するんじゃない?」
「その可能性が非常に高いですね。実際に三人ほど昏睡状態が続いているらしく、一般的な薬や回復魔法では気休めにしかなっていないとのこと。決定的な解決策がない限り数日が山場ではないか、というのが薬師と治癒師たちの見解です……アリーゼ様、いかがされますか?」
「いかがするというのは?」
「〈勇者の卵〉たちに〈ソーマ〉を与えますか?」
「そうね……」
と、アリーゼは緩く両腕を組んで考え込む。
「マスター・メルヴェイユは何と言っているの? 腐っても異世界人たちは〈勇者の卵〉。〈ソーマ〉を与えて回復させたとしても、本当に使い物になるかどうか彼は見極めたのでしょう?」
香鈴は表情を険しくさせ、射貫くような眼光でアリーゼを見る。
「率直にお伝えしてよろしいでしょうか?」
アリーゼは「構わないわ」と続きの言葉をうながす。
「全員とも不合格というのがマスター・メルヴェイユの結論です。どんなに将来的に上位の職業になれる可能性が高くとも、連中の心身の弱さでは魔法使いとして才能を発揮する前に潰れる、と」
アリーゼは苦笑した。
「よほど元の世界では、安全で、楽で、贅沢、な暮らしをしていたのでしょうね。たかが食事一つ合わなかっただけで体調が崩れたのがその証拠よ。まさに弱さを絵に描いたような存在だわ」
「ならば……」
「ええ、そのような将来的に期待できない連中に貴重な〈ソーマ〉を与えるわけにはいかないわ。あの〈ソーマ〉も年々と採れる数が減ってきているのでしょう?」
「環境の変化もあるでしょうが、一番の原因は〈ソーマ〉の採取場所を知る〈迷宮案内人〉の減少かと思われます。噂によると最近になって代替わりした〈黒龍幇〉の幇主(組織のトップ)が色々と無茶をさせたそうですから」
アリーゼは渋面になりながら奥歯を軋ませる。
「いくら〈ソーマ〉が〈黒龍幇〉を通じてしか入手できないとはいえ、あまりにも数が減るのはいただけないわね。あの〈ソーマ〉こそ人間の秘められた力を手っ取り早く解放させることのできる霊草なのよ。あの〈ソーマ〉の採取量によって、私の今後の計画にも大いに影響が出てくる」
「何か手を打ちますか?」
「たとえば? 何か妙案でもあるの?」
「輝夜を〈黒龍幇〉に送り込むのはいかがでしょう? 彼女は親衛隊の中でも優れた武術の使い手です。それに大倭人でありながら中西語も喋られますので、彼女に〈黒龍幇〉の関係者に近づいてもらって内部を偵察してもらうのです」
香鈴は淡々と言葉を続ける。
「上手く顔役の一人に取り入ることが出来れば、将来的には〈黒龍幇〉自体も操れるようになるかもしれません。何せ彼女の房中術(性の技法)は神域に達しているそうですから」
アリーゼはあご先を右手の人差し指と親指でつまんで思考した。
「……面白いわね」
そう口にすると、アリーゼは香鈴に告げた。
「輝夜をここに呼んできなさい」
それだけではない。
床には血のように紅い絨毯が敷かれており、天井には室内を煌々と照らす魔道具による照明器具が設置されていた。
時刻は夜――。
すでに寝静まっている者たちが大半のアルビオン城内において、アリーゼだけは広々とした自室において日課である拳術の鍛錬をこなしていた。
鋭い踏み込みから連続した直突きを放ち、続いて半円の軌道を描いた回し蹴りを眼前の仮想敵手に向かって繰り出す。
アリーゼは鋭い回し蹴りを放った直後、颯爽と振り返って跳躍した。
すかさず右足と左足による、二連蹴りを仮想敵手に向かって蹴り上げる。
二連蹴りから重力を感じさせない動きで着地したアリーゼは、ここからが本番とばかりに間を置かず様々な攻撃を放っていく。
その攻撃方法は多彩を極めていた。
一般的な突きや蹴りはもちろんのこと、肘打ちや膝蹴り、果ては特殊な打ち方である手の甲や掌といった様々な部位を駆使した攻撃だったのだ。
しかし、真に特質すべきは攻撃方法ではなかった。
一つ一つの攻撃に纏糸剄――力のねじりを加えていることと、その攻撃範囲の広さに他ならない。
今のアリーゼは一人だけの敵を仮想してはいなかった。
複数の敵、それも人間以外のモノも想定して身体を動かしている。
そして、その動きの大半は我流ではなかった。
しかし熟練者の指導を受けている印象がありながらも、全体の動きからは独自の工夫や経験を反映させていることが見て取れる。
どれほどの時間が経っただろうか。
アリーゼは雷鳴のような激しさがあった攻撃を止めると、そのまま肩幅ほどの広さで平行に立ち、ゆっくりと呼吸を整えていく。
と、ほぼ同時に自室の扉がノックされた。
「……入りなさい」
アリーゼが扉のほうに顔を向けると、「失礼いたします」という声とともに一人の若い女が入ってくる。
背丈は百六十センチのアリーゼよりも頭一つ分は高く、制服である黒いドレスと白いエプロンを着用しており、艶のある黒髪の上からフリル付きの白いキャップをかぶっていた。
侍女の香鈴である。
香鈴は部屋に入ると、アリーゼの姿を見て嘆息した。
「アリーゼ様……またそのような格好で鍛錬をしておられたのですか」
香鈴がため息を漏らすのも頷けた。
今のアリーゼは一国の王女にあるまじき、下着一枚というあられもない姿だったからだ。
けれども、アリーゼの表情に羞恥の色はまったく見られない。
裸同然の姿を見られていながらも、むしろ見られて困るものなどない、とばかりにアリーゼは平然としている。
「ここは私の部屋なのだから、どんな格好で何をしようと私の勝手よ。それとも、あなたは私についてあれこれと指図する権利があるのかしら?」
香鈴は「もちろん、ございません」と首を横に振った。
「わたくしはアリーゼ様の侍女であり、親衛隊の一人でしかないのですから……ですが、そのような格好で鍛練をされると風邪を引いてしまいます」
「そのときは真っ先にあなたに移してあげる。それでいいでしょう?」
「はい、それならば問題はございません」
今度はアリーゼがため息をついた。
「冗談よ……真に受けないでちょうだい」
「アリーゼ様のお言葉ならばすべて真に受けるつもりでおります」
「それは侍女として? それとも親衛隊として?」
「アリーゼ様に命を救われた一人の女として、です」
ふっ、とアリーゼは他人の前では見せない無邪気な笑みを浮かべた。
「大げさね。私はただ道端に落ちていた猫を拾ってあげただけよ。中西人でありながら、魔法という素晴らしい才能を持っていた猫をね」
「おだてないでください、アリーゼ様。常日頃からアリーゼ様にご指導いただいているにもかかわらず、未だにステータスの〈練精化〉止まりの自分が情けなくて仕方ないです」
「こればかりは地道に鍛錬を積み重ねていくしかないわね。それに本人がいくら悩もうと、出来るときはいきなり出来るようになるから。それを信じて〈内丹法〉の鍛錬を続けなさい」
そう言うとアリーゼは、天蓋付きの豪華なベッドに向かって歩き出した。
ベッドの上には折り畳まれていた絹布(タオル)が置かれており、アリーゼはその絹布(タオル)を取ろうと手を伸ばそうとする。
そのときであった。
ダンッ、という床を蹴る音が鳴ったかと思うと、数メートルは離れた場所にいた香鈴がアリーゼの真横に現れたのである。
いや、現れたという表現は適切ではない。
香鈴は数メートルの距離を一気に跳躍してきたのだ。
そして香鈴はアリーゼよりも速く絹布(タオル)を手に取る。
「アリーゼ様、汗を拭かれるならば一声かけてください」
顔色一つ変えずそう言った香鈴は、手に取った絹布(タオル)でアリーゼの汗を優しい手つきで拭っていく。
そんな香鈴にアリーゼは「見事ね」と微笑んだ。
「中西国術(中西国の伝統武術)に伝わる特殊歩法――〈箭疾歩〉だったかしら? この距離を一息で詰められるなんて、さすがは私の拳術の師匠ね」
「お褒めにあずかり光栄ですが、私の拳の腕前などまだまだです。この〈箭疾歩〉にしても拳を極めた達人が使えば、それこそ十数メートル……いいえ、数十メートルの距離でも一息で詰められると言われているのですから」
ぴくり、とアリーゼの目眉が動いた。
「数十メートルの距離を一息で? さすがにそれは眉唾物でしょう。それが本当なら空の属性における空間転移魔法とほとんど同じじゃない」
空間転移魔法。
その言葉を口にしたとき、アリーゼの脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。
自分の魔法使いとしての師匠であり、アルビオン王国内に存在する魔法使いの中でも最強の魔法使いと言われている男の姿がである。
男の名前はメルヴェイユ。
地水火風という魔法の四属性のさらに先――真に才ある者しか到達できないとされている、空の属性に足を踏み入れた人間である。
すなわち、ステータスの最後の領域である〈練神化〉まで魔力を練ることが出来たことを意味していた。
そのため、このメルヴェイユには国に関わる大役が数多く任されている。
異世界から〈勇者の卵〉たちを表向きは召喚魔法と偽っている空間転移魔法で呼び寄せたこともそうだが、街災級の凶悪な魔物を別種の空間転移魔法で〈断罪の森〉に封じ込めていたことも、すべてメルヴェイユの実力によるものだった。
アリーゼの全身の汗を綺麗に拭き取った香鈴は、「そうかもしれません」と今度は絹布(タオル)の横に置かれていた衣服を手に取った。
それは清潔感のある水色の貫頭衣であり、香鈴は慣れた手つきでアリーゼに貫頭衣を着させていく。
水色の貫頭衣を着たアリーゼは、仕上げとばかりにベッドの上に置かれていたガラス製の小瓶を掴んだ。
ガラス製の小瓶の中身は香水である。
しかもこの香水は市場に出回るような代物ではなかった。
ガラス製の小瓶の上部にある突起物を人差し指で押すだけで、専用の射出口から中身が霧状になって噴出するという優れものだ。
確か中身も特別な花から抽出したものだと、この香水をくれたメルヴェイユは言っていた。
着替え終わったアリーゼは、残っていた汗の匂いを消そうと全身にまんべんなく香水を吹きかける。
もちろん、香鈴は嫌な顔など一切しない。
それどころか、匂いなど気にせず淡々と会話を続けていく。
「わたくしも実際に数十メートルの距離を詰められる、箭疾歩の使い手は見たことがありません。あくまでもどこかにいるだろう、という話を聞いた程度です」
「たとえば地下迷宮――〈魔海〉に、とか? あそこの〈黒龍幇〉になら、その域に達した達人の一人や二人はいるでしょう。いえ、それぐらいの達人を何人も組織に抱えていないと〈魔海〉を牛耳れなかったのかもしれないわね」
「かもしれません……ですが〈黒龍幇〉にいたところで、しょせんは裏世界でしか生きられない下賤な天理使いでしょうから、そういった連中は地下で好きなように殺し合っていれば良いのです」
むしろ、と香鈴は語気を強めながら言葉を紡いでいく。
「わたくし的にはあのような連中が地下世界であろうとも平気でのさばっていること自体が信じられません。一刻も早く〈魔海〉ごとこの世から消えて無くなってしまえばいいのですが」
「その点にだけは同意するけど、父上が在命中にそれはないわ。アルビオン王国が光ならば〈黒龍幇〉は闇。そして光と闇は古来より蜜月の関係と相場が決まっている。何十年も培ってきた裏の関係はそんな簡単には崩れない。それこそ、事情を知らない不穏分子でも現れない限りはね」
「まさか、そんな人間や組織など現れるはずがありません。今さら〈黒龍幇〉に闘いを仕掛けることなど国王でも無理でしょう」
「そうね。実際に父上も〈魔海〉を牛耳る〈黒龍幇〉との関係は壊したくないと考えているでしょうから。たとえ表向きは迷宮騎士団を派遣して管理していると謳っていてもね」
「口惜しいことです。けれども、それもアリーゼ様が国王の座につけば……」
「香鈴」
アリーゼが低い声とともに鋭い視線を飛ばすと、香鈴はハッとして深々と頭を下げる。
「軽率な発言でした。申し訳ございません」
アリーゼは表情を緩めると、「まあ、別にいいわ」と言った。
「だけど、どこで誰が聞いているか分からない以上、うかつな発言は慎みなさい。いいわね? 香鈴」
香鈴は再び「申し訳ございません」と謝罪する。
そんな香鈴を見て、アリーゼは「ところで」と話を切り替えた。
「例の〈勇者の卵〉たちはどんな様子? まだ、全員とも回復しないの?」
顔を上げた香鈴は重苦しく頷く。
「はい……あれからも高名な薬師や回復専門の治癒師たちに診てもらっていますが、どうも回復する様子が一向にありません。理由としてはおそらく環境と食事に馴染めなかったことと、ステータスの〈練精化〉に際する注意事項を無視していたことが挙げられるとのことです」
アリーゼはどっと肩を落とした。
現在、異世界からやってきた〈勇者の卵〉たちは全員とも病床に臥せっている。
理由はあまりにも信じられないことだった。
食事が合わずに体調を崩したことに加えて、魔力を消費するので無闇にステータスの顕現化をしないよう注意していたことを、連中はゲームの世界ではどうのこうのという訳の分からないことを言ってまったく守らなかったのだ。
そのせいで〈勇者の卵〉たちは魔力切れを起こし、体調を崩したことも相まって深刻な状況に追い込まれていた。
間違いなく、このままでは全員とも近いうちに命を落とすだろう。
「最初は魔法の才能が高い〈勇者の卵〉ということで期待していたんだけれど、蓋を開けてみれば心身ともにひ弱な最低限の注意事項も守れない〈愚者の卵〉だった……ということね。このままだと全滅するんじゃない?」
「その可能性が非常に高いですね。実際に三人ほど昏睡状態が続いているらしく、一般的な薬や回復魔法では気休めにしかなっていないとのこと。決定的な解決策がない限り数日が山場ではないか、というのが薬師と治癒師たちの見解です……アリーゼ様、いかがされますか?」
「いかがするというのは?」
「〈勇者の卵〉たちに〈ソーマ〉を与えますか?」
「そうね……」
と、アリーゼは緩く両腕を組んで考え込む。
「マスター・メルヴェイユは何と言っているの? 腐っても異世界人たちは〈勇者の卵〉。〈ソーマ〉を与えて回復させたとしても、本当に使い物になるかどうか彼は見極めたのでしょう?」
香鈴は表情を険しくさせ、射貫くような眼光でアリーゼを見る。
「率直にお伝えしてよろしいでしょうか?」
アリーゼは「構わないわ」と続きの言葉をうながす。
「全員とも不合格というのがマスター・メルヴェイユの結論です。どんなに将来的に上位の職業になれる可能性が高くとも、連中の心身の弱さでは魔法使いとして才能を発揮する前に潰れる、と」
アリーゼは苦笑した。
「よほど元の世界では、安全で、楽で、贅沢、な暮らしをしていたのでしょうね。たかが食事一つ合わなかっただけで体調が崩れたのがその証拠よ。まさに弱さを絵に描いたような存在だわ」
「ならば……」
「ええ、そのような将来的に期待できない連中に貴重な〈ソーマ〉を与えるわけにはいかないわ。あの〈ソーマ〉も年々と採れる数が減ってきているのでしょう?」
「環境の変化もあるでしょうが、一番の原因は〈ソーマ〉の採取場所を知る〈迷宮案内人〉の減少かと思われます。噂によると最近になって代替わりした〈黒龍幇〉の幇主(組織のトップ)が色々と無茶をさせたそうですから」
アリーゼは渋面になりながら奥歯を軋ませる。
「いくら〈ソーマ〉が〈黒龍幇〉を通じてしか入手できないとはいえ、あまりにも数が減るのはいただけないわね。あの〈ソーマ〉こそ人間の秘められた力を手っ取り早く解放させることのできる霊草なのよ。あの〈ソーマ〉の採取量によって、私の今後の計画にも大いに影響が出てくる」
「何か手を打ちますか?」
「たとえば? 何か妙案でもあるの?」
「輝夜を〈黒龍幇〉に送り込むのはいかがでしょう? 彼女は親衛隊の中でも優れた武術の使い手です。それに大倭人でありながら中西語も喋られますので、彼女に〈黒龍幇〉の関係者に近づいてもらって内部を偵察してもらうのです」
香鈴は淡々と言葉を続ける。
「上手く顔役の一人に取り入ることが出来れば、将来的には〈黒龍幇〉自体も操れるようになるかもしれません。何せ彼女の房中術(性の技法)は神域に達しているそうですから」
アリーゼはあご先を右手の人差し指と親指でつまんで思考した。
「……面白いわね」
そう口にすると、アリーゼは香鈴に告げた。
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