2 / 39
第2話
しおりを挟む
若侍は頭を掻きながら素浪人に告げた。
「役人がやって来たぞ。ほら、あんたの後ろから鬼のような形相を張り付かせて走ってくる」
「何だと!」
若侍が素浪人の後方に向かって人差し指を突きつけると、素浪人は顔面を蒼白に染めて顔だけを瞬時に振り返らせた。
血相を変えた素浪人は振り向くなり、町人と思われる華奢な優男と目が合った。
次に素浪人は首を振りながら周囲を一望したが、役人の姿など粒ほども見えない。
「小僧、たばかりやがったな!」
慌てて顔を正面に向き直した素浪人は、若侍の顔を見た瞬間に一気に斬りかかる勢いがあった。
それでも素浪人は斬りかかることができなかった。
なぜなら若侍は素浪人が振り返るや否や右手に持っていた麻袋を放し、地面を滑るような歩法で素浪人との間合いを詰め、顔を戻した素浪人の顔面に強烈な平手打ちをかましたからだ。
甲高い音が高鳴り、素浪人の口から「ぐげっ」という情けない声が発せられる。
続いて若侍は右足を軸に反転。
素浪人の背中に自分の背中を密着させた若侍は、左手を肩越しに後方に回して素浪人の奥襟をしっかりと摑んだ。
と同時に膝の力を抜いて奥襟を摑んでいた左手を一気に前方に倒す。
すると素浪人は見えない糸に引っ張られるように宙に舞い、半円を描いて後頭部から地面に直撃した。
裏背負い投げ。
柔術において捕方の技法から生み出された投げの一つである。
「ふうー」
若侍は地面に昏倒している素浪人を見下ろすと、大きな安堵の息を漏らした。
いくら食い詰め浪人とはいえ、相手は実際に人間を斬った経験がある剣客であった。
それは身なりと違ってきちんと手入れがなされた刀を見てすぐにわかった。
なおかつ八双の構えを取ったときに放たれた殺気といい、これまで斬ってきた人間の数は一人や二人ではなかっただろう。
だからこそ若侍は一瞬の油断を誘った。
刀を抜いた素浪人の意識を他へと移し、自分の手が触れられるほど接近するために。
結果的に功を成したものの、一歩間違えればこちらが手酷い傷を負っていただろう。
抜き身の真剣とはそれだけの威力を十分発揮する強力な器物なのだ。
若侍が子供に強請りを働こうとした浪人者を鮮やかに打ち倒すと、周囲の野次馬からは芝居を見終えた後のような歓声が上がった。
町娘などは頬を赤く染め、うっとりとした眼差しを若侍に向けている。
ちょうど、そのときだった。
「どいたどいた! さっさと道を開けろ!」
若侍を軸に大きな輪を作っていた野次馬たちを押しのけ、十手を持った黒羽織袴の町方同心が岡っ引を連れて現れた。
おそらく先ほど逃げた野次馬の一人が自身番に駆け込み、偶然にも立ち寄っていた同心が話を聞いたのだろう。
「これはこれは浜岡さん。お勤めご苦労様です」
北町奉行所同心・浜岡喜三郎に軽くお辞儀をした若侍は、「もう済みましたから」と平然とした口調で言った。
浜岡は若侍から地面に横たわっている素浪人を一瞥する。
「これは一体どういうことです? なぜ、こんな浪人者と諍いを?」
「なあに、ちょっとした人助けですよ。丁稚がこの浪人から強請りを受けていたので仲介に入ったらこの様です」
昏倒している素浪人の近くには抜き身の刀が無造作に転がっていた。
乱れ波紋の刀身が陽光を反射させて輝いている。
「強請を受けた丁稚というのは?」
「ほら、あそこで藍染の反物を持った子供ですよ。何でも風に飛ばされた反物がこの浪人の顔に当たったとかで、無礼打ちになるところを止めに入った次第です」
若侍と同心の会話が耳に届いたのか、前髪もあどけない丁稚は何度も頭を下げていた。
浜岡は得心がいったのか大きく頷く。
「なるほど、大方の事情は飲み込めました。それでしたら後はこちらでお任せを」
自分よりも一回りは年下の若侍に浜岡は大仰にへりくだる。
そんな浜岡を見て若侍ははにかんだ笑顔を浮かべた。
「わかりました。でしたら後はそちらにお任せします。それでは」
慇懃に頭を下げた若侍は地面に置いていた麻袋を手に持つと、素浪人との諍いなど忘れてしまったかのような軽やかな足取りで歩き出した。
道を綺麗に開けてくれた野次馬の中央を通り過ぎ、若侍は白壁町方面に向かっていく。
やがて若侍の姿が見えなくなると、先ほどから一向に口を開かなかった岡っ引が浜岡におそるおそる尋ねた。
「浜岡様、あの方は一体どこのお武家様で?」
「そうか、お前はまだ知らなかったか。あの方は鮎原様のご子息であられる宗鉄様だ。と言っても嫡男ではなく三男坊だがな」
「え? 鮎原様というと普請奉行の鮎原能登守様ですかい?」
「他にどの鮎原様がいる」
普請奉行とは幕府の土木関係や武家の屋敷割、または拝領屋敷に関する仕事を請け負う普請方の長であり、歴とした老中支配の行政職である。
そしてその普請奉行を務める鮎原家は役高三千六百石の直参旗本。
三十表二人扶持の町方同心とは格が違う。
岡っ引は若侍の身元を知ると、不意に首を傾げた。
「浜岡様、ふと思い出したのですが鮎原様の三男坊というともしかして……」
「そうだ」
持っていた十手で自分の肩を軽く叩いた浜岡は、宗鉄が消えた方向を見て呟く。
「神田の二大有名人の一人であり、異国狂いの鉄砲小僧とはあの方のことよ」
「役人がやって来たぞ。ほら、あんたの後ろから鬼のような形相を張り付かせて走ってくる」
「何だと!」
若侍が素浪人の後方に向かって人差し指を突きつけると、素浪人は顔面を蒼白に染めて顔だけを瞬時に振り返らせた。
血相を変えた素浪人は振り向くなり、町人と思われる華奢な優男と目が合った。
次に素浪人は首を振りながら周囲を一望したが、役人の姿など粒ほども見えない。
「小僧、たばかりやがったな!」
慌てて顔を正面に向き直した素浪人は、若侍の顔を見た瞬間に一気に斬りかかる勢いがあった。
それでも素浪人は斬りかかることができなかった。
なぜなら若侍は素浪人が振り返るや否や右手に持っていた麻袋を放し、地面を滑るような歩法で素浪人との間合いを詰め、顔を戻した素浪人の顔面に強烈な平手打ちをかましたからだ。
甲高い音が高鳴り、素浪人の口から「ぐげっ」という情けない声が発せられる。
続いて若侍は右足を軸に反転。
素浪人の背中に自分の背中を密着させた若侍は、左手を肩越しに後方に回して素浪人の奥襟をしっかりと摑んだ。
と同時に膝の力を抜いて奥襟を摑んでいた左手を一気に前方に倒す。
すると素浪人は見えない糸に引っ張られるように宙に舞い、半円を描いて後頭部から地面に直撃した。
裏背負い投げ。
柔術において捕方の技法から生み出された投げの一つである。
「ふうー」
若侍は地面に昏倒している素浪人を見下ろすと、大きな安堵の息を漏らした。
いくら食い詰め浪人とはいえ、相手は実際に人間を斬った経験がある剣客であった。
それは身なりと違ってきちんと手入れがなされた刀を見てすぐにわかった。
なおかつ八双の構えを取ったときに放たれた殺気といい、これまで斬ってきた人間の数は一人や二人ではなかっただろう。
だからこそ若侍は一瞬の油断を誘った。
刀を抜いた素浪人の意識を他へと移し、自分の手が触れられるほど接近するために。
結果的に功を成したものの、一歩間違えればこちらが手酷い傷を負っていただろう。
抜き身の真剣とはそれだけの威力を十分発揮する強力な器物なのだ。
若侍が子供に強請りを働こうとした浪人者を鮮やかに打ち倒すと、周囲の野次馬からは芝居を見終えた後のような歓声が上がった。
町娘などは頬を赤く染め、うっとりとした眼差しを若侍に向けている。
ちょうど、そのときだった。
「どいたどいた! さっさと道を開けろ!」
若侍を軸に大きな輪を作っていた野次馬たちを押しのけ、十手を持った黒羽織袴の町方同心が岡っ引を連れて現れた。
おそらく先ほど逃げた野次馬の一人が自身番に駆け込み、偶然にも立ち寄っていた同心が話を聞いたのだろう。
「これはこれは浜岡さん。お勤めご苦労様です」
北町奉行所同心・浜岡喜三郎に軽くお辞儀をした若侍は、「もう済みましたから」と平然とした口調で言った。
浜岡は若侍から地面に横たわっている素浪人を一瞥する。
「これは一体どういうことです? なぜ、こんな浪人者と諍いを?」
「なあに、ちょっとした人助けですよ。丁稚がこの浪人から強請りを受けていたので仲介に入ったらこの様です」
昏倒している素浪人の近くには抜き身の刀が無造作に転がっていた。
乱れ波紋の刀身が陽光を反射させて輝いている。
「強請を受けた丁稚というのは?」
「ほら、あそこで藍染の反物を持った子供ですよ。何でも風に飛ばされた反物がこの浪人の顔に当たったとかで、無礼打ちになるところを止めに入った次第です」
若侍と同心の会話が耳に届いたのか、前髪もあどけない丁稚は何度も頭を下げていた。
浜岡は得心がいったのか大きく頷く。
「なるほど、大方の事情は飲み込めました。それでしたら後はこちらでお任せを」
自分よりも一回りは年下の若侍に浜岡は大仰にへりくだる。
そんな浜岡を見て若侍ははにかんだ笑顔を浮かべた。
「わかりました。でしたら後はそちらにお任せします。それでは」
慇懃に頭を下げた若侍は地面に置いていた麻袋を手に持つと、素浪人との諍いなど忘れてしまったかのような軽やかな足取りで歩き出した。
道を綺麗に開けてくれた野次馬の中央を通り過ぎ、若侍は白壁町方面に向かっていく。
やがて若侍の姿が見えなくなると、先ほどから一向に口を開かなかった岡っ引が浜岡におそるおそる尋ねた。
「浜岡様、あの方は一体どこのお武家様で?」
「そうか、お前はまだ知らなかったか。あの方は鮎原様のご子息であられる宗鉄様だ。と言っても嫡男ではなく三男坊だがな」
「え? 鮎原様というと普請奉行の鮎原能登守様ですかい?」
「他にどの鮎原様がいる」
普請奉行とは幕府の土木関係や武家の屋敷割、または拝領屋敷に関する仕事を請け負う普請方の長であり、歴とした老中支配の行政職である。
そしてその普請奉行を務める鮎原家は役高三千六百石の直参旗本。
三十表二人扶持の町方同心とは格が違う。
岡っ引は若侍の身元を知ると、不意に首を傾げた。
「浜岡様、ふと思い出したのですが鮎原様の三男坊というともしかして……」
「そうだ」
持っていた十手で自分の肩を軽く叩いた浜岡は、宗鉄が消えた方向を見て呟く。
「神田の二大有名人の一人であり、異国狂いの鉄砲小僧とはあの方のことよ」
0
お気に入りに追加
27
あなたにおすすめの小説

異世界転生ファミリー
くろねこ教授
ファンタジー
辺境のとある家族。その一家には秘密があった?!
辺境の村に住む何の変哲もないマーティン一家。
アリス・マーティンは美人で料理が旨い主婦。
アーサーは元腕利きの冒険者、村の自警団のリーダー格で頼れる男。
長男のナイトはクールで賢い美少年。
ソフィアは産まれて一年の赤ん坊。
何の不思議もない家族と思われたが……
彼等には実は他人に知られる訳にはいかない秘密があったのだ。

【本編完結】異世界再建に召喚されたはずなのにいつのまにか溺愛ルートに入りそうです⁉︎
sutera
恋愛
仕事に疲れたボロボロアラサーOLの悠里。
遠くへ行きたい…ふと、現実逃避を口にしてみたら
自分の世界を建て直す人間を探していたという女神に
スカウトされて異世界召喚に応じる。
その結果、なぜか10歳の少女姿にされた上に
第二王子や護衛騎士、魔導士団長など周囲の人達に
かまい倒されながら癒し子任務をする話。
時々ほんのり色っぽい要素が入るのを目指してます。
初投稿、ゆるふわファンタジー設定で気のむくまま更新。
2023年8月、本編完結しました!以降はゆるゆると番外編を更新していきますのでよろしくお願いします。
【完結】ご都合主義で生きてます。-商売の力で世界を変える。カスタマイズ可能なストレージで世の中を変えていく-
ジェルミ
ファンタジー
28歳でこの世を去った佐藤は、異世界の女神により転移を誘われる。
その条件として女神に『面白楽しく生活でき、苦労をせずお金を稼いで生きていくスキルがほしい』と無理難題を言うのだった。
困った女神が授けたのは、想像した事を実現できる創生魔法だった。
この味気ない世界を、創生魔法とカスタマイズ可能なストレージを使い、美味しくなる調味料や料理を作り世界を変えて行く。
はい、ご注文は?
調味料、それとも武器ですか?
カスタマイズ可能なストレージで世の中を変えていく。
村を開拓し仲間を集め国を巻き込む産業を起こす。
いずれは世界へ通じる道を繋げるために。
※本作はカクヨム様にも掲載しております。
アイテムボックス無双 ~何でも収納! 奥義・首狩りアイテムボックス!~
明治サブ🍆スニーカー大賞【金賞】受賞作家
ファンタジー
※大・大・大どんでん返し回まで投稿済です!!
『第1回 次世代ファンタジーカップ ~最強「進化系ざまぁ」決定戦!』投稿作品。
無限収納機能を持つ『マジックバッグ』が巷にあふれる街で、収納魔法【アイテムボックス】しか使えない主人公・クリスは冒険者たちから無能扱いされ続け、ついに100パーティー目から追放されてしまう。
破れかぶれになって単騎で魔物討伐に向かい、あわや死にかけたところに謎の美しき旅の魔女が現れ、クリスに告げる。
「【アイテムボックス】は最強の魔法なんだよ。儂が使い方を教えてやろう」
【アイテムボックス】で魔物の首を、家屋を、オークの集落を丸ごと収納!? 【アイテムボックス】で道を作り、川を作り、街を作る!? ただの収納魔法と侮るなかれ。知覚できるものなら疫病だろうが敵の軍勢だろうが何だって除去する超能力! 主人公・クリスの成り上がりと「進化系ざまぁ」展開、そして最後に待ち受ける極上のどんでん返しを、とくとご覧あれ! 随所に散りばめられた大小さまざまな伏線を、あなたは見抜けるか!?
転生したら最強種の竜人かよ~目立ちたくないので種族隠して学院へ通います~
ゆる弥
ファンタジー
強さをひた隠しにして学院の入学試験を受けるが、強すぎて隠し通せておらず、逆に目立ってしまう。
コイツは何かがおかしい。
本人は気が付かず隠しているが、周りは気付き始める。
目立ちたくないのに国の最高戦力に祭り上げられてしまう可哀想な男の話。

ブラックギルドマスターへ、社畜以下の道具として扱ってくれてあざーす!お陰で転職した俺は初日にSランクハンターに成り上がりました!
仁徳
ファンタジー
あらすじ
リュシアン・プライムはブラックハンターギルドの一員だった。
彼はギルドマスターやギルド仲間から、常人ではこなせない量の依頼を押し付けられていたが、夜遅くまで働くことで全ての依頼を一日で終わらせていた。
ある日、リュシアンは仲間の罠に嵌められ、依頼を終わらせることができなかった。その一度の失敗をきっかけに、ギルドマスターから無能ハンターの烙印を押され、クビになる。
途方に暮れていると、モンスターに襲われている女性を彼は見つけてしまう。
ハンターとして襲われている人を見過ごせないリュシアンは、モンスターから女性を守った。
彼は助けた女性が、隣町にあるハンターギルドのギルドマスターであることを知る。
リュシアンの才能に目をつけたギルドマスターは、彼をスカウトした。
一方ブラックギルドでは、リュシアンがいないことで依頼達成の効率が悪くなり、依頼は溜まっていく一方だった。ついにブラックギルドは町の住民たちからのクレームなどが殺到して町民たちから見放されることになる。
そんな彼らに反してリュシアンは新しい職場、新しい仲間と出会い、ブッラックギルドの経験を活かして最速でギルドランキング一位を獲得し、ギルドマスターや町の住民たちから一目置かれるようになった。
これはブラックな環境で働いていた主人公が一人の女性を助けたことがきっかけで人生が一変し、ホワイトなギルド環境で最強、無双、ときどきスローライフをしていく物語!

クラス転移で無能判定されて追放されたけど、努力してSSランクのチートスキルに進化しました~【生命付与】スキルで異世界を自由に楽しみます~
いちまる
ファンタジー
ある日、クラスごと異世界に召喚されてしまった少年、天羽イオリ。
他のクラスメートが強力なスキルを発現させてゆく中、イオリだけが最低ランクのEランクスキル【生命付与】の持ち主だと鑑定される。
「無能は不要だ」と判断した他の生徒や、召喚した張本人である神官によって、イオリは追放され、川に突き落とされた。
しかしそこで、川底に沈んでいた謎の男の力でスキルを強化するチャンスを得た――。
1千年の努力とともに、イオリのスキルはSSランクへと進化!
自分を拾ってくれた田舎町のアイテムショップで、チートスキルをフル稼働!
「転移者が世界を良くする?」
「知らねえよ、俺は異世界を自由気ままに楽しむんだ!」
追放された少年の第2の人生が、始まる――!
※本作品は他サイト様でも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる