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第1話

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 神田紺屋町は、幕府が紺屋頭である土屋五郎右衛門に与えた土地であった。

 そのため五郎右衛門配下の染物職人たちが多数住み込んでいたことで名前が付けられた場所である。

 幕府開府当時、江戸にはまだ歴とした職人が存在していなかった。

 それ故に幕府は江戸の町づくりの際に他国から優れた職人を多数呼び寄せ、神田に大勢の職人が住まう「職人町」を作り上げたのである。

 なぜ他国から呼び寄せた職人たちを一箇所に集めて住まわせたかというと、そのほうが職人たちにとっても仕事を依頼する人間にとっても都合が良かったからに他ならない。

 また大名が屋敷を建てるときに国許や建築技術が進んでいた上方から職人を招き寄せるということもあり、それによって多くの職人が持ち寄せていた技術や先端の道具類が豊富に江戸に流入したからこそ発展したとも言われている。

 だからこそではないが、人の往来は思いのほか激しい。

 とは言っても江戸の中心地である日本橋界隈に比べれば微々たるものである。

 それでも往来には大店から使いを任された丁稚や職人に仕事を頼みにいく町人の姿があちらこちらに窺えた。

 そんな中、往来の真ん中では通行人を立ち止まらせる出来事が起こった。

「おい、てめえ! 誰が腑抜け侍だと!」

 そのきんきんとした怒鳴り声が周囲に響いた途端、往来を行き交っていた人間たちが何事かと一斉に振り向いた。

「ふむ、そうだな。侍などという言葉を使えば一端の侍方に失礼だ。よし、決めた。あんたは今日から腑抜け浪人だ」

 大勢の野次馬に見守られながら見るからに素浪人と思わしき中年男と対峙していたのは、鶯茶色の袖に烏羽色をした小紋柄の袴を着用した十六、七歳の若侍であった。

 小紋とは遠目には無地に見えるが近くで見ると細かな型染めの文様が染められている柄のことで、強い自己主張をせずにさりげなくその存在を示すことで主に武士が好んで染めていた柄である。

 それに若侍が履いていた白足袋や草履も汚れで黒くなった素浪人の者とはまるで違い、先ほど店で購入したかのように汚れ一つない真新しいものだった。

 道行く人々は突如、往来で始まった素浪人と元服を終えたばかりと思われる若侍の争いに不安半分、期待半分といった表情で高みの見物を始めた。

 特に素浪人と若侍のいざこざに興味を惹いたのは、豪奢な振袖や値が張る簪を身につけた裕福な町人の娘たちである。

 娘たちは唾を盛大に吐き散らしながら刀の柄を握っている素浪人など眼中になく、その視線は素浪人と真っ向から堂々と対峙していた若侍に向けられていた。

 小奇麗な身なりと腰帯に差されていた大小刀の存在から、若侍の身分が町人ではなく武士だということが窺い知れる。

 だが頭髪は浪人者のように月代を剃っていなく、伸ばした長髪を無造作に髷の形に結っていただけであった。

 奇妙なことだったが、そんな髪型以上に気になる点がもう一つあった。

 若侍の右手には無地の麻袋に仕舞われた細長い〝何か〟が持たれていた。

 長さからして棒のようだが、一介の武士が往来で大小刀以外に武器を持つなど聞いたことがない。

 それでも娘たちは気にする素振り一つ見せず、ただ若侍を食い入るように見つめていた。

 切れ長の目眉にほどよく尖った鼻梁。歌舞伎役者のような端正な顔立ちの中には意志の強そうな双眸が収まっており、血色の良い肌は食い詰め浪人とは違って瑞々しい桃色であったからだ。

 年頃の娘たちが騒ぐのも無理はない。

 何から何まで若侍の印象は対峙している素浪人と一線を画していた。最早、素浪人が若侍に勝っているのは年輪か剣の腕前ぐらいか。

 素浪人は周囲のざわつきを微妙に意識しつつ、若侍に対して怒声を張り上げる。

「この小僧……いきなりしゃしゃり出てきて言いたい放題抜かしやがって。それとも何か? てめえが代わりに迷惑料を払うってのかよ」

「迷惑料ねえ」

 若侍は素浪人の剣幕などどこ吹く風とばかりに適当にあしらい、顔だけをちらりと後方に振り向かせた。

 若侍から少し離れた位置には仕立てのよい着物を着た十、十一ぐらいの子供がいた。

 両手には藍染の生地を大事そうに持ち、目元に涙を溜めて一心に泣くのを堪えている。

 再び若侍は視線を子供から素浪人に戻すと、口元を歪めて苦笑した。

「いくら何でも風で飛ばされた生地が顔に当たった程度で迷惑料をむしり取ろうってのが間違いじゃないのか? それに相手はまだ年端もいかない子供だ。どう考えてもあんたを満足させる額の金銭を持ち合わせているとは思えない」

 町人のような砕けた言い方をする若侍に素浪人は一気に捲くし立てる。

「そんなことはどうにでもなるわ! だがここで問題なのはあのガキが武士に無体を働いたことだ! それ相応の謝罪がなければここで無礼打ちにしなければならん!」

「はあ? 無礼打ち?」

 素浪人の口から当たり前のように出た言葉を聞いて若侍は高らかに笑った。

「これは傑作。一体どこの田舎から出てきたかは知らないが、今日日の江戸で簡単に無礼打ちなどしたら即自身番送りの末に牢屋敷行きだぞ。まあ、それだと手間が省けていいかもしれないな。何せこの紺屋町から小伝馬町の牢屋敷まではさほど離れていない」

「ふざけるな!」

 ついに堪忍袋の尾が切れたのか、素浪人は躊躇せずに抜刀した。

 高みの見物を決め込んでいた野次馬たちから悲鳴が沸き起こる。

 脱兎の如く逃げ出す町人もいれば、最後まで事の顛末を見定めようとする浪人者など様々だ。
 それでも肝心の若侍は眉一つ動かさず、じっと素浪人を見つめていた。

 怒り心頭の素浪人は背丈が高く、体躯もがっしりとしていた。

 定期的に剃っていないのか月代や無精髭は伸ばし放題。

 小袖や袴などはこれまで歩んできた人生を物語るように所々ほつれた場所が目立っている。

 絵に描いたような素浪人ではあるが、ただ一点だけ抜き放った刀だけは持ち主に似合わぬ異様な輝きを放っていた。

 手入れを怠っていないのか、鎺金が緩んでいる様子もない。

「どうした、小僧。恐ろしくて声も出ねえか?」

 口の端を吊り上げながら素浪人が刀を八双に構えて威嚇する。

 これまでも似たような行いを散々やらかしたことがあるのだろう。

 威嚇する動作だけは実に堂に入っていた。

「はあ~、参ったねこりゃあ」

 一方、若侍のほうは面倒くさそうに頭をぼりぼりと掻いた。

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