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第三章
第三章 ~『降格の圧力』~
しおりを挟む数日後、琳華が慣れ親しんだ足取りで職場に足を運ぶと、眉間に深い皺を寄せた翠玲が、目の前の山積みになった書類と向き合っていた。普段の明るい様子は影を潜め、疲労を隠しきれずにゲッソリとした表情を浮かべている。
「翠玲様、少し休まれたほうが……その間のお仕事は私が代わりますので……」
「心配しないで。私は元気だから……」
「ですが……」
「本当に、私は大丈夫だから」
翠玲は困ったような微笑を浮かべながら、琳華の提案を静かに断る。
(もしかしたら私のせいでしょうか……)
上級女官からの圧力が強くなり、翠玲を苦しめているのではと不安が心をよぎる。
どうすることもできないまま琳華は仕事に集中する。時間が経過しても翠玲の疲れ切った顔に変化はなく、そのまま昼休憩の鐘が鳴る。
「翠玲様、よければ一緒に昼食へ行きませんか?」
「ごめんなさい。もう少し仕事を片付けたいの」
翠玲は机の上の書類を見つめながら残念そうに答える。その声には申し訳なさと、仕事に対する強い責任感が混ざり合っていた。
琳華はプレッシャーをかけることのないように注意しながら「気にしないでください」と優しく伝えて職場を静かに後にした。
廊下を進み、大食堂へ向かう途中、琳華は偶然にも天翔と出会う。
「丁度、琳華に会いに行こうとしていたんだ。行き違いにならずに済んで良かったよ」
「私に何か用事でもあったのですか?」
琳華が訊ねると、天翔は少し意味深な表情で答える。
「後宮内で君の評判が高まっていると聞いてね」
「天翔様の耳にも届いていたのですね……」
「僕も慶命から聞いただけさ。彼が言うには、君は上層部でも評判になっているそうだよ。もしかしたら歴代最速で上級女官に出世するかもしれないとのことだ」
「それは困りましたね……私は今の立場で十分なのですが……」
琳華の心中は複雑な感情が渦巻いていた。出世によって得られる名誉や高給よりも、彼女にとっては翠玲との関係こそが、かけがえのない財産だったからだ。
「進むべき道を選ぶのは君自身だ。慶命も無理に上級女官にはしないだろうしね」
「本当ですか!」
「彼を良く知る僕が言うんだ。間違いないさ」
天翔の言葉は琳華の心の内にある不安を一掃してくれる。未来を自ら選べるという事実が安堵に繋がり、心の重荷が軽くなる感覚に包まれた。
しかし、光明を得た直後に天翔は、更なる真実を明かす。
「慶命からもう一つ、君の上司である翠玲に関する話も聞かされていてね……なんでも降格の話が挙がっているそうだ」
「――ッ……その話、詳しく聞かせてください!」
翠玲に元気がなかった原因の正体に辿り着く。彼女の笑顔を取り戻すためには、この問題を解決しなければならない。琳華は自分でも意識しないままに、拳に力を入れていた。
「実は翠玲が中級女官に相応しくないと揶揄されていてね。聡明さと勤勉さを評価する人がいる一方で、過労で倒れた過去があるからと、上級女官の桂華の派閥が、一斉にその能力に疑問を投げかけ始めたんだ」
琳華のスカウト失敗の腹いせのつもりなのだろう。理不尽な報復に悔しさが込み上げてくる。
「慶命様はなんと?」
「真っ向から降格に反対しているね。他にも彼女を長年知る者からは擁護の声が挙がっている……ただ後宮は表面的な成果が重視されがちだからね。翠玲の立場を守るためには、彼女が優秀だと対外的に示す必要があるんだ」
翠玲は事務処理能力、人間性、知性など、人より秀でた能力の持ち主である。だが彼女に対する悪評を払拭するには、誰もが認めざるを得ないような成果を出すことが必要だった。
(翠玲様の能力を活かせて、対外的に認められるような仕事があれば……)
琳華は解決策を探るために思案に耽る。自分を信じて、頭の奥底から答えが湧き上がるのを待っていると、あるアイデアが突然、輝きを放ち始める。
それはまるで長い暗闇を歩いた末に、前方にふと現れた一筋の光を見つけたかのような感覚に似ていた。
琳華の思考は一瞬にしてクリアになる。このアイデアが、翠玲の評判を改善する鍵となると直感的に感じ取ったのだ。
「その顔は妙案が浮かんだようだね」
「はい。これも天翔様のおかげです」
膳は急げと、琳華は「失礼します」と一言だけ告げて、踵を返して早足で職場へと戻る。
扉を開けると、翠玲は仕事に没頭している最中だった。一瞬、顔に疲れが現れたが、琳華の姿に気付くとすぐに笑顔を取り戻す。
「あら、琳華、もう戻ってきたのね」
「天翔様から事情はお聞きました……」
「知られちゃったのね……残念だけど、私は降格になるかもしれない。そうなれば琳華とは一緒にはいられなくなるわね……」
翠玲の声には諦めの色が濃く、寂しさが滲んでいた。しかし琳華はそんな彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「諦めるのはまだ早いです。悪評を跳ね返す成果さえ挙げれば良いのですから」
「無理よ。私は凡人、何の特技もないもの」
自信が欠如しているためか、翠玲の声は小さい。だが琳華は彼女の手を取って、笑みを向ける。
「翠玲様には誰にも負けない特技があります……それは文書管理課で働いてきた長年の経験です」
予想外の言葉だったのか、翠玲の目に僅かな驚きが浮かぶ。畳み掛けるように、琳華は話を続ける。
「ここで管理されている文書は後宮運営のための機密情報が中心ですが、それ以外の公知の情報も含まれています」
「確かに、管理する場所がないからと押し付けられた書類もたくさん眠っているわね」
「その中には私が気づいただけでも、伝承や神話、過去の英雄譚などの娯楽性のある文書が含まれていました……きっと他にもあるはずです。ですが、私では膨大な文書の山から必要なものを選別できません。それができるのは後宮内でただ一人。翠玲様しかいません」
琳華は翠玲の優秀さを活かすための策を語る。話を聞くに連れて、翠玲の瞳から疲労が消え、希望の光が宿り始める。
「琳華の閃きにはいつも驚かされるわね……でも、とても面白いアイデアだわ。私の行く末を賭けてみたいと思えるほどに……」
翠玲は琳華に感謝の眼差しを送る。その瞳には新たな決意が宿っていた。翠玲の優秀さを後宮に知らしめるべく、二人は動き始めるのだった。
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