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第二章
第二章 ~『訪問者と借金完済』~
しおりを挟む夜が深まり、琳華は自分の部屋に戻ると、ベッドで横になった。部屋の静寂が心地よく、天井を見上げながら、今日一日の出来事を思い返す。
頭の中に浮かんだのは映雪とのやり取りだ。
中級女官である琳華は、下級女官の映雪よりも上位の役職だ。普通なら敵対しても益に繋がらないはずなのだが、彼女は敵意を隠さずに接してくる。
さらに下剤を仕込む行為は、単なる妬み以上の恨みを感じさせるが、琳華に心当たりはない。
(後宮に入る前に恨みを買ったとしたら……)
宝石を扱う仕事に関わっていたのだとしたら、過去に接点があったとしても不思議ではない。だがその可能性を琳華はすぐに否定する。
(映雪様の反応は初対面のそれでした。後宮に入る前に知り合ったとは思えません)
悩みが膨らむばかりで解決の糸口は見つからない。頭を抱えて、思案に耽っていると、部屋の扉がノックされる。
ほとんど音がしない小さなノックだが、沈黙を破るには十分すぎるものだった。
「誰でしょうか?」
「儂だ。慶命だ」
琳華は一瞬、何事かと心を緊張させるが、夜の帳が深く降りたこの時間に訪問してきたのだ。只事ではないだろう。
扉を開けると、慶命は月明かりに照らされた廊下に立っていた。琳華の姿を認めると、静かに口を開く。
「夜分遅くにすまんな。少し良いか?」
「もちろん。どうぞ、部屋の中へ」
「いや、ここでいい。儂も宦官ではあるが、一応、男だからな。配慮はしたい」
さすが総監の立場にまで登りつめただけはあると感心させられる。だがそんな気配りのできる彼が夜中に訪れたのだ。より緊張が増す。
「大食堂での騒動について聞かせてもらった、大丈夫だったか?」
その問いかけは琳華への思いやりが込められていた。わざわざ夜中にやってきてくれたのは、心配してくれていたからだと知る。
「私に怪我はありませんでした」
「それなら安心だ。琳華の茶に薬が混ぜられたと聞かされた時は慌てたぞ」
「――ッ……慶命様も傍で見ていたのですか?」
「儂は宦官たちを統括する立場だ。故にあらゆる場所に後宮の動きを把握するための目を配置しているのだ」
客のいない大食堂も人がいなかったわけではない。料理人や皿洗いの宮女たちの姿はあった。彼女らが慶命の目としての役割を担っていたのだ。
「この話は広まっているのですか?」
「口止めしてあるからな。一部の者しか知らんことだ」
「それは安心しました」
「映雪を罰しなくていいのか?」
「私もお茶をかけちゃいましたから。お互い様です」
「そうか……人が良いのだな……」
慶命は嬉しそうに微笑むと、何かを思い出したように話を続ける。
「天翔とは仲良くやっているようだな」
「最近、友人になりました」
「良好な関係なら何よりだ……それで天翔をどう思う?」
「優しくて素敵な人ですよ」
「そうか、そうか。それは重ねて素晴らしいな」
慶命は膝を叩いて大喜びする。その反応の理由がどうしても気になってしまう。
「天翔様とはどのような関係なのですか?」
「息子のような存在でな。目に入れても痛くないほどに可愛がっているのだが、向こうからは煙たがられている」
冗談を口にする慶命に合わせて、琳華も笑みを零す。緊張は解れ、自然体となっていた。
「これからも天翔と仲良くしてやってくれ」
「もちろんです」
天翔との友情は望むところだ。大きく頷くと、慶命は満足げな表情で新たな話題を持ち出す。
「友情といえば、麗珠とも仲良くなったようだな」
「慶命様に隠し事はできませんね」
「後宮のことなら知らぬことはないからな……その麗珠から琳華を部下にしたいと申し出があったのだが、どうしたい?」
後宮は常に人手不足だ。優秀な人材のスカウトは頻繁に行われており、珍しいことではない。
だからこそ琳華は事前に答えを用意していた。静かに首を横に振る。
「謹んでお断りさせていただきます」
「四代女官の麗珠からの誘いだ。給金も上がるし、上級女官へ出世する近道だぞ。それでもか?」
「はい。でも誤解しないでくださいね。麗珠様が不満なわけではないのです」
「ならどうして?」
「翠玲様の下で働きたいからです」
琳華が抜ければ、皺寄せは翠玲に向かう。世話になった彼女に恩を仇で返すような真似はできない。
「残念だが、仕方ないな。諦めるとしよう」
慶命は最初から予想していたのか、琳華の決断を受け入れる。その反応は琳華に気づきを与えた。
「もしかして他にも話がありますか?」
「なぜあると分かる?」
「慶命様は良い話題があると、口元に皺を寄せる癖があるのです。麗珠様の誘いを断ったにも関わらず、皺が消えていませんから」
「…………」
慶命は一瞬言葉を失う。だが次の瞬間には心からの笑みを浮かべていた。
「これは驚いた。さすがの洞察力だな。琳華の推察通り、もう一つ話がある」
「内容を伺っても?」
「聞いたら驚くぞ」
「良い意味での驚愕なら望むところです」
琳華の返答を受け、慶命は静かに息を吸い込み言葉を紡ぐ。
「お主の連帯保証になっていた借金が完済された。これで後宮が宝石店を担保に取って、守る必要もなくなったことになる」
「本当ですか!」
「儂がこんな冗談を口にするものか」
「私はお店を守り抜けたのですね……」
明軒の借金がなくなり、連帯保証の義務が失効した以上、琳華の宝石店が差し押さえられる心配もなくなった。口元に笑みが溢れる一方で、ある疑問も湧いた。
「返済のために、やはり織物屋は売却されたのですか?」
「ああ。おかげで利子含めて、借金は綺麗さっぱり完済できたそうだ」
「そうですか……」
宝石店ほどの思い入れはなく、母たちの自業自得だと納得はしている。ただ生まれ育った織物屋が第三者の手に渡ったと知り、内心は複雑だった。
その心を見抜いたのか、慶命は琳華を見据える。その口元には、まだ皺が浮かんでいることに気づく。
「どうやら話はまだ終わりではないようですね」
「肝心の話がな。織物屋は売れた。だが買ったのは誰だと思う?」
慶命は静かに、しかし意味ありげに問いかける。その問いに対する答えを探る琳華の目は、一瞬で幾つかの感情を映し出し、答えへと辿り着く。
「もしかして天翔様ですか?」
「なぜそう思う?」
「こうして質問する以上、答えは私の知っている人です。その中で、私の実家が織物屋であることを知る人物は三人、人事情報にアクセスできる翠玲様、後宮に入るキッカケをくれた慶命様、そして友人の天翔様です」
「三択からどうやって答えを絞ったのだ?」
「借金返済には多額の資金が必要ですから。翠玲様は私と似たような経済力ですし、慶命様にはお金があっても買う理由がありません。残るは友人の天翔様だけです」
天翔の身なりから、高貴な出自だとは気づいていた。彼なら織物屋を購入できる資金を持っていても不思議ではない。
「素晴らしい推理だ」
「では、やはり天翔様が?」
「半分は正解だ」
どういう意味かと慶命の続く言葉を待つと、彼は穏やかに頷く。
「実はな、織物屋を最初に買ったのは儂だ」
「慶命様がですか!」
「その後、天翔に売却を持ちかけたのだ。この時、もし断られるようなら儂がそのまま経営しても構わなかった。なぜだか分かるか?」
「いえ……」
「琳華に恩を売れるなら、店を買うくらい安いものだと判断したからだ。それほど儂はお主を評価しておるのだ」
事実、琳華は慶命と天翔に感謝していた。宝石店を守るため実家売却に繋がってしまったが、見ず知らずの第三者に買われたくはなかったからだ。一礼すると、慶命は微笑む。
「借金が完済されたことで、いつでも宝石店の経営を再開できるようになった。さらにだ、織物屋のオーナーが天翔となった今、お主が望めば、裏切った婚約者や家族を煮るなり焼くなり自由にできる」
織物屋から追い出したり、従業員としてこき使ったりするのも胸三寸だと、慶命は続ける。だが琳華は首を横に振った。
「復讐なんて愚かな真似はしません。それに織物屋が他人の手に渡った時点で十分にお灸は据えられたと思いますから」
「それでこそ儂が認めた女だ」
慶命は感心した様子で微笑むと、背中を向けて去っていく。月光に照らされた彼の後ろ姿が見えなくなるまで、琳華は頭を下げ続けるのだった。
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