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第一章
第一章 ~『後宮での暮らし』~
しおりを挟む次の日、一旦帰宅して就寝した琳華は荷物をまとめて後宮へと向かう。門の前では、昨夜の宦官が待っていてくれた。身の丈ほどもある長槍は握られておらず、表情もどこか穏やかだった。
「門番のお仕事は休みですか?」
「お嬢さんを後宮に案内する仕事を仰せつかったからな」
「お手数をおかけしますね」
「構わんさ。俺も立ちっぱなしの警備の仕事と比べたらまだ楽しめるからな」
宦官に先導されて、後宮の門をくぐる。その瞬間、まるで異世界に足を踏み入れたような錯覚に陥った。
琳華たちは迷路のような渡り廊下を進む。壁に飾られた掛け軸や精緻に彫られた装飾は、後宮の権威と歴史の深さを物語っていた。
「一度、後宮に入ったら自由に外へは出られないからな」
「承知の上です」
大切な店を守るためなら、一年間の不自由を受け入れる覚悟はできていた。
「ただ中には外出を許されている女官もいる。逃げ出したり、後宮での秘密を漏らしたりしないと信用されれば、内と外の往来ができるようになる」
「真面目に働くのが自由への近道ということですね」
「そういうことだ」
外出許可を得られる可能性があると知れただけでも朗報だ。心に余裕が戻り、後宮の壮麗さを楽しむ余裕も生まれてくる。
「さすがに広いですね」
「俺も全部は把握しきれてないからな」
「案内係なのにですか?」
「本業は門番だからな。といっても、主だった場所なら説明できる。まずは中央に位置する巨大な建物、あれが宮殿だ」
「皇后や皇子が暮らす場所ですね」
「物知りだな。ちなみに許可なく立ち入るのは禁止されている。破ると最悪、死罪になる」
「肝に銘じておきます」
「それがいい。さすがに俺も庇ってはやれないからな」
「期待はしていませんよ」
下された罰を一介の宦官に覆せるはずもない。お互いにそれは理解しているため、クスリと笑みを零した。
二人が廊下をさらに進むと、洗濯作業場が視界に広がった。石造りの洗い場が並び、女性たちが忙しく働いている。
洗濯板を使ってこすり洗いする者や、石鹸の泡で覆われた布を力いっぱいに絞る者、水で何度もすすぎ洗いを繰り返している者など、各々が任された仕事に集中していた。
ただ洗い場は適度な緊張感を持ちながらも活気に満ちており、仕事の合間に談笑を交えている者たちもいる。和やかな雰囲気は、琳華の新しい職場への不安を減らしてくれた。
「私もあの人たちの一員になるのですね……」
「ならないと思うぞ」
「そうなのですか?」
「お嬢さんは女官だろ。あいつらは宮女だからな」
宮女とは料理、掃除、洗濯など後宮の運営を支える雑務を担う女性たちで、女官よりも低い地位に位置付けられている。貧しい家庭から選ばれることも多く、文字の読み書きができない者がほとんどだ。
一方、女官は宮女よりも高い地位にあり、文書の管理、宮廷儀式の段取り、教育や音楽、医療など特殊なスキルを有する者が多く、出自にも恵まれている者がほとんどだ。
宝石鑑定の才能を見出された琳華も女官としての採用だった。
「ただ皇族の衣類だけは若手の女官が担当していたはずだ」
「なら私も新人ですし、きっとその仕事を任されるのでしょうね」
「いや、どうだろうな……俺はそうならないと思うぞ」
「根拠はあるのですか?」
「これから案内する自分の部屋を見れば、お嬢さんも納得するさ」
廊下をさらに進み、離れにある宿舎へと案内される。外壁には精緻な装飾が施され、柿色の屋根瓦は美しさを強調している。
「ここが女官たちの住む宿舎なのですね」
「驚いたか?」
「思ったよりも綺麗でしたから」
「部屋に入ったらもっと驚くぞ」
宿舎の内部に足を踏み入れ、琳華は自室へと案内される。
淡い色合いで塗られた壁は、部屋全体に穏やかな雰囲気を演出している。窓からは庭園が広がり、季節の花々や緑が心安らぐ風景を提供してくれていた。
部屋の隅には椅子と木製ベッドが設置され、柔らかな布団と清潔な白い枕が整えられていた。
「女官とは思った以上に待遇が良いのですね」
「それはお嬢さんだからだ」
「どういう意味ですか?」
「ここの宿舎は中級以上の女官しか住めないからな。洗濯を担当するような下級女官は、そもそも共同部屋だ」
琳華が洗濯仕事を任されないだろうと予想したのは、宦官がその待遇の差を知っていたからだ。
「なら私はどのような仕事を?」
「知らん。だが個室が割り当てられた以上、役職は中級女官だ。専門性が求められる業務になるのは間違いない」
「それは責任重大ですね」
「その分、中級女官は給金も高いぞ。なんせ俺の三倍は貰えるはずだからな。もちろん俺が薄給というオチでもない。こう見えて、同世代の中では貰っている方だからな」
「私は期待されているのですね……」
「おう、間違いなくな」
恩を返さなければと心を引き締める。それが表情にも現れていたのか、宦官は優しげに微笑む。
「あまり気負うなよ。どうせ一年の契約なんだろ?」
「それはそうですが……」
「宝石店は俺が定期的に見回りにいってやるから。一年後には、また宝石鑑定士としての仕事に復帰できるさ」
担保にしている宝石店は一時的に後宮の財産となっている。権力に守られた店に害を加えられる可能性は低いが、見回りをしてもらえるならより安心だ。
「ご厚意ありがとうございます」
「俺にとっても宝石を安く買える店がなくなると困るからな」
「ふふ、そうですね」
そのためにも一年間、後宮での仕事をやり遂げなければならない。
「頑張れよ。特に中級女官は離職率も高いからな。挫けない心が大切だ」
「……これほどの厚遇を受けながら辞めるのですね」
「文字の読み書きができる人材は貴重だからな。その分、一人当たりの仕事量が増え、過労で退職の負の連鎖が続いているそうだ。ちなみに、ここの部屋を使っていた女官も最近辞めたばかりだそうだぞ」
縁起の悪さを感じるだろと、冗談交じりに宦官は続ける。だが琳華はそれを否定するように首を横に振った。
「この部屋の元の住人は過労が原因で辞めたわけではないと思いますよ」
「どうして分かる?」
「家具の配置です。椅子が壁に近い位置に置かれていますから。座った際に壁を支えとして使うためだとすると、足腰が悪くなるような年齢だと推察できます」
歳を重ねての円満退職に違いないと、琳華は根拠を説明すると、宦官は驚きで目を大きく見開く。
「慶命様がどうしてお嬢さんを雇ったのか分かったぜ。こりゃすげーわ」
「宝石鑑定士は洞察力が求められる仕事ですので」
「だとしてもだ。将来、出世したら俺のことを頼んだぞ」
琳華が大成すると信じた宦官は大きく笑う。評価されるのは悪い気がしないと、彼の賞賛を照れながらも受け入れるのだった。
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