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プロローグ
プロローグ ~『残念な婚約者2』~
しおりを挟む「デートはこれくらいにしましょうか?」
明軒と一緒にいてもうんざりするだけだ。早く帰りたいと提案すると、彼は首を横に振る。
「駄目だ。この後、大切な話があるからな」
「なら早くしてください」
「この話は場所を選ぶ。なにせ琳華の家族も交えて、今後の将来について話すのだからな」
「…………」
嫌な予感がするが、家族が関わっているなら断れない。
大人しく明軒に従い、実家へと足を運ぶ。
実家の織物屋は街の外れにあるものの、地元で長年愛されてきた老舗である。古い木造の建物は、時間が経過するにつれてその風格を増しており、足を踏み入れると、織物の豊かな色彩と独特の匂いが彼女を迎え入れてくれる。
店の奥の客室に足を進めると、長椅子に腰掛けた母親の梅蘭と妹の詩雨がすでに待っていた。室内は温かみのある灯りに照らされているが、空気は張り詰めて重い。
「おかえり、琳華。待ってたわ」
梅蘭は琳華の姿を認めると一瞬だけ笑みを浮かべたものの、すぐに家族の長としての威厳ある面持ちに変わる。
琳華は梅蘭の対面に座ると、詩雨にも軽く頷く。
妹の詩雨は琳華と正反対だ。柔らかな波を描く髪を肩まで届かせ、華やかな服を好んで着る。明るく我儘で、周囲を下に見るような高慢な性格の持ち主だった。
「私に大切な話があるとか」
「そうよ、琳華にも大きく関わる話なの……実はね、詩雨に子供ができたの」
「それはめでたいですね!」
仲が良好とはいえないが、たった一人の妹だ。素直に祝福を送るが、話にはまだ続きがあった。
「それで詩雨の相手なんだけどね……明軒なの」
「え……」
衝撃の大きさに二の句を継げないでいた。明軒は琳華の婚約者のはずだ。それがなぜ詩雨との間に子供を作るのか理解が追いつかなかったからだ。
(まずは冷静にならないと……)
心を落ち着かせ、明軒に視線を向ける。彼の表情に変化はない。浮気していたと明らかになった直後の男の態度ではなかった。
「本当に浮気していたのですか?」
「ああ。悪いか?」
「…………」
明軒に反省の色はなかった。文句があるなら言ってみろと言わんばかりだ。
(私はここまで舐められていたのですね……)
悔しさに拳を握りしめながら、母に視線を移す。娘の窮地だ。親なら助け舟を出してくれるだろうと期待するが、返ってきた反応は予想外のものだった。
「そういうことだから、琳華も分かったね」
「この不義理を私に受け入れろと?」
「あんたはお姉ちゃんなんだよ。妹の浮気くらい我慢しなさい」
子供の頃から母には厳しく育てられてきた。
朝から夜まで勉強を強いられ、礼儀作法を叩き込まれた。玩具を買ってほしいとねだっても与えられたこともない。
一方で妹の詩雨には甘かった。放任し、好きな物を与え、勉学も強制しなかった。
その扱いの差に不満がなかったといえば嘘になる。だが愛ゆえの鞭だと信じていた。
(でも、もうお母さんを信じられない……)
涙を流さなかったのは、薄々、心の奥底で感じていたからだ。ようやく琳華は自覚する。家族にとって自分の価値が小さいということを。
(もし私が死んでもきっと悲しまないでしょうね……)
便利な道具が壊れたくらいの感傷しか生まれないだろう。三日もすれば忘れて、詩雨たちと楽しく暮らしていくに違いない。
「私の婚約はどうなるのですか?」
「明軒は詩雨と結婚させるからね。婚約は白紙さ」
「……明軒もそれでよいのですか?」
「もちろんだ」
婚約破棄への未練を感じさせない。彼にとって琳華は、店を継ぐための道具でしかなかったのだ。
「詩雨には子供ができて、我が家には跡継ぎができる。実にめでたいねぇ~」
琳華が我慢すればすべて丸く収まるのだからと、人の心を無視した主張に心が壊れていく。そんな彼女に追い打ちをかけたのは妹の詩雨だ。
「お姉様、結婚式は盛大にやるから。参加してね」
詩雨が口元を歪めて嘲笑する。分かりやすい挑発だった。
「私に参加しろと?」
「たった二人の姉妹ですのよ。参加しないのは不自然ですわ」
「私はあなたに婚約者を奪われたのですよ!」
語気を荒げると、詩雨を守るように母が仲裁に入る。
「琳華の気持ちは分かった。参加したくないなら不参加で構わないよ……ただし結婚式の費用はあんたに任せたよ。これから詩雨には子供もできてお金がかかる。お姉ちゃんなんだから。妹のためにもしっかりと稼いでもらわないとね」
頭が痛くなるほどの理不尽な要求だった。これを認めれば一生寄生され続ける。そう確信できるほど家族の琳華を見る目は冷たかった。
「私もそんなに裕福ではありませんから」
「宝石鑑定士の商売は繁盛しているそうじゃないか」
「それでも、宝石の需要は頻繁にありませんから。お客さんの数は多くありませんよ」
利益を客に還元しているため、琳華の手元に残るお金も少ない。妹に援助できるほどの余裕はない。
「なら店を売ればいいじゃないか。一等地にあるし、きっと高値で売れるはずさ」
「それは本気で言っているのですか?」
「……冗談が嫌いなことは知っているだろ?」
「ですが宝石店はお父さんの形見ですよ」
「もちろん分かっているさ。でもね、亡くなってから何年も経っているじゃないか。死人よりも大切なのは新しい命さ」
「なら私の気持ちはどうなるのですか?」
「我慢しな。あんたはお姉ちゃんなんだから」
琳華にとって宝石鑑定士としての人生は絶対に譲れないものだ。姉だからと理不尽な理由で、その夢を捨てるつもりはない。
「分かりました」
「納得してくれたんだね」
「いいえ、私は親子の縁を切ってでも、店を守り抜くことにします」
「琳華!」
母の金切り声が部屋中に響き渡る。だが琳華も一歩も引く気はない。双方が睨み合い、空気が張り詰める中、動いたのは意外にも明軒だった。
「まぁまぁ、落ちつきましょうよ。どうせ琳華は宝石店を手放さざる負えないんですから」
「私は何を言われても意見を変えませんよ」
「琳華の意見なんて関係ない。俺たちには奥の手があるからな」
明軒は手荷物から厚い封筒を取り出す。中にはきちんと折りたたまれた公文書が入っており、その内容が見えるように琳華に向けて広げる。
(これは借用書ですね……)
しかも書面には見覚えがあった。以前、明軒に借金の連帯保証人になってほしいと頼まれ、サインしたからだ。
「これが何か分かるよな?」
「……その借用書が何か?」
「お前も不用意なことをしたよな。こんな危険なものにサインするなんて」
「私の代わりに織物屋を継ぐ条件だと言われては呑むしかありませんでしたから」
借金の連帯保証には抵抗があったが、宝石鑑定士を続けるためには仕方のない選択だった。だが彼はその判断が間違っていたと笑う。
「この借用書の金額がいくらか覚えているか?」
「金貨五枚でしょう。最悪、私の貯金からでも十分に支払える額だからこそサインしましたから」
「残念だったな。俺の借金は金貨千枚だ」
彼の指差した書類には『金貨千枚に関する借用契約書』と題されていた。偽物だと疑ったが、その下には琳華の筆跡で署名が残されている。かつてサインした借用書で間違いなかった。
「ありえません。私は確かに金貨五枚だと……」
「金額は誰に確認した?」
「それはお母さんに……まさか!」
「推察通り、その時からグルだったのさ」
琳華がサインしたのは数年前。まだ社会人経験も浅く、ベテランの母に頼る部分も多かった。
借用書の数十ページに及ぶ分量と専門用語のオンパレードを前にして、母の「代わりにチェックしておいた」という言葉を鵜呑みにして署名したのだ。
まさか実の母親が婚約者とグルになって騙すとは思わなかったからだ。抗議の視線を母に向けると、彼女はふてぶてしい表情を浮かべる。
「仕方ないじゃないか。うちの家には跡継ぎが必要なんだから。借金の連帯保証人にされたくらい、お姉ちゃんなんだから我慢しな」
つまり母にとって琳華の優先順位は織物屋よりも下なのだ。あまりの理不尽さに怒りを通り越して悲しみが湧き上がってくる。
(どうして、こんなにも酷いことができるのでしょうね……)
乾いた笑い声を漏らしながら、しっかりと頭のギアを入れ替える。家族はもう味方ではない。明確な敵だ。
「さようなら。私はあなたたちを絶対に許しません」
琳華は立ち上がり、実家の織物屋を後にする。背中から明軒の「負け犬」と小馬鹿にする声が聞こえ、逃げ出すように宝石店へと足を向けた。
(この店だけが私を受け入れてくれます)
鍵を差し込み、店の扉を開けると宝石たちが出迎えてくれる。店内には父と過ごした無数の思い出が詰まっており、傷心した彼女を癒やしてくれた。
「お父さんが生きていれば……」
壁に掛けられた父の肖像画を見つめながら、ボソリと泣き言を漏らす。だが肖像画は何も応えてくれない。静寂な空間に反響した声が、現実を思い出させた。
(お父さんはもういません。他の誰でもない私がなんとかしないと!)
家族にさえ裏切られたのだ。他人は誰も助けてくれない。信じられるのは自分自身の力だけだ。
「待っていてくださいね。必ず帰ってきますから」
どんな手を使ってでも、父から受け継いだこの店を守り抜くと決意した琳華は、父の肖像画に見送られながら、夜の街へと駆け出す。その背中から迷いは完全に消え去っていた。
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