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プロローグ
プロローグ ~『残念な婚約者1』~
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「残念ですが、この宝石はガラクタですね」
琳華は父から受け継いだ宝石店のカウンターで、客の男が差出したダイヤモンドを観察して結論を下す。
人は期待を裏切られると怒りを顕にするもので、客の男も例外ではなかった。額に皺を寄せながら、眉根を釣り上げる。
「嬢ちゃんは若いから、この宝石の価値が分からないんだ。店主を出せ」
「私が店主です」
「嘘を付け。嬢ちゃんのような若者が、こんな一等地に店を持てるものか!」
「亡くなった父から継いだ店なのですよ」
若い女だからと舐められるのは日常茶飯事だ。ただ慣れてしまえば、対処法も心得ている。
「私が店主ですし、私以外に鑑定士はいません。気に入らないのでしたら他店でお売りください」
「それは……」
街にある宝石店は琳華の経営する店だけだ。断られたら、別の街に売りにいく手間が発生するため、男は強気な態度を少しだけ引っ込める。
「俺も嬢ちゃんと喧嘩したいわけじゃないんだ。ただきちんと宝石を評価してほしいだけなんだ」
「では逆に聞きますが、あなたはこの宝石が高価だと?」
「おう。なにせ世にも珍しい七色に輝くダイヤモンドだからな。金貨百枚、いや二百枚の価値はあるはずだ」
男は自信満々に語る。その石は確かに美しい輝きを放っていたが、琳華の訓練された瞳はその真実を見抜いていた。
「これはダイヤモンドではなく、モアッサナイトという模造宝石ですね。素人目には判断が難しいですが、光の屈折率がダイヤモンドとは違うので専門家なら見間違えることはありません」
「な、なら、本当にこの宝石は……」
「ガラクタですね」
モアッサナイトは人工的に生産可能な宝石で、西の帝国で大量生産されている。琳華にとっても珍しくない品であった。
「ガラクタといっても、金貨一枚くらいにはなるんだろ?」
「出せても銀貨一枚ですね」
「そんなに安いのか!」
「他の店なら銅貨三枚が相場ですから。良心的な買取金額なのですよ」
「そうなのか……」
「ちなみにお客様はいくらで買われたのですか?」
「金貨十枚だ……」
「それは御愁傷様です」
不憫に思いながらも、琳華も慈善事業を営んでいるわけではない。男は肩を落としながら、銀貨一枚を受け取って店から出ていく。
男が去った後、琳華は緊張を解いた。
宝石鑑定士の仕事はミスが許されない。偽物の宝石を高値で買えば店の損害を生むだけでなく、信用問題に繋がるからだ。
(お父さんのためにも、この店だけは守り抜かないと……)
この宝石店は琳華の父が残してくれた唯一の形見で、命の次に大切なものだった。
(そろそろ時間ですね)
時計の針が動き、店の閉店時間が近づく。それは同時に婚約者の明軒との待ち合わせ時刻が迫っていることも意味していた。
(今日も遅刻してくるのでしょうね)
琳華は婚約者に舐められていた。それは外見に大きく起因している。
長い黒髪を低い位置でまとめた髪型と怜悧な顔付きは知的さを感じさせ、白い襦裙と深緑の袍、小さな宝石を垂らした銀の簪は宝石鑑定士としての身分を控えめに示しつつ、仕事人として印象を強めていた。
決して醜女ではなく、美女に分類される容姿をしているが、男性受けはお世辞にもよろしくない。
本人の隙のない性格と地味な印象のせいで、近寄りがたいと思われたのか、十八年の人生で一度も異性に言い寄られたことがなかった。もし明軒との婚約がなければ、生涯独身を貫いていたかもしれない。
(だからこそ明軒が最低な人だと知っていても別れられないのですが……)
遅刻すると最初から分かっているなら期待しなければいいだけだ。待ち時間を有効活用するため、店の陳列ケースに並んだ宝石を整理して床掃除を始める。
片付けが進むと、外はすでに暗くなっていた。他の商店から漏れ出る光がぼんやりと周囲を照らしている。
もしかしたら明軒は来ないかもしれない。そんな予感を裏切るように、外から足音が聞こえてくる。
顔を上げると、扉を開いた婚約者の明軒が立っていた。彼は手荷物を持ちながら、微かに息を切らしている。
「おう、待たせたな」
端正な顔立ちと洗練された風貌の明軒は、店の明かりで照らされて、一層に際立っている。
ただ口では待たせたと言いながらも申し訳なさを感じ取れないため、印象は最悪だった。
「待ってはいません。どうせ遅刻すると思っていましたから」
「相変わらず生意気だな。そんな性格だから、誰からも相手にされないんだ。婚約してやった俺に感謝しろよ」
明軒の台詞は軽い冗談ではない。彼は本気で結婚してやる立場だと信じており、それが露骨に態度にも現れていた。
「まぁいい。買い物に行くぞ」
「私と出かけて楽しいのですか?」
「馬鹿言うな。楽しいわけがないだろ」
「ならどうして?」
「荷物持ちが必要だろ」
明軒は手荷物を放り投げ、琳華に持たせる。彼が自分を女性として扱っていないことに悔しさを覚えながらもぐっと我慢する。
理不尽に耐えるのは、琳華の実家が関係していた。代々、織物屋を営んできた家系の生まれである彼女には、妹がいても男兄弟がいない。
今は母が女店主として店を切り盛りしているが、その後を継ぐのは順当にいけば琳華になるはずだった。
だが琳華は宝石鑑定士として生きていく道を望んだ。だからこそ彼女の代わりに織物屋を継ぐ者が必要となり、次期店主の白羽の矢を立てられたのが明軒だった。
既に織物屋で従業員として働いており、次男坊で継ぐ家業もない彼にとっても、この縁談は渡りに船だったのだ。
(多少の理不尽は我慢しないと……)
明軒にうんざりしつつも、彼がいなければ家業を継がなければならないため、婚約は破棄できない。
グッと理不尽を飲み込んで、荷物を持ちながら夜の街を歩く。
石畳の通りには、ぼんやりと灯る提灯が並び、その柔らかな光が街角を神秘的に照らしている。遠くから聞こえる楽器の音色が静寂を破り、夜風に乗って耳に届いた。
「お、あの店がいいな」
琳華の意見を聞かずに、赤い屋根瓦と白壁が美しい商店の前で足を止める。
一瞥しただけで高級店と分かる店に足を踏み入れると、彼は細やかな刺繍が施された絹の袍を指差し、店員に購入を伝える。
「あの服、高価なのではないですか?」
「俺の給料の一ヶ月分だな」
「よくお金がありますね?」
「何を言っている。支払いは琳華に決まっているだろ」
「え!」
聞いてないと抗議を含めて目を細めると、彼は鼻で笑う。
「俺が結婚してやるんだぞ。先行投資だと思え」
「…………」
人はここまで最低になれるのかと驚かされる。ただ琳華にできることは我慢しかない。好きなことをやらせてもらえる代償だと受け入れる。
(それに明軒との婚約は、お母さんの頼みでもありますからね……)
長年、店で働いてくれている明軒を母は頼りにしており、婿養子として家を継がせることにも積極的だ。
仮に彼と婚約破棄をしても、新しい男を母が気に入る保証はない。次期店主のお鉢が琳華に回ってくる可能性さえある。
理不尽を黙って受け入れ、明軒の代わりに服の代金を支払う。彼の買い物に付き合っている間に時間が経過し、店の外は先程よりも暗くなっていたのだった。
琳華は父から受け継いだ宝石店のカウンターで、客の男が差出したダイヤモンドを観察して結論を下す。
人は期待を裏切られると怒りを顕にするもので、客の男も例外ではなかった。額に皺を寄せながら、眉根を釣り上げる。
「嬢ちゃんは若いから、この宝石の価値が分からないんだ。店主を出せ」
「私が店主です」
「嘘を付け。嬢ちゃんのような若者が、こんな一等地に店を持てるものか!」
「亡くなった父から継いだ店なのですよ」
若い女だからと舐められるのは日常茶飯事だ。ただ慣れてしまえば、対処法も心得ている。
「私が店主ですし、私以外に鑑定士はいません。気に入らないのでしたら他店でお売りください」
「それは……」
街にある宝石店は琳華の経営する店だけだ。断られたら、別の街に売りにいく手間が発生するため、男は強気な態度を少しだけ引っ込める。
「俺も嬢ちゃんと喧嘩したいわけじゃないんだ。ただきちんと宝石を評価してほしいだけなんだ」
「では逆に聞きますが、あなたはこの宝石が高価だと?」
「おう。なにせ世にも珍しい七色に輝くダイヤモンドだからな。金貨百枚、いや二百枚の価値はあるはずだ」
男は自信満々に語る。その石は確かに美しい輝きを放っていたが、琳華の訓練された瞳はその真実を見抜いていた。
「これはダイヤモンドではなく、モアッサナイトという模造宝石ですね。素人目には判断が難しいですが、光の屈折率がダイヤモンドとは違うので専門家なら見間違えることはありません」
「な、なら、本当にこの宝石は……」
「ガラクタですね」
モアッサナイトは人工的に生産可能な宝石で、西の帝国で大量生産されている。琳華にとっても珍しくない品であった。
「ガラクタといっても、金貨一枚くらいにはなるんだろ?」
「出せても銀貨一枚ですね」
「そんなに安いのか!」
「他の店なら銅貨三枚が相場ですから。良心的な買取金額なのですよ」
「そうなのか……」
「ちなみにお客様はいくらで買われたのですか?」
「金貨十枚だ……」
「それは御愁傷様です」
不憫に思いながらも、琳華も慈善事業を営んでいるわけではない。男は肩を落としながら、銀貨一枚を受け取って店から出ていく。
男が去った後、琳華は緊張を解いた。
宝石鑑定士の仕事はミスが許されない。偽物の宝石を高値で買えば店の損害を生むだけでなく、信用問題に繋がるからだ。
(お父さんのためにも、この店だけは守り抜かないと……)
この宝石店は琳華の父が残してくれた唯一の形見で、命の次に大切なものだった。
(そろそろ時間ですね)
時計の針が動き、店の閉店時間が近づく。それは同時に婚約者の明軒との待ち合わせ時刻が迫っていることも意味していた。
(今日も遅刻してくるのでしょうね)
琳華は婚約者に舐められていた。それは外見に大きく起因している。
長い黒髪を低い位置でまとめた髪型と怜悧な顔付きは知的さを感じさせ、白い襦裙と深緑の袍、小さな宝石を垂らした銀の簪は宝石鑑定士としての身分を控えめに示しつつ、仕事人として印象を強めていた。
決して醜女ではなく、美女に分類される容姿をしているが、男性受けはお世辞にもよろしくない。
本人の隙のない性格と地味な印象のせいで、近寄りがたいと思われたのか、十八年の人生で一度も異性に言い寄られたことがなかった。もし明軒との婚約がなければ、生涯独身を貫いていたかもしれない。
(だからこそ明軒が最低な人だと知っていても別れられないのですが……)
遅刻すると最初から分かっているなら期待しなければいいだけだ。待ち時間を有効活用するため、店の陳列ケースに並んだ宝石を整理して床掃除を始める。
片付けが進むと、外はすでに暗くなっていた。他の商店から漏れ出る光がぼんやりと周囲を照らしている。
もしかしたら明軒は来ないかもしれない。そんな予感を裏切るように、外から足音が聞こえてくる。
顔を上げると、扉を開いた婚約者の明軒が立っていた。彼は手荷物を持ちながら、微かに息を切らしている。
「おう、待たせたな」
端正な顔立ちと洗練された風貌の明軒は、店の明かりで照らされて、一層に際立っている。
ただ口では待たせたと言いながらも申し訳なさを感じ取れないため、印象は最悪だった。
「待ってはいません。どうせ遅刻すると思っていましたから」
「相変わらず生意気だな。そんな性格だから、誰からも相手にされないんだ。婚約してやった俺に感謝しろよ」
明軒の台詞は軽い冗談ではない。彼は本気で結婚してやる立場だと信じており、それが露骨に態度にも現れていた。
「まぁいい。買い物に行くぞ」
「私と出かけて楽しいのですか?」
「馬鹿言うな。楽しいわけがないだろ」
「ならどうして?」
「荷物持ちが必要だろ」
明軒は手荷物を放り投げ、琳華に持たせる。彼が自分を女性として扱っていないことに悔しさを覚えながらもぐっと我慢する。
理不尽に耐えるのは、琳華の実家が関係していた。代々、織物屋を営んできた家系の生まれである彼女には、妹がいても男兄弟がいない。
今は母が女店主として店を切り盛りしているが、その後を継ぐのは順当にいけば琳華になるはずだった。
だが琳華は宝石鑑定士として生きていく道を望んだ。だからこそ彼女の代わりに織物屋を継ぐ者が必要となり、次期店主の白羽の矢を立てられたのが明軒だった。
既に織物屋で従業員として働いており、次男坊で継ぐ家業もない彼にとっても、この縁談は渡りに船だったのだ。
(多少の理不尽は我慢しないと……)
明軒にうんざりしつつも、彼がいなければ家業を継がなければならないため、婚約は破棄できない。
グッと理不尽を飲み込んで、荷物を持ちながら夜の街を歩く。
石畳の通りには、ぼんやりと灯る提灯が並び、その柔らかな光が街角を神秘的に照らしている。遠くから聞こえる楽器の音色が静寂を破り、夜風に乗って耳に届いた。
「お、あの店がいいな」
琳華の意見を聞かずに、赤い屋根瓦と白壁が美しい商店の前で足を止める。
一瞥しただけで高級店と分かる店に足を踏み入れると、彼は細やかな刺繍が施された絹の袍を指差し、店員に購入を伝える。
「あの服、高価なのではないですか?」
「俺の給料の一ヶ月分だな」
「よくお金がありますね?」
「何を言っている。支払いは琳華に決まっているだろ」
「え!」
聞いてないと抗議を含めて目を細めると、彼は鼻で笑う。
「俺が結婚してやるんだぞ。先行投資だと思え」
「…………」
人はここまで最低になれるのかと驚かされる。ただ琳華にできることは我慢しかない。好きなことをやらせてもらえる代償だと受け入れる。
(それに明軒との婚約は、お母さんの頼みでもありますからね……)
長年、店で働いてくれている明軒を母は頼りにしており、婿養子として家を継がせることにも積極的だ。
仮に彼と婚約破棄をしても、新しい男を母が気に入る保証はない。次期店主のお鉢が琳華に回ってくる可能性さえある。
理不尽を黙って受け入れ、明軒の代わりに服の代金を支払う。彼の買い物に付き合っている間に時間が経過し、店の外は先程よりも暗くなっていたのだった。
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