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第一章
第一章 ~『前世の記憶』~
しおりを挟むエリスには夢を夢だと認識できる特技があった。
今夜の夢はエリスの転生前の記憶――東京で司書として働いていた頃のものだ。夜景の見えるレストランで、白いテーブルクロスの上にフランス料理が並んでいる。彼女が異世界へと転生するキッカケとなった、あの事件が起きた日である。
「君とこのレストランで食事をするのは二度目だね」
「去年の誕生日以来ですね」
「改めて、三十歳の誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
眼の前に座るブルーのジャケットと白のワイシャツで身を固めた男性が手をパチパチと鳴らしてくれる。彼は、転生前のエリスの恋人であり、唯一の心の支えでもあった。
転生前のエリスは早くに両親を亡くし、頼れるのは彼だけだった。だからこそ、節目となる三十歳の誕生日。この日を心の底から待ち望んでいた。
「今日は大切な話があるんだ」
ゴクリと緊張で息を飲む。二十歳の頃から十年もの間、付き合ってきたのだ。きっとプロポーズされるはずだと身構えていると、彼は頭を下げた。
「……別れてほしい」
「え……じょ、冗談ですよね……」
「本気だ」
「――――ッ」
唯一の心の支えに突き放された悲しみで、眼の前が真っ白になる。意識しないままに、目尻からは一筋の涙が頬を伝って流れた。
「すまない、だが好きな人ができたんだ」
「わ、私、もう三十歳ですよ!」
「分かっている。慰謝料も支払う。だから俺と――」
彼の謝罪が急に止まる。視線の先にはナイフを持った若い女性の姿があった。瞳には狂気が宿っており、正常な精神状態ではない。
「やっぱり浮気していたのね」
「ち、違うんだ。俺はもうこの女と別れて――」
「言い訳は聞き飽きたの。じゃあね」
若い女性はナイフを彼の腹部に突き刺す。白いワイシャツが赤く染まり、彼の口からは苦悶の声が漏れていた。出血量からきっと助からないだろう。
その光景をざまぁみろと笑ったことだけは覚えている。しかし、それ以降の記憶はぽっかりと抜け落ちていた。
続く記憶は転生後の世界だ。異世界に生まれ落ちたエリスは、十八年間の人生を伯爵令嬢として過ごしてきた。
もう前世の頃の自分の名前さえ思い出せないが、時折、悪夢として再現される。そして最後には目を覚ますのだ。
(最悪の朝ですね……)
夢の中だけでなく、目を覚ましてもケビンに婚約破棄された現実は続いている。だが悲しみの感情は睡眠のおかげで薄れていた。
窓から差し込む光を浴びながら、背筋を伸ばして立ち上がる。そこで、ふと視線が手の甲に向いたことで、異変に気づく。
(この手の薄い痣はなんでしょうか?)
どこかにぶつけたような痣ではない。かすれて不鮮明だが、じっくり観察すると、幾何学模様が描かれているようにみえた。
(不思議なこともあるものですね)
きっと明日には消えているだろうと、エリスは痣について忘れることにした。だがこの痣が人生を激変させるキッカケになるとは、このときの彼女は想像さえしていなかった。
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