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ヘブンズ・ドアー

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 仄暗い底へ身を投じる覚悟があるかと問われれば、誰だって尻込みするだろう。まして、それが見るからに誤った堕落への道と言われれば尚更である。
だが窮してはいけない。これこそが最善手であり、真理へと到達する近道なのである。
絶望の淵に臥せった私の魂魄は、冥府の誘いとも呼ぶべき姦計には乗らず、抜け殻となった肉体の宿主として戻って来たのである。文字通り愚の骨頂にこそ私の探し求めたヒントが在ったといえば、そんな馬鹿なと疑いながらも注視せずにはいられない。
どんな物事にも道がある。素人でも、芸の道を究めればいずれは名人の域に至る者が現れるように、滑稽も愚道を貫けば拓く世界がある、と言えばそれは誤った推察であろうか。
 考えろ。私よ、ただひたすらに考えろ。今いる白銀に輝く世界の中で、私だけが夢と現実を繋ぐ観測者なのである。
とすれば、他者の介在を期待出来ない以上、自らの心象に銃口を突き付け、その引き金を躊躇う事無く引くしか無い。放たれた凶弾は私の心を破壊し、そしてまた何かを創造し得るのか、はたまた崩落の一路を辿るであろうか。もはや私を取り巻く虚飾の類はとうの昔に枯れ果てている。
奥底でか細い空気を送り込みながら、何とか必死に灯していた心の火種も今まさに尽きようとしている。そんな最後を看取りながら、まるで無関心な傍観者のように佇む私自身は、矢張り人間としての資格を失っているようで、ただただ無気力に、脆弱な燈火を見守っていた。
何をする訳でもなく、ただひたすらに。
だが、この淡い燈火をまた、自らの手で消そう等とは終ぞ思えなかった。だとするならば、私が最後の最後まで拘り抜いた個の自我とは、心の火そのものであり、求めて愚道を行くと決めたならば、精神の自殺とも呼ぶべき崩壊を経て成就するものなのではないだろうか。
仮にそれが正解ならば、恐ろしい事だが――堕落とは、この最後の火種を自ら消灯する作業に他ならない。
人類史が始まって幾星霜、人々が築いた文明の最先端とも呼ぶべき私達が、連綿と受け継いだ全てを手放して、自殺の放埓へと向かい走り去る様は、さながら生きたいと願いながら毒を飲む狂気染みた行為であろう。
それでいて、私達観測者はその様相を、下卑た相好崩す事無く楽しんでいる始末なのである。
古来より剣闘士は血を流した。観客は、文字通り血沸き肉躍る饗宴に熱狂した。時代移ろうとも人の本性委細変わる事無く。数千年の時を経ても、まるで成長する事無く、野獣染みた狂喜に心底打ち震え、決して癒される事無き肉欲の飢えに、血の生贄を捧げながら僅かばかりの供物とするのである。
 我々は文明の利器を得て、進化したと勝手に思い込んでいた。だが実際には、古代人となんら変わる事ない、ともすれば無教養の野蛮人とさえ蔑んでいたような時代から、進む事無く、また退く事も無く今を――今だけを生きている。
誤解を恐れずに断言すれば、私達が生きたと誇る歴史の実態は、華やかな衣装で彩られ真実そのものを覆い隠しているが――錯覚の歴史である。
長久の歴史等と言うものは虚構の繰り返しであり、文明を獲得しても品性を獲得する事は出来なかった。
芸術を理解出来なければ人間では無い。そう心に誓っていた私自身が、真実の芸術そのものを知らないばかりに、まるで正解も解らぬのにさぞ難しい顔をして唸り、それらしい虚言で煙に巻く詐欺師の常套手段を処世術としていたのである。
残念ながら、そんな笑えぬ悲劇を繰り返したばかりに、私は私の『個』さえ疑うようになってしまった。個の埋没は理性への反逆であるが、反逆を主導する救世主のように先頭を行く私は、どこまでも純粋無垢であった。
だが純粋無垢であったが、それ以上に馬鹿であった。狡知に長けた世界を前に、理性を従え先導し、無垢の処女性を捧げた代償が狡猾なる悪意の食い物にされ、果ては愚鈍の烙印を押されるだけと言えば、私の人生の悲運と不遇も一挙に理解し得るだろう。
これだけの醜態を晒しながら、出涸らしの茶でももう少し美味いと思える余生の搾りかすに、まだ利用価値が在るのか世界の優しい選択は、人の顔色を覗う事も無く不条理かつ唐突に、いつだって諸手を広げ回答を待っている。
後の私に何が出来る?何を期待すれば良い?他者から隔絶された大地の中で、孤立無援の強行軍を、自ら強いる事でしか生を感じ得ない愚か者を前にして、事務的に、冷淡に、まるで期待もしていないのに、表面だけでも取り繕えば良いのに――世界は私に興味もない癖に問いかけを止めない。
この問いかけは、基を正せば愚者の堕落を堕ち行くと決めた、私自身の決定であるにも関わらず――世界の偉大なる干渉を、全くの別次元に放り投げる勇気を、狭小な私には持てなかった。
他者から切り取られた深層心理の飽くなき自由に於いてさえ、他の個に追い縋ろうとする醜悪な心を、世界はいったいどのような心境で見ているのだろうか。
いわんや超常的な森羅万象に対して人間味を求めるのも、それこそ愚物が露見するばかりで、自らの思考をも纏める能力が無いにも関わらず、そんな自分を隠して広大な世界の心配を、する振りさえして余裕を見せる手口もまた小人の浅知恵、下手の考え休むに似たりであろう。
精神の深淵に終わりは見えない。どこまでも堕ち行く感覚だけがあるばかりで、そもそも底さえあるのかも知れないから、堕ち行く不快感だけが真実の鞭となって、消耗しきった精神を打ち据える。肉体と精神の調和はとっくに崩れ去り、心の悲鳴が断末魔の様相を呈しても、過剰な負荷を精神にかけ続ける。
弱い私の精神は、負荷によって強くなると信じ、亡者の執念で固執するも、弱い精神はどこまでいっても弱いままで、悪戯に精神をすり減らすだけであった。
天啓に導かれる瞬間とは、きっと至上の幸福であろう。だが、私には訪れない。考えるだけ深みに嵌まり、一度は近づけたかと思うと、世界の実像はたちどころに霧消して、別の幻影を見せ続けるのである。
追い続けるばかりの思惟では限界があった。もとより人知を超えた世界である。不満はいつしか不安になり、不安は徐々に精神を侵食し、疑心暗鬼を生ずるに至った。
何を信じれば良い?積み上げた積み木を、完成間近で壊され続ける子供に起こる癇癪を、どうして責める事が出来る?
疲弊しきった私はどこまでも疑った。疑う事しか出来なかった。
世界だ、神だと必要以上に巨大な妄想に逃げ惑う前に、眼前に立ち塞がる疑い得ないものを発見しよう。だが自身さえも疑う猜疑心に満ちた私の眼が、正邪の区別も付く筈もなく、疑わしきは罰せよに則り、次から次へと沸く疑念を排斥し続けて、始めて見える仄暗い妙境。
誰もが納得する――神でさえ否定出来ない理なんてこの世にあるのかと、根底さえ疑う私自身を疑う事は出来ないのではないか。仮に世界が水槽の脳に見られるような、疑似的な体験でしかなかったとしても、存在自体を疑う私自身を否定する事は、私も他者も、世界も――そして神にさえ出来はしない。
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