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未来という名の空想科学
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現在と未来の垣根はあやふやだ。私が現在進行形と認識しているつもりでも、既にその認識は色あせ、また着色し直され過去へと変わる。
現在と思ったものでさえ瞬く間に過去へと変わるのだから、現在より先の未来が過去の追従から逃れないのも道理である。
だがこの際は時間軸などどうでもよい。
過去、現在、そして未来、その全てにおいて重要なのは、今何をするべきかを取捨選択していくしかない境遇に身を委ねる事だ。
私は弱い人間である。常に現実と過去を比較し、美化された過去の自分にさえ負い目を感じ、ましてやありもしない未来ばかりを夢想して、現実世界から目を背けるのだ。
弱さを受け入れるのは難しい。世間で軽々しく口にする程、自分と向き合うという行為は容易なものではない。
なぜ認めないのか、なぜ解らないのか、なぜ出来ないのか。
その言葉に重さはない。実態なき言葉に、人の心は易々と、向こうが期待するように唯々諾々と感銘を受けたりはしないのだ。
人に何かを教える、ましてやそれが精神世界における成長を期待しての事ならば、残念ながらそんな徒労に骨身を惜しまぬがよい。
もとより忠言耳に逆らうの例えで、人の心は確たる信頼関係も無しに相手の言葉を受け入れるものではないからだ。
また人を注意するという行為も、傍から見れば自慰に等しい。
つまるところ、人を叱るなんて行為自体が相手を踏み台に、相手を物言わぬサンドバッグに使い自身の不安を正当化するだけで、これほど嘘の慈愛に溢れた見苦しい行為は二つとない。
だから他人によって自身の超克は成り得ないのだ。
自分自身に価値を見出したいのなら、行住坐臥の振る舞いに責任を伴わなければならぬ。
考えてみると、私の選択した人生の価値とは、さながら武士道じみた侠気を帯びている。
人生の価値観など十人十色だが、自らの意思で人生の堕落へ向かう酔狂な者は少数派だ。日々の小さな積み重ねの中で、気付けば現在が結果として残る。
良くも悪くも関係なく、ただ日々だけが過ぎていく家畜の生を私は人生とは呼ばない。人として生まれたからには、人として生きるのが正道である。
一方で、両親も含む私以外の他人に既定され、そして享受するだけの生でもつまらない。
さりとて自分自身の心を欺かず、納得いく素晴らしい人生を、誰もが手に入れる訳ではない。
もし神様がいるのならば、この人間界に私を送り込んだ本意を問いたいものである。
六道の中から何故人間界だったのか。
そしてこの人間界に、なぜ畜生や修羅、餓鬼なる魑魅魍魎が跋扈しているのか。
人間界に人間の姿形をした借物がいる。昼夜を問わず畜生道から、修羅道から、餓鬼道から、悪意を持って押し寄せる悪魔の激流に、ふとすると私は洗い流され、その底なき深淵まで渦巻きと共に飲み込まれてしまいそうになる。
これが堕落の姦計なのだ。
詐欺師がその狂相を人前に見せる事はない。常に偽りの仮面を被るのだ。仮面はいつしか張り付き、その表面はゴムのような弾力から次第に肉の質感を帯び始め、終には仮面が新たな顔となる。
だがその時になって、当人は昔の顔を思い出せなくなるのだ。果たしてこれが人の世か?
私は美しいものが好きだ。
「美」に触れた時だけ、時間も、過去も、未来も、そして私自身をも忘れ、その芸術の浪漫に私を誘い陶酔させてくれるのである。
私が人一倍「美」に対する感覚が敏感だからこそ、対極なる「醜」がより鮮明に、私の視界を捉えるのであろう。人間の美醜はそのまま人生の歩みと重なる。
だからこそ人間はこの世で最高の芸術なのだ。美術館に行く必要もない。外には芸術が溢れているのだから。
そして面白い事に、美しい芸術よりも、醜い芸術が圧倒的に多い。
この醜さが、私の中の嗜虐心をくすぐるのである。同時に、私自身もこの醜い芸術を形成する世界の一部であると、認識させられるのだ。
実に皮肉の効いた世界である。美しいものが好きな私が、同時に醜いものをも愛さない限り、私自身と向き合っていく事などとても出来ないのである。
私を囲む世の中は、小さい頃に読んだ絵本のように美しい世界ではなかった。
私を囲む世の中は、努力が必ず報われる世界ではなかった。
私を囲む世の中は、人間としての真面目さとは縁のない世界であった。
こんな当たり前に、私は今まで気付かず虚栄の世界で腐心し、もがき苦しんでいた。
世界は美しくない。
世界は虚構に満ちている。
世界は誰に対しても興味がない。
だけど、世界はそこにあり続ける。
その束縛からは逃れ得ないのだ。あがくのでもない、諦めるのでもない。一度、私を投げ出してみよう。
無垢を汚された、既に醜悪と化したこの精神を、今一度手放すのだ。過去の縛りに制約を課していた弱い私自身を解き放つ、それはとても勇気のいる事だ。
言葉で表現出来る重さなど、簡単に超えるほど難しい覚悟が必要だ。だが逃げる余生を送り続ける事は、それ以上の艱難辛苦となって身を焼き焦がすだろう。
生兵法は大怪我の基と言うが、座して大怪我を待つぐらいなら、行動して大怪我をする方が余程賢明である。
考える事は過去の踏襲、行動する事は未来の模索。常態化した因習に眼を瞑る必要もなくなった。未来を掴み取るには、因習を覆す事から始めよう。未来を掴み取るには、心の偽りを捨て去ろう。
私は年老いても子供の精神であり続けたい。周囲が私を大人と褒めたら、それは最低の侮蔑だと心に刻もう。
美よ、私を虜にしてやまぬ地上の芸術よ。
今一度、純朴なる高邁な精神を私に授けたまえ。
だが私よ、純朴は決して、それ単体で善なる美にはならないと肝に銘じておかねばならない。
子供の純朴さに見られる弱肉強食の野生とは、理性と並行して心を支配する人の性(さが)である。
また剛毅木訥仁に近しに例えられるような人間でもいけない。
人は他人に興味を持たない。
社会契約に基づき法を遵守する以上、自己ブランドの確立が出来なければ、埋もれ自分の理想に夢抱いて死ぬだけなのだ。
折角の秘めた才能を腐らせてはいけない。私の夢を、才能を、開花させる場所を勝ち取らなければならない。
狩猟採集生活から脱して一万三千年、生きる為に戦う定めから人は今も逃れていない。
人間は人間に勝たなければならないのだ。
事を荒立てない事が協調性で、人と争わないのが美徳と言うのなら、それは家畜の生を謳歌しているだけに過ぎない。
私は戦わなければならない。
世界と、人間と、そして私自身と。
未来を描くと言えば歌詞のように耳心地は良いが、未来は戦いによって勝ち取る、自然の中にその姿を潜ませている。
勝たねばならない。
勝たねば、それは私にとって死。
唾棄すべき私の半生を、延長させてはならない。未来にのみ、私を光満たす希望があるのだから。
現在と思ったものでさえ瞬く間に過去へと変わるのだから、現在より先の未来が過去の追従から逃れないのも道理である。
だがこの際は時間軸などどうでもよい。
過去、現在、そして未来、その全てにおいて重要なのは、今何をするべきかを取捨選択していくしかない境遇に身を委ねる事だ。
私は弱い人間である。常に現実と過去を比較し、美化された過去の自分にさえ負い目を感じ、ましてやありもしない未来ばかりを夢想して、現実世界から目を背けるのだ。
弱さを受け入れるのは難しい。世間で軽々しく口にする程、自分と向き合うという行為は容易なものではない。
なぜ認めないのか、なぜ解らないのか、なぜ出来ないのか。
その言葉に重さはない。実態なき言葉に、人の心は易々と、向こうが期待するように唯々諾々と感銘を受けたりはしないのだ。
人に何かを教える、ましてやそれが精神世界における成長を期待しての事ならば、残念ながらそんな徒労に骨身を惜しまぬがよい。
もとより忠言耳に逆らうの例えで、人の心は確たる信頼関係も無しに相手の言葉を受け入れるものではないからだ。
また人を注意するという行為も、傍から見れば自慰に等しい。
つまるところ、人を叱るなんて行為自体が相手を踏み台に、相手を物言わぬサンドバッグに使い自身の不安を正当化するだけで、これほど嘘の慈愛に溢れた見苦しい行為は二つとない。
だから他人によって自身の超克は成り得ないのだ。
自分自身に価値を見出したいのなら、行住坐臥の振る舞いに責任を伴わなければならぬ。
考えてみると、私の選択した人生の価値とは、さながら武士道じみた侠気を帯びている。
人生の価値観など十人十色だが、自らの意思で人生の堕落へ向かう酔狂な者は少数派だ。日々の小さな積み重ねの中で、気付けば現在が結果として残る。
良くも悪くも関係なく、ただ日々だけが過ぎていく家畜の生を私は人生とは呼ばない。人として生まれたからには、人として生きるのが正道である。
一方で、両親も含む私以外の他人に既定され、そして享受するだけの生でもつまらない。
さりとて自分自身の心を欺かず、納得いく素晴らしい人生を、誰もが手に入れる訳ではない。
もし神様がいるのならば、この人間界に私を送り込んだ本意を問いたいものである。
六道の中から何故人間界だったのか。
そしてこの人間界に、なぜ畜生や修羅、餓鬼なる魑魅魍魎が跋扈しているのか。
人間界に人間の姿形をした借物がいる。昼夜を問わず畜生道から、修羅道から、餓鬼道から、悪意を持って押し寄せる悪魔の激流に、ふとすると私は洗い流され、その底なき深淵まで渦巻きと共に飲み込まれてしまいそうになる。
これが堕落の姦計なのだ。
詐欺師がその狂相を人前に見せる事はない。常に偽りの仮面を被るのだ。仮面はいつしか張り付き、その表面はゴムのような弾力から次第に肉の質感を帯び始め、終には仮面が新たな顔となる。
だがその時になって、当人は昔の顔を思い出せなくなるのだ。果たしてこれが人の世か?
私は美しいものが好きだ。
「美」に触れた時だけ、時間も、過去も、未来も、そして私自身をも忘れ、その芸術の浪漫に私を誘い陶酔させてくれるのである。
私が人一倍「美」に対する感覚が敏感だからこそ、対極なる「醜」がより鮮明に、私の視界を捉えるのであろう。人間の美醜はそのまま人生の歩みと重なる。
だからこそ人間はこの世で最高の芸術なのだ。美術館に行く必要もない。外には芸術が溢れているのだから。
そして面白い事に、美しい芸術よりも、醜い芸術が圧倒的に多い。
この醜さが、私の中の嗜虐心をくすぐるのである。同時に、私自身もこの醜い芸術を形成する世界の一部であると、認識させられるのだ。
実に皮肉の効いた世界である。美しいものが好きな私が、同時に醜いものをも愛さない限り、私自身と向き合っていく事などとても出来ないのである。
私を囲む世の中は、小さい頃に読んだ絵本のように美しい世界ではなかった。
私を囲む世の中は、努力が必ず報われる世界ではなかった。
私を囲む世の中は、人間としての真面目さとは縁のない世界であった。
こんな当たり前に、私は今まで気付かず虚栄の世界で腐心し、もがき苦しんでいた。
世界は美しくない。
世界は虚構に満ちている。
世界は誰に対しても興味がない。
だけど、世界はそこにあり続ける。
その束縛からは逃れ得ないのだ。あがくのでもない、諦めるのでもない。一度、私を投げ出してみよう。
無垢を汚された、既に醜悪と化したこの精神を、今一度手放すのだ。過去の縛りに制約を課していた弱い私自身を解き放つ、それはとても勇気のいる事だ。
言葉で表現出来る重さなど、簡単に超えるほど難しい覚悟が必要だ。だが逃げる余生を送り続ける事は、それ以上の艱難辛苦となって身を焼き焦がすだろう。
生兵法は大怪我の基と言うが、座して大怪我を待つぐらいなら、行動して大怪我をする方が余程賢明である。
考える事は過去の踏襲、行動する事は未来の模索。常態化した因習に眼を瞑る必要もなくなった。未来を掴み取るには、因習を覆す事から始めよう。未来を掴み取るには、心の偽りを捨て去ろう。
私は年老いても子供の精神であり続けたい。周囲が私を大人と褒めたら、それは最低の侮蔑だと心に刻もう。
美よ、私を虜にしてやまぬ地上の芸術よ。
今一度、純朴なる高邁な精神を私に授けたまえ。
だが私よ、純朴は決して、それ単体で善なる美にはならないと肝に銘じておかねばならない。
子供の純朴さに見られる弱肉強食の野生とは、理性と並行して心を支配する人の性(さが)である。
また剛毅木訥仁に近しに例えられるような人間でもいけない。
人は他人に興味を持たない。
社会契約に基づき法を遵守する以上、自己ブランドの確立が出来なければ、埋もれ自分の理想に夢抱いて死ぬだけなのだ。
折角の秘めた才能を腐らせてはいけない。私の夢を、才能を、開花させる場所を勝ち取らなければならない。
狩猟採集生活から脱して一万三千年、生きる為に戦う定めから人は今も逃れていない。
人間は人間に勝たなければならないのだ。
事を荒立てない事が協調性で、人と争わないのが美徳と言うのなら、それは家畜の生を謳歌しているだけに過ぎない。
私は戦わなければならない。
世界と、人間と、そして私自身と。
未来を描くと言えば歌詞のように耳心地は良いが、未来は戦いによって勝ち取る、自然の中にその姿を潜ませている。
勝たねばならない。
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