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3巻

3-2

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「……なぜ、言い出しているレイナ以外までが、懇願するように私を見ているんだ」
「多分みんな、私の不器用ぶりを心配してくれてるんです」

 夜会を開く気配もない公爵家の将来を心配している……とは、まさか言えない。

「話は聞いているはずだろう。私はもう、何年もそういった場には出ていない。練習にならないぞ」
「非の打ち所がないくらいに上手だったら、いつ足を踏むか気が気じゃないんで、逆に練習にならないんです。お互い様くらいでいられた方が、気を遣わなくていいんです」

 しばらくの沈黙の後、エドヴァルドはコーヒーカップとソーサーをそれぞれテーブルに戻すと、背もたれに身体を預けて、珍しくも右手で乱暴に己の髪をかき上げた。

「……下手を前提に頼まれるのも、存外不本意なものだな」
「エドヴァルド様」
「近いうちに、歓迎式典と夜会の進行表を手に入れてくる。流す曲と必要な型が分かれば、その二曲分だけ集中して練習すれば、ある程度の形にはなるだろう。焦ってむやみに見当違いの練習をしたところで、当日何の役にも立つまい」
「じゃあ……」
「二曲だけだ。陛下とエドベリ王子と踊らなくてはならない、その二曲分だけ、練習台を引き受ける。ただし進行表が手に入るまではこれまで通り、家庭教師に基本を習え。……それでいいか」

 セルヴァンとヨンナが、ダイニングの隅で拳を握りしめて軽くガッツポーズをしていた。
 レイナ様、グッジョブです! とでも言わんばかりに、二人の目が輝いている。
 少ない、などとは誰も思わない。何せ時間がない。必要な二曲を集中して練習すると言うのは、理にかなっていると私も思う。ただでさえ得意とはいえないのだ。
 そんな中で王宮から正しい進行表が手に入るのは、さすがと言うべきだった。
 家庭教師の先生に基本ステップを教わりつつ、夜は実践で確認する――それでなんとか格好がつくところまで、もっていければいいけれど。
 少しゴールが見えてきたようで、私は思わず顔をほころばせていたようだ。

「ありがとうございます、エドヴァルド様」

 その瞬間、エドヴァルドが弾かれたように顔を上げた。

「どうかされましたか……?」
「貴女のそんな表情を初めて見たな……」

 急に言われてもよく分からなかったので、私としても、首を傾げることしか出来ない。

「……とりあえず、夜会で恥をかかないようにしたいので、本当はお嫌いと聞いていながら無理を聞いていただくことに関しては、感謝します」
「いや……今ので、こちらは逆に吹っ切れた」
「え?」
「最初のうちは勘を取り戻すまで、練習台にすらならん可能性もあるが、苦情は受け付けんからな」
「いえいえいえ! 苦情なんて、言える立場にありませんから!」

 ブンブンと手を振る私に、エドヴァルドはため息をついて、再び髪をかき上げている。
 本当に、珍しい仕種だ。
 それほど嫌いか。

「誰と踊った、何番目に踊った、何曲踊った、どの型を踊った……そんなことで、親しいだの親しくないだのと言いふらされてみろ。一発で嫌にもなる」
「社交界って大変なんですね……」
「実際ダンスに限っては、かえって陛下の方が楽なくらいだからな。その日の最高位の令嬢あるいは王族のきさきの手を取るか、外交ならその姫と踊るか、主賓格と踊るか。基本的には一つの夜会に一曲だけ、私が拒否をして問題のある相手であれば、もう一曲追加で踊る。その程度だぞ、陛下も」
「……そうなんですね」

 言いながら、私は無意識のうちに、口元に人差し指をあてていた。

「レイナ?」
「じゃあ、もしかして……〝聖女〟以外に、例えば陛下がボードリエ伯爵令嬢をダンスに誘ったりなんかすれば、それってエドベリ王子への牽制というか……かなりの話題になったりします?」

 実際に結婚する気があるとか、ないとかは、この際脇に置いておけばいい。
 誰と踊るか。それだけのことが、それほどまでに注目を浴びるのであれば。

「……翌日にも、国の社交界が大騒ぎになる。間違いなく」
「じゃあ、私がエドベリ王子と踊っている間に、陛下にボードリエ伯爵令嬢を誘ったりなんかしてもらえば、会場の注目は二分されたりなんかします?」
「……するだろうな」

 エドヴァルドの手がかき上げていた髪から離れて、身体もゆっくり背もたれから離れた。

「エドベリ王子が本気でボードリエ伯爵令嬢を連れ帰るつもりなら、そこで彼女が陛下と踊ったりなんてしたら、少なくともその間は身動きとれませんよね?」

 いくらレイフ殿下や、その手の者達がクーデターやエドベリ王子に危害を加えることを企んだとて、恐らくはエドベリ王子自身がそれを許さないはずである。
 シャルリーヌへの執着がホンモノなら、フィルバートがなぜシャルリーヌをダンスに誘うのか。その意図を読もうと必死になる様が目に浮かぶくらいだ。
 だったら私がエドベリ王子と話をしてみて、可能であればレイフ殿下と失脚した元第一王子との今の関係を探るか、それが無理でもせめてシャルリーヌのことは諦めさせたい。

「エドヴァルド様。陛下に、ボードリエ伯爵令嬢と踊ってもらえないか、聞いてみていただけませんか? 彼女は、王妃になりたいとか、そういうことではなく、とにかくエドベリ王子を嫌っているので、協力してあげてくださいませんか……っていうんじゃ、ダメでしょうか……?」

 エドヴァルドとて、レイフ殿下が余計な動きをしないために少しでも時間稼ぎが出来た方がいいはずだ。

「王妃の地位に興味はない、か……」
「あればアンディション侯爵に、バリエンダールへの渡航の話をしたりはしないと思います。もっとも、エドベリ王子のきさきとの二択になったら、話は別だと思いますけど」

 エドヴァルドが微妙な表情を見せているのは、きっと「そこまでエドベリ王子が嫌か」と言うのもあるかもしれない。
 うん、分かる。私だって最初はそう思ったもの。

「かえって面白がって引き受けるかもしれないな……」

 ただその後の反応が、一般的じゃなかった。

「エドヴァルド様?」
「例えばだが『第一王子に婚約破棄をされて傷ついて、じゃあ第二王子となんてふざけるな! と怒っていて、ギーレンに帰る気は毛頭ない。当て擦りで一緒に踊ってくれ』くらい言った方が、多分、いや間違いなくフィルバートは面白がる」

 ……さすがです、陛下。安定の信頼(?)です。
 というかエドヴァルドも、フィルバートの性質をよく理解しているんだろう。
 分かった、と頷いたのはそう長い間を置いてのことではなかった。

「近いうちに話を通しておく。貴女もボードリエ伯爵令嬢にさりげなく話をしておいてくれるか?」
「あっ、はい、分かりました」

 その場ではさらっと返事をしたものの、ますます夜会に欠席出来なくなったと、墓穴を掘ったことに気付いたのは、部屋に戻ってからのことだったのだ。



   第二章 奇才襲来


「レイナ。バタバタしているので、伝えるだけになってしまってすまないが、午後から、ヤンネが――以前に少し話をしていたイデオン公爵領の法律顧問が邸宅やしきを訪ねてくる。別件の裁判で高等法院に来ていたところに、たまたま遭遇したんだ。裁判の後、こちらに先触れを出すつもりだったらしい」

 翌日のお昼時。
 ギーレン語の家庭教師とランチをとっていたダイニングに、突然、エドヴァルドが現れた。

「ヤンネと私との公務の折り合いがなかなかつかず時間が取れなかったんだが、書類は今日、レイナに手渡すよう話をしておいた。それと、その時に特許権申請の話もしてくれるよう頼んでおいた。べったり教える程の時間は取れんらしいが、課題を出して、参考書代わりに法書の商法版を貸すくらいならなんとか……と言っていたから、詳しくは、訪ねてきたら聞いてみてくれ」
「あっ、はい、ありがとうございます!」

 転移扉で突然現れ、そしてあっと言う間に王宮に戻って行ったエドヴァルドに唖然としつつも、家庭教師の女性――フィリッパ・セーデルボリが、地理や歴史にそれほど造詣が深い訳ではないと言いながら、それでも「一般論ですが」と前置きをしたうえで、臨時授業よろしく私に説明をしてくれた。

「ヤンネ様のご出身地キヴェカス伯爵領は、酪農の地として知られています。領内の酪農家全てを束ねる酪農協同組合のおさを、代々の伯爵が領主と兼任しています。もちろん農場も持っていて、そこは現在伯爵とすぐ下の弟とで運営されているようですよ」

 それがなぜ、末弟が突然に法律顧問……と思ったところ、それには明確な契機があったそうだ。

「確か十八年前だったかと思いますが、キヴェカス領の乳製品ブランドに、他領の粗悪品を混ぜて売るという、産地の偽装問題がアンジェス国全土を揺るがしたのです」

 実際にやらかしたのはお隣の領だったらしい。ただ酪農一筋でやってきた当時のキヴェカス領の者達は皆具体的な反論のすべを持たず、挙句「キヴェカス側からそそのかされた」などと、かえって罪までなすりつけられている有様だったという。
 返品だの訴訟だのと本業以外に時間をとられ、破綻寸前のところまで追い込まれていたそうだ。
 その一連の騒動を見ていた当時十五歳の領主家三男・ヤンネが一念発起し、領内における法律と裁判の権威と呼ばれるまでに法書を読みこなした末に、実家の危機と領の危機を何とかギリギリのところで食い止めたのだと、そういうことだったようだ。
 そもそも長男は家を継ぐ。次男は万一の時の「スペア」扱いで領に留め置かれることが多く、三男以降の男兄弟がいた場合は、己で身の立て方を考えなくてはならない領地がほとんどだ。
 ヤンネ・キヴェカスもそうして、農家とは無縁の道で、今や第一人者と呼ばれるまでになっていたのだ。

「産地偽装問題……」

 確か日本でも、大手ホテルチェーンがロブスターを伊勢海老と称してお客さんに提供したり、高級料亭が原材料偽装をしていたりしたことが発覚して、大騒ぎになっていた。
 ああいった騒動を、酪農のみで生計を立ててきた人達が自分達で何とかするのは至難の業だったに違いない。
 ヤンネ・キヴェカスの、当時の苦労がしのばれた。

「その際問題を起こしたレストランは既に廃業しているそうですし、今となってはキヴェカスの乳製品もまた、往事の勢いを取り戻しつつあると耳にしています」
「先生、充分お詳しいじゃないですか」

 非当事者の私でも充分に理解が出来た。そう言うと、フィリッパは照れたように微笑んだ。
 あくまで結婚前の実家がキヴェカス伯爵領にあり、たまたま事態を多少なりと把握できるところにいたのだと彼女は言っていたけれど、いずれにせよ、これからヤンネ・キヴェカスを迎える私にとっては思いがけず有意義な話だった。

「そうだ、せっかくなら――」

 フィリッパが帰った後、公爵邸の書庫で当時のキヴェカスに関する資料や裁判記録を探してみようと思い立った。
 隣の領のレストランが主犯とはいえ、被害に遭ったのはイデオン公爵領の酪農家達。裁判所の保管資料とは別に、エドヴァルドが控えを残しているような気がしたのだ。
 もはや思い出したくもないと言われるのか、教材として教えてくれるのかは分からないまでも、キヴェカス伯爵領がイデオン公爵領に属し、国内でも有数の酪農領と言われている以上は、知っておいた方がいい話には違いなかった。
 果たしてある意味予想通りに、書庫の片隅にその裁判記録はひっそりと保管されていた。
 とりあえず、分かる範囲でパラパラと目を通していたところ、書庫の扉がおもむろにノックされた。

「レイナ様。玄関ホールに、キヴェカス卿がお見えです」
「ありがとう、ヨンナ」

 まだ全部は読みきれていなかったものの、仕方がない。
 写本は後でゆっくり目を通そうと、慌てて元の場所に戻して、玄関ホールへと向かった。

「……貴女がソガワ嬢?」

 黒いシルクハット――というよりは、いつぞやの日本の総理大臣が被っていた、どこかのマフィアのお偉いさんが被っているような帽子――を片手に、同じ黒の手袋を外している男性の姿が見える。
 フロックコートも黒、白シャツの襟元には、黒の小ぶりの蝶ネクタイも垣間見えている。

(何てこと!)

 歩きながら、私の目は徐々に見開かれていった。
 何故なら私が語学の勉強と趣味を兼ねて、こよなく愛して視聴した某英国テレビ局のドラマの名探偵に、彼がそっくりだったからだ。
 いや、もちろん多少は目の前の青年の方が若い。
 むしろ年齢的には、別のテレビ局の現代版にアレンジされたドラマの名探偵に近いかもしれない。
 ただこの時初めて、世の乙女達が「萌え」とか「推し」とか盛り上がる気持ちが、ほんのちょっとながら、理解出来てしまった。
 うわぁ……とこぼしかけた声をなんとか喉の奥に戻しつつ、私は慌ててカーテシーの礼をとった。

「レイナ・ソガワと申します。キヴェカス卿におかれましては、大変にお忙しい時期と耳にしておりますが、お時間を捻出いただき、深謝申し上げます」
「……公爵閣下に言われては、無下にも出来ないからな」

 神経質そうな視線やら声やらも、まさに某英国の名探偵。
 忙しいからか、なるほどあまり本意ではないだろうところが窺い知れる。

「裁判の休廷中に抜けてきただけだ。こっちが定例報告の書類、こっちがアンジェス国の商法だけを抜粋した法書の写本。それといくつか課題を。明日またこの時間に来るから、それまでに貴女なりの意見を纏めて、提出してくれ。質問があるなら、追加で空欄にでも書いておいてくれればいい」
「え、ええ、承知しました。定例報告書に関しましても、確かにお預かり致します」
「念を押しておくが、貴女なりの意見を書いてくれ。背伸びをして、公爵閣下に聞いたようなさかしらな意見を書かれても、こっちも時間の無駄になる。最初から、女にそんな高尚な意見など期待していない。勉強にもならんだろう」
「…………は?」
「失礼する。では明日また、この時間に」

 アンジェス国の名探偵サマは言いたいことだけを言うとこちらの返事を聞くこともなく、さっと身を翻して去って行ってしまった。

「な……っ」

 半瞬の間を置いて、公爵邸の玄関ホールに、私の絶叫がこだまする。

「何なの、あのオトコは――っ!!」

 うん、訂正。名探偵という人種は、リアルにいたら絶対にオトモダチにもなりたくないタイプだった!! 普通に挨拶も出来ないのか!
 私の憧れを返して――!!


 私はそんなに気の短い方じゃないと思っていたけれど、ここ数日は、ちょっと自分の中で新たな扉を開いているのかもしれないと認識が変化していた。

「貴女の意見を書けと言ったはずだが」
さかしらな意見を無理に書くなとも言ったはずだが、覚えていられないほど頭が悪いのか」

 次の日も、その次の日も、ヤンネ・キヴェカスにそんなことを言われ、ついに私はセルヴァンの許可を貰って、溢れ出る怒りをぶつけるべく庭の大木に枕を破れるまで叩きつけてしまった。

「むーかーつーくーっ!!」

 破れてひらひらと飛び散る羽毛を、茫然とセルヴァンが見つめている。
 ヤンネとのやり取りが何の勉強にもなっていないことは、セルヴァンの目にすら明らかなはずだ。

「レイナ様……その、旦那様には……」
「いいのよ、言わなくて! よかれと思って紹介してくださったんだろうから、私が実力でギャフンと言わせてやればいいのよっ!」

 ギャフンって何だ……と思っただろうに、プロフェッショナルな家令サマはスルーしてくれている。

「いえ……ですがヤンネ様は、恐らくレイナ様が書かれた課題を、まともに読んでいらっしゃらないのではないかと……頭から、旦那様の入れ知恵と決めてかかっておられるようですし……」
「でしょうね。だって私が追加の質問欄に、他国の言語で関係ないこと書き並べたって、何も言わないんだもの。読んでないんでしょうよ」

 羽毛がなくなってペラペラになった枕を手に私が息を荒くしていると、セルヴァンが驚いたように目をみはった。

「分かっておいでなら、何故そのままに……せめてキチンと向き合ってくださるようにということだけでも、旦那様に……」
「ああいう手合いはね、たとえ一言にせよエドヴァルド様が何か言ったら、私が媚びて自分をたしなめるように告げ口したんだとしか思わないわよ! だからセルヴァンも、一切の暴露禁止! 了解!?」
「ですがレイナ様、ここ二日ほどまた、夜お休みになっていらっしゃいませんよね? わたくしもヨンナも、レイナ様がお一人で課題をこなされることこそが大事だと仰られるものですから、何も言わずにおりましたが……」

 それでもさすがに、見ていられなくなってきたらしい。一度徹夜をして、エドヴァルドを心配させた前科があるだけに、尚更だ。
 珍しく食い下がってきたセルヴァンに、私もビシッと指を一本立てた。

「明日一日待って! 明日ここに来た時も彼があのままだったら、私にもちゃんと考えがあるから! それを実行するつもりだから!」

 何より明後日はもう、ヤンネが税の定例報告という本来の目的のために、エドヴァルドに会うのである。そのうえさっきバーレント領から先触れがあり、木綿の紙や生地、コサージュ諸々の初回見本が出来たから持参するとの話もあったらしく、明後日、ヤンネの定例報告と被らせる形で、エドヴァルドとの時間をセルヴァンが捻出したのだ。
 なら今、順調だなんだと、どう誤魔化していようと、明後日には全部バレる。
 いずれにせよ明日がタイムリミットなのだ。

「どうせ、明日だって何にも変わらないわよ。いいのよ、名探偵がそのつもりなら、私はただ一人その名探偵を出し抜いたあの女ジ・ウーマンになってやるのよっ!!」

 後日、私がストレスフルな状態におちいった時は、黙って枕を持たせて庭へ連れ出してやれ――と〝たか〟と使用人達の間で暗黙の了解が、この時に出来上がったのだと聞いた。
 同時に、枕をズタボロにした挙句、聞きなれない名称を叫んで妙な気炎をあげる私への同情と、追い込んだヤンネへの反感も急上昇していたらしい。
 うん、まぁ……熱狂的推理小説フリークの発言は、きっとシャルリーヌにだって分からないだろう。

「ヤンネ様が、あのように女性を蔑ろにされるかただとは、私共も思いもしませんでした。今や当家侍女達の評価は限りなくゼロとなっておりますし、侍女間の繋がりを通して、としても最低の評価が各公爵家を席捲しております」

 庭先を羽毛だらけにしたことを、セルヴァンだけではなくヨンナにも謝ったところ、かえってコワイ言葉を返されてしまった。
 ……何だろう。明後日私がやろうとしていることよりも、遥かに悪辣な気がする。

「レイナ様。本当に、あと一日だけですからね。それ以上は、セルヴァンと二人、問答無用で旦那様に全て報告させていただきますから」

 私は反論出来ず、乾いた笑いを返すことしか出来なかった。


 そうして案の定――セルヴァンやヨンナの、一縷いちるの望みも虚しく。

「見栄を張るのもいい加減にしたらどうだ。本気で人に教えを乞うつもりがあるのか。明日、定例報告よりも少し早めに行って時間を取るつもりではあるが、それでも態度が変わらんようなら、そのまま公爵閣下にありのまま報告するぞ」

 私にしたらほぼ予想の通りに、やって来たヤンネは吐き捨てるようにそれだけを言うと、クルリときびすを返して高等法院へと戻って行ってしまった。
 どうして、私が本気で書いてると露ほども思わないのか。いっそ天晴れなほどのこじれぶりだ。

「女嫌い? エドヴァルド様みたいに、肉食令嬢絡みでイヤなことでもあったとか? それにしたって了見狭すぎる……よくあれで裁判出来てるよね。女性が原告だったら引き受けないとか、被告にいたとしたら、実は一言もその主張を聞いていないとか?」

 それ以前に、私を見下せばエドヴァルドをも同時にけなすことになると、どうして理解出来ないのだろうか。

「レイナ様……」
「セルヴァン、ヨンナ。そんなワケで今日も書庫に引きこもるから、エドヴァルド様へのフォローよろしくね。約束した通りに、今日で最後にするから」

 実はここ数日、エドヴァルドとは夕食も朝食も共にしていない。
 ヤンネからの課題が難しいと言って、ずっと書庫に引きこもっているのだ。
 後日私が、エドヴァルドからの助言を得ていないと、使用人一同に証言してもらうためでもある。
 初日に苦笑しながら「だって、課題をエドヴァルド様が手伝ったんじゃないかって疑われているんですよ」と、若干の本音を交えて言えば「ああ、貴女のことをよく知らなければ、そうなるか……」と少し納得したように呟いて、引き下がってくれたのだ。
 セルヴァンなりヨンナなりが、根を詰め過ぎないように見てくれていると、エドヴァルドは思っている。

「本当に、大丈夫なんですか……?」

 気遣わしげなヨンナに、微笑わらって片手を振っておく。

「大丈夫、大丈夫。私が居た国の統計でも、集中力が切れたり、おかしな幻覚が見えたりするのは四日目からだって言われているから。ちょうどタイムリミット。ね?」
「そんな限界に挑戦する必要がそもそもないと言いたいのですが」

 セルヴァンも渋面を作っている。

「まぁ、ここまできたら、付き合ってほしいな。怒られるなら、私一人で怒られるから。意地張っててどうしようもなかったって、皆は言ってくれてればいいから」

 事実である。むしろ意地しか残ってない。
 ヤンネ一人納得させられないで、いざ現実にクーデターが起きてエドヴァルドが王宮にいられなくなった時、イデオン公爵領の各領主達が手を貸してくれるなんて、どうして思えるのか。
 法律顧問だというのなら尚更、コトが起きた時にエドヴァルドの正当性を主張してもらわねばならない人物であるはずだ。

(大丈夫。県主催の英語暗唱大会に出た時を思いだせばいい。これくらいなら、覚えられる)

 自分にそう言い聞かせながら、私はこの日も書庫にこもったのだ。


 そしていよいよ、最終日。

「何のために法書を貸していると思っているんだ! 少しは自分で努力しようとは思わないのか!」

 予告通りに、エドヴァルドと会う時間よりも一時間早くやって来たヤンネ・キヴェカスは、団欒の間ホワイエで私が今日出した課題の一問目に一瞥をくれただけだった。
 昨日、一昨日と態度は全く同じだ。

「ドレスと宝石にしか興味がないような貴族令嬢でも、多少は見込みがありそうな話を聞いたからこそ、わざわざ引き受けてやったのに」
「ヤンネ様! いくらヤンネ様と言えど、それ以上は……!!」

 どうやら私よりも、セルヴァンが先にキレかかっているのだけれど、私も、ここは譲れない。セルヴァンを抑えなくては。

「家令が私に意見をするな!!」

 けれど、そう続いたヤンネの言葉に、今度こそ私の中で何かがぶち切れた。

「アナタこそ一体何様なのよ――っ!!」

 息を一つ吸い込んで、敬語もすっ飛ばしてそう叫ぶと、気付けば私は立ち上がっていて、テーブルの上にあった六百ページ強の法書を引っ掴んで、ヤンネの顔面に思い切り投げつけていた。

「……っ!?」
「レイナ様!?」


 この時代の本は羊皮紙が中心である以上、しわがよりやすく、それを防ぐため重さのある表紙がついている。さらに金属の留め金で綴じられているとなっては――それなりに、凶器に化ける。
 セルヴァンの顔色が真っ青になっているけど、もう手遅れだ。
 背中のネコは、きっともう戻りません。

「女がみんな、ドレスと宝石と噂話にしか興味がないとでも!? どこの耄碌もうろくした老人みたいな固定観念で生きてるのよ!!」
「なっ……」

 ヤンネの額に傷がついてうっすら血も滲んでいるように見えるけど、そんな程度で死にはしない。
 訴えたければ、後でいくらでも受けて立つ。

「いーい!? その偏見まみれのアタマでもよーく理解出来るように、今から私が話すコト、一言一句漏れなくそこで聞いてなさい!! 途中で何を言おうと止めるつもりはないからね!? 最後まで黙ってそこに座ってなさいっ!!」

 何の話だとも、ちょっと待てだとも、もう反論は聞き入れません。
 目を見開いたままのヤンネに向かって、私は法書に書かれている内容を、商法第一条第一項からつらつらと暗誦しはじめた。
 こっちは特許権の話が出た時から少しずつ法書には目を通していたし、何ならここ三日、完徹して暗記に徹したのよ!
 全部喋っていたら真夜中になる? 知ったコトじゃありません。
 ――多分、徹夜ハイになっていたんだろうなぁ……とは、あとでさんざん叱られてから思ったことだ。
 四日目からは小人が見えるからやめておけと高校の先生には言われていたから、三日でやめておいた。
 馬鹿正直にそんなコトを言ったら、更にエドヴァルドの逆鱗に触れたっぽかったんだけど。
 とにかくこの時は、ヤンネを睨みつけたまま、延々と商法の法書を暗誦していたのだ。

「――ナ、レイナ、そこまでだ!」

 どのあたりかで、エドヴァルドらしき声も聞こえたけど、何なら後ろから両脇を抱えこまれた気もしたけど、そんなことはもうどうでもよくなっていた。

「今頃、何!? 途中で何を言おうと止めないって言ったよね!? 最後まで聞けとも言ったよね!? えーっと、今どこまで……?」
「落ち着け、レイナ! ヤンネではない、私だ! 商法を暗記したのは分かったから、もういい! 全部喋るつもりか、日が変わるぞ!?」
「だから何!? それくらいしないと、このおバカさんの固定観念、破壊出来ないでしょ!? 朝までだって喋ってやるわよ! 三日徹夜したんだから、四日だって変わらないもの!」
「何……?」

 一番言ってはいけないコトを言った――とばかりに、セルヴァンとヨンナが顔色を失くしている。
 もちろん、寝不足ハイテンション状態の私は、全く気付いていない。
 敬語さえ吹っ飛んでいるのだから、当たり前だった。

「セルヴァン、ヨンナ……どういうことだ」
「「だ、旦那様……」」

 団欒の間ホワイエを一瞬にしてブリザードが吹きすさぶ間も、私はまだつらつらと、続きをひたすら暗誦していた。


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