21 / 803
2巻
2-3
しおりを挟む
「遠路ご苦労様でございました、ハルヴァラ伯爵夫人。私、レイナ・ソガワと申しまして、当代〝扉の守護者〟マナ・ソガワの姉にございます。今は、エドヴァルド様からひとかたならぬご厚情を賜りまして、この邸宅において内向きのことを任せられ、二階の一室を頂戴しております」
「――――」
すると私の言葉を聞いたイリナ・ハルヴァラ伯爵夫人の瞳が揺れるのと同時に、背後に立つコヴァネン子爵の顔が、忌々しげに歪められた。
(おや)
オルセン侯爵と違って、私の言葉の意味は通じたみたいだ。
だけど同時に、ここに来るまで何かを企んでもいたことが分かる表情だった。
主に、後ろの子爵様が。
「どうぞ団欒の間へご案内致しますわ。書類はそちらでお預かりいたします」
「……ハッ、女が何を言うか」
そして表情のままの声が、玄関ホールに響き渡った。
――どうやらこちらの方は、残念なタイプのオジサンだったようです。
はぁ。と、私は聞こえるように溜息を溢した。
「本来でしたら、付き添いにすぎない方にこのようなことを申し上げる必要もございませんのですけれど……。私はエドヴァルド様から、不在の間の代理を務めるよう申しつかっております。彼の方が『内向きを任せる』と仰ってくださったのは、そういう意味も含んでおりましてよ?」
せいぜい、聞こえるような溜息をついて「付き添いのオジサン」を見れば、想像通りにプライドを刺激されたらしく、顔を赤くして身体を震わせていた。
なんだかハルヴァラ伯爵夫人が、目を見開いて私を凝視してますけど……口答えをしているの、それほど意外ですか?
なら、ダメ押しで。
「私の国では、男女関係なく政治経済について学べる環境がございますから、定例報告の書類であれば、問題なく拝見させていただけますわ。恐らくはそういったところも、エドヴァルド様に厚遇いただいている一因ではと思っておりますけれど」
「この……っ!」
そしてコヴァネン子爵の導火線は、想像以上に短かった。
前にいた娘と孫を突き飛ばすようにして、こちらへと突進してきたのだ。
「女は黙って男の言うことを聞いておればいいのだ! 生意気に公務に口なぞ出すでないわ! だいたい、子爵であるこのワシに何たる口の聞き様か! 礼儀も知らんと言うなら、躾け直してやるわ‼」
「お父様‼ おやめください……っ」
「母上⁉」
ハルヴァラ伯爵夫人が突き飛ばされるのを見たミカ君が悲鳴を上げる。
それにもかかわらずコヴァネン子爵は、おかまいなしに私の方に大股に近付いて来て、右手を大きく振り上げる。
平手打ちでもするつもりだろうか。
けれどその手は予想した通りに、最後まで振り下ろされることはなかった。
「……この人、オルセン侯爵より小物かも」
「あのなぁ、お嬢さん。今度からバカを挑発するなら、ひと声かけてくれるか。心臓に悪いわ。俺じゃなく、主にお館様の」
きっとセルヴァンが取り押さえてくれるだろうと思っていたのに、子爵の右手を捻り上げていたのがファルコだったのは、ちょっと予想外だったけれど。
あの……どこから現れたの、今?
深く詮索するのも怖いから聞かないまま、ファルコに向き直る。
「ごめんなさい、ファルコ。ちょっとこの人、この後話を聞くのに邪魔だったから、セルヴァンにつまみ出してもらおうと思ってたの。だから声かけとか、考えてなかった」
「それは申し訳ございませんでした、レイナ様。私としたことが、気の利かないことをしてしまいました。たまにはファルコにも、仕事をさせてやったほうがいいかと思いまして」
しれっと答える私とセルヴァンに、ファルコが呆れたような視線を向ける。
「勘弁しろよ、ホント……で? このオッサン、マジでつまみ出すのか?」
離せだの、無礼者だのと、喚き散らしている子爵サマを邸宅内の全員が無視した状態だ。
ハルヴァラ伯爵夫人は床に座り込んだ状態で、茫然とそんな私たちを見比べている。
これ、アレだよね……コヴァネン子爵の発言と、なんの躊躇いもなくこちらに手を上げようとした辺り、彼女が家庭内DVを受けて逆らう気力を失くしちゃってるとか、そういった系だよね?
うーん……と、私はこめかみを揉み解した。
「ただ、館の外に放り出してもうるさそうだしね……とりあえず夫人から書類を預かって、話が終わるまでどこかに閉じ込めておいてもらえないかな? その後、公爵邸で暴力を振るったってことで、警察? 憲兵? そういったところに引き渡すとかでどうかな、セルヴァン?」
「そうですね……このような方ですが一応子爵位をお持ちですから、ちょっとそういった機関の腰は重いかもしれません。……今日はいったん『南の館』にお招きして、旦那様に宰相としての判断を仰がれたほうが宜しいのではないでしょうか」
一応って。
ああでも、貴族を裁くのは、貴族ということか。
確かに私は貴族社会に馴染みがない。そういったことなら、エドヴァルドに任せたほうがいいだろう。
「――いやいや、セルヴァン! 一見真っ当なこと言ってるけど、お嬢さんが殴られそうになったって言ったらお館様が激怒するのが目に見えてるぜ? 余計に重い処分になるんじゃねぇのか?」
「でしょうね。そもそも、どうして甘くする必要があります?」
「おお……密かにお怒りかよ、家令サマ……」
一人納得していたせいで、ファルコとセルヴァンがそんなことを呟いていたのには気が付かなかった。
「あ……そうそう」
ついでに軽い調子で夫人とミカ君の後ろにいた護衛を指さす。
「そこの彼も一緒に放り出しておいてくれる? 護衛対象を蔑むような、そんな使えない護衛、邪魔でしかないから」
「……え?」
「なっ⁉」
茫然としたままのハルヴァラ伯爵夫人を置き去りに、護衛の青年は、心外だとばかりに目を瞠っていた。
どうやら自分では気が付いていなかったようなので、仕方なく理由を説明しておく。
「アナタは公爵家の護衛の動きを、ただ見ていた。あれがもし、子爵を止めるためじゃなく、ハルヴァラ伯爵夫人や息子のミカ君を狙うつもりだったら、間に合ってないでしょ?」
ファルコを見ながら言い切ると、護衛の青年は言葉に詰まっている。
「それに、ただの付き添いが、仮にも公爵家当主に代わって応対をしている人間に手を上げようとしているのを止めもしない。夫人が突き飛ばされたとて、助け起こしにもいかない。そんな木偶の坊、護衛と呼ぶのもおこがましいわ。だから一緒に出ていけって話。ご理解いただけた?」
唇を噛みしめて、両の拳を悔しげに握りしめている青年に、ファルコは「さっすが、お嬢さん」と、軽く口笛を吹いた。
もはやそれ以上言葉を費やす気もない。
私は青年から視線を外して、いまだ茫然と床にしゃがみこんだままこちらを見上げているハルヴァラ伯爵夫人に視線を向けた。
「大丈夫ですか、ハルヴァラ伯爵夫人? 改めて団欒の間にご案内しますので――」
「いやぁ、実に素晴らしい! 護衛の本質をキチンと理解している! いつの間に公爵邸に、このように優秀なご令嬢がおいでになられたのか!」
私が、ハルヴァラ伯爵夫人に手を貸そうとしたところで、玄関ホール全体に響き渡る程の大声が、私の鼓膜をビリビリと震わせた。
「⁉」
声大きいっ! 何っ⁉
思わず顔を顰めながら声のした入口に視線を投げれば、そこにはコスプレのお約束のような軍服に身を包んだ、背の高い、鍛えまくったと思しき体格の男性が、腕組みをして、仁王立ちをしていた。
「そこのバカ二人はこちらで預かろう! 公爵領の治安を預かる者としては、とても捨ておけぬからな!」
えーっと……?
今度は誰ですか?
「ベルセリウス将軍! これは『先触れ』とは言わないと、毎年毎年、何度言わせれば……!」
誰も状況を把握出来ずに立ちすくんでいる中、仁王立ちの偉丈夫の後ろから息を切らせた青年が飛び込んでくる。
「将軍……?」
突然の闖入者に小首を傾げた私に、セルヴァンとファルコがそっと耳打ちした。
「レイナ様、あの方はベルセリウス侯爵領領主オルヴォ・ベルセリウス様と仰います。公爵領の領土防衛軍の長に立つお方なので、皆が敬意をこめて『将軍』と」
「根っからの軍人気質と言うか……フットワーク軽すぎんだよ、侯爵サマにしちゃ」
つまり、イデオン公爵領に三人いるという侯爵の内の一人か。
そういえば、領地経営はせずギーレン国との国境近くに本陣を置いて、公爵領内の治安を担って、一軍を率いている侯爵がいたと聞いたような。
……で、確か軍備の数値報告を副長がやっている間に、自軍から引っ張ってきた若手を〝鷹の眼〟と手合わせさせて、ちゃんと鍛えているかどうかを確かめさせるんだとも聞いたような。
そんなことを思い出していると、当のベルセリウス将軍が勢いよく顔をファルコに向けた。
「よお、ファルコ! 今年も来たぞ! 新人も連れてきているから、手合わせしてやってくれ! もちろん私もな!」
「新人を見るのはいいけどな! アンタはそろそろ、もうイイだろうがよ!」
「何を言う! 近頃、遠慮して相手をしてくれぬ者のほうが多いのだ! ここは私が全力を出せる貴重な場だ!」
「出すな! 何度庭を破壊すりゃ気が済むんだよ!」
なんだかファルコが気安いなー……と思っていると、なんと同い年とのこと。
一応相手が「侯爵」だとファルコも時々は思い出すらしいけど、実力が互角に近いらしく、張り合っている内に結局どんどんと敬語が崩れていくんだとか。
まあ方向性の違う人間同士、友情が成り立つことってままあるしね。
確かファルコはエドヴァルドより六~七歳年上と聞いた気がするけど……じゃあ、あの将軍サマもそういうことになるのか。
無駄に迫力があって、もっと年上に見える……とは言えない。
そんな風にじっと見つめていたせいか、ベルセリウス将軍の顔が今度は勢いよくこちらへと向けられた。
「それでファルコ、そちらの素晴らしく機転の利くご令嬢は、どなただろう⁉ 高位の貴族令嬢の中に、これほどの逸材はいなかったと記憶しているが!」
「ちょっ……俺に紹介させんのかよ!」
「うむ! 随分とおまえも信頼を受けているようではないか! 共通の知人ということで、話をするのがよかろうよ!」
「マジか……」
がっくりとファルコが項垂れる。
うん、一般的な貴族の挨拶の仕方じゃないのはファルコでも分かるようだ。
それにしても嵐のごとく話が進んでいってしまう。
「あの……とりあえずハルヴァラ伯爵夫人とご子息に、団欒の間で休んでいただいてからのお話でも構いません……?」
恐る恐る私が片手を上げて提案すれば、その場にいた皆が我に返ったようだった。
「おお、そうであった! 伯爵夫人の方が先にいらしていたのに、大変に失礼をした! 今日は『明日の昼前に改めて軍備の年間予算の報告書を持って行く』との先触れに来ただけなのだ! 詫びと言ってはなんだが、さっきも言った通りにそこのバカ二人はいったん軍で引き取る! お館様が処分をお決めになり次第、言ってくれれば引き渡すと伝えてくれ!」
「……ああ……はい……」
とりあえずベルセリウス将軍がひたすら大声で話を進めるため、私もほとんど頷くことしか出来ないでいる。
「ですから、これは一般的な『先触れ』の作法とは程遠いと、何度も……!」
片手で額を覆う副長? さんが、なんだか痛々しい。
うん、まぁ、侯爵閣下が突撃してきて自分で『先触れ』とは……普通、言わない。
あれ、ちょっとどこかの仕立て屋兼デザイナー氏を彷彿とさせるような?
「伯爵夫人も心配めされるな! コヤツらを軍で引き取る代わりに、領地にお戻りの際は我が軍からキチンとした護衛を付けるのでな!」
「あ……」
ベルセリウス将軍の大声に怯えていただろう、ハルヴァラ伯爵夫人が、わずかに目を瞠る。
そんな夫人を、将軍は一転して優しい目で見やった。
「ご夫君には我々も生前何かと世話になった。このくらいは、いつでもさせてもらうとも」
「……っ」
「ではご令嬢! 明日また改めて‼」
「はいっ⁉」
いきなり現れた偉丈夫の将軍サマは、ファルコの手からコヴァネン子爵を引ったくるように奪い、護衛の青年の首ねっこをネコの如く摘みあげると、結局ロクな挨拶もしないまま、大股に公爵邸から立ち去って行ってしまった。
「すみません、将軍が本当にすみません! ああ、あのっ、今、北と南の館の空き状況は、どのように……?」
ペコペコと頭を下げる副長? さんが、やっぱりとても痛々しい。
『北の館』はオルセン侯爵一家が出立したばかりなので、まだ散らかっているかもしれないと伝えると「では我々は南の館をお借りします! もちろん、先ほどの二人もそこで監視を付けてお預かりしますので!」と、敬礼と共に言い残して、彼も走り去っていった。
「ええっと……どのみちあの二人、南の館に軟禁しようかと言ってたから、いいのかな……」
脳筋、という言葉が頭の中をぐるぐると回っていたけど、口にはしない。
多分、適当な翻訳がないような気がする。
そして気付けばハルヴァラ伯爵夫人を床に座らせてしまったままだ。
私は、恐る恐る夫人に声をかけた。
「あの……何か、すみません……?」
「えっ⁉」
実父をあちらこちらから「バカ」呼ばわりされた上に、最後は拉致同然に引っ立てられていってしまっては、私以上に現実が呑み込めないでいるに違いない。
謝罪のつもりで声をかけたものの、夫人の反応は鈍かった。
「いえ……その……むしろ私以外の方にまで手を上げるだなんて思ってもみなくて……こちらこそ申し訳なくて……」
「!」
うわ。
私もそうだけど、その場にいた全員が夫人の言葉を聞いて、こめかみに青筋を浮かべたような気がした。
その言い方は、過去に手を上げられたことがあるということの裏返しに他ならない。
親が子供を力ずくで従わせようとしている、ちょっとした――いや、ちょっとどころじゃない「家庭内暴力」案件。
自分が虐げられていると、夫人本人はどこまで理解しているのか。
あそこまでいくと、DVに加えてモラハラも乗っかっている。
ハルヴァラ伯爵領の特産品である白磁の話をしたいのは山々だけれど、それ以前に今の夫人をこのままにはしておけなかった。
仮に前向きな話がこの後まとまったところで、今のままだとあの子爵が高圧的な態度に出れば、夫人は逆らえずに権利や税収を全て言われるがまま渡してしまいかねない。
DVもモラハラも、行きつく先は洗脳と自分の意見を持つことの放棄だ。
白磁以前に夫人の話を聞いておかないと、夫人の感情が殻の内側に閉じ篭ってしまうことはもちろん、間違いなくお家の乗っ取りを敢行される。
ハルヴァラ伯爵領には、アルノシュト伯爵領への対抗馬として白磁を発展させて、これから力を蓄えてもらわないとならないのに、そんなことを起こさせるわけにはいかない。
というか、そんな建前を並べ立てている場合じゃない。
「とんでもない!」
だから、明らかに卑屈になりかけているハルヴァラ伯爵夫人を私は慌てて遮った。
膝をつき、彼女と視線を合わせて微笑みを作る。
「私が貴女と二人きりでお話がしたかったのです、ハルヴァラ伯爵夫人。ああ、いえ。息子さんは居てもらって大丈夫です。つまり、伯爵代理としての貴女とお話がしたかったということなんですけど」
「……伯爵代理……」
「旦那様が守って来られた土地を、貴女も守りたいと思っていらっしゃいますよね? そして土台をキチンと固めて、息子さんに繋いでいきたいと」
「……っ」
ゆっくりと言葉を紡ぐと、コヴァネン子爵が居た間は怯えた色しか見せていなかった夫人の瞳に、光がともった気がした。
「あちらでお話させていただけますか」
団欒の間を視線で示す私に、夫人は無言でコクリと頷いた。
❀ ❀ ❀
あれは、中学の先生だっただろうか。
ある日の放課後、委員会が終わった後で気分が悪くなった私は、保健室の住人になっていた。
「レナちゃん、委員会? あ、そう。私、お友達と約束あるから帰るねー」
最初から一緒に帰る気もないだろうに、委員会が始まる前に、私の顔色を見ることもなくそう言った舞菜は、いつのまにやらさっさと下校していた。
オトモダチとやらが取り巻きなのか彼氏なのかは知らない。
ただ、わざわざ「委員会」を強調して帰ったからには、ある程度遅くなるつもりで、帰ったら話を合わせろということなんだろう。
委員会ともなれば、多少帰りが遅かったところで、少なくとも両親はこちらには気を配らない。
深く考えたくなかった私は、眩暈と吐き気が収まるまで寝かせてもらうことにして、無理矢理目を閉じた。
日がかなり傾いて、さすがにそろそろ帰らないとなー……と、漠然と考えながら天井を見つめていた頃、様子を見に来た先生が言ったのだ。
「十河怜菜さん。あなたが受けているのは、立派な虐待、それもモラハラの一種ですよ」――と。
モラハラ、という単語を知らなかったわけじゃない。
なんとなく夫婦間や職場、嫁姑問題なんかでよく聞く言葉だと思っていたけれど、親子間でも存在するんだとか。
予想だにしていなかった言葉に目を瞬かせる私に、先生は続けて言った。
「自分は悪くないことを自覚しなさい。言われた言葉を受け流す術を身につけなさい。専門家に、言えないことは全てぶつけてしまいなさい。そうして可能なら――早めに家から独立してしまいなさい」
その先生は、臨床心理士の資格を持った方だった。
そうして私に、六年越しの家庭内叛乱のきっかけと、途中で心が折れないための光を与えてくれたのだ。
だから分かる。
今、目の前にいる未亡人はきっと――あの頃の、私だ。
「……貴女は何も悪くないんですよ、ハルヴァラ伯爵夫人」
団欒の間で向かい合わせに腰掛けたものの、俯いたままの夫人に、私はなるべく穏やかに声をかけた。
あの頃の先生のように、私の言葉も届くといいけれど。
「娘が父親に従うのは当然とか、そんな法はありません。理に適っていないところで『だからおまえはダメなんだ』とか言われて、真に受けるのもありえません。ああいう人は自分が優位に立ちたいだけなんですから、そもそも何をしようと、一生褒めてなんてくれないんですよ?」
顔をあげた夫人が、ヒュッ……と息を呑んだみたいだった。
どうして……と、小さく唇が動いているのが分かる。
ダメだな、と確信する。やっぱり典型的なモラハラ親父じゃないか、アレ。
「せめて子供が大きくなるまでは、自分だけが我慢をすれば……なんていうのも、もっての外ですからね? 案外、子供は親のそういう姿を見ていますよ。子供は子供で、自分が親に我慢をさせている……なんて苦しんだ上に、歪んで成長しちゃって将来の伴侶に同じようなことをしでかす可能性だってあるくらいですから。息子さんのためを思うなら余計に、今すぐその悪循環は断ち切ってください」
ね? と、私はハルヴァラ伯爵夫人の顔を覗き込んだ。
さっき、ずっとミカ君が不安そうな表情で周りの大人たちを見ているのを、ハルヴァラ伯爵領の関係者たちは、誰も気にかけていなかった。私とハルヴァラ伯爵夫人をチラチラ見比べていたから、ある程度は私の言っていることを理解しているんだろうに。
私は、扇なしの笑顔をミカ君に向けた。
このままいったら、ミカ君は将来負の連鎖に捕まってしまうかもしれない。
そんなモラハラ男の予備軍にしちゃダメだ、絶対。
「レイナ様……どうしてそこまで……」
どうしてそこまで分かるのか、と言いたいんだろう。
あまり薄気味悪く思われても困るので、なるべく明るい口調で話しかけるよう心掛ける。
「ああ、いえ別に、心が読める魔法使いとかじゃないですよ? 単に私が、それに近いことをされて育ってきた人間なんで、よく分かるってだけですから」
すると私の言葉に一瞬、団欒の間の空気が張り詰めたような気がした。
気のせいかな? と思いつつ、続きを聞きたそうなハルヴァラ伯爵夫人のために、とりあえずは言葉を紡ぐ。
「……私は、常に妹と比較されて、何をしても褒められなかったことがありました。四六時中、私だけが『おまえはダメだ』と言い続けられる。過干渉で進路は強要されるし、それに応えないと……殴られたり、怒鳴られたりはしませんでしたけど、厭味の集中砲火を浴びましたね。両親の価値観とセンスの範囲内でしか全てが許されず、挙句が『おまえのためを思って言っている』という言葉――おかげでほら、こんなに性格の拗れた女が出来上がってしまいました」
最後はちょっとおどけて深刻さを軽くしようとしてみたけれど、どうやらあまり効果はなかった様子で……ミカ君以外の、室内の全員が目を瞠って私を凝視していた。
慌ててさらに調子を軽くして言葉を続ける。
「ね、手を上げられていないだけで、境遇はよく似ているでしょう? 息子さんが私みたいに拗れない内に、あの子爵から離れる手段を考えたほうがいいですよ? 私に出来ることは、協力をしますから」
「レイナ様……」
申し訳ありません、とこぼしたハルヴァラ伯爵夫人の声は震えていた。
「私、お辛いことを貴女に言わせて――」
「いえいえ、気にしないでください。けして上っ面で同情とかしている訳じゃないですよ、って分かっていただきたかっただけの、いわば自己満足なので。それに私はもう、両親が望んだ進路からは外れてきちんと独立をしました。今はそこまで将来を悲観してはいませんから。そんな訳で、まずは定例報告書類、お預かりしますね」
悲観はしていないけど、不安はある……なんてことは、言わない。今のこの状態の夫人には、言わなくてもいいことだ。
夫人もようやく落ち着いてきたのか、おもむろに足元の鞄から書類の束を取り出すと、おずおずとそれを机の上に置いた。
「――――」
すると私の言葉を聞いたイリナ・ハルヴァラ伯爵夫人の瞳が揺れるのと同時に、背後に立つコヴァネン子爵の顔が、忌々しげに歪められた。
(おや)
オルセン侯爵と違って、私の言葉の意味は通じたみたいだ。
だけど同時に、ここに来るまで何かを企んでもいたことが分かる表情だった。
主に、後ろの子爵様が。
「どうぞ団欒の間へご案内致しますわ。書類はそちらでお預かりいたします」
「……ハッ、女が何を言うか」
そして表情のままの声が、玄関ホールに響き渡った。
――どうやらこちらの方は、残念なタイプのオジサンだったようです。
はぁ。と、私は聞こえるように溜息を溢した。
「本来でしたら、付き添いにすぎない方にこのようなことを申し上げる必要もございませんのですけれど……。私はエドヴァルド様から、不在の間の代理を務めるよう申しつかっております。彼の方が『内向きを任せる』と仰ってくださったのは、そういう意味も含んでおりましてよ?」
せいぜい、聞こえるような溜息をついて「付き添いのオジサン」を見れば、想像通りにプライドを刺激されたらしく、顔を赤くして身体を震わせていた。
なんだかハルヴァラ伯爵夫人が、目を見開いて私を凝視してますけど……口答えをしているの、それほど意外ですか?
なら、ダメ押しで。
「私の国では、男女関係なく政治経済について学べる環境がございますから、定例報告の書類であれば、問題なく拝見させていただけますわ。恐らくはそういったところも、エドヴァルド様に厚遇いただいている一因ではと思っておりますけれど」
「この……っ!」
そしてコヴァネン子爵の導火線は、想像以上に短かった。
前にいた娘と孫を突き飛ばすようにして、こちらへと突進してきたのだ。
「女は黙って男の言うことを聞いておればいいのだ! 生意気に公務に口なぞ出すでないわ! だいたい、子爵であるこのワシに何たる口の聞き様か! 礼儀も知らんと言うなら、躾け直してやるわ‼」
「お父様‼ おやめください……っ」
「母上⁉」
ハルヴァラ伯爵夫人が突き飛ばされるのを見たミカ君が悲鳴を上げる。
それにもかかわらずコヴァネン子爵は、おかまいなしに私の方に大股に近付いて来て、右手を大きく振り上げる。
平手打ちでもするつもりだろうか。
けれどその手は予想した通りに、最後まで振り下ろされることはなかった。
「……この人、オルセン侯爵より小物かも」
「あのなぁ、お嬢さん。今度からバカを挑発するなら、ひと声かけてくれるか。心臓に悪いわ。俺じゃなく、主にお館様の」
きっとセルヴァンが取り押さえてくれるだろうと思っていたのに、子爵の右手を捻り上げていたのがファルコだったのは、ちょっと予想外だったけれど。
あの……どこから現れたの、今?
深く詮索するのも怖いから聞かないまま、ファルコに向き直る。
「ごめんなさい、ファルコ。ちょっとこの人、この後話を聞くのに邪魔だったから、セルヴァンにつまみ出してもらおうと思ってたの。だから声かけとか、考えてなかった」
「それは申し訳ございませんでした、レイナ様。私としたことが、気の利かないことをしてしまいました。たまにはファルコにも、仕事をさせてやったほうがいいかと思いまして」
しれっと答える私とセルヴァンに、ファルコが呆れたような視線を向ける。
「勘弁しろよ、ホント……で? このオッサン、マジでつまみ出すのか?」
離せだの、無礼者だのと、喚き散らしている子爵サマを邸宅内の全員が無視した状態だ。
ハルヴァラ伯爵夫人は床に座り込んだ状態で、茫然とそんな私たちを見比べている。
これ、アレだよね……コヴァネン子爵の発言と、なんの躊躇いもなくこちらに手を上げようとした辺り、彼女が家庭内DVを受けて逆らう気力を失くしちゃってるとか、そういった系だよね?
うーん……と、私はこめかみを揉み解した。
「ただ、館の外に放り出してもうるさそうだしね……とりあえず夫人から書類を預かって、話が終わるまでどこかに閉じ込めておいてもらえないかな? その後、公爵邸で暴力を振るったってことで、警察? 憲兵? そういったところに引き渡すとかでどうかな、セルヴァン?」
「そうですね……このような方ですが一応子爵位をお持ちですから、ちょっとそういった機関の腰は重いかもしれません。……今日はいったん『南の館』にお招きして、旦那様に宰相としての判断を仰がれたほうが宜しいのではないでしょうか」
一応って。
ああでも、貴族を裁くのは、貴族ということか。
確かに私は貴族社会に馴染みがない。そういったことなら、エドヴァルドに任せたほうがいいだろう。
「――いやいや、セルヴァン! 一見真っ当なこと言ってるけど、お嬢さんが殴られそうになったって言ったらお館様が激怒するのが目に見えてるぜ? 余計に重い処分になるんじゃねぇのか?」
「でしょうね。そもそも、どうして甘くする必要があります?」
「おお……密かにお怒りかよ、家令サマ……」
一人納得していたせいで、ファルコとセルヴァンがそんなことを呟いていたのには気が付かなかった。
「あ……そうそう」
ついでに軽い調子で夫人とミカ君の後ろにいた護衛を指さす。
「そこの彼も一緒に放り出しておいてくれる? 護衛対象を蔑むような、そんな使えない護衛、邪魔でしかないから」
「……え?」
「なっ⁉」
茫然としたままのハルヴァラ伯爵夫人を置き去りに、護衛の青年は、心外だとばかりに目を瞠っていた。
どうやら自分では気が付いていなかったようなので、仕方なく理由を説明しておく。
「アナタは公爵家の護衛の動きを、ただ見ていた。あれがもし、子爵を止めるためじゃなく、ハルヴァラ伯爵夫人や息子のミカ君を狙うつもりだったら、間に合ってないでしょ?」
ファルコを見ながら言い切ると、護衛の青年は言葉に詰まっている。
「それに、ただの付き添いが、仮にも公爵家当主に代わって応対をしている人間に手を上げようとしているのを止めもしない。夫人が突き飛ばされたとて、助け起こしにもいかない。そんな木偶の坊、護衛と呼ぶのもおこがましいわ。だから一緒に出ていけって話。ご理解いただけた?」
唇を噛みしめて、両の拳を悔しげに握りしめている青年に、ファルコは「さっすが、お嬢さん」と、軽く口笛を吹いた。
もはやそれ以上言葉を費やす気もない。
私は青年から視線を外して、いまだ茫然と床にしゃがみこんだままこちらを見上げているハルヴァラ伯爵夫人に視線を向けた。
「大丈夫ですか、ハルヴァラ伯爵夫人? 改めて団欒の間にご案内しますので――」
「いやぁ、実に素晴らしい! 護衛の本質をキチンと理解している! いつの間に公爵邸に、このように優秀なご令嬢がおいでになられたのか!」
私が、ハルヴァラ伯爵夫人に手を貸そうとしたところで、玄関ホール全体に響き渡る程の大声が、私の鼓膜をビリビリと震わせた。
「⁉」
声大きいっ! 何っ⁉
思わず顔を顰めながら声のした入口に視線を投げれば、そこにはコスプレのお約束のような軍服に身を包んだ、背の高い、鍛えまくったと思しき体格の男性が、腕組みをして、仁王立ちをしていた。
「そこのバカ二人はこちらで預かろう! 公爵領の治安を預かる者としては、とても捨ておけぬからな!」
えーっと……?
今度は誰ですか?
「ベルセリウス将軍! これは『先触れ』とは言わないと、毎年毎年、何度言わせれば……!」
誰も状況を把握出来ずに立ちすくんでいる中、仁王立ちの偉丈夫の後ろから息を切らせた青年が飛び込んでくる。
「将軍……?」
突然の闖入者に小首を傾げた私に、セルヴァンとファルコがそっと耳打ちした。
「レイナ様、あの方はベルセリウス侯爵領領主オルヴォ・ベルセリウス様と仰います。公爵領の領土防衛軍の長に立つお方なので、皆が敬意をこめて『将軍』と」
「根っからの軍人気質と言うか……フットワーク軽すぎんだよ、侯爵サマにしちゃ」
つまり、イデオン公爵領に三人いるという侯爵の内の一人か。
そういえば、領地経営はせずギーレン国との国境近くに本陣を置いて、公爵領内の治安を担って、一軍を率いている侯爵がいたと聞いたような。
……で、確か軍備の数値報告を副長がやっている間に、自軍から引っ張ってきた若手を〝鷹の眼〟と手合わせさせて、ちゃんと鍛えているかどうかを確かめさせるんだとも聞いたような。
そんなことを思い出していると、当のベルセリウス将軍が勢いよく顔をファルコに向けた。
「よお、ファルコ! 今年も来たぞ! 新人も連れてきているから、手合わせしてやってくれ! もちろん私もな!」
「新人を見るのはいいけどな! アンタはそろそろ、もうイイだろうがよ!」
「何を言う! 近頃、遠慮して相手をしてくれぬ者のほうが多いのだ! ここは私が全力を出せる貴重な場だ!」
「出すな! 何度庭を破壊すりゃ気が済むんだよ!」
なんだかファルコが気安いなー……と思っていると、なんと同い年とのこと。
一応相手が「侯爵」だとファルコも時々は思い出すらしいけど、実力が互角に近いらしく、張り合っている内に結局どんどんと敬語が崩れていくんだとか。
まあ方向性の違う人間同士、友情が成り立つことってままあるしね。
確かファルコはエドヴァルドより六~七歳年上と聞いた気がするけど……じゃあ、あの将軍サマもそういうことになるのか。
無駄に迫力があって、もっと年上に見える……とは言えない。
そんな風にじっと見つめていたせいか、ベルセリウス将軍の顔が今度は勢いよくこちらへと向けられた。
「それでファルコ、そちらの素晴らしく機転の利くご令嬢は、どなただろう⁉ 高位の貴族令嬢の中に、これほどの逸材はいなかったと記憶しているが!」
「ちょっ……俺に紹介させんのかよ!」
「うむ! 随分とおまえも信頼を受けているようではないか! 共通の知人ということで、話をするのがよかろうよ!」
「マジか……」
がっくりとファルコが項垂れる。
うん、一般的な貴族の挨拶の仕方じゃないのはファルコでも分かるようだ。
それにしても嵐のごとく話が進んでいってしまう。
「あの……とりあえずハルヴァラ伯爵夫人とご子息に、団欒の間で休んでいただいてからのお話でも構いません……?」
恐る恐る私が片手を上げて提案すれば、その場にいた皆が我に返ったようだった。
「おお、そうであった! 伯爵夫人の方が先にいらしていたのに、大変に失礼をした! 今日は『明日の昼前に改めて軍備の年間予算の報告書を持って行く』との先触れに来ただけなのだ! 詫びと言ってはなんだが、さっきも言った通りにそこのバカ二人はいったん軍で引き取る! お館様が処分をお決めになり次第、言ってくれれば引き渡すと伝えてくれ!」
「……ああ……はい……」
とりあえずベルセリウス将軍がひたすら大声で話を進めるため、私もほとんど頷くことしか出来ないでいる。
「ですから、これは一般的な『先触れ』の作法とは程遠いと、何度も……!」
片手で額を覆う副長? さんが、なんだか痛々しい。
うん、まぁ、侯爵閣下が突撃してきて自分で『先触れ』とは……普通、言わない。
あれ、ちょっとどこかの仕立て屋兼デザイナー氏を彷彿とさせるような?
「伯爵夫人も心配めされるな! コヤツらを軍で引き取る代わりに、領地にお戻りの際は我が軍からキチンとした護衛を付けるのでな!」
「あ……」
ベルセリウス将軍の大声に怯えていただろう、ハルヴァラ伯爵夫人が、わずかに目を瞠る。
そんな夫人を、将軍は一転して優しい目で見やった。
「ご夫君には我々も生前何かと世話になった。このくらいは、いつでもさせてもらうとも」
「……っ」
「ではご令嬢! 明日また改めて‼」
「はいっ⁉」
いきなり現れた偉丈夫の将軍サマは、ファルコの手からコヴァネン子爵を引ったくるように奪い、護衛の青年の首ねっこをネコの如く摘みあげると、結局ロクな挨拶もしないまま、大股に公爵邸から立ち去って行ってしまった。
「すみません、将軍が本当にすみません! ああ、あのっ、今、北と南の館の空き状況は、どのように……?」
ペコペコと頭を下げる副長? さんが、やっぱりとても痛々しい。
『北の館』はオルセン侯爵一家が出立したばかりなので、まだ散らかっているかもしれないと伝えると「では我々は南の館をお借りします! もちろん、先ほどの二人もそこで監視を付けてお預かりしますので!」と、敬礼と共に言い残して、彼も走り去っていった。
「ええっと……どのみちあの二人、南の館に軟禁しようかと言ってたから、いいのかな……」
脳筋、という言葉が頭の中をぐるぐると回っていたけど、口にはしない。
多分、適当な翻訳がないような気がする。
そして気付けばハルヴァラ伯爵夫人を床に座らせてしまったままだ。
私は、恐る恐る夫人に声をかけた。
「あの……何か、すみません……?」
「えっ⁉」
実父をあちらこちらから「バカ」呼ばわりされた上に、最後は拉致同然に引っ立てられていってしまっては、私以上に現実が呑み込めないでいるに違いない。
謝罪のつもりで声をかけたものの、夫人の反応は鈍かった。
「いえ……その……むしろ私以外の方にまで手を上げるだなんて思ってもみなくて……こちらこそ申し訳なくて……」
「!」
うわ。
私もそうだけど、その場にいた全員が夫人の言葉を聞いて、こめかみに青筋を浮かべたような気がした。
その言い方は、過去に手を上げられたことがあるということの裏返しに他ならない。
親が子供を力ずくで従わせようとしている、ちょっとした――いや、ちょっとどころじゃない「家庭内暴力」案件。
自分が虐げられていると、夫人本人はどこまで理解しているのか。
あそこまでいくと、DVに加えてモラハラも乗っかっている。
ハルヴァラ伯爵領の特産品である白磁の話をしたいのは山々だけれど、それ以前に今の夫人をこのままにはしておけなかった。
仮に前向きな話がこの後まとまったところで、今のままだとあの子爵が高圧的な態度に出れば、夫人は逆らえずに権利や税収を全て言われるがまま渡してしまいかねない。
DVもモラハラも、行きつく先は洗脳と自分の意見を持つことの放棄だ。
白磁以前に夫人の話を聞いておかないと、夫人の感情が殻の内側に閉じ篭ってしまうことはもちろん、間違いなくお家の乗っ取りを敢行される。
ハルヴァラ伯爵領には、アルノシュト伯爵領への対抗馬として白磁を発展させて、これから力を蓄えてもらわないとならないのに、そんなことを起こさせるわけにはいかない。
というか、そんな建前を並べ立てている場合じゃない。
「とんでもない!」
だから、明らかに卑屈になりかけているハルヴァラ伯爵夫人を私は慌てて遮った。
膝をつき、彼女と視線を合わせて微笑みを作る。
「私が貴女と二人きりでお話がしたかったのです、ハルヴァラ伯爵夫人。ああ、いえ。息子さんは居てもらって大丈夫です。つまり、伯爵代理としての貴女とお話がしたかったということなんですけど」
「……伯爵代理……」
「旦那様が守って来られた土地を、貴女も守りたいと思っていらっしゃいますよね? そして土台をキチンと固めて、息子さんに繋いでいきたいと」
「……っ」
ゆっくりと言葉を紡ぐと、コヴァネン子爵が居た間は怯えた色しか見せていなかった夫人の瞳に、光がともった気がした。
「あちらでお話させていただけますか」
団欒の間を視線で示す私に、夫人は無言でコクリと頷いた。
❀ ❀ ❀
あれは、中学の先生だっただろうか。
ある日の放課後、委員会が終わった後で気分が悪くなった私は、保健室の住人になっていた。
「レナちゃん、委員会? あ、そう。私、お友達と約束あるから帰るねー」
最初から一緒に帰る気もないだろうに、委員会が始まる前に、私の顔色を見ることもなくそう言った舞菜は、いつのまにやらさっさと下校していた。
オトモダチとやらが取り巻きなのか彼氏なのかは知らない。
ただ、わざわざ「委員会」を強調して帰ったからには、ある程度遅くなるつもりで、帰ったら話を合わせろということなんだろう。
委員会ともなれば、多少帰りが遅かったところで、少なくとも両親はこちらには気を配らない。
深く考えたくなかった私は、眩暈と吐き気が収まるまで寝かせてもらうことにして、無理矢理目を閉じた。
日がかなり傾いて、さすがにそろそろ帰らないとなー……と、漠然と考えながら天井を見つめていた頃、様子を見に来た先生が言ったのだ。
「十河怜菜さん。あなたが受けているのは、立派な虐待、それもモラハラの一種ですよ」――と。
モラハラ、という単語を知らなかったわけじゃない。
なんとなく夫婦間や職場、嫁姑問題なんかでよく聞く言葉だと思っていたけれど、親子間でも存在するんだとか。
予想だにしていなかった言葉に目を瞬かせる私に、先生は続けて言った。
「自分は悪くないことを自覚しなさい。言われた言葉を受け流す術を身につけなさい。専門家に、言えないことは全てぶつけてしまいなさい。そうして可能なら――早めに家から独立してしまいなさい」
その先生は、臨床心理士の資格を持った方だった。
そうして私に、六年越しの家庭内叛乱のきっかけと、途中で心が折れないための光を与えてくれたのだ。
だから分かる。
今、目の前にいる未亡人はきっと――あの頃の、私だ。
「……貴女は何も悪くないんですよ、ハルヴァラ伯爵夫人」
団欒の間で向かい合わせに腰掛けたものの、俯いたままの夫人に、私はなるべく穏やかに声をかけた。
あの頃の先生のように、私の言葉も届くといいけれど。
「娘が父親に従うのは当然とか、そんな法はありません。理に適っていないところで『だからおまえはダメなんだ』とか言われて、真に受けるのもありえません。ああいう人は自分が優位に立ちたいだけなんですから、そもそも何をしようと、一生褒めてなんてくれないんですよ?」
顔をあげた夫人が、ヒュッ……と息を呑んだみたいだった。
どうして……と、小さく唇が動いているのが分かる。
ダメだな、と確信する。やっぱり典型的なモラハラ親父じゃないか、アレ。
「せめて子供が大きくなるまでは、自分だけが我慢をすれば……なんていうのも、もっての外ですからね? 案外、子供は親のそういう姿を見ていますよ。子供は子供で、自分が親に我慢をさせている……なんて苦しんだ上に、歪んで成長しちゃって将来の伴侶に同じようなことをしでかす可能性だってあるくらいですから。息子さんのためを思うなら余計に、今すぐその悪循環は断ち切ってください」
ね? と、私はハルヴァラ伯爵夫人の顔を覗き込んだ。
さっき、ずっとミカ君が不安そうな表情で周りの大人たちを見ているのを、ハルヴァラ伯爵領の関係者たちは、誰も気にかけていなかった。私とハルヴァラ伯爵夫人をチラチラ見比べていたから、ある程度は私の言っていることを理解しているんだろうに。
私は、扇なしの笑顔をミカ君に向けた。
このままいったら、ミカ君は将来負の連鎖に捕まってしまうかもしれない。
そんなモラハラ男の予備軍にしちゃダメだ、絶対。
「レイナ様……どうしてそこまで……」
どうしてそこまで分かるのか、と言いたいんだろう。
あまり薄気味悪く思われても困るので、なるべく明るい口調で話しかけるよう心掛ける。
「ああ、いえ別に、心が読める魔法使いとかじゃないですよ? 単に私が、それに近いことをされて育ってきた人間なんで、よく分かるってだけですから」
すると私の言葉に一瞬、団欒の間の空気が張り詰めたような気がした。
気のせいかな? と思いつつ、続きを聞きたそうなハルヴァラ伯爵夫人のために、とりあえずは言葉を紡ぐ。
「……私は、常に妹と比較されて、何をしても褒められなかったことがありました。四六時中、私だけが『おまえはダメだ』と言い続けられる。過干渉で進路は強要されるし、それに応えないと……殴られたり、怒鳴られたりはしませんでしたけど、厭味の集中砲火を浴びましたね。両親の価値観とセンスの範囲内でしか全てが許されず、挙句が『おまえのためを思って言っている』という言葉――おかげでほら、こんなに性格の拗れた女が出来上がってしまいました」
最後はちょっとおどけて深刻さを軽くしようとしてみたけれど、どうやらあまり効果はなかった様子で……ミカ君以外の、室内の全員が目を瞠って私を凝視していた。
慌ててさらに調子を軽くして言葉を続ける。
「ね、手を上げられていないだけで、境遇はよく似ているでしょう? 息子さんが私みたいに拗れない内に、あの子爵から離れる手段を考えたほうがいいですよ? 私に出来ることは、協力をしますから」
「レイナ様……」
申し訳ありません、とこぼしたハルヴァラ伯爵夫人の声は震えていた。
「私、お辛いことを貴女に言わせて――」
「いえいえ、気にしないでください。けして上っ面で同情とかしている訳じゃないですよ、って分かっていただきたかっただけの、いわば自己満足なので。それに私はもう、両親が望んだ進路からは外れてきちんと独立をしました。今はそこまで将来を悲観してはいませんから。そんな訳で、まずは定例報告書類、お預かりしますね」
悲観はしていないけど、不安はある……なんてことは、言わない。今のこの状態の夫人には、言わなくてもいいことだ。
夫人もようやく落ち着いてきたのか、おもむろに足元の鞄から書類の束を取り出すと、おずおずとそれを机の上に置いた。
980
685 忘れじの膝枕 とも連動!
書籍刊行記念 書き下ろし番外編小説「森のピクニック」は下記ページ バックナンバー2022年6月欄に掲載中!
2巻刊行記念「オムレツ狂騒曲」は2023年4月のバックナンバーに、3巻刊行記念「星の影響-コクリュシュ-」は2024年3月のバックナンバーに掲載中です!
そして4巻刊行記念「月と白い鳥」はコミックス第1巻と連動!
https://www.regina-books.com/extra
今回から見方が変わりました。何か一話、アルファポリス作品をレンタル頂くことで全てご覧いただけますので宜しくお願いしますm(_ _)m
書籍刊行記念 書き下ろし番外編小説「森のピクニック」は下記ページ バックナンバー2022年6月欄に掲載中!
2巻刊行記念「オムレツ狂騒曲」は2023年4月のバックナンバーに、3巻刊行記念「星の影響-コクリュシュ-」は2024年3月のバックナンバーに掲載中です!
そして4巻刊行記念「月と白い鳥」はコミックス第1巻と連動!
https://www.regina-books.com/extra
今回から見方が変わりました。何か一話、アルファポリス作品をレンタル頂くことで全てご覧いただけますので宜しくお願いしますm(_ _)m
お気に入りに追加
12,979
あなたにおすすめの小説

今日結婚した夫から2年経ったら出ていけと言われました
四折 柊
恋愛
子爵令嬢であるコーデリアは高位貴族である公爵家から是非にと望まれ結婚した。美しくもなく身分の低い自分が何故? 理由は分からないが自分にひどい扱いをする実家を出て幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱く。ところがそこには思惑があり……。公爵は本当に愛する女性を妻にするためにコーデリアを利用したのだ。夫となった男は言った。「お前と本当の夫婦になるつもりはない。2年後には公爵邸から国外へ出ていってもらう。そして二度と戻ってくるな」と。(いいんですか? それは私にとって……ご褒美です!)

【完結】王女と駆け落ちした元旦那が二年後に帰ってきた〜謝罪すると思いきや、聖女になったお前と僕らの赤ん坊を育てたい?こんなに馬鹿だったかしら
冬月光輝
恋愛
侯爵家の令嬢、エリスの夫であるロバートは伯爵家の長男にして、デルバニア王国の第二王女アイリーンの幼馴染だった。
アイリーンは隣国の王子であるアルフォンスと婚約しているが、婚姻の儀式の当日にロバートと共に行方を眩ませてしまう。
国際規模の婚約破棄事件の裏で失意に沈むエリスだったが、同じ境遇のアルフォンスとお互いに励まし合い、元々魔法の素養があったので環境を変えようと修行をして聖女となり、王国でも重宝される存在となった。
ロバートたちが蒸発して二年後のある日、突然エリスの前に元夫が現れる。
エリスは激怒して謝罪を求めたが、彼は「アイリーンと自分の赤子を三人で育てよう」と斜め上のことを言い出した。

完結 穀潰しと言われたので家を出ます
音爽(ネソウ)
恋愛
ファーレン子爵家は姉が必死で守って来た。だが父親が他界すると家から追い出された。
「お姉様は出て行って!この穀潰し!私にはわかっているのよ遺産をいいように使おうだなんて」
遺産などほとんど残っていないのにそのような事を言う。
こうして腹黒な妹は母を騙して家を乗っ取ったのだ。
その後、収入のない妹夫婦は母の財を喰い物にするばかりで……

山に捨てられた令嬢! 私のスキルは結界なのに、王都がどうなっても、もう知りません!
甘い秋空
恋愛
婚約を破棄されて、山に捨てられました! 私のスキルは結界なので、私を王都の外に出せば、王都は結界が無くなりますよ? もう、どうなっても知りませんから! え? 助けに来たのは・・・

お前のせいで不幸になったと姉が乗り込んできました、ご自分から彼を奪っておいて何なの?
coco
恋愛
お前のせいで不幸になった、責任取りなさいと、姉が押しかけてきました。
ご自分から彼を奪っておいて、一体何なの─?

【完】お義母様そんなに嫁がお嫌いですか?でも安心してください、もう会う事はありませんから
咲貴
恋愛
見初められ伯爵夫人となった元子爵令嬢のアニカは、夫のフィリベルトの義母に嫌われており、嫌がらせを受ける日々。
そんな中、義父の誕生日を祝うため、とびきりのプレゼントを用意する。
しかし、義母と二人きりになった時、事件は起こった……。
うたた寝している間に運命が変わりました。
gacchi
恋愛
優柔不断な第三王子フレディ様の婚約者として、幼いころから色々と苦労してきたけど、最近はもう呆れてしまって放置気味。そんな中、お義姉様がフレディ様の子を身ごもった?私との婚約は解消?私は学園を卒業したら修道院へ入れられることに。…だったはずなのに、カフェテリアでうたた寝していたら、私の運命は変わってしまったようです。

国外追放ですか? 承りました。では、すぐに国外にテレポートします。
樋口紗夕
恋愛
公爵令嬢ヘレーネは王立魔法学園の卒業パーティーで第三王子ジークベルトから婚約破棄を宣言される。
ジークベルトの真実の愛の相手、男爵令嬢ルーシアへの嫌がらせが原因だ。
国外追放を言い渡したジークベルトに、ヘレーネは眉一つ動かさずに答えた。
「国外追放ですか? 承りました。では、すぐに国外にテレポートします」
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。