表紙へ
上 下
21 / 798
2巻

2-3

しおりを挟む
「遠路ご苦労様でございました、ハルヴァラ伯爵夫人。わたくし、レイナ・ソガワと申しまして、当代〝扉の守護者ゲートキーパー〟マナ・ソガワの姉にございます。今は、エドヴァルド様からひとかたならぬご厚情を賜りまして、この邸宅において内向きのことを任せられ、二階の一室を頂戴しております」
「――――」

 すると私の言葉を聞いたイリナ・ハルヴァラ伯爵夫人の瞳が揺れるのと同時に、背後に立つコヴァネン子爵の顔が、忌々しげに歪められた。

(おや)

 オルセン侯爵と違って、私の言葉の意味は通じたみたいだ。
 だけど同時に、ここに来るまで何かを企んでもいたことが分かる表情かおだった。
 主に、後ろの子爵様が。


「どうぞ団欒の間ホワイエへご案内致しますわ。書類はそちらでお預かりいたします」
「……ハッ、女が何を言うか」

 そして表情のままの声が、玄関ホールに響き渡った。
 ――どうやらこちらのかたは、残念なタイプのオジサンだったようです。
 はぁ。と、私は聞こえるように溜息を溢した。

「本来でしたら、付き添いにすぎないかたにこのようなことを申し上げる必要もございませんのですけれど……。わたくしはエドヴァルド様から、不在の間の代理を務めるよう申しつかっております。かたが『を任せる』と仰ってくださったのは、そういう意味も含んでおりましてよ?」

 せいぜい、聞こえるような溜息をついて「付き添いのオジサン」を見れば、想像通りにプライドを刺激されたらしく、顔を赤くして身体を震わせていた。
 なんだかハルヴァラ伯爵夫人が、目を見開いて私を凝視してますけど……口答えをしているの、それほど意外ですか?
 なら、ダメ押しで。

わたくしの国では、男女関係なく政治経済について学べる環境がございますから、定例報告の書類であれば、問題なく拝見させていただけますわ。恐らくはそういったところも、エドヴァルド様にいただいている一因ではと思っておりますけれど」
「この……っ!」

 そしてコヴァネン子爵の導火線は、想像以上に短かった。
 前にいた娘と孫を突き飛ばすようにして、こちらへと突進してきたのだ。

「女は黙って男の言うことを聞いておればいいのだ! 生意気に公務に口なぞ出すでないわ! だいたい、子爵であるこのワシに何たる口の聞き様か! 礼儀も知らんと言うなら、しつけ直してやるわ‼」
「お父様‼ おやめください……っ」
「母上⁉」

 ハルヴァラ伯爵夫人が突き飛ばされるのを見たミカ君が悲鳴を上げる。
 それにもかかわらずコヴァネン子爵は、おかまいなしに私の方に大股に近付いて来て、右手を大きく振り上げる。
 平手打ちでもするつもりだろうか。
 けれどその手は予想した通りに、最後まで振り下ろされることはなかった。

「……この人、オルセン侯爵より小物ヒドイかも」
「あのなぁ、お嬢さん。今度からバカを挑発するなら、ひと声かけてくれるか。心臓に悪いわ。俺じゃなく、主にお館様の」

 きっとセルヴァンが取り押さえてくれるだろうと思っていたのに、子爵の右手を捻り上げていたのがファルコだったのは、ちょっと予想外だったけれど。
 あの……どこから現れたの、今?
 深く詮索するのも怖いから聞かないまま、ファルコに向き直る。

「ごめんなさい、ファルコ。ちょっとこの人、この後話を聞くのに邪魔だったから、セルヴァンにつまみ出してもらおうと思ってたの。だから声かけとか、考えてなかった」
「それは申し訳ございませんでした、レイナ様。わたくしとしたことが、気の利かないことをしてしまいました。たまにはファルコにも、仕事をさせてやったほうがいいかと思いまして」

 しれっと答える私とセルヴァンに、ファルコが呆れたような視線を向ける。

「勘弁しろよ、ホント……で? このオッサン、マジでつまみ出すのか?」

 離せだの、無礼者だのと、わめき散らしている子爵サマを邸宅内の全員が無視した状態だ。
 ハルヴァラ伯爵夫人は床に座り込んだ状態で、茫然とそんな私たちを見比べている。
 これ、アレだよね……コヴァネン子爵の発言と、なんの躊躇いもなくこちらに手を上げようとした辺り、彼女が家庭内DVを受けて逆らう気力を失くしちゃってるとか、そういった系だよね?
 うーん……と、私はこめかみを揉み解した。

「ただ、館の外に放り出してもうるさそうだしね……とりあえず夫人から書類を預かって、話が終わるまでどこかに閉じ込めておいてもらえないかな? その後、公爵邸で暴力を振るったってことで、警察? 憲兵? そういったところに引き渡すとかでどうかな、セルヴァン?」
「そうですね……このような方ですが一応子爵位をお持ちですから、ちょっとそういった機関の腰は重いかもしれません。……今日はいったん『南の館』にお招きして、旦那様に宰相としての判断を仰がれたほうが宜しいのではないでしょうか」

 一応って。
 ああでも、貴族を裁くのは、貴族ということか。
 確かに私は貴族社会に馴染みがない。そういったことなら、エドヴァルドに任せたほうがいいだろう。

「――いやいや、セルヴァン! 一見真っ当なこと言ってるけど、お嬢さんが殴られそうになったって言ったらお館様が激怒するのが目に見えてるぜ? 余計に重い処分になるんじゃねぇのか?」
「でしょうね。そもそも、どうして甘くする必要があります?」
「おお……密かにお怒りかよ、家令サマ……」

 一人納得していたせいで、ファルコとセルヴァンがそんなことを呟いていたのには気が付かなかった。

「あ……そうそう」

 ついでに軽い調子で夫人とミカ君の後ろにいた護衛を指さす。

「そこの彼も一緒に放り出しておいてくれる? 護衛対象をさげすむような、そんな使えない護衛、邪魔でしかないから」
「……え?」
「なっ⁉」

 茫然としたままのハルヴァラ伯爵夫人を置き去りに、護衛の青年は、心外だとばかりに目をみはっていた。
 どうやら自分では気が付いていなかったようなので、仕方なく理由を説明しておく。

「アナタは公爵家ウチの護衛の動きを、ただ見ていた。あれがもし、子爵を止めるためじゃなく、ハルヴァラ伯爵夫人や息子のミカ君を狙うつもりだったら、間に合ってないでしょ?」

 ファルコを見ながら言い切ると、護衛の青年は言葉に詰まっている。

「それに、が、仮にも公爵家当主に代わって応対をしている人間に手を上げようとしているのを止めもしない。夫人が突き飛ばされたとて、助け起こしにもいかない。そんな木偶でくの坊、護衛と呼ぶのもおこがましいわ。だから一緒に出ていけって話。ご理解いただけた?」

 唇を噛みしめて、両のこぶしを悔しげに握りしめている青年に、ファルコは「さっすが、お嬢さん」と、軽く口笛を吹いた。
 もはやそれ以上言葉を費やす気もない。
 私は青年から視線を外して、いまだ茫然と床にしゃがみこんだままこちらを見上げているハルヴァラ伯爵夫人に視線を向けた。

「大丈夫ですか、ハルヴァラ伯爵夫人? 改めて団欒の間ホワイエにご案内しますので――」
「いやぁ、実に素晴らしい! 護衛の本質をキチンと理解している! いつの間に公爵邸に、このように優秀なご令嬢がおいでになられたのか!」

 私が、ハルヴァラ伯爵夫人に手を貸そうとしたところで、玄関ホール全体に響き渡る程の大声が、私の鼓膜をビリビリと震わせた。

「⁉」

 声大きいっ! 何っ⁉
 思わず顔をしかめながら声のした入口に視線を投げれば、そこにはコスプレのお約束のような軍服に身を包んだ、背の高い、鍛えまくったとおぼしき体格の男性が、腕組みをして、仁王立ちをしていた。

「そこのバカ二人はこちらで預かろう! 公爵領の治安を預かる者としては、とても捨ておけぬからな!」

 えーっと……?
 今度は誰ですか?

「ベルセリウス将軍! これは『先触れ』とは言わないと、毎年毎年、何度言わせれば……!」

 誰も状況を把握出来ずに立ちすくんでいる中、仁王立ちの偉丈夫の後ろから息を切らせた青年が飛び込んでくる。

「将軍……?」

 突然の闖入者ちんにゅうしゃに小首を傾げた私に、セルヴァンとファルコがそっと耳打ちした。

「レイナ様、あの方はベルセリウス侯爵領領主オルヴォ・ベルセリウス様と仰います。公爵領の領土防衛軍のトップに立つお方なので、みなが敬意をこめて『将軍』と」
「根っからの軍人気質と言うか……フットワーク軽すぎんだよ、侯爵サマにしちゃ」

 つまり、イデオン公爵領に三人いるという侯爵の内の一人か。
 そういえば、領地経営はせずギーレン国との国境近くに本陣を置いて、公爵領内の治安を担って、一軍を率いている侯爵がいたと聞いたような。
 ……で、確か軍備の数値報告を副長がやっている間に、自軍から引っ張ってきた若手を〝鷹の眼〟と手合わせさせて、ちゃんと鍛えているかどうかを確かめさせるんだとも聞いたような。
 そんなことを思い出していると、当のベルセリウス将軍が勢いよく顔をファルコに向けた。

「よお、ファルコ! 今年も来たぞ! 新人も連れてきているから、手合わせしてやってくれ! もちろん私もな!」
「新人を見るのはいいけどな! アンタはそろそろ、もうイイだろうがよ!」
「何を言う! 近頃、遠慮して相手をしてくれぬ者のほうが多いのだ! ここは私が全力を出せる貴重な場だ!」
「出すな! 何度庭を破壊すりゃ気が済むんだよ!」

 なんだかファルコが気安いなー……と思っていると、なんと同い年とのこと。
 一応相手が「侯爵」だとファルコも時々は思い出すらしいけど、実力が互角に近いらしく、張り合っている内に結局どんどんと敬語が崩れていくんだとか。
 まあ方向性の違う人間同士、友情が成り立つことってままあるしね。
 確かファルコはエドヴァルドより六~七歳年上と聞いた気がするけど……じゃあ、あの将軍サマもそういうことになるのか。
 無駄に迫力があって、もっと年上に見える……とは言えない。
 そんな風にじっと見つめていたせいか、ベルセリウス将軍の顔が今度は勢いよくこちらへと向けられた。

「それでファルコ、そちらの素晴らしく機転の利くご令嬢は、どなただろう⁉ 高位の貴族令嬢の中に、これほどの逸材はいなかったと記憶しているが!」
「ちょっ……俺に紹介させんのかよ!」
「うむ! 随分とおまえも信頼を受けているようではないか! 共通の知人ということで、話をするのがよかろうよ!」
「マジか……」

 がっくりとファルコが項垂れる。
 うん、一般的な貴族の挨拶の仕方じゃないのはファルコでも分かるようだ。
 それにしても嵐のごとく話が進んでいってしまう。

「あの……とりあえずハルヴァラ伯爵夫人とご子息に、団欒の間ホワイエで休んでいただいてからのお話でも構いません……?」

 恐る恐る私が片手を上げて提案すれば、その場にいた皆が我に返ったようだった。

「おお、そうであった! 伯爵夫人の方が先にいらしていたのに、大変に失礼をした! 今日は『明日の昼前に改めて軍備の年間予算の報告書を持って行く』との先触れに来ただけなのだ! 詫びと言ってはなんだが、さっきも言った通りにそこのバカ二人はいったん軍で引き取る! お館様が処分をお決めになり次第、言ってくれれば引き渡すと伝えてくれ!」
「……ああ……はい……」

 とりあえずベルセリウス将軍がひたすら大声で話を進めるため、私もほとんど頷くことしか出来ないでいる。

「ですから、これは一般的な『先触れ』の作法とは程遠いと、何度も……!」

 片手で額を覆う副長? さんが、なんだか痛々しい。
 うん、まぁ、侯爵閣下が突撃してきて自分で『先触れ』とは……普通、言わない。
 あれ、ちょっとどこかの仕立て屋兼デザイナー氏を彷彿ほうふつとさせるような?

「伯爵夫人も心配めされるな! コヤツらを軍で引き取る代わりに、領地にお戻りの際は我が軍からキチンとした護衛を付けるのでな!」
「あ……」

 ベルセリウス将軍の大声に怯えていただろう、ハルヴァラ伯爵夫人が、わずかに目をみはる。
 そんな夫人を、将軍は一転して優しい目で見やった。

「ご夫君ふくんには我々も生前何かと世話になった。このくらいは、いつでもさせてもらうとも」
「……っ」
「ではご令嬢! 明日また改めて‼」
「はいっ⁉」

 いきなり現れた偉丈夫の将軍サマは、ファルコの手からコヴァネン子爵を引ったくるように奪い、護衛の青年の首ねっこをネコの如く摘みあげると、結局ロクな挨拶もしないまま、大股に公爵邸から立ち去って行ってしまった。

「すみません、将軍が本当にすみません! ああ、あのっ、今、北と南の館の空き状況は、どのように……?」

 ペコペコと頭を下げる副長? さんが、やっぱりとても痛々しい。
『北の館』はオルセン侯爵一家が出立したばかりなので、まだ散らかっているかもしれないと伝えると「では我々は南の館をお借りします! もちろん、先ほどの二人もそこで監視を付けてお預かりしますので!」と、敬礼と共に言い残して、彼も走り去っていった。

「ええっと……どのみちあの二人、南の館に軟禁しようかと言ってたから、いいのかな……」

 脳筋、という言葉が頭の中をぐるぐると回っていたけど、口にはしない。
 多分、適当な翻訳がないような気がする。
 そして気付けばハルヴァラ伯爵夫人を床に座らせてしまったままだ。
 私は、恐る恐る夫人に声をかけた。

「あの……何か、すみません……?」
「えっ⁉」

 実父をあちらこちらから「バカ」呼ばわりされた上に、最後は拉致同然に引っ立てられていってしまっては、私以上に現実が呑み込めないでいるに違いない。
 謝罪のつもりで声をかけたものの、夫人の反応は鈍かった。

「いえ……その……むしろ私以外の方にまで手を上げるだなんて思ってもみなくて……こちらこそ申し訳なくて……」
「!」

 うわ。
 私もそうだけど、その場にいた全員が夫人の言葉を聞いて、こめかみに青筋を浮かべたような気がした。
 その言い方は、過去に手を上げられたことがあるということの裏返しに他ならない。
 親が子供を力ずくで従わせようとしている、ちょっとした――いや、ちょっとどころじゃない「家庭内暴力」案件。
 自分がしいたげられていると、夫人本人はどこまで理解しているのか。
 あそこまでいくと、DVに加えてモラハラも乗っかっている。
 ハルヴァラ伯爵領の特産品である白磁の話をしたいのは山々だけれど、それ以前に今の夫人をこのままにはしておけなかった。
 仮に前向きな話がこの後まとまったところで、今のままだとあの子爵が高圧的な態度に出れば、夫人は逆らえずに権利や税収を全て言われるがまま渡してしまいかねない。
 DVもモラハラも、行きつく先は洗脳と自分の意見を持つことの放棄だ。
 白磁以前に夫人の話を聞いておかないと、夫人の感情が殻の内側に閉じ篭ってしまうことはもちろん、間違いなくお家の乗っ取りを敢行される。
 ハルヴァラ伯爵領には、アルノシュト伯爵領への対抗馬として白磁を発展させて、これから力を蓄えてもらわないとならないのに、そんなことを起こさせるわけにはいかない。
 というか、そんな建前を並べ立てている場合じゃない。

「とんでもない!」

 だから、明らかに卑屈になりかけているハルヴァラ伯爵夫人を私は慌てて遮った。
 膝をつき、彼女と視線を合わせて微笑みを作る。

「私が貴女と二人きりでお話がしたかったのです、ハルヴァラ伯爵夫人。ああ、いえ。息子さんは居てもらって大丈夫です。つまり、伯爵代理としての貴女とお話がしたかったということなんですけど」
「……伯爵代理……」
「旦那様が守って来られた土地を、貴女も守りたいと思っていらっしゃいますよね? そして土台をキチンと固めて、息子さんに繋いでいきたいと」
「……っ」

 ゆっくりと言葉を紡ぐと、コヴァネン子爵が居た間は怯えた色しか見せていなかった夫人の瞳に、光がともった気がした。

「あちらでお話させていただけますか」

 団欒の間ホワイエを視線で示す私に、夫人は無言でコクリと頷いた。


    ❀    ❀    ❀


 あれは、中学の先生だっただろうか。
 ある日の放課後、委員会が終わった後で気分が悪くなった私は、保健室の住人になっていた。

「レナちゃん、委員会? あ、そう。私、お友達と約束あるから帰るねー」

 最初はなから一緒に帰る気もないだろうに、委員会が始まる前に、私の顔色を見ることもなくそう言った舞菜は、いつのまにやらさっさと下校していた。
 オトモダチとやらが取り巻きなのか彼氏なのかは知らない。
 ただ、わざわざ「委員会」を強調して帰ったからには、ある程度遅くなるつもりで、帰ったら話を合わせろということなんだろう。
 委員会ともなれば、多少帰りが遅かったところで、少なくとも両親はこちらには気を配らない。
 深く考えたくなかった私は、眩暈めまいと吐き気が収まるまで寝かせてもらうことにして、無理矢理目を閉じた。
 日がかなり傾いて、さすがにそろそろ帰らないとなー……と、漠然と考えながら天井を見つめていた頃、様子を見に来た先生が言ったのだ。
「十河怜菜れいなさん。あなたが受けているのは、立派な虐待、それもモラハラの一種ですよ」――と。
 モラハラ、という単語を知らなかったわけじゃない。
 なんとなく夫婦間や職場、嫁姑問題なんかでよく聞く言葉だと思っていたけれど、親子間でも存在するんだとか。
 予想だにしていなかった言葉に目を瞬かせる私に、先生は続けて言った。

「自分は悪くないことを自覚しなさい。言われた言葉を受け流すすべを身につけなさい。専門家に、言えないことは全てぶつけてしまいなさい。そうして可能なら――早めに家から独立してしまいなさい」

 その先生は、臨床心理士の資格を持った方だった。
 そうして私に、六年越しの家庭内叛乱クーデターのきっかけと、途中で心が折れないための光を与えてくれたのだ。


 だから分かる。
 今、目の前にいる未亡人はきっと――あの頃の、私だ。

「……貴女は何も悪くないんですよ、ハルヴァラ伯爵夫人」

 団欒の間ホワイエで向かい合わせに腰掛けたものの、俯いたままの夫人に、私はなるべく穏やかに声をかけた。
 あの頃の先生のように、私の言葉も届くといいけれど。

「娘が父親に従うのは当然とか、そんな法はありません。理にかなっていないところで『だからおまえはダメなんだ』とか言われて、真に受けるのもありえません。ああいう人は自分が優位に立ちたいだけなんですから、そもそも何をしようと、一生褒めてなんてくれないんですよ?」

 顔をあげた夫人が、ヒュッ……と息を呑んだみたいだった。
 どうして……と、小さく唇が動いているのが分かる。
 ダメだな、と確信する。やっぱり典型的なモラハラ親父じゃないか、アレ。

「せめて子供が大きくなるまでは、自分だけが我慢をすれば……なんていうのも、もっての外ですからね? 案外、子供は親のそういう姿を見ていますよ。子供は子供で、自分が親に我慢をさせている……なんて苦しんだ上に、歪んで成長しちゃって将来の伴侶に同じようなことをしでかす可能性だってあるくらいですから。息子さんのためを思うなら余計に、今すぐその悪循環は断ち切ってください」

 ね? と、私はハルヴァラ伯爵夫人の顔を覗き込んだ。
 さっき、ずっとミカ君が不安そうな表情で周りの大人たちを見ているのを、ハルヴァラ伯爵領の関係者たちは、誰も気にかけていなかった。私とハルヴァラ伯爵夫人をチラチラ見比べていたから、ある程度は私の言っていることを理解しているんだろうに。
 私は、扇なしの笑顔をミカ君に向けた。
 このままいったら、ミカ君は将来負の連鎖に捕まってしまうかもしれない。
 そんなモラハラ男の予備軍にしちゃダメだ、絶対。

「レイナ様……どうしてそこまで……」

 どうしてそこまで分かるのか、と言いたいんだろう。
 あまり薄気味悪く思われても困るので、なるべく明るい口調で話しかけるよう心掛ける。

「ああ、いえ別に、心が読める魔法使いとかじゃないですよ? 単に私が、それに近いことをされて育ってきた人間なんで、よく分かるってだけですから」

 すると私の言葉に一瞬、団欒の間ホワイエの空気が張り詰めたような気がした。
 気のせいかな? と思いつつ、続きを聞きたそうなハルヴァラ伯爵夫人のために、とりあえずは言葉を紡ぐ。

「……私は、常に妹と比較されて、何をしても褒められなかったことがありました。四六時中、私だけが『おまえはダメだ』と言い続けられる。過干渉で進路は強要されるし、それに応えないと……殴られたり、怒鳴られたりはしませんでしたけど、厭味いやみの集中砲火を浴びましたね。両親の価値観とセンスの範囲内でしか全てが許されず、挙句が『おまえのためを思って言っている』という言葉――おかげでほら、こんなに性格のこじれた女が出来上がってしまいました」

 最後はちょっとおどけて深刻さを軽くしようとしてみたけれど、どうやらあまり効果はなかった様子で……ミカ君以外の、室内の全員が目をみはって私を凝視していた。
 慌ててさらに調子を軽くして言葉を続ける。

「ね、手を上げられていないだけで、境遇はよく似ているでしょう? 息子さんが私みたいにこじれない内に、あの子爵から離れる手段を考えたほうがいいですよ? 私に出来ることは、協力をしますから」
「レイナ様……」

 申し訳ありません、とこぼしたハルヴァラ伯爵夫人の声は震えていた。

「私、お辛いことを貴女に言わせて――」
「いえいえ、気にしないでください。けして上っ面で同情とかしている訳じゃないですよ、って分かっていただきたかっただけの、いわば自己満足なので。それに私はもう、両親が望んだ進路からは外れてきちんと独立をしました。今はそこまで将来を悲観してはいませんから。そんな訳で、まずは定例報告書類、お預かりしますね」

 悲観はしていないけど、不安はある……なんてことは、言わない。今のこの状態の夫人には、言わなくてもいいことだ。
 夫人もようやく落ち着いてきたのか、おもむろに足元の鞄から書類の束を取り出すと、おずおずとそれを机の上に置いた。


しおりを挟む
表紙へ
感想 1,383

あなたにおすすめの小説

白い結婚はそちらが言い出したことですわ

来住野つかさ
恋愛
サリーは怒っていた。今日は幼馴染で喧嘩ばかりのスコットとの結婚式だったが、あろうことかバーティでスコットの友人たちが「白い結婚にするって言ってたよな?」「奥さんのこと色気ないとかさ」と騒ぎながら話している。スコットがその気なら喧嘩買うわよ! 白い結婚上等よ! 許せん! これから舌戦だ!!

悪役令嬢の去った後、残された物は

たぬまる
恋愛
公爵令嬢シルビアが誕生パーティーで断罪され追放される。 シルビアは喜び去って行き 残された者達に不幸が降り注ぐ 気分転換に短編を書いてみました。

側妃契約は満了しました。

夢草 蝶
恋愛
 婚約者である王太子から、別の女性を正妃にするから、側妃となって自分達の仕事をしろ。  そのような申し出を受け入れてから、五年の時が経ちました。

【完結】え、別れましょう?

須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」 「は?え?別れましょう?」 何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。  ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?  だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。   ※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。 ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。

結婚記念日をスルーされたので、離婚しても良いですか?

秋月一花
恋愛
 本日、結婚記念日を迎えた。三周年のお祝いに、料理長が腕を振るってくれた。私は夫であるマハロを待っていた。……いつまで経っても帰ってこない、彼を。  ……結婚記念日を過ぎてから帰って来た彼は、私との結婚記念日を覚えていないようだった。身体が弱いという幼馴染の見舞いに行って、そのまま食事をして戻って来たみたいだ。  彼と結婚してからずっとそう。私がデートをしてみたい、と言えば了承してくれるものの、当日幼馴染の女性が体調を崩して「後で埋め合わせするから」と彼女の元へ向かってしまう。埋め合わせなんて、この三年一度もされたことがありませんが?  もう我慢の限界というものです。 「離婚してください」 「一体何を言っているんだ、君は……そんなこと、出来るはずないだろう?」  白い結婚のため、可能ですよ? 知らないのですか?  あなたと離婚して、私は第二の人生を歩みます。 ※カクヨム様にも投稿しています。

【完結】結婚して12年一度も会った事ありませんけど? それでも旦那様は全てが欲しいそうです

との
恋愛
結婚して12年目のシエナは白い結婚継続中。 白い結婚を理由に離婚したら、全てを失うシエナは漸く離婚に向けて動けるチャンスを見つけ・・  沈黙を続けていたルカが、 「新しく商会を作って、その先は?」 ーーーーーー 題名 少し改変しました

旦那様、愛人を作ってもいいですか?

ひろか
恋愛
私には前世の記憶があります。ニホンでの四六年という。 「君の役目は魔力を多く持つ子供を産むこと。その後で君も自由にすればいい」 これ、旦那様から、初夜での言葉です。 んん?美筋肉イケオジな愛人を持っても良いと? ’18/10/21…おまけ小話追加

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。