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2巻
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「確かに……昨日少し話をさせていただいただけでも、色々と内政にお詳しくていらっしゃって、私も驚きを隠せませんでした。随分優秀でいらっしゃる」
どうやらアルノシュト伯爵は、仄めかされている領地への疑念を全力で無視して、当たり障りのない会話をすることに決めたみたいだったけれど、そこで話を明後日の方向に思い切り捻じ曲げたのが、お隣の〝ロリータ衣装〟奥様だった。
「でも、それほど優秀で公爵様の執務を手伝われるようなお嬢様でしたら、社交方面で後々、お困りになられるのではございませんこと?」
こてりと首を倒して、愛らしく聞いてくる姿に思わず遠い目になる。
夫への追及をかわすために出た言葉と取れなくもないけれど、後で聞いたところによると、アルノシュト伯爵夫人カロリーヌの空気の読まなさっぷりは毎度のことで、こうして夫である伯爵の話をぶっちぎってしまうのもしょっちゅうらしい。
ふわふわと袖のレースを揺らしながら、夫人は私たちの沈黙をものともせずに言葉を続ける。
「公爵様ほどのお方であれば、もうお一方社交に長けた方をお傍に置かれても宜しいのでは? こちら、皆さま名家のお嬢様方ですから、複数の妻を持つことにも、理解のある方たちばかりでしてよ?」
「善意」全開といった表情で夫人はエドヴァルドに視線を向けているし、いつの間にやら定例の報告書類以外の、まるで身上書のような書類が重ねて並べられている。
この話の聞かなさと、あくまで善意に見せかけるのが舞菜そっくりだ、と思っていると、エドヴァルドが微笑んで(いや、目は笑っていない気がする)、夫人の言葉を一刀両断した。
「必要ない。最初から政略結婚と理解して正室を迎えるなら、それぞれのメリットに応じて公妾として二人三人とさらに迎える選択肢もあったかもしれんが、己の『唯一』を見つけてしまった以上、そんな選択肢はもはや意味を為さない。少なくとも彼女に、そのように手当たり次第な不実な男と思われるのは許容出来ない」
いやいや!
一見イイコト言ってますけど、前半はなかなかに鬼畜ですよ、宰相閣下。
そこに愛はあるのか――なんてCMがあった気もするけど、まさにそれ。
思わず顔が痙攣った私に、エドヴァルドが「ご覧の通り」と、苦笑を見せる。
「彼女が側室の存在を厭っている以上、私は彼女を尊重する。まあ、もともと許しがあったところで側室を迎えようとも思わないが」
私の表情まで使った反駁は見事の一言に尽きるのだけれど、さすが婚活のラスボスは一筋縄ではいかなかった。
夫人がくるりとこちらに微笑みを向ける。
「レイナ嬢? レイナ嬢も、公爵様にはご実家の後ろ盾があって、社交界から夫を支えられるご令嬢がどなたかいらっしゃった方がお心強いですわよね? こちらの国に来られたばかりでは、心細い面も多くおありでしょう?」
一見すると、裏表なく「エドヴァルドのため」「私のため」を会話に滲ませながらの「善意の提案」だ。
多分、本人は心の底からそう思っているのだろうし、相手の望まぬことを押し付けている自覚もない。
だけどこれは、「あなたのためなのよ」と言いながら、望まぬ進路や縁談を押し付けてくる毒親のやりようとなんら変わらない。
夫人は、言われた側の意見は求めておらず、感謝して受け入れられることが当然と思っている。
エドヴァルドが視線どころか全身で「拒否しろ」と私に訴えていることなど、夫人の視界からは都合よく消されているのだ。
部屋の空気、温度が冷え込んできていることは気のせいじゃないと思うんだけど。夫人は笑顔で無視だ。
ええ、はい、分かってますってば、宰相閣下。
その前半の鬼畜な発言部分は、ちゃんと聞かなかったことにしておきますから。
とりあえず何かフォローしろってコトですよね?
ちゃんと仕事しますよ? ――主に扇が。
「伯爵夫人、お心遣いは大変に有難いのですけれど……私は心が狭うございますので、この国の社交界に伝手がない心細さよりも、エドヴァルド様の目が私以外の方に向くほうが耐えられませんわ。何よりこの国に来る時に、エドヴァルド様は私のことを必ずお守りくださると、お約束いただきました。それは、他の女性と並列に扱われることではないと思っておりますの」
……とはいえ、何事にも限度、限界はあるワケで。
これ以上歯の浮くようなことは、もう私には言えません。
ですがレイナ嬢――と、なおも夫人が言い募りかけたところで、私は扇越しにニッコリと笑って、それを遮ることにした。
扇の力を借りても、ここが限界です、宰相閣下! 何とぞご理解を……!
もうエドヴァルドに丸投げしようと思ったその時、何気なく、本当に何気なく、机に広げられていた釣書の山に視線がいった。
…………あれ?
浮かんだ疑問を解消するため、なんとか最後の気力を振り絞って私は扇越しに視線を夫人の方へと向けた。
「アルノシュト伯爵夫人」
「――どうかなさいまして?」
不満そうな素振りは見せずに微笑み返すところは、夫人も流石だと思う。
うん。
気合再び、頑張れ私。
トカゲとロリータちゃんの衝撃に、あとちょっと耐えろ。
「夫人がお持ちになられた釣書ですけれど――」
「ええ、皆さま素晴らしい方ばかりでしてよ?」
私の言葉に喰い込みぎみに夫人が答えるものだから、一瞬エドヴァルドの目が据わった。
いやいや話は最後まで聞きましょう、お二人とも? 私はここから誰を選ぶとも言ってませんよ?
それよりも、聞きたいことが出来ただけです。
私は誰の目にも分かるように、視線だけを机の上へと落とした。
「シャルリーヌ・ボードリエ伯爵令嬢……でしたかしら? この方はいつ、ギーレン国からこちらにお越しになられたんですの?」
「…………え?」
私の一見無邪気な質問に、夫人の表情から笑顔が抜け落ちた。
見ればトカゲ伯爵様も、幽霊を見ているような表情になっている。
失礼な。
それにしても、驚くほどに反応が顕著だ。
もう一押しするべく、今度は扇の後ろで首を傾げて、釣書の一枚を指さして見せる。
「確か、ギーレン国のベクレル伯爵家所縁の方ですわよね?」
「そ……れは……」
「先ほど、こちらの方々はご実家の後ろ盾があり、社交界から夫を支えられる令嬢、とのお話でしたけど――」
私がそこまで言いかけたところで、青ざめた表情のアルノシュト伯爵が、テーブルの上にあったご令嬢方の釣書を慌ててかき集めて、夫人の手の中に押し戻した。
「さ、もういいだろう、カロリーヌ」
「旦那様、ですが……」
「さすが公爵様がお選びになられたご令嬢。我々では歯も立たない――そういうことだ。申し訳ありません、公爵様。この釣書は忘れてください」
「……もとより興味もなかった物だ。残らず持ち帰ってもらって構わない」
視線はアルノシュト伯爵の方を向いてはいても、エドヴァルドを纏う空気は完全に「後で説明しろ」と、私に突き刺さっている。
ひぃっ⁉ しかも冷気が増してるし!
だって、さっき釣書を夫人がわざとらしく何枚か開けて、机に置いたところで気が付いたんだから、事前に説明できなくたって仕方がないと思うの!
それからすぐに這々の体で公爵邸を後にするアルノシュト伯爵夫妻を見送る。
「つ……疲れた……視覚の暴力だと思う、あれ……」
気が抜けて玄関ホールに崩れ落ちかけたけれど、私の右腕を掴んだエドヴァルドがかろうじてそれを阻止してくれた。
レイナ様素晴らしゅうございました! とか、こんなに短時間で話が済んだのは初めてです! とか、音が出ないように拍手してみせる使用人一同を横目に、エドヴァルドの表情は厳しかった。
「助かった、と言いたいところだが手放しでは喜べないのも確かだ。言いたいことは分かるな」
「あー……そうですね、ハイ」
「セルヴァン、団欒の間の書類を纏め直して書斎へ。私はレイナと先に話を始めている」
「かしこまりました、旦那様」
無言でこちらを見てくるエドヴァルドに、危険を察知した私は慌てて立ち上がった。
「ええ、大丈夫です! 歩けます! 一人で書斎まで行けます!」
「…………」
かろうじてお姫様抱っこは回避出来たものの、私の右腕を掴んでいた力は、緩まない。
今日も今日とて、私は書斎に連行されることになった。
蘇る「ソファドン」の記憶に身を強張らせると、私の腕を放したエドヴァルドがため息をついた。
「……この格好で余計なことはしないから、普通に座っていろ」
確かに今着ている服は、お互いに、気楽な室内用の服ではない。
あんなことをしていては、皺が寄って公の場に出られなくなる。
それもそうだと納得して、私は書斎の応接用ソファ、エドヴァルドの向かいに腰を下ろした。
「それで? シャルリーヌ・ボードリエ伯爵令嬢、だったか。その名前で何故、アルノシュト伯爵夫妻があんなにも顔色を変えた。正直あれがなければ、まだまだ居座られるところだっただろう」
片手をソファの背もたれに置き、足を組んでじっとこちらを見てくるエドヴァルドに、私も慌てて両手を横に振る。
「いや、隠していた訳じゃないんです! あの釣書が机の上に広げられて、名前と絵姿を見たからこそ、思い出したと言うか……」
「何を」
「そのご令嬢、ギーレン国でパトリック元第一王子に最初に婚約破棄をされたシャルリーヌ・ベクレル伯爵令嬢と同一人物のはずです」
「……っ」
私の爆弾発言に、流石のエドヴァルドも、小さく息を呑んだ。
シャルリーヌ・ベクレル伯爵令嬢。
今は、シャルリーヌ・ボードリエ伯爵令嬢か。
彼女こそ〝蘇芳戦記〟をギーレン側から始めた場合の、正当なる主人公だ。
ゲームのシナリオでは、婚約破棄をされた後にエドベリ第二王子の攻略に入るか、修道院に追いやられるか……という流れになるはずだ。
エドベリ第二王子の攻略ルートに入る場合は、婚約破棄事件のほとぼりが冷めるまで、ヒロインは国外へ出る。ボードリエ伯爵家とベクレル伯爵家とは親戚関係にあったから、そこで養女となってヒロインの家名が変わるのだ。
そしてエドベリ第二王子がアンジェスに外遊に来た際に二人は再会し、婚約破棄のショックに耐えながら、他国で健気に生きるシャルリーヌを見たエドベリ第二王子が彼女に求婚する――のがハピエンまでの流れだったはずだ。
ボードリエ伯爵家はアンジェス国ではレイフ殿下の派閥貴族だ。そのため、彼らによる叛乱騒ぎが起きることでアンジェスでも居場所を失いかけるシャルリーヌを、エドベリ第二王子がそのままにしておけなかったのだ、という理由付けもされていたはずだ。
「経緯は分かりませんよ? 婚約破棄をされてギーレン国内で居場所がなくなって、本人に瑕疵はないのに、修道院はあんまりだろうって、ボードリエ家に養女に出されたのかなぁ……とかは、勝手な想像ですよ? ただボードリエ伯爵家も、今のところはレイフ殿下派閥のはずですから、裏がないとは思えなくて。つい口を挟んじゃいました、すみません」
本当は「しれっと誰の釣書を混ぜているんだ」と、言いたいくらいだった。
もっとも、あれだけ慌てふためいて退散したことを思えば、彼女との縁組を推し進めて、エドヴァルドをレイフ殿下の派閥に取り込みたいという意図は確かにあったんだろう。
だけど実際にそれを実行されると現在主人公――シャルリーヌが進んでいるであろう〝エドベリルート〟が破綻してしまいかねない。
一見シャルリーヌのルート選びは〝エドヴァルドルート〟と無関係のように思える。けれど、王子とヒロインがくっつかないとなれば、ヒロインを王子に紹介出来ず、エドベリ王子に売れる恩が一つ減ってしまう。
そうすると、エドヴァルドがギーレンに亡命せざるを得なくなった場合に頼る先が一つ減りかねない。私が一番避けたいのは、エドヴァルドの失脚と死だ。なのでそれを阻止するために口を挟ませてもらったのだ。
そしてアルノシュト伯爵は伯爵で、ボードストレーム商会との繋がりを知られ、レイフ殿下への資金提供の調達が封じ込められたも同然の状態になったために、縁組の利よりも、献金から叛乱の計画に辿り着かれるリスクを回避するほうを選んだに違いない。
それを知らなかった夫人だけが、話題に取り残されたのだ。
つくづくトカゲ……ごほん、アルノシュト伯爵の危機回避能力の高さに舌打ちしたい気分だ。
出来れば主人公サマには、アンジェス側のシナリオを引っ掻き回すことなく、ギーレン側でハピエン王道ルートを驀進してもらいたい。
シナリオを外れそうな、危なそうなフラグは事前に叩き折る。
これ鉄則。
とはいえ説明をしてなお、それだけじゃないだろうとばかりに、じとっとした視線でこちらを見つめてくるエドヴァルドに対して、私は所在なさげに首を縮こまらせる。
「ええっと……シャルリーヌ嬢が実際にエドヴァルド様をどう思っているのかは、分かりませんよ? ただレイフ殿下派閥の視点から考えれば、なんとしてもエドヴァルド様にフィルバート陛下からは離れてもらいたいでしょうから――」
流石に今の段階でギーレン側の物語についてまで口にするつもりはないので、あくまでレイフ殿下側の視点で考えた場合のことだと仄めかせておく。
「馬鹿馬鹿しい」
するとレイフ殿下の名前を前に出したのが功を奏したのだろうか。
それとも私が自分の意図を隠したことには気付かなかったのか、あるいはあえて触れなかったのか。
エドヴァルドは、私が口にした部分だけを掬い上げてそれを一刀両断した。
「まあしかし、あれほど慌てふためいて帰って行ったのなら、その話もあながち穿ちすぎとはいえないんだろうな」
「……私が、エドヴァルド様の周りが物騒になるって言った話、分かっていただけますか?」
究極の目的はアナタの亡命暗殺エンドの阻止です、だなんて今の時点で言えるはずもないけれど、とにかく真面目な声と表情でエドヴァルドを見つめれば、彼もそれ以上私を怪しむことはなかった。
「……既に兆しはある、か」
「何もかも、エドベリ第二王子の外遊と切り離せることじゃないので、公爵邸から可能な限りの助力はします。――絶対に宰相室には行きませんけど」
邸宅にある執務室、ではなく宰相室、と言った意味はエドヴァルドに正しく伝わったようで、すぐに頷きが返ってきた。
要は王宮に行きたくないのだ。
国として、聖者から聖女への〝扉の守護者〟の交代が布告された以上、他国からの賓客が訪れた際には、一度は挨拶を兼ねた顔合わせをしておかなくてはならない。それは聖女の姉として招かれた私にも当てはまり、公的な式典あるいは夜会に最低でも一度は顔を出さなくてはならないだろう。
無駄飯喰らいの居候扱いから脱却するため、助力をすること自体はやぶさかではない。ただそれでも、真に必要になるまで、王宮に足を踏み入れるつもりは一切なかった。
他の何に協力してもいいけれど、それだけは譲れない。
舞菜はまだ、私がこの国の文字や歴史を一から学ぶのに、手いっぱいになっていると思っているだろう。
私がこのアンジェス国で平穏無事に――舞菜と関わらずに過ごすためには、妹に「誰からも愛される自分と違い、姉は毎日苦労している」と思わせておかねばならないのだ。
姉の不幸こそが妹の幸福。だから実際の進捗状況は、隠し通す。
「とりあえず、午後はハルヴァラ伯爵夫人とお会いして、現在の領地の状況を確認しますね。アルノシュト伯爵を引きずり下ろす話は、それはそれで進めたいと思っているので」
どこまで私の勉強が捗っているか……などと、イデオン公爵邸の外に悟られてはいけない。
口にはしなかったけど、視線で私の真意は伝わっただろう。
――すまない、とエドヴァルドの唇が微かに動いた気がした。
それはきっと、ハルヴァラ領のことについての謝罪ではなかったはずだ。
第二章 脳筋侯爵と未亡人の事情
イデオン公爵領下において、当主である公爵に対し税収、納税を中心とした、領地に関する定例報告の義務を負っているのは十二人だと、セルヴァンからは聞いた。
村長は町長に、町長は男爵あるいは子爵に、男爵あるいは子爵は、伯爵あるいは侯爵へと報告を上げ、最終的には九人の伯爵と三人の侯爵が公爵へ報告を行っているそうだ。
ちなみにイデオン公爵領は、国に五人いる公爵の中で、持つ領土の広さとしては下から二番目ということになるらしい。ただ、イデオン公爵領は王都、三つの公爵領、王家直轄領、ギーレン国に面しているため、国内で最も戦略的な要衝であると言ってもよく、毎年の報告は、おざなりにされるべきものではないのだという。
〝蘇芳戦記〟では説明文程度の話だったはずだけど、今のこの現実世界に当てはめて考えてみた時に、果たしてエドヴァルドは自らが治める地を捨ててギーレンに亡命することを潔しとするのだろうか。
そんなことをするくらいなら、黙って断頭台の露と消えることを、選択しそうな気がして仕方がない。
それにゲーム上ではアルノシュト伯爵家だけだったとはいえ、他にレイフ殿下の派閥下に取り込まれた家は本当にないのか。
エドヴァルドは私が大学あるいは卒業後に目指していたことと近いだろうからと、報告に立ち会うことを勧めてくれたけれど、私としては亡命暗殺エンド回避のために、エドヴァルドの敵に回らない領主を見極める必要があるように思えた。
とはいえアルノシュト伯爵夫妻から受けた精神的なダメージがあまりに大きくて、あと九人も来るのか……と、一瞬遠い目になってしまう。ただ、そうは言っても毎年、家計簿のような物を家令が送ってくるだけの侯爵家があったり、隣の領地に報告を預けてしまう場合があったり、家族に不幸があって延期を求めている場合があったり…………と、毎年十二人きっちりとやってくることは、まずないらしい。
つまりは今回、やってくるのはあと数人ではないかというのが、セルヴァンの見立てだった。
「既に、少し時間をいただきたいという伯爵領なんかもありますしね」
「……なるほど」
全員と会えないかもしれないというのはちょっと残念だけれど、そうそうこちらの都合に合わせて物事は進まない。そこは仕方がないと思うよりほかはなかった。
アルノシュト伯爵夫妻が挨拶もそこそこに邸宅を後にした後、エドヴァルドは最近すっかり昼食として定着したらしいサンドイッチ持参で王宮に出仕していった。
私はダイニングで一人食後の紅茶を飲みながら、セルヴァンに毎年の定例報告に関するあれやこれやを教えてもらう。
この後、午後の半ばにハルヴァラ伯爵領から定例報告の担当者が邸宅を訪れる予定だ。
既に「書類を持参する」と先触れのあったこの領地は、昨年領主が急な病で帰らぬ人となったそうで、今年はまだ六歳だという長男ミカ君と、長男の成人まで伯爵代理となるイリナ夫人、そして夫人の実父であるコヴァネン子爵が付き添いで来るとのことだった。
きちんとした先触れが行われたことによって、個人的に評価は高い。
そしてハルヴァラ伯爵領はアルノシュト伯爵領と隣り合った領地だ。私としては、表立ってでなくとも構わないので、アルノシュト伯爵家を横から牽制出来るような家であってくれれば嬉しいのだけれど。
ただセルヴァンは、ハルヴァラ領に対してなにか思うところがあるらしく、慎重に言葉を選びながらこちらを見やった。
「レイナ様、少々問題と言いますか……領内では夫人が代理となられることへの不安、もしくは不安と称した後見争いが密かに起きているとの話がございます。もしかするとこの訪問、一筋縄ではいかないかもしれません」
「えぇ……ささっと白磁の話をさせてほしいんだけどなぁ……。や、でも、そのイリナ夫人? がダメダメな感じだと、そもそも話も持ちかけられないし……そこのところどうなのかな……?」
「亡くなられたハルヴァラ伯爵様は、穏やかで私欲をほとんど表に出さない方でした。毎年堅実な報告をなさっていらっしゃいましたが……」
夫人までセットでやってきたアルノシュト伯爵家と違って、ハルヴァラ伯爵夫人は王都までは来ても、エドヴァルドの屋敷にまで連れ立って押しかけてくることはなかったらしい。
「まだご長男お一人だけでしたから、娘を旦那様へ……とか、邪な発想を持ちようもなかったんでしょう。私もお会いしたことがございませんので、今年実際にどう出られるかまでは、こちらも測りかねているのが実情でございます」
いやいや長男が六歳で、その後もし娘が出来たとしても、その「邪な発想」はエドヴァルドがロリコンじゃなきゃ成り立たない。
想像しかけてすぐ、気のせいか物凄い冷気を感じて、一瞬身を振るわせた。
やめよう、うん、考えただけでも後が怖い。
ハルヴァラ伯爵家に娘がいなくてよかったと思うことにしよう。
「あー……でもそれなら、夫人本人、なんて発想が出てくる……?」
「レイナ様?」
「ううん、なんでもない。いや、誰も当人を知らないなら、事前にあれこれ思い悩んでも仕方がないよね。本人を見てから判断するね」
「宜しくお願い致します。私もお傍に控えておりますので、何か気になることがございましたら遠慮なくお申し付けください」
「ありがとう、よろしく。あ、この場合は私の方から声をかけてもいいのかな?」
「左様でございますね。レイナ様も夫人も、お互いに『代理』を名乗られる身。であれば、公爵家であるこちらに優先権があるということで宜しいかと。付き添いの方は、基本的にはこちらの会話に口を挟める立場ではございません。あくまで『付き添い』ですので、たとえ子爵様といえど、必要以上に遜る必要もないかと存じます」
それは、その子爵がアレコレ口出しをしてきても、取り合わずとも良いと言うことデスネ。
にこやかに微笑むセルヴァンから暗に示された言葉を、私は正確に理解した。
かしこまりました、頑張ります。
そうこうしているうちに、表門の方に馬車が到着したとの知らせが入り、私は玄関ホールの方へと移動をすることにした。
「む……?」
玄関ホールに入ってきたのは四人だ。
さっきまでのロリータ衣装に比べれば心が癒されんばかりの、ブラウンのAラインに長袖の上品なドレスがまず視界に入る。
あれがイリナ・ハルヴァラ伯爵夫人なのだろう。彼女に手を引かれて歩いているのが、きっと長男のミカ君。母子ともにミルクティー色のストレートな髪に天使の輪っかがリアルに見える。
なんて羨ましい髪質。
その後ろの生え際が寂しい小柄な男性がコヴァネン子爵で……あと一人は、護衛の青年といったところだろうか。
私を見て不審げに眉を顰めたコヴァネン子爵をあえて無視する形で、まず夫人の方に微笑んでみせた。
どうやらアルノシュト伯爵は、仄めかされている領地への疑念を全力で無視して、当たり障りのない会話をすることに決めたみたいだったけれど、そこで話を明後日の方向に思い切り捻じ曲げたのが、お隣の〝ロリータ衣装〟奥様だった。
「でも、それほど優秀で公爵様の執務を手伝われるようなお嬢様でしたら、社交方面で後々、お困りになられるのではございませんこと?」
こてりと首を倒して、愛らしく聞いてくる姿に思わず遠い目になる。
夫への追及をかわすために出た言葉と取れなくもないけれど、後で聞いたところによると、アルノシュト伯爵夫人カロリーヌの空気の読まなさっぷりは毎度のことで、こうして夫である伯爵の話をぶっちぎってしまうのもしょっちゅうらしい。
ふわふわと袖のレースを揺らしながら、夫人は私たちの沈黙をものともせずに言葉を続ける。
「公爵様ほどのお方であれば、もうお一方社交に長けた方をお傍に置かれても宜しいのでは? こちら、皆さま名家のお嬢様方ですから、複数の妻を持つことにも、理解のある方たちばかりでしてよ?」
「善意」全開といった表情で夫人はエドヴァルドに視線を向けているし、いつの間にやら定例の報告書類以外の、まるで身上書のような書類が重ねて並べられている。
この話の聞かなさと、あくまで善意に見せかけるのが舞菜そっくりだ、と思っていると、エドヴァルドが微笑んで(いや、目は笑っていない気がする)、夫人の言葉を一刀両断した。
「必要ない。最初から政略結婚と理解して正室を迎えるなら、それぞれのメリットに応じて公妾として二人三人とさらに迎える選択肢もあったかもしれんが、己の『唯一』を見つけてしまった以上、そんな選択肢はもはや意味を為さない。少なくとも彼女に、そのように手当たり次第な不実な男と思われるのは許容出来ない」
いやいや!
一見イイコト言ってますけど、前半はなかなかに鬼畜ですよ、宰相閣下。
そこに愛はあるのか――なんてCMがあった気もするけど、まさにそれ。
思わず顔が痙攣った私に、エドヴァルドが「ご覧の通り」と、苦笑を見せる。
「彼女が側室の存在を厭っている以上、私は彼女を尊重する。まあ、もともと許しがあったところで側室を迎えようとも思わないが」
私の表情まで使った反駁は見事の一言に尽きるのだけれど、さすが婚活のラスボスは一筋縄ではいかなかった。
夫人がくるりとこちらに微笑みを向ける。
「レイナ嬢? レイナ嬢も、公爵様にはご実家の後ろ盾があって、社交界から夫を支えられるご令嬢がどなたかいらっしゃった方がお心強いですわよね? こちらの国に来られたばかりでは、心細い面も多くおありでしょう?」
一見すると、裏表なく「エドヴァルドのため」「私のため」を会話に滲ませながらの「善意の提案」だ。
多分、本人は心の底からそう思っているのだろうし、相手の望まぬことを押し付けている自覚もない。
だけどこれは、「あなたのためなのよ」と言いながら、望まぬ進路や縁談を押し付けてくる毒親のやりようとなんら変わらない。
夫人は、言われた側の意見は求めておらず、感謝して受け入れられることが当然と思っている。
エドヴァルドが視線どころか全身で「拒否しろ」と私に訴えていることなど、夫人の視界からは都合よく消されているのだ。
部屋の空気、温度が冷え込んできていることは気のせいじゃないと思うんだけど。夫人は笑顔で無視だ。
ええ、はい、分かってますってば、宰相閣下。
その前半の鬼畜な発言部分は、ちゃんと聞かなかったことにしておきますから。
とりあえず何かフォローしろってコトですよね?
ちゃんと仕事しますよ? ――主に扇が。
「伯爵夫人、お心遣いは大変に有難いのですけれど……私は心が狭うございますので、この国の社交界に伝手がない心細さよりも、エドヴァルド様の目が私以外の方に向くほうが耐えられませんわ。何よりこの国に来る時に、エドヴァルド様は私のことを必ずお守りくださると、お約束いただきました。それは、他の女性と並列に扱われることではないと思っておりますの」
……とはいえ、何事にも限度、限界はあるワケで。
これ以上歯の浮くようなことは、もう私には言えません。
ですがレイナ嬢――と、なおも夫人が言い募りかけたところで、私は扇越しにニッコリと笑って、それを遮ることにした。
扇の力を借りても、ここが限界です、宰相閣下! 何とぞご理解を……!
もうエドヴァルドに丸投げしようと思ったその時、何気なく、本当に何気なく、机に広げられていた釣書の山に視線がいった。
…………あれ?
浮かんだ疑問を解消するため、なんとか最後の気力を振り絞って私は扇越しに視線を夫人の方へと向けた。
「アルノシュト伯爵夫人」
「――どうかなさいまして?」
不満そうな素振りは見せずに微笑み返すところは、夫人も流石だと思う。
うん。
気合再び、頑張れ私。
トカゲとロリータちゃんの衝撃に、あとちょっと耐えろ。
「夫人がお持ちになられた釣書ですけれど――」
「ええ、皆さま素晴らしい方ばかりでしてよ?」
私の言葉に喰い込みぎみに夫人が答えるものだから、一瞬エドヴァルドの目が据わった。
いやいや話は最後まで聞きましょう、お二人とも? 私はここから誰を選ぶとも言ってませんよ?
それよりも、聞きたいことが出来ただけです。
私は誰の目にも分かるように、視線だけを机の上へと落とした。
「シャルリーヌ・ボードリエ伯爵令嬢……でしたかしら? この方はいつ、ギーレン国からこちらにお越しになられたんですの?」
「…………え?」
私の一見無邪気な質問に、夫人の表情から笑顔が抜け落ちた。
見ればトカゲ伯爵様も、幽霊を見ているような表情になっている。
失礼な。
それにしても、驚くほどに反応が顕著だ。
もう一押しするべく、今度は扇の後ろで首を傾げて、釣書の一枚を指さして見せる。
「確か、ギーレン国のベクレル伯爵家所縁の方ですわよね?」
「そ……れは……」
「先ほど、こちらの方々はご実家の後ろ盾があり、社交界から夫を支えられる令嬢、とのお話でしたけど――」
私がそこまで言いかけたところで、青ざめた表情のアルノシュト伯爵が、テーブルの上にあったご令嬢方の釣書を慌ててかき集めて、夫人の手の中に押し戻した。
「さ、もういいだろう、カロリーヌ」
「旦那様、ですが……」
「さすが公爵様がお選びになられたご令嬢。我々では歯も立たない――そういうことだ。申し訳ありません、公爵様。この釣書は忘れてください」
「……もとより興味もなかった物だ。残らず持ち帰ってもらって構わない」
視線はアルノシュト伯爵の方を向いてはいても、エドヴァルドを纏う空気は完全に「後で説明しろ」と、私に突き刺さっている。
ひぃっ⁉ しかも冷気が増してるし!
だって、さっき釣書を夫人がわざとらしく何枚か開けて、机に置いたところで気が付いたんだから、事前に説明できなくたって仕方がないと思うの!
それからすぐに這々の体で公爵邸を後にするアルノシュト伯爵夫妻を見送る。
「つ……疲れた……視覚の暴力だと思う、あれ……」
気が抜けて玄関ホールに崩れ落ちかけたけれど、私の右腕を掴んだエドヴァルドがかろうじてそれを阻止してくれた。
レイナ様素晴らしゅうございました! とか、こんなに短時間で話が済んだのは初めてです! とか、音が出ないように拍手してみせる使用人一同を横目に、エドヴァルドの表情は厳しかった。
「助かった、と言いたいところだが手放しでは喜べないのも確かだ。言いたいことは分かるな」
「あー……そうですね、ハイ」
「セルヴァン、団欒の間の書類を纏め直して書斎へ。私はレイナと先に話を始めている」
「かしこまりました、旦那様」
無言でこちらを見てくるエドヴァルドに、危険を察知した私は慌てて立ち上がった。
「ええ、大丈夫です! 歩けます! 一人で書斎まで行けます!」
「…………」
かろうじてお姫様抱っこは回避出来たものの、私の右腕を掴んでいた力は、緩まない。
今日も今日とて、私は書斎に連行されることになった。
蘇る「ソファドン」の記憶に身を強張らせると、私の腕を放したエドヴァルドがため息をついた。
「……この格好で余計なことはしないから、普通に座っていろ」
確かに今着ている服は、お互いに、気楽な室内用の服ではない。
あんなことをしていては、皺が寄って公の場に出られなくなる。
それもそうだと納得して、私は書斎の応接用ソファ、エドヴァルドの向かいに腰を下ろした。
「それで? シャルリーヌ・ボードリエ伯爵令嬢、だったか。その名前で何故、アルノシュト伯爵夫妻があんなにも顔色を変えた。正直あれがなければ、まだまだ居座られるところだっただろう」
片手をソファの背もたれに置き、足を組んでじっとこちらを見てくるエドヴァルドに、私も慌てて両手を横に振る。
「いや、隠していた訳じゃないんです! あの釣書が机の上に広げられて、名前と絵姿を見たからこそ、思い出したと言うか……」
「何を」
「そのご令嬢、ギーレン国でパトリック元第一王子に最初に婚約破棄をされたシャルリーヌ・ベクレル伯爵令嬢と同一人物のはずです」
「……っ」
私の爆弾発言に、流石のエドヴァルドも、小さく息を呑んだ。
シャルリーヌ・ベクレル伯爵令嬢。
今は、シャルリーヌ・ボードリエ伯爵令嬢か。
彼女こそ〝蘇芳戦記〟をギーレン側から始めた場合の、正当なる主人公だ。
ゲームのシナリオでは、婚約破棄をされた後にエドベリ第二王子の攻略に入るか、修道院に追いやられるか……という流れになるはずだ。
エドベリ第二王子の攻略ルートに入る場合は、婚約破棄事件のほとぼりが冷めるまで、ヒロインは国外へ出る。ボードリエ伯爵家とベクレル伯爵家とは親戚関係にあったから、そこで養女となってヒロインの家名が変わるのだ。
そしてエドベリ第二王子がアンジェスに外遊に来た際に二人は再会し、婚約破棄のショックに耐えながら、他国で健気に生きるシャルリーヌを見たエドベリ第二王子が彼女に求婚する――のがハピエンまでの流れだったはずだ。
ボードリエ伯爵家はアンジェス国ではレイフ殿下の派閥貴族だ。そのため、彼らによる叛乱騒ぎが起きることでアンジェスでも居場所を失いかけるシャルリーヌを、エドベリ第二王子がそのままにしておけなかったのだ、という理由付けもされていたはずだ。
「経緯は分かりませんよ? 婚約破棄をされてギーレン国内で居場所がなくなって、本人に瑕疵はないのに、修道院はあんまりだろうって、ボードリエ家に養女に出されたのかなぁ……とかは、勝手な想像ですよ? ただボードリエ伯爵家も、今のところはレイフ殿下派閥のはずですから、裏がないとは思えなくて。つい口を挟んじゃいました、すみません」
本当は「しれっと誰の釣書を混ぜているんだ」と、言いたいくらいだった。
もっとも、あれだけ慌てふためいて退散したことを思えば、彼女との縁組を推し進めて、エドヴァルドをレイフ殿下の派閥に取り込みたいという意図は確かにあったんだろう。
だけど実際にそれを実行されると現在主人公――シャルリーヌが進んでいるであろう〝エドベリルート〟が破綻してしまいかねない。
一見シャルリーヌのルート選びは〝エドヴァルドルート〟と無関係のように思える。けれど、王子とヒロインがくっつかないとなれば、ヒロインを王子に紹介出来ず、エドベリ王子に売れる恩が一つ減ってしまう。
そうすると、エドヴァルドがギーレンに亡命せざるを得なくなった場合に頼る先が一つ減りかねない。私が一番避けたいのは、エドヴァルドの失脚と死だ。なのでそれを阻止するために口を挟ませてもらったのだ。
そしてアルノシュト伯爵は伯爵で、ボードストレーム商会との繋がりを知られ、レイフ殿下への資金提供の調達が封じ込められたも同然の状態になったために、縁組の利よりも、献金から叛乱の計画に辿り着かれるリスクを回避するほうを選んだに違いない。
それを知らなかった夫人だけが、話題に取り残されたのだ。
つくづくトカゲ……ごほん、アルノシュト伯爵の危機回避能力の高さに舌打ちしたい気分だ。
出来れば主人公サマには、アンジェス側のシナリオを引っ掻き回すことなく、ギーレン側でハピエン王道ルートを驀進してもらいたい。
シナリオを外れそうな、危なそうなフラグは事前に叩き折る。
これ鉄則。
とはいえ説明をしてなお、それだけじゃないだろうとばかりに、じとっとした視線でこちらを見つめてくるエドヴァルドに対して、私は所在なさげに首を縮こまらせる。
「ええっと……シャルリーヌ嬢が実際にエドヴァルド様をどう思っているのかは、分かりませんよ? ただレイフ殿下派閥の視点から考えれば、なんとしてもエドヴァルド様にフィルバート陛下からは離れてもらいたいでしょうから――」
流石に今の段階でギーレン側の物語についてまで口にするつもりはないので、あくまでレイフ殿下側の視点で考えた場合のことだと仄めかせておく。
「馬鹿馬鹿しい」
するとレイフ殿下の名前を前に出したのが功を奏したのだろうか。
それとも私が自分の意図を隠したことには気付かなかったのか、あるいはあえて触れなかったのか。
エドヴァルドは、私が口にした部分だけを掬い上げてそれを一刀両断した。
「まあしかし、あれほど慌てふためいて帰って行ったのなら、その話もあながち穿ちすぎとはいえないんだろうな」
「……私が、エドヴァルド様の周りが物騒になるって言った話、分かっていただけますか?」
究極の目的はアナタの亡命暗殺エンドの阻止です、だなんて今の時点で言えるはずもないけれど、とにかく真面目な声と表情でエドヴァルドを見つめれば、彼もそれ以上私を怪しむことはなかった。
「……既に兆しはある、か」
「何もかも、エドベリ第二王子の外遊と切り離せることじゃないので、公爵邸から可能な限りの助力はします。――絶対に宰相室には行きませんけど」
邸宅にある執務室、ではなく宰相室、と言った意味はエドヴァルドに正しく伝わったようで、すぐに頷きが返ってきた。
要は王宮に行きたくないのだ。
国として、聖者から聖女への〝扉の守護者〟の交代が布告された以上、他国からの賓客が訪れた際には、一度は挨拶を兼ねた顔合わせをしておかなくてはならない。それは聖女の姉として招かれた私にも当てはまり、公的な式典あるいは夜会に最低でも一度は顔を出さなくてはならないだろう。
無駄飯喰らいの居候扱いから脱却するため、助力をすること自体はやぶさかではない。ただそれでも、真に必要になるまで、王宮に足を踏み入れるつもりは一切なかった。
他の何に協力してもいいけれど、それだけは譲れない。
舞菜はまだ、私がこの国の文字や歴史を一から学ぶのに、手いっぱいになっていると思っているだろう。
私がこのアンジェス国で平穏無事に――舞菜と関わらずに過ごすためには、妹に「誰からも愛される自分と違い、姉は毎日苦労している」と思わせておかねばならないのだ。
姉の不幸こそが妹の幸福。だから実際の進捗状況は、隠し通す。
「とりあえず、午後はハルヴァラ伯爵夫人とお会いして、現在の領地の状況を確認しますね。アルノシュト伯爵を引きずり下ろす話は、それはそれで進めたいと思っているので」
どこまで私の勉強が捗っているか……などと、イデオン公爵邸の外に悟られてはいけない。
口にはしなかったけど、視線で私の真意は伝わっただろう。
――すまない、とエドヴァルドの唇が微かに動いた気がした。
それはきっと、ハルヴァラ領のことについての謝罪ではなかったはずだ。
第二章 脳筋侯爵と未亡人の事情
イデオン公爵領下において、当主である公爵に対し税収、納税を中心とした、領地に関する定例報告の義務を負っているのは十二人だと、セルヴァンからは聞いた。
村長は町長に、町長は男爵あるいは子爵に、男爵あるいは子爵は、伯爵あるいは侯爵へと報告を上げ、最終的には九人の伯爵と三人の侯爵が公爵へ報告を行っているそうだ。
ちなみにイデオン公爵領は、国に五人いる公爵の中で、持つ領土の広さとしては下から二番目ということになるらしい。ただ、イデオン公爵領は王都、三つの公爵領、王家直轄領、ギーレン国に面しているため、国内で最も戦略的な要衝であると言ってもよく、毎年の報告は、おざなりにされるべきものではないのだという。
〝蘇芳戦記〟では説明文程度の話だったはずだけど、今のこの現実世界に当てはめて考えてみた時に、果たしてエドヴァルドは自らが治める地を捨ててギーレンに亡命することを潔しとするのだろうか。
そんなことをするくらいなら、黙って断頭台の露と消えることを、選択しそうな気がして仕方がない。
それにゲーム上ではアルノシュト伯爵家だけだったとはいえ、他にレイフ殿下の派閥下に取り込まれた家は本当にないのか。
エドヴァルドは私が大学あるいは卒業後に目指していたことと近いだろうからと、報告に立ち会うことを勧めてくれたけれど、私としては亡命暗殺エンド回避のために、エドヴァルドの敵に回らない領主を見極める必要があるように思えた。
とはいえアルノシュト伯爵夫妻から受けた精神的なダメージがあまりに大きくて、あと九人も来るのか……と、一瞬遠い目になってしまう。ただ、そうは言っても毎年、家計簿のような物を家令が送ってくるだけの侯爵家があったり、隣の領地に報告を預けてしまう場合があったり、家族に不幸があって延期を求めている場合があったり…………と、毎年十二人きっちりとやってくることは、まずないらしい。
つまりは今回、やってくるのはあと数人ではないかというのが、セルヴァンの見立てだった。
「既に、少し時間をいただきたいという伯爵領なんかもありますしね」
「……なるほど」
全員と会えないかもしれないというのはちょっと残念だけれど、そうそうこちらの都合に合わせて物事は進まない。そこは仕方がないと思うよりほかはなかった。
アルノシュト伯爵夫妻が挨拶もそこそこに邸宅を後にした後、エドヴァルドは最近すっかり昼食として定着したらしいサンドイッチ持参で王宮に出仕していった。
私はダイニングで一人食後の紅茶を飲みながら、セルヴァンに毎年の定例報告に関するあれやこれやを教えてもらう。
この後、午後の半ばにハルヴァラ伯爵領から定例報告の担当者が邸宅を訪れる予定だ。
既に「書類を持参する」と先触れのあったこの領地は、昨年領主が急な病で帰らぬ人となったそうで、今年はまだ六歳だという長男ミカ君と、長男の成人まで伯爵代理となるイリナ夫人、そして夫人の実父であるコヴァネン子爵が付き添いで来るとのことだった。
きちんとした先触れが行われたことによって、個人的に評価は高い。
そしてハルヴァラ伯爵領はアルノシュト伯爵領と隣り合った領地だ。私としては、表立ってでなくとも構わないので、アルノシュト伯爵家を横から牽制出来るような家であってくれれば嬉しいのだけれど。
ただセルヴァンは、ハルヴァラ領に対してなにか思うところがあるらしく、慎重に言葉を選びながらこちらを見やった。
「レイナ様、少々問題と言いますか……領内では夫人が代理となられることへの不安、もしくは不安と称した後見争いが密かに起きているとの話がございます。もしかするとこの訪問、一筋縄ではいかないかもしれません」
「えぇ……ささっと白磁の話をさせてほしいんだけどなぁ……。や、でも、そのイリナ夫人? がダメダメな感じだと、そもそも話も持ちかけられないし……そこのところどうなのかな……?」
「亡くなられたハルヴァラ伯爵様は、穏やかで私欲をほとんど表に出さない方でした。毎年堅実な報告をなさっていらっしゃいましたが……」
夫人までセットでやってきたアルノシュト伯爵家と違って、ハルヴァラ伯爵夫人は王都までは来ても、エドヴァルドの屋敷にまで連れ立って押しかけてくることはなかったらしい。
「まだご長男お一人だけでしたから、娘を旦那様へ……とか、邪な発想を持ちようもなかったんでしょう。私もお会いしたことがございませんので、今年実際にどう出られるかまでは、こちらも測りかねているのが実情でございます」
いやいや長男が六歳で、その後もし娘が出来たとしても、その「邪な発想」はエドヴァルドがロリコンじゃなきゃ成り立たない。
想像しかけてすぐ、気のせいか物凄い冷気を感じて、一瞬身を振るわせた。
やめよう、うん、考えただけでも後が怖い。
ハルヴァラ伯爵家に娘がいなくてよかったと思うことにしよう。
「あー……でもそれなら、夫人本人、なんて発想が出てくる……?」
「レイナ様?」
「ううん、なんでもない。いや、誰も当人を知らないなら、事前にあれこれ思い悩んでも仕方がないよね。本人を見てから判断するね」
「宜しくお願い致します。私もお傍に控えておりますので、何か気になることがございましたら遠慮なくお申し付けください」
「ありがとう、よろしく。あ、この場合は私の方から声をかけてもいいのかな?」
「左様でございますね。レイナ様も夫人も、お互いに『代理』を名乗られる身。であれば、公爵家であるこちらに優先権があるということで宜しいかと。付き添いの方は、基本的にはこちらの会話に口を挟める立場ではございません。あくまで『付き添い』ですので、たとえ子爵様といえど、必要以上に遜る必要もないかと存じます」
それは、その子爵がアレコレ口出しをしてきても、取り合わずとも良いと言うことデスネ。
にこやかに微笑むセルヴァンから暗に示された言葉を、私は正確に理解した。
かしこまりました、頑張ります。
そうこうしているうちに、表門の方に馬車が到着したとの知らせが入り、私は玄関ホールの方へと移動をすることにした。
「む……?」
玄関ホールに入ってきたのは四人だ。
さっきまでのロリータ衣装に比べれば心が癒されんばかりの、ブラウンのAラインに長袖の上品なドレスがまず視界に入る。
あれがイリナ・ハルヴァラ伯爵夫人なのだろう。彼女に手を引かれて歩いているのが、きっと長男のミカ君。母子ともにミルクティー色のストレートな髪に天使の輪っかがリアルに見える。
なんて羨ましい髪質。
その後ろの生え際が寂しい小柄な男性がコヴァネン子爵で……あと一人は、護衛の青年といったところだろうか。
私を見て不審げに眉を顰めたコヴァネン子爵をあえて無視する形で、まず夫人の方に微笑んでみせた。
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