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2巻
2-1
しおりを挟むプロローグ 見知らぬ夜空を見上げて
湯船に浸かり、身体を温めて、ベッドに潜り込んだはずだった。
「……眠れない」
どのくらい時間が経ったのか分からないまま、結局私は再び起き上がって、サイドテーブルにあった飲みかけのノンアルコールサングリアを片手にベランダに出た。
ほんのひと月半ほど前までは、日本の学歴社会においての頂点に君臨していると言っても過言じゃない大学に、意気揚々と通っていたのに。
家族を振り切り、妹を振り切り、誰に煩わされることもない未来は薔薇色のはずだった。
それが、なぜ。
飲み物を片手に、見知った星座がひとつもない夜空を見上げているのだろう。
一人暮らしをしていた時とは似ても似つかない広さのベランダに、アイアンチェア二脚と丸型のアイアンテーブルが置かれている。私は日本とは比べ物にならないほど星の多い空を苦々しく見つめた。
目の高さに掲げたグラスの中身を飲んだところで、ぶどうジュースにフルーツの浮かんだそれでは、酔って見た夢と思うことも出来ない。
「異世界で何してんだろ、私……」
――答えは返らない。
正確には、どうやって、は分からなくとも「何故」は分かる。
やってくれたのは、双子の妹・舞菜だ。
『たった二人の、血を分けた双子の姉妹だもん! マナを助けてくれるよね⁉』
異世界に呼ばれ「聖女」としてちやほやされるという都合の良い部分だけを享受し、そうあるための努力は最初からするつもりもなかった妹が「足りない部分は姉が補う」などと、相手に気軽に吹き込んだ結果――私は異世界に召喚されたのだ。
六年越しの家庭内叛乱を成功させて、誰にも後ろ指を指されない一流大学に入学を決めて地元を離れ、卒業後は自由になった自分の人生を謳歌するはずだった。そんな私の未来設計を、妹はたったの一ヶ月で叩き壊した。
ある日いきなり図書室で腕を掴まれ、気付いた時には私は中世ヨーロッパ仕様な宮殿の中に立たされていたのだ。
アンジェス国――登場人物も設定も、何もかもが乙女ゲームであり戦略シミュレーションゲームでもあった〝蘇芳戦記〟と酷似した世界。
この世界では各国を繋いでいる〝転移扉〟を維持出来る魔力を持つ者は〝扉の守護者〟と呼ばれる。
鉄道も飛行機も存在しない、馬車移動が主体の世界で〝転移扉〟の存在は非常に重要だ。それゆえ、それを維持するだけの魔力を持つ者は、国から王族にも匹敵するほどの手厚い保護を受けている。
そして、〝扉の守護者〟が男性であれば「聖者」と呼ばれ、女性であれば「聖女」と呼ばれている。世間一般にイメージされる祈りで浄化作業を行うような聖女像とは趣を異にしているのがこのゲーム世界だった。
多分妹は今でも充分には「聖女」の役割を理解していないだろう。
その結果、私を召喚するなどという強硬手段に出たのだから。
私が求められた役割は妹の補佐。私には魔力なんてものは欠片も存在しなかったにもかかわらず、だ。魔力があろうと、それ以外何もしない「聖女」に、召喚した側が早々に不都合を覚えたのだろう。
だからと言って、片道切符の強制招待はいただけなかった。
挙句、日本に戻る術もないと知ればなおさらに、妹に縛り付けられたままの生活などごめんだと、そう思って、王宮さえも早々に出て行くつもりではいたのだけれど。
ぶっちゃけ住所不定無職の状態で未知の世界へ飛び出していくほど、お花畑脳にはなれなかった。
だから数多の不満と不安はいったん全て吞み込んで、アンジェス国宰相であり、大学の図書室から私を引きずり込んだ当事者であるエドヴァルド・イデオン公爵の邸宅で、私は自活の目処が立つまで厄介になることを許容したのだ。
あくまで、それは王宮で妹と暮らすことを避けるための、せめてもの代案としてだった。
そうなると嫌でも、ゲーム上の今後を考えざるを得ない。
今の自分が暮らすのは、アンジェス国イデオン公爵邸。
となると、私が歩んでいるのは間違いなく〝エドヴァルドルート〟だろう。
元々アンジェス国パートのシナリオは恋愛が少なく、戦略シミュレーションゲームとしての趣が強い。
それゆえ美形キャラとの恋愛を楽しみたい女子の多くは、より恋愛要素の強い別の国――ギーレンかバリエンダールからスタートしていたはずだ。
アンジェス国で展開していく物語は、隣国であるギーレンからの侵略、あるいは〝扉の守護者〟の略奪を阻止することがメインになっている。
だからバッドエンドは必然的に国の滅亡による上層部の処刑、あるいは宰相の暗殺によって国が滅亡するフラグが立つというシナリオになっている。
では今の私は、ゲームの時系列で言うところのどこに立っているのだろう。
イデオン公爵邸に招かれて最初に確認したのはそのことだった。
エドヴァルドルートのバッドエンドは二種類ある。
その分岐点になる事件の内、隣国ギーレンでの第一王子による婚約破棄事件は既に発生していた。
そのため、機密情報である〝転移扉〟の情報流出事件から派生するエドヴァルドの処刑エンドのシナリオは消滅していると判断できた。
けれど第一王子が王位継承権を失うことで、次期王太子として外遊に出ることになる第二王子エドベリが、滞在先であるアンジェス国の王宮で暗殺される可能性は残されている。
もしこのルートのまま進行すると、アンジェス国王の叔父レイフ殿下と、ギーレンでの復権を目論む元第一王子による二国同時の叛乱が勃発してしまう可能性がある。
そうなると、エドヴァルドが国を追われる途中で殺害されるバッドエンドにたどり着いてしまうかもしれないのだ。
エドヴァルドを失ってしまえば、聖女と共に王宮に縛り付けられるか、彼女とセットでレイフ殿下派閥のどこぞの有力貴族に囲い込まれかねない。
悪くすれば魔力なしの「聖女の姉」には価値もないとばかりに暗殺者を差し向けられるかもしれない。
いずれにせよ国王陛下が私の保護と教育をエドヴァルドに委ねた時点で、私の命運はエドヴァルドと共に動こうとしていたのだ。
とはいえ、今のままではシナリオを知ったところで舞菜は確実に何もしないだろう。なんとしても、私がエドヴァルドの死のシナリオを回避しなくてはならないのだ。
最初はもちろん私自身が死にたくないというところから始まった。けれど彼の邸宅で過ごすうちに、エドヴァルドも死なせたくないという気持ちが強くなっていった。
彼の処刑エンドが回避されたとして、ならばもう一つのバッドエンドである亡命・暗殺エンド阻止のため、これから私に何が出来るのか。
元いた世界に帰る術が見つからない以上は、今はそれを最優先に考える必要があった。
なのに。
(――帰さない)
「……っ!」
かつて、彼にそう囁かれたバルコニーに佇んでいたのがいけなかったのか、エドヴァルドに囁かれた言葉が脳裡にこだましてしまい、わちゃわちゃと両手を振ってしまう。
だいたい、そんなシナリオもスチルもゲームの中にはなかったのだ。
なかったはずなのに、実際には反則ぎみなバリトン声と共に、重なった唇の記憶までが甦ろうとしていて――
「――レイナ」
「ぴゃっ⁉」
まさか脳内こだまと現実とが一致すると思わず、うっかりおかしな声をあげてしまった。
気付けばベランダの向こうに立ったエドヴァルドが、ラフな格好でじっとこちらに視線を向けている。
「エ、エドヴァルド様……」
「眠れないのか」
「えっと……」
はいと答えても、違うと答えても、自分が不利になることが確定していそうで言葉に詰まる。
「いよいよアルノシュト伯爵夫妻が来ると思えば、ちょっと眠れなくて……」
困った私は、眠れないほどの悩みではなかったけれど、嘘ではないことを口にしてみた。
事実、現国王の叔父であるレイフ殿下は虎視眈々と叛乱の機会をうかがっている。明日やってくるアルノシュト伯爵夫妻はそんなレイフ殿下に抱き込まれて、彼に資金の提供を行っているようだ。
つまり、この国にいずれ起きる叛乱を防ぎ、エドヴァルドの命を救うためには、彼らをやりこめる必要がある。
アルノシュト領は無理な鉱山開発によって、鉱毒を垂れ流しているという話も出たからには、彼らを罰する重要性はさらに高まっているのだけれど……
「あ、案外難しいですよね。アルノシュト伯爵だけをやりこめて、領内の産業の価値は下げすぎず、経済的な体力をつけさせるっていうのは――――」
「――レイナ」
「……はい」
エドヴァルドに名前を呼ばれ、あえなく言葉を区切る。
どうやら悩んでいたのはそこじゃない、というのはバレバレだったようだ。
「一人でアルノシュト伯の瑕疵を問おうとしなくていい。そもそもこの問題は、一朝一夕でどうにかなるものではない。この件で貴女を王宮の聖女のところに戻すような真似は誓ってしない。……だから」
そこで少しだけ、間が空いた。
夜空に同化しそうな群青の瞳が、こちらを射貫く。
「公爵邸にいてくれ。私は決して召喚をした罪悪感で貴女を望んでいるわけではないんだ。覚えておいてくれ。明日、いや、これからも、私は貴女のすぐ傍にいるのだということを」
夜が明ければ、アルノシュト伯爵夫妻がいよいよ領地の報告にやってくる。昨日、私一人で対峙したのとは違い、エドヴァルドが隣に立つ。
彼らが難敵だというのはよく分かっている。貴族社会に慣れた彼らはのらりくらりとこちらの言葉を躱す術を知っているのだ。
そんな彼らと相対する不安があった。だから嘘はついていない。けれど本当に不安だったのは、そのことじゃなかった。
この邸宅の居心地の良さと、私を選び、傍にいると言ってはばからないエドヴァルドの言葉を信じていいのかという疑念。
そして舞菜じゃなく「怜菜」だけを見てくれる人間などどうせいないのだからと、一人で異世界を生き抜く術を模索していた、その計画と決意が揺らぐことへの恐怖だ。
私の心にそんな波紋を広げた張本人に向かって、不安定な己の内心を吐露する気には、今はなれなかった。
「もしまだ眠れないと言うのなら、このベランダをまた乗り越えて、添い寝に行くが」
「……っ⁉」
隣室のベランダに立ち、こちらを見つめるエドヴァルドの瞳の奥にわずかな本気の色を垣間見て、私は思わずブンブンと首を横に振った。
「寝ます、寝ます!」
「そうか……残念だな」
面白そうに笑わないでください、宰相閣下!
ゲーム設定の「冷徹鉄壁キャラ」はどこにいったんですか――⁉
第一章 視覚の暴力に立ち向かえ
その翌日。昨晩のやり取りなどなかったように、私たちは互いに声をかけあい、支度をしてアルノシュト伯爵夫妻を迎え撃ちに玄関へと向かった。
個性の強い貴族の奥様と聞いて、勝手にポンパドゥール夫人のような姿を想像していた私に、知識不足な面があったことは否めない。
けれど、アルノシュト伯爵夫人は、そんな私の想像の斜め上をいく奥様だった。
ポンパドゥール夫人は「侯爵夫人」だとか、国王陛下にはルイ15世のような公妾がいないとか、そういうことでもなく――単に、視覚として。
「……ナ、レイナ。気持ちは分かるが、そこで固まらないでくれ」
階段を下りる寸前、エドヴァルドからそう囁かれて、ようやく我に返る。
「……エドヴァルド様」
「ああ」
「ドレス、ヘルマンさんにお願いしていただいて、本当に、本っ当に、よかったです」
「……そうか」
本当に、を強調する私にエドヴァルドが苦笑している。
恐らく、階下にいた伯爵夫人からもそんなエドヴァルドの苦笑する姿が見えたのだろう。
まぁ……と、声が洩れ出ているのが聞こえた。
鉄壁無表情がデフォルトの宰相閣下が自分から私の方へと顔を寄せた上に、私の答えに微笑って言葉を返すその姿は、もはやバカップルのイチャイチャだったと気付いたのは後になってからだった。さらには侍女さん達がイイ笑顔で親指立てていたのにも、気付けなかった。
要はそのくらいの衝撃が、私の頭の中を駆け巡ってました。はい。
――トカゲとロリータ。
視界が一瞬、認識を拒否した。
伯爵夫人、確か私の倍のご年齢でしたよね?
トゥーラ・オルセン侯爵令嬢の姫系ドレスも大概でしたけど、さらにピンクとリボンとレースに拍車がかかって、ヘッドドレスまで付いての、ロリータ衣装ですか⁉
夫人単体で言えば、似合っていないわけではない。
彼女は割と柔らかい印象の女性で、ヤンキー少女との友情物語の映画で「ロリータちゃん」だった女優さん的なイメージが、無きにしもあらずだ。
ただ、そんな彼女が、無表情かつ爬虫類っぽい顔つきのアルノシュト伯爵の隣に立った瞬間に、それはもう、ただただ、視覚の暴力になってしまったというだけの話。
頼んだ「マダム・カルロッテ」の衣装は、本当に大丈夫だろうかと不安になってしまう。
とはいえ、今から戦う本命は、トカゲ伯爵のほうなので、慌てて彼女から視線を引きはがして微笑みを作る。
エドヴァルドも同様に酷薄とも言える笑みを浮かべて、二人を見下ろした。
「伯爵も夫人も、息災なようで何よりだ。報告書は昨夜彼女より預かっている。話は団欒の間でさせてもらおう」
エドヴァルドに玄関ホールで雑談をするつもりは欠片もないらしい。
宰相閣下の鉄壁無表情を分けてほしいと、切実に思った。
さあ、そのまま団欒の間へ――、と身体を動かそうとした時だった。
「まぁ公爵様、お隣の美しいお嬢様を私にご紹介くださいませんの?」
「……っ!」
甘ったるい伯爵夫人の声がかけられる。その声を聞いた瞬間、小さく息を呑み込んで、エドヴァルドに添えていた手に力を入れてしまう。
そんな動作に気が付いたのだろう。
「下りるぞ」
私を気遣うような小さなエドヴァルドの囁きに、私はなんとか内心を立て直そうと、コクリと頷いた。
それでもざわついた心は収まっていない。
鼻にかかったような甘ったるい話し方に、嫌悪感が先立つのはもはや条件反射だ。
衣装の傾向もそうだけど、色々な意味で、きっと舞菜が二十年たったらああなる。
あざとさは無意識。呼吸と同じレベルで異性の庇護欲を刺激する姿に既視感しかなかった。
頑張れ私、と自分自身に言い聞かせる。
大丈夫。
アレは舞菜じゃない。
何よりここで怯んでいては、公爵家の皆さんの期待に背いてしまう。
小さく深呼吸をして、エドヴァルドと共に歩を進める。
「……伯爵から話はあったと思うが」
すると途中の踊り場まで階段を下りたところで、エドヴァルドが一度足を止めて口を開いた。
「彼女が当代〝扉の守護者〟の姉、レイナ・ソガワ嬢だ。国が妹の補佐にと請うた賓客であり、陛下からの命で滞在してもらったが……あまりに優秀なので、私がこの邸宅の内向きのことも担ってもらいたいと、二階の私の隣の部屋への滞在を、切にお願いした」
そう言って口元を綻ばせたエドヴァルドの姿に、誰もが驚いて口を挟めずにいる。
「ああ、もちろん夫人の仰る通り、この美しさも理由の一端ではあるな」
いやあっ⁉
目の前で、しれっと歯が浮くようなことを言ってる人って誰ですか⁉
ホントに、女避け必要でした⁉
自分でなんとでも出来たんじゃ……!
内心嵐どころか暴風雨に変じたところに、バッチリとアルノシュト伯爵夫人と視線が合ってしまい、我に返った。
ダメだダメだ。ヨンナ直伝の〝深窓の令嬢のご挨拶〟を、ここで披露しないでいつするって話。
一度、エドヴァルドと視線を絡ませて、許可を得た体をとってから、ドレスの両端を軽く摘む。
「初めまして、アルノシュト伯爵夫人。レイナ・ソガワと申します。妹の補佐にと請われこちらの国へと参りました。ですが国の保護下にある妹と異なり、寄る辺なく不安にしておりましたところ、エドヴァルド様が手を差し伸べてくださいまして……現在では大変に、良くしていただいております」
エドヴァルドの微かな動揺が、再び組んだ腕越しに伝わる。
なんですか。嘘は言ってないですよ? 物は言いようです。
ちらりと視線を向けると私の言わんとしたことを察したのか、一瞬の動揺すらなかったものとしたエドヴァルドが、アルノシュト伯爵夫人が何かを言いかけるよりも先に私の言葉を継いだ。
「……無理を言って来てもらったのだから、当然だ。だが今となっては陛下の命などなくとも、私はこの邸宅で貴女を守るつもりだ。もはや義務ではない。そのことを皆に周知させるべく、貴女には二階への滞在を願っている」
そう言って前を向いたエドヴァルドは、それ以上は誰の言葉を待つこともなく、私の腕を引いて残りの階段を下り始めた。
伯爵夫人が目を丸くしているところから言っても、その場しのぎの嘘を言っているようには見えないのだろう。
「公爵様……本当に今年は、縁談はご不要ですかしら?」
階段を下りきったエドヴァルドは、そのまま歩いていたものの、そんな夫人の声に一度だけ足を止める。
「そもそも毎年必要としていないが。それでも、私がいかに彼女を大切に思っているか理解いただけたようなら、以降は他をあたってもらいたい」
そう冷ややかに言い置いてからこちらへと向けられた微笑みに、冷徹宰相との乖離が半端ないと、私は思わず息を呑んだ。
果たしてこれほどのキラキラなスチルが〝蘇芳戦記〟の中にあっただろうか。
さすがのアルノシュト伯爵夫人も、それ以上何も言えなくなってしまったようだ。
多分、この手の人は容易に引かないとは思うけど、初戦は取ったってことで……いいんだよね?
トカゲ伯爵様が、色々と諦めた表情なのはなんとも言えないけど……
それって、誰の、何を、諦めたの? ねぇ?
団欒の間に着くと、エドヴァルドは書類片手にあくまでさりげなく、話の口火を切った。
「さて、あまり事細かに領の運営に口を出すつもりはないが……昨日レイナ嬢から話を受け取った範囲だと、特に他領の商会に銀の先買権を譲渡したのは気になるな。なぜ自領の商会にしなかった? 他領に先買権を譲るほど困窮しているのならばこちらも対処に動くが」
「……っ」
エドヴァルドが突いたのは、アルノシュト伯爵家がレイフ殿下に与して国への叛逆に加担するのではないかとの疑惑についてだ。
もちろんあからさまにそんなことは言っていない。ただの仄めかしだ。
そんなエドヴァルドの言葉にアルノシュト伯爵は一瞬だけ表情を揺らがせ、それからすぐに彼は立ち直った。
このあたり、狼狽を隠せていなかったオルセン侯爵とは器の違いを感じる。
「申し訳ございません。妻の実家絡みでしたもので、他領という印象が薄かったのでございます。それに、近い内に坑道の掘削を少し奥まで進めたく、鉱山労働者の環境を整える必要もありましたので、配給する食糧や薬が例年より多く必要だったのです」
鉱山での労働自体、ハードな肉体労働であると同時に、坑内での石の粉や煙を遠因とした呼吸器疾患の危険性を、常に抱えている。
一人一人が長時間労働にならないようにするため、当然作業は交代制だ。さらにそれぞれに、交代待機の間の補償も必要となる。
それを食料や薬の配給で賄っているのであれば、確かに一定の備蓄は必要だろう。
「備蓄が増えているのは、そのせいと言う訳だな」
エドヴァルドも、そこは納得したように頷いている。
その頷きに、アルノシュト伯爵は少しホッとしているように見えた。
「掘り進めた坑道が安定しましたら、次年度は先買権を譲渡するようなこともないかと存じます」
これ以上エドヴァルドに詮索をされないためには、当面先買させる銀の量を、理由なしに増やす訳にはいかない。これで「来年はそれほど資金提供が出来ない」という一言が、アルノシュト伯爵側からレイフ殿下側に、裏で流れるだろう。
叛乱には金銭も、物資も大量に必要だ。多少なりと彼らへの牽制にはなるはずだ。
――今出来るのは、ここまでじゃないかと思う。
そんな私の視線を受けて、エドヴァルドが諦めたように短く息をついた。
「いいだろう、承知した。アルノシュトからの情報は気にかけておくようにするから、問題が生じるようなら、すぐさま使者を立てろ。坑道を掘り進めるとなると、落盤事故や掘削で出る屑石の処理などでも、対処に困ることが出てくる可能性もあるからな」
「は……ご配慮誠に有難く……」
恐らくは去年まで言われなかったことを言われたであろう、アルノシュト伯爵の目が泳いでいる。
爬虫類顔で目がせわしなく動いているのは、ちょっと、いや、かなり不気味。
多分、と言うか間違いなく、現段階で既に、夫人の故郷でありレイフ殿下の直轄領であるブラード領の商会が手配した労働者が銀山に流入して、周辺の村で起きている事故報告等を握り潰している。残念ながらまだ、証拠はないのだけれど。
この場では、次はないと仄めかせておくぐらいのことがせいぜいだろう。
「去年までも、気にかけているつもりではあったが、鉱山に関しては、私よりも彼女の方が余程詳しかった。私も色々と学ばされた。伯爵も、何かあれば彼女にまず意見を聞いた方がいいかもしれんと思った程だ」
……エドヴァルドの言葉であちこち動いていたアルノシュト伯爵の目が、一瞬で私の方に寄ったのは、さらに不気味。
とりあえず、困った時の扇頼みで、口元を覆いながら、ニッコリと微笑んでおく。
ホント、コレ便利だわぁ。
最初は使い慣れなくて四苦八苦したけど、だいぶ使い方が分かってきた。
「あまりハードルを上げないでくださいませ、エドヴァルド様。私は、目をかけていただいているお礼にと、元いた国で学んだ知識をお渡ししているだけですから」
「その謙虚さこそが、私がますます貴女を手放せなくなる理由でもあるのだがな」
「まあ」
扇の後ろで引きつった笑いを浮かべつつ、視線を下に向ける。
うん、まあ……長年、家族に対してやってきたことだから、小芝居は得意なんだけど。
なんだろう、そこに宰相閣下が加わることで、演目がとんでもなくグレードアップしている気がする。だけど仮にエドヴァルドのアンジェス追放フラグを叩き折ったとして、今年はいいにしても、来年も再来年もエドヴァルドは同じ小芝居で見合い攻撃をぶった切るつもりなんだろうか。
とりあえず、今この場を凌げればそれでいいということか。
実際アルノシュト伯爵はそんな小芝居に踊らされてくれたようで、ハンカチを汗で拭って首を横に振っている。
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