聖女の姉ですが、宰相閣下は無能な妹より私がお好きなようですよ?

渡邊 香梨

文字の大きさ
上 下
629 / 803
第三部 宰相閣下の婚約者

651 欠陥だらけの投資講座

しおりを挟む
「……投資は何のためにするのか?この前ご説明申し上げましたね」

 応接間ドローイングルームからは、落ち着いた大人の男性の声が聞こえる。

 私たちは、続き扉で繋がる部屋のその扉を少しだけ開けて、声が洩れ聞こえてくるようにした。

 ええ、と若い女性の声がそれに答えていた。

「将来に向けてお金を増やしたり、商品の値段が上がってお金の価値が下がるような事態が起きた時のために、資産を蓄えておくこと……でしたわよね?」

「その通りです。我々が宿に戻ってからも『学び』を続けて下さっていたようで何よりです」

「将来まとまったお金が必要となったり、急激な物価上昇が起きてしまった時に、それまでの資金だけでは対応できないケースが生まれるから、今からでも備えておくべきだ、と」

「仰る通りです。そのため、投資をすることが大切なのです」

 なるほど、言っている内容としては間違ってない。

 単語としては存在しないようだけど、物価上昇すなわちインフレだ。
 インフレに備えるため、投資をする。

 将来に向けてお金を増やすには、投資をすることが大切なのではないか。
 ――上辺だけ聞いていると、うっかり頷いてしまいそうな内容だ。

 何せ「投資とは」と言う論点に絞るのであれば、その言葉は嘘ではないのだから。

 だけど本来、投資は目的や目標のある人間が、本人の余剰資金でやることであって、将来を見据えて投資をすることが、領政における必須項目と言う訳では決してない。

 投資とはあくまで「利益の獲得を見込んで事業や金融商品などに自己資金を出すこと」でしかなく、必ず利益を残せるものではないのだ。

 大きな声を出せないので、黙って聴き耳を立てることしか出来ないけれど、お義兄様ユセフやヒース君の顔色を見る限りは、私と同じ理解でいるものと思われた。

「ジェイの新たな漁場の話が公に広まれば、確実に経済は回り、物価にも影響が出てきます。みすみす隣国の公爵家に権利を奪われてしまっては、コンティオラ公爵家の名折れと思われませんか?」

「「……っ」」

 この部屋と隣の部屋とで、姉と弟が図ったように息を呑んでいた。

 けれど弟・ヒース君の方は「知った風な口を……!」と地獄の底からでも響いていそうな声を低く発しながら、両の拳をギリギリと握りしめていた。

 ああっ、せっかく手当して貰った傷がまた……!

「ええ、ええ、そうですわね!これで『家』のために資産が残せる者だと周りに示すことが出来れば、もきっとわたくしに興味を持って下さいますわ……!」

「……っ」

 私が思わず顔をしかめたところに、今度はお義兄様ユセフとヒース君の視線がこちらに突き刺さった。

 ヒース君の掌の力が緩んだことは良かったかも知れないけど――もの凄く複雑な気分だ。

 ここに誰もいなければ「持つわけないでしょ」と、零してしまいたくなるところだった。

 新たな漁場が仮に本当に計画があったとして、隣国の公爵家まで話に絡んできそうと言うなら、それは既に外交案件であり、一個人の手に余る話になる。

 マリセラ嬢としては、確実な儲けを出してから父親に言いたかったのかも知れないけれど、このまま黙っていたなら、いずれ父親の公務に差し障ることを本来気が付かないといけない。

 宰相であるエドヴァルドにしてみれば、興味どころか怒髪天ものの話だ。

「イレネオ、頼んでおいたお金をここに」

 コンティオラ家の家令には、いったんはお金を渡すようにヒース君が事前に頼んでいた。

 家令イレネオはさすがのプロフェッショナル、まるで感情を読み取らせない声で「承知しました」と答えているのが聞こえた。

 お嬢様のお小遣いの範囲で……との話だったし、この部屋からはお金が見えるわけではない。ただヒース君がこめかみを痙攣ひきつらせているところからすると、そこそこの額ではあるのかも知れない。

 後でヒース君に聞いたところだと、コンティオラ公爵は王宮に詰めていることが多く、あまり家にいない負い目もあってか、どうやらそこそこのお小遣いを娘に渡していたらしい。

 さすがに無尽蔵に宝石やドレスを買い与えるわけではなかったものの、茶会があるとか誰かの誕生日だとか、それなりの理由があれば買い物に「否」と言うことはあまりなかったんだそうだ。

 現場を見たわけではないものの、自分に対してもそうだから、恐らくマリセラ嬢も似た環境の筈と、その時のヒース君は言った。

 不自由をさせているつもりはないと、本人は思っている。
 日本でも、そんなタイプの父親は一定数存在する。
 明らかな「ダメパパ」だ。
 
 これを機に、コンティオラ公爵家はぜひ家族のあり方を見直して貰いたい。
 ……私に言えた義理ではないけれど。

 ともかく今はただ、お金のやりとりがなされているのを半ばイライラとしながら隣室から見守っていた。

 もっと投資によるリスクとか、どのくらいまで価値が上がったら売るのかとか、売りたいとおもった時には誰に声をかけるのかとか、逆に価値が下がった時の損切りラインはどこにするのかとか、お金を渡す前に聞くことは山ほどあるだろうに――!

 とは、多分隣室で聞き耳を立てる全員が思っていたことだろう。

 儲かると言われて、ホイホイお金を渡すとか、投資初体験にしても問題がありすぎる。

「ご夫人もいかがですか?お嬢様とご一緒に資産形成なさいませんか」

 多分、儲けを力説しておきながら、マリセラ嬢にだけ進めているのでは怪しまれると思ったのかも知れない。

 相手は付き添いを装うデリツィア夫人にも、同じように声をかけた。

「……いえ。わたくしは夫を通さずに自由に出来る資金は持っておりませんので、この場では……」

「…………」

 一瞬、ピリリとした空気が場を満たした。

 多分それは「父親に話をした方が良い」と言うデリツィア夫人からの、今できる精一杯の警告であり、夫人自身からの「夫の声が聴きたい」と言う密かな主張のように思えた。

「そ、そうですか、それは残念ですね」

 偽教師の痙攣ひきつった声が聞こえる。
 どうやらクレト・ナルディーニ卿が人質同然になっていると言う点での信憑性が増したように思えた。

「ではお嬢様はこちらの書面に署名をお願い出来ますか。次にお会いする時には、きっと良い報告が出来ると思いますよ」

「まあ、楽しみですわ」

 バカ姉……っと、呻いているのが隣から聞こえるけれど、うん、かなりの小声。
 ヒース君のためにも聞かなかったことにしておいてあげようと思った。

 契約書は上から斜め読みしただけで、ブロッカ商会なりシャプル商会なりの話の方を鵜呑みにしてサインしたようなものだから、それはヒース君もブチギレたくなるかも知れない。

「では今日は、これをセルマの街で待つ商会の者に渡して、早速漁場周辺の土地のや漁場そのものの契約を進めさせましょう。投資は時と場合が大事ですからね。ではお嬢様、また改めて」

 ここまでの流れるような話し口調からして、偽教師自身も貴族――ブロッカ商会長と言うことで良いのだろうか。

 まあ、捕まえてみれば分かることだ。

 外で身を隠しているコンティオラ公爵家の護衛たちとタイミングを合わせるべく、今度は〝鷹の眼〟たちが真剣な表情と空気を漂わせ始めた。

 お金を持った商会関係者が邸宅やしきを出る――そこからが、勝負だ。
 そしてこちらは……

「フォルシアン公爵令息、公爵令嬢。もう、向こうの部屋に入っても構いませんね……?」

 どうやらマグマ煮えたぎるヒース君を、一度ガス抜きさせないといけないようだ。
しおりを挟む
685 忘れじの膝枕 とも連動! 
書籍刊行記念 書き下ろし番外編小説「森のピクニック」は下記ページ バックナンバー2022年6月欄に掲載中!

2巻刊行記念「オムレツ狂騒曲」は2023年4月のバックナンバーに、3巻刊行記念「星の影響-コクリュシュ-」は2024年3月のバックナンバーに掲載中です!

そして4巻刊行記念「月と白い鳥」はコミックス第1巻と連動!
https://www.regina-books.com/extra 

今回から見方が変わりました。何か一話、アルファポリス作品をレンタル頂くことで全てご覧いただけますので宜しくお願いしますm(_ _)m
感想 1,407

あなたにおすすめの小説

誰にも信じてもらえなかった公爵令嬢は、もう誰も信じません。

salt
恋愛
王都で罪を犯した悪役令嬢との婚姻を結んだ、東の辺境伯地ディオグーン領を治める、フェイドリンド辺境伯子息、アルバスの懺悔と後悔の記録。 6000文字くらいで摂取するお手軽絶望バッドエンドです。 *なろう・pixivにも掲載しています。

今日結婚した夫から2年経ったら出ていけと言われました

四折 柊
恋愛
 子爵令嬢であるコーデリアは高位貴族である公爵家から是非にと望まれ結婚した。美しくもなく身分の低い自分が何故? 理由は分からないが自分にひどい扱いをする実家を出て幸せになれるかもしれないと淡い期待を抱く。ところがそこには思惑があり……。公爵は本当に愛する女性を妻にするためにコーデリアを利用したのだ。夫となった男は言った。「お前と本当の夫婦になるつもりはない。2年後には公爵邸から国外へ出ていってもらう。そして二度と戻ってくるな」と。(いいんですか? それは私にとって……ご褒美です!)

完結 穀潰しと言われたので家を出ます

音爽(ネソウ)
恋愛
ファーレン子爵家は姉が必死で守って来た。だが父親が他界すると家から追い出された。 「お姉様は出て行って!この穀潰し!私にはわかっているのよ遺産をいいように使おうだなんて」 遺産などほとんど残っていないのにそのような事を言う。 こうして腹黒な妹は母を騙して家を乗っ取ったのだ。 その後、収入のない妹夫婦は母の財を喰い物にするばかりで……

【完結】王女と駆け落ちした元旦那が二年後に帰ってきた〜謝罪すると思いきや、聖女になったお前と僕らの赤ん坊を育てたい?こんなに馬鹿だったかしら

冬月光輝
恋愛
侯爵家の令嬢、エリスの夫であるロバートは伯爵家の長男にして、デルバニア王国の第二王女アイリーンの幼馴染だった。 アイリーンは隣国の王子であるアルフォンスと婚約しているが、婚姻の儀式の当日にロバートと共に行方を眩ませてしまう。 国際規模の婚約破棄事件の裏で失意に沈むエリスだったが、同じ境遇のアルフォンスとお互いに励まし合い、元々魔法の素養があったので環境を変えようと修行をして聖女となり、王国でも重宝される存在となった。 ロバートたちが蒸発して二年後のある日、突然エリスの前に元夫が現れる。 エリスは激怒して謝罪を求めたが、彼は「アイリーンと自分の赤子を三人で育てよう」と斜め上のことを言い出した。

お前のせいで不幸になったと姉が乗り込んできました、ご自分から彼を奪っておいて何なの?

coco
恋愛
お前のせいで不幸になった、責任取りなさいと、姉が押しかけてきました。 ご自分から彼を奪っておいて、一体何なの─?

山に捨てられた令嬢! 私のスキルは結界なのに、王都がどうなっても、もう知りません!

甘い秋空
恋愛
婚約を破棄されて、山に捨てられました! 私のスキルは結界なので、私を王都の外に出せば、王都は結界が無くなりますよ? もう、どうなっても知りませんから! え? 助けに来たのは・・・

【完】お義母様そんなに嫁がお嫌いですか?でも安心してください、もう会う事はありませんから

咲貴
恋愛
見初められ伯爵夫人となった元子爵令嬢のアニカは、夫のフィリベルトの義母に嫌われており、嫌がらせを受ける日々。 そんな中、義父の誕生日を祝うため、とびきりのプレゼントを用意する。 しかし、義母と二人きりになった時、事件は起こった……。

【完結】略奪されるような王子なんていりません! こんな国から出ていきます!

かとるり
恋愛
王子であるグレアムは聖女であるマーガレットと婚約関係にあったが、彼が選んだのはマーガレットの妹のミランダだった。 婚約者に裏切られ、家族からも裏切られたマーガレットは国を見限った。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。