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1巻
1-3
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エドヴァルドが考えていた時間は、思った程には長くなかったと思う。
なんと言っても、冷徹鉄壁の宰相サマなので、何を思っての決断なのかは分からなかったけど。
「閣下⁉」
ただシモンが驚愕の声をあげているところからして、それは普通では考えられない対応なんだろう。
「どうせ使用人しかいない邸宅だ。王宮が嫌なら、必要な時だけ公爵邸から王宮暮らしの聖女に謁見してもらうのが、現実的な落としどころだろう」
というか、宰相閣下、公爵様だったんだ。そういえばそんな設定だったかな。
そして独身で、婚約者もいない、と。
いたら、そんなトラブルの元になるような提案はしないだろうし。
「しかし、ただでさえ聖女マナと陛下のことも噂になっておりますのに、この上閣下までとなると、レイフ殿下やその派閥の方々が、何を仰るか――」
「見当違いの方向に煽られて自滅をしてくれるなら、陛下も私も、噂程度いくらでも甘受するつもりだ」
(流石、攻略難易度最高のキャラだ)
ただの親切で、邸宅に置こうとしているのではないと、さりげなく私の方に伝えてきている。多少「乙女ゲーム的恋愛」の始まりに期待があったとしても、下手をすれば、ここでパッキリ折れてしまうプレイヤーもいるだろうなと思う程に、周囲の空気がブリザードだ。
自分の邸宅に私を招くことでおかしな期待をするなと、牽制でもしているつもりなのだろうか。
だったら私は、エドヴァルドが望んでいるであろう答えを返すしかないんだけれど。
「私は、王宮で舞菜とべったり暮らさずに済むのなら、囮だろうと女除けだろうと、好きな立場に置いてくださって構いませんよ。閣下の邸宅でただ、無駄飯喰らいになるのも申し訳がないので」
「……っ」
自分が先にそういう空気を振っておいて、実際に反論されたら、目の奥だけとは言え、複雑な表情を浮かべているのも、どうかとは思うけど……
意外にこの人、内側の感情は豊かなのかもしれない。
職業病的に、無表情の仮面が強力に張り付いているだけで。
「ローベルト副官が言ったように、他の人も同じ勘違いをしてくれれば、ちょうどいいですよね。私が王宮に留まるのを拒否する理由として陛下も納得してくださるような気がしますし」
「……その通りだ」
「そんな……っ」
「――ローベルト副官」
うん、きっと『宰相閣下』に、無条件にも近い崇拝を抱いているのと同様に、シモンは『聖女』という存在に対してもある種の憧憬がある。それでその姉も、蔑ろにしていい存在じゃなくなっているんだろう。
偶像崇拝の、ちょっと拗れた人。
私はそんな彼になるべく穏やかに、声をかけた。
「私は、王宮に留まるのはイヤだと言いました。なので城下の食堂あるいは宿屋で、下働きとして雇ってもらうのと、公爵邸に置いていただくのと、どちらなら妥協して、許容していただけます?」
「な……っ」
よくよく聞けば、無茶苦茶な二択だとは思う。
だけど王宮に留まりたくないという点は譲れないのだから、そこは無理にでも、この二択から選択してもらうしかない。多分エドヴァルドだって、王宮には置けない、かといって城下に出す、あるいは国外に逃げられるのも、もっての外――との消去法での、公爵邸滞在という選択肢になったに違いないのだから。
「諦めろ、シモン。陛下には私から伝えておく。そもそも、こちらは『誘拐犯』だ。これ以上彼女に何かを強要するべきではない。彼女は王宮滞在を拒んでいる。こちらは、公務の部分だけでも、聖女のフォローをしてほしい。その妥協点が、公爵邸への滞在というだけの話だ」
「ええ、そうです。妥協です。なんなら、黙ってギーレンに出奔してしまってもいいんですから。王宮滞在を強要されるのであれば、多少の危険を冒してでも、その選択肢をとるつもりですし」
二人して同じ妥協点を持っていると告げられたシモンは、とうとう反論出来ずに、口を閉ざしてしまった。
「……出来れば、あまり追い詰めないでやってほしいが」
すると、流石の鉄壁宰相の表情にも、そこでちょっと困惑が見えた気がした。
シモンが宰相の立場を気遣っていることは嫌でも分かるだろうし、元々副官として、それほど無能という訳ではないんだろう。私はつんと顔を逸らして言う。
「……宰相閣下と示し合わせて、人に薬を盛ろうとしたくらいなので、もう少し耐性はあるかと。というか、彼、腹芸出来なさすぎじゃないですか」
「……そのようだ」
だけどそこは、フォローしきれなかったらしい。私もあえてそれ以上は触れずに、話を戻す。
「それじゃ真面目な話ですけど、宰相閣下。公爵邸に本当にお世話になっても構わないんですか?あと、家庭教師なりなんなりを付けていただくことは可能ですか? 今会話は出来ていますし、周辺諸国の情勢も多少は理解していますけど、この部屋の本棚にある本の背表紙の意味は理解出来ません。だから多分文字は読めないと思います。社交マナーとか、向こうで学ぶ必要のなかった科目もありますから、足りない部分も多々ありますよ」
そう聞いたエドヴァルドの表情が僅かに動いた。
「……向こうでは、優秀な学校に通っていたと聞いたが」
「そうですね。官僚になるための勉強をするはずでした。まあ、実質一ヶ月ほどしか通えていませんので、独学付け焼き刃の知識しか、まだありませんけど」
「官僚……」
「あ、意味が通じませんか? しいて言うなら、宰相閣下が普段なさっているようなお仕事をするために、必要な知識を学ぶところです」
大学では経済学部に進むつもりだったとか、在学中の諸々の試験突破だの資格取得だの、さらに全国転勤のある官僚、あるいは総合商社に就職をして、日本中あるいは世界各国を飛び回れれば、家に寄り付かなくて済むと思っていた――なんて、どれもこれも説明不可能だ。
ざっくり考えて、多分、宰相室での仕事が一番近いという気がしただけだ。
しかし宰相閣下にはそれで十分だったらしい。
「……だから経理や領政の補佐が、少しは可能だと言ったのか」
「そもそも文字を学ぶ必要があるって言うことを忘れてましたけど、知識だけなら多少は」
恐らく「異世界転移による補正」とやらは、文字の部分にまでは及んでいない。彼らが妹の補佐役を必要としているのは、決して迂闊すぎる妹の行動を危惧しているだけじゃないように見える。
言葉以外のところで、不都合があるに違いない。
案の定、エドヴァルドはそれに軽く頷いた。
「家庭教師の話に否やはない。そもそもそれは、陛下が聖女に学んでほしいと望んでいたところにも合致する。未だ学びたがらない聖女に代わってその姉が、妹を補佐するために集中して手ほどきを受けるのだと言えば、誰も貴女の公爵邸滞在を面白おかしく吹聴すまい」
「……そうですか」
学びたがらない、とエドヴァルドは確かに口にした。
舞菜が進んで勉強したがるはずがないと思っていたら、やっぱり拒否していたようだ。
まあそこは、今後自分が生計を立てるのにも必要だから、有難く手配してもらっておこう。
「では、邸宅には先触れを出しておく。私は今から陛下に報告にだけ行ってくる。召喚の儀式が朔月の動きに合わせていたために既に外は日が暮れている。本来ならまだ仕事をしている時刻ではあるが、今日はこれも仕事の一環として、貴女を公爵邸へ案内しよう」
「……オセワニナリマス」
心から感謝する気持ちになれていないのは、勘弁してほしい。
頼んでもいないのに、別の世界に呼びつけられたのだから、それは無理だ。
朔月イコール新月ならば、異世界召喚の機会自体はいくらでも訪れそうだと思ったのだけれど、よくよく聞いたところによると、実際は皆既月食に近い現象の時だったらしい。
そうなると、もう次にこの世界でいつ機会が巡って来るか分からない。
妹が呼ばれてから一ヶ月やそこらで私を召喚することが出来たのは、本当に偶然の為せる業だったみたいだ――有難くないことに。
未だに顔が痙攣っているシモンとは違い、恐らくは、そんな暴風吹き荒れる私の内心を察しているらしいエドヴァルドは、頷いただけだった。
「私が陛下の所に赴いている間、必要なら、聖女の部屋に案内させるが」
「お気遣いなく。話すこともありませんので。ここで閣下をお待ちしています」
間髪入れずに返す私に、どうやら二人とも気圧されたらしく、それ以上は何も言わなかった。
「シモンも、今日はもういい。この後、陛下からある程度、今後のことについても指示があるだろう。明日また改めて、話は詰めよう」
「は……」
「意に沿わないことをさせてすまなかった。珈琲の件は、おまえに責任はない」
「っ! 閣下、それは……っ」
エドヴァルドが自分を庇ってくれているのだと気付いたシモンの顔は、申し訳なさよりも、嬉しさが上回っているように見える。
忠犬……と思わず口にしかけたら、何故分かったのか、宰相閣下から速攻視線でのストップがかかった。慌てて口を手で押さえていると、どことなく涙目のシモンが私の方を向いた。
「レイナ殿……私としましては、王宮にいていただきたいと思っている点は変わりませんので、どうかその点はご承知おきください」
「分かってます、ローベルト副官。少なくとも公爵邸にだけは長居をしないよう、早めに必要事項は会得しますね」
「いえ、ですから――」
「私は、王宮にだけはいたくないと思っていることにも変わりありませんので、その点よろしくご承知おきください?」
再度「だけ」を強調して、笑顔でそう返せば、シモンは口ごもり、エドヴァルドは片手で額を覆った。
うん、せっかく尊敬する上司が庇ってくれたのを、自分で台無しにしていたら、世話がないよね。
その後、肩を落としたシモンが部屋を後にしていき、私が壊してしまったコーヒーカップとミルクポットを片付けに、使用人と思しき壮年男性が入れ違いに中に入って来た。
そしてそれを見届けたエドヴァルドが「じきに戻る」と、宰相室を後にする。
……ここに残りたいとは言ったけど、まさか一人で残されるとは思わなかった。
いや、ある程度は舞菜を見ていて免疫があるだろうから、部屋から出るようなことさえなければ、大丈夫と思われたのかもしれない。
現に護衛の騎士二人は、部屋の扉付近でじっと佇んでいるだけだ。
扉付近に張り付いている感じで、とても気軽に話しかけられる雰囲気じゃなかったけど。
「あーあ、計画やり直しかぁ……」
六年越しの独り立ち計画を台無しにされて、ちょっと心が折れそうになったこともあってか、つい愚痴が洩れる。
ピクリと護衛騎士二人が、私のため息交じりの言葉に反応していたけど、私は「独り言です」とだけ、微笑っておいた。
第二章 公爵家の客人
「うわぁ……」
正門から、邸宅の入口までが遠い。
そして見えたら見えたで、前に住んでいた地域に文化財として遺っている、ルネサンス式の旧公爵邸を彷彿とさせる洋館がそこに佇んでいて、思わずため息が漏れる。
貴族社会の中で独り立ちするには、身分も資金も圧倒的に不足してることを実感させられてしまった。
そんなことを考えていたからか、先んじて馬車を下りたエドヴァルドが、無言でこちらに手を差し出したのがエスコートの申し出だということを、一瞬理解しそこねた。
無言で固まるエドヴァルドに、ハッと私も我に返る。
「……ごめんなさい。私の国には、そう言った習慣がないので、気が付きませんでした」
「……いや」
慌てる私に、それが事実と分かったのか、表面的な不快さをエドヴァルドも見せなかった。私は改めて、差し出された掌に自分の手の指をそっと置く。その指は、ごく自然な仕種で包み込まれて、そっと前方へと誘導される。
「……っ」
まさか、現実世界でエスコートをされるのが、これほど羞恥心を煽るものだとは思わなかった。
生意気な口しかきいていない一般市民を相手に、内心がどうであれ貴族としての作法を疎かにしない宰相閣下に流石と言うほかない。
「お帰りなさいませ、旦那様」
頬の赤みが引かないまま、半歩前から手を引かれて建物の中に入ると、玄関ホールの階段の下付近にいた侍女、従僕といった装いの男女複数名が一斉に頭を下げた。
エドヴァルドが現在何歳だったかは不確かだけど、確か〝蘇芳戦記〟のプレイ開始時点では二十九歳だったから、それに近い年齢ではあるだろう。
私には大仰に見えるこの挨拶にも鷹揚に頷いているあたり、その年齢で既に傅かれ慣れている感じがする。
公爵の身分は伊達じゃない――ちょっと感心はしたけど、よくよく考えれば、そもそも私の方が十歳も上の成人男性に対して、取る態度じゃなかった……かもしれない。
ごめんなさい。もう今更だからそんな気持ちはおくびにも出さなかったけど。
「セルヴァン」
「はい、旦那様」
エドヴァルドが声をかければ、居並ぶ中の一人が音を立てず、一歩前へと進み出た。
(わ、リアル執事スタイルな人だ)
私の変な感動はそっちのけに、会話は進む。
「支度は済んでいるか」
「はい。少々時間が足らなかったため簡易的にはなりましたが、お休みいただくのに不都合はないかと」
「ああ。聖女マナの姉君だ。失礼のないよう、皆にも言い聞かせておくように」
「かしこまりました」
もしもし、あの、私は「聖女の姉」と言っても、肩書だけの一般市民なんですが……!
そう叫びたいのは山々だったけれど、心なしかエドヴァルドの背中から「余計なことは話すな」オーラが漂っていて、迂闊に口を開くことが出来なかった。
うん、私は空気の読める女です。
私が楚々とした佇まいを崩さずにいると、またセルヴァンが問う。
「旦那様、お食事は如何いたしましょうか」
「ああ、私も彼女もそれどころではなかった。あるもので構わないから、軽く用意を頼む」
「かしこまりました」
「それと彼女の服は、異国のこの服だけだ。今日は頼んでいた通り既製品の服で構わないから、明日にでも仕立て屋の手配を頼む」
「そう仰るかと思いまして、既に手配させていただきました」
「ならいい」
口を挟む余地もなく、さくさくと話が進んでいく。
「あの……」
「では後程ダイニングルームで」
「……はい」
そうして何やら話がまとまったあと、私は茫然とエドヴァルドを見送ることしか出来なかった。
それから通された部屋は、二間続きというか、高級ホテルのスイートルーム並みの広さだった。寝室のベッドは天蓋付のキングサイズ、明らかにシーツ類も最高級で、それだけでもドン引きだったところに、ノックと共に侍女数名が持参した服に、さらに目が点になった。
「ドレス……」
ワインレッド色のベロア生地というあたりは、落ち着いた雰囲気があっていいのかもしれない。
だけどそもそも、さっき「軽い食事」的なことを耳にしたはずなのに、目の前の服は、どう見ても「ハレの日」用のドレスに見える。
日本では、ついぞお目にかかることもない別世界が目の前に存在していた。
「急ごしらえですので、お好みに合わない部分もあるかと存じますが、その分お顔やお肌を充分に整えさせていただきますので、どうかお任せくださいませ」
そして自分よりも年齢が上であることは間違いない女性たちが、自分に向かって敬語を使い、頭を下げていることにも著しい違和感がある。
「……いえ……こちらこそ、予定外のお仕事をさせてしまっているのでしょうし……というか、邸宅の中での食事に、この服が必要なのかという根本的な疑問が――」
「お嬢様は、異国からお越しとか。習慣の違いなどもあるかと存じますが、主人の心遣いとして、お受け取りいただけますと幸いにございます」
私が表情を強張らせたまま、遠慮しようとしているのを察したのか、そう出るだろうとエドヴァルドから言い含められていたのか、異論の挟みづらい言い方を、彼女はした。
押しは強そうながら、不思議と不快には感じない。
「まあ、私があまりゴネたら、怒られるのは皆さんの方ですもんね……」
諦めたように私がため息を吐き出せば、意外にも「いえ」と返ってくる。
「主人が無表情なために誤解を招きがちですけれど、私ども使用人を理不尽に怒鳴ったりは、よほどの非がある場合を除いてなさいません。異国から来られたばかりで、不安に思われる部分もあろうかと存じます。ですがこのイデオン公爵家は、お嬢様を充分お守り出来るだけの力はある家でございますので、どうぞご安心いただければと」
「……不安?」
「妹である聖女様のためとは言え、いきなり知らない土地に連れて来られて、不安にならないはずがないし、疑心暗鬼になっているところもあるだろうから、充分に世話をしてやってくれ、と」
そう仰っておられました、と言って頭を下げた侍女さんに私は思わず息を呑み込んでしまった。
――宰相閣下、無自覚のツンデレですか。うっかり揺さぶられそうなんですけど。
❀ ❀ ❀
両側に五~六人ずつ座れそうなテーブルなんて、リアルにお目にかかるのは初めてかもしれない。
火のついていない、薪もない暖炉はどういう仕組み……などと思いつつ視線を巡らせると、その前の所謂「お誕生日席」に相当する席に、既にエドヴァルドが腰を下ろしていた。
ただ、私がダイニングルームに入って来たのを確認すると、実にスマートな動作で立ち上がって、私のいる所へと歩いて来る。先ほどのエスコートが頭をよぎって、紺青色の瞳がこちらを映すのに、一瞬ドキリとしてしまう。……しかし。
「……化けるものだな」
化ける。
化けるとか言ってますよ、この方。
そりゃあまあ、日頃はアイブロウと口紅くらいしか持ってなかったし、公爵邸の侍女さんたちが、こちらがドン引きする程盛り上がった結果、彼女たちの手持ちの化粧品をこれでもかと塗りたくられはしましたけれども!
現在、邸宅に女主人がいないため、貴族層向けの化粧品の用意が間に合わなかったらしい。
結婚式にお呼ばれして、貸衣装に身を包みながら、美容院でメイクとヘアセットをお願いした。それが一番近い。
思わず遠い目になっていると、私の後ろで「ゴホン」と咳払いが聞こえた。
「旦那様。恐れながら、妙齢のご令嬢になさる言葉遣いではないと存じます」
さっき私と話していた、しっかり者のお姉さんは、あれからすぐにヨンナと名前を教えてくれた。
この邸宅の侍女長だそうで、エドヴァルドが公爵位を継ぎ、邸宅の主として立つ前から、もうかれこれ二十年以上、公爵邸にいるらしい。
ヨンナさん、おいくつです⁉ といったことや、宰相閣下、いつから公爵家当主に⁉ といったことやら疑問は満載だ。だけど現時点では、どれも関わらないに越したことはない気もしていた。
「……だ、そうだが?」
そんな私を見るエドヴァルドの表情は変わらない。だけど声色は、ちょっとこの状況を面白がっている感じがする。使用人であるヨンナさんが邸宅の主人たるエドヴァルドに苦言を呈することが出来るのは、邸宅全体の風通し、職場環境がいいからだろう。苦言を呈される側も、普段からそれを嫌悪せず、ちゃんと耳を傾けているということになる。
きっとこの公爵邸は、使用人達にとって居心地のいい職場なんだろう。
ヨンナさんは、私を「エドヴァルドに褒めさせたい」みたいだったんだけど、あまり無茶ぶりをしてもらっても、私がいたたまれない。私は「お気になさらず」と、うっすらと首を横に振るにとどめた。
お世辞全開で褒められても裏があるとしか受け取れないひねくれものなので、もうこのあたりで切り上げておいてください。ハイ。
「ドレスを着る慣習が、ない訳ではないのか」
一方エドヴァルドはと言えば、私からは見えないヨンナさんの表情に、圧力を感じたのかもしれない。
多少強引な感じに、話題を切り替えてきた。
「そうですね……婚姻とかお披露目パーティーの時くらいにはなりますけど。それに着たとしても精神衛生上、あまり長い時間保たないですね。だからと言う訳じゃないですが『化ける』と言う代わりに『魔法にかかる』と言った言い方をしたりします。ドレスを脱いで、化粧を落としたら『魔法が解けた』――と」
「……それは興味深いな」
口元に手をやって、本当に、興味を惹かれたと言った仕種を見せたエドヴァルドだったけど、ようやくダイニングルームの入口に立ったままだったことに気が付いたのか、再び、さっきの馬車を下りた時と同じく、右の掌をこちらに差し出してきた。
「では魔法にかかった麗しの姫君、お手をどうぞ」
「⁉」
真顔で何言っているの、この人!
旦那様、その調子です。と言っているのは――セルヴァン?
いやいや、これでクラっときていたら、タチの悪い詐欺に引っかかる未来しか見えない。
この国の生粋の貴族令嬢や舞菜が相手なら、それでいいのかもしれないけど、私は無理!
「……アリガトウゴザイマス」
思わず表情が抜け落ちてしまったあたり、私もあまり、シモンのことを言えないかもしれない。
ビックリしてうっかり腹芸を忘れてしまった……
「宰相閣下」
だから手を引いて、お誕生日席の向かい側にエスコートをしてくれたエドヴァルドが、手を放して椅子を引いたタイミングで、小声で伝えておいた。
「さっきのようなセリフは、どうぞそれに相応しいご令嬢、あるいはウチの妹相手に仰ってください。私は、自分のことはよく分かっていますから、必要以上に気遣ってくださらなくて大丈夫です」
すると何故か、上座に戻りかけたエドヴァルドが驚いたように足を止めた。
「……貴女は」
「はい?」
「王宮でも思ったが……本当に、場に流されないのだな……」
なんだろう。うっかり流されてくれれば手玉にとれるとでも思っていたのだろうか。
「すみません、ご期待に添えなくて。ただ、そもそも閣下も、ご自身の手札にないことを無理して為さらない方がいいと思いますよ。本来は無理して懐柔するより、さくっと相手の弱みを握る派でしょう?」
「……ははっ」
「「「⁉」」」
エドヴァルドはその場でただ笑っただけ――のはずなのに、何故かダイニングルームの使用人全員が、ギョッとしたように邸宅の主人をガン見した。
――物凄く稀少なものを見た、といった目だ。
もしかすると、邸宅内でも冷徹、鉄壁の仮面が標準装備だと思われているのかもしれない。頭の中が花畑でなければ、普通の会話も気遣いも出来る人だと、分かるはずなんだけど。
「……確かに、国王陛下のような詐欺じみた籠絡の手管は、私には無理難題もいいところだな」
そんな本人は知ってか知らずか、軽く咳払いをして、あっという間に笑いを収めてしまった。
今の一瞬の笑みは、貴重なスチルとして、有難く拝受しますが……
「ご自宅なんですから、素で過ごされてもいいんじゃないですか」
「……なるほど、そうか」
何気なく言ったそんな科白を、後で私は盛大に後悔することになる。だけど、その時は何かを一人で納得したかのようなエドヴァルドに気付かないまま、前菜、メイン、デザート、紅茶――の、公爵家的には「軽い晩餐」を有難く頂戴した。
……珈琲じゃなかったのは、王宮での一件のお詫びのつもりだろうかと思いつつ。
素材についてはよく分からないものの、フランス料理のような見た目と味付けで、一通り食べ終えることが出来た。どうやらこの世界の食に関して合わないことはなさそうで、とりあえずはホッとする。
そのうち私も、異世界物語のテンプレ通りに、日本食探しの旅に出たりするのだろうか。
舞菜という軛から逃れて暮らそうとするのなら、それもアリなのかもしれないけれど。
なんと言っても、冷徹鉄壁の宰相サマなので、何を思っての決断なのかは分からなかったけど。
「閣下⁉」
ただシモンが驚愕の声をあげているところからして、それは普通では考えられない対応なんだろう。
「どうせ使用人しかいない邸宅だ。王宮が嫌なら、必要な時だけ公爵邸から王宮暮らしの聖女に謁見してもらうのが、現実的な落としどころだろう」
というか、宰相閣下、公爵様だったんだ。そういえばそんな設定だったかな。
そして独身で、婚約者もいない、と。
いたら、そんなトラブルの元になるような提案はしないだろうし。
「しかし、ただでさえ聖女マナと陛下のことも噂になっておりますのに、この上閣下までとなると、レイフ殿下やその派閥の方々が、何を仰るか――」
「見当違いの方向に煽られて自滅をしてくれるなら、陛下も私も、噂程度いくらでも甘受するつもりだ」
(流石、攻略難易度最高のキャラだ)
ただの親切で、邸宅に置こうとしているのではないと、さりげなく私の方に伝えてきている。多少「乙女ゲーム的恋愛」の始まりに期待があったとしても、下手をすれば、ここでパッキリ折れてしまうプレイヤーもいるだろうなと思う程に、周囲の空気がブリザードだ。
自分の邸宅に私を招くことでおかしな期待をするなと、牽制でもしているつもりなのだろうか。
だったら私は、エドヴァルドが望んでいるであろう答えを返すしかないんだけれど。
「私は、王宮で舞菜とべったり暮らさずに済むのなら、囮だろうと女除けだろうと、好きな立場に置いてくださって構いませんよ。閣下の邸宅でただ、無駄飯喰らいになるのも申し訳がないので」
「……っ」
自分が先にそういう空気を振っておいて、実際に反論されたら、目の奥だけとは言え、複雑な表情を浮かべているのも、どうかとは思うけど……
意外にこの人、内側の感情は豊かなのかもしれない。
職業病的に、無表情の仮面が強力に張り付いているだけで。
「ローベルト副官が言ったように、他の人も同じ勘違いをしてくれれば、ちょうどいいですよね。私が王宮に留まるのを拒否する理由として陛下も納得してくださるような気がしますし」
「……その通りだ」
「そんな……っ」
「――ローベルト副官」
うん、きっと『宰相閣下』に、無条件にも近い崇拝を抱いているのと同様に、シモンは『聖女』という存在に対してもある種の憧憬がある。それでその姉も、蔑ろにしていい存在じゃなくなっているんだろう。
偶像崇拝の、ちょっと拗れた人。
私はそんな彼になるべく穏やかに、声をかけた。
「私は、王宮に留まるのはイヤだと言いました。なので城下の食堂あるいは宿屋で、下働きとして雇ってもらうのと、公爵邸に置いていただくのと、どちらなら妥協して、許容していただけます?」
「な……っ」
よくよく聞けば、無茶苦茶な二択だとは思う。
だけど王宮に留まりたくないという点は譲れないのだから、そこは無理にでも、この二択から選択してもらうしかない。多分エドヴァルドだって、王宮には置けない、かといって城下に出す、あるいは国外に逃げられるのも、もっての外――との消去法での、公爵邸滞在という選択肢になったに違いないのだから。
「諦めろ、シモン。陛下には私から伝えておく。そもそも、こちらは『誘拐犯』だ。これ以上彼女に何かを強要するべきではない。彼女は王宮滞在を拒んでいる。こちらは、公務の部分だけでも、聖女のフォローをしてほしい。その妥協点が、公爵邸への滞在というだけの話だ」
「ええ、そうです。妥協です。なんなら、黙ってギーレンに出奔してしまってもいいんですから。王宮滞在を強要されるのであれば、多少の危険を冒してでも、その選択肢をとるつもりですし」
二人して同じ妥協点を持っていると告げられたシモンは、とうとう反論出来ずに、口を閉ざしてしまった。
「……出来れば、あまり追い詰めないでやってほしいが」
すると、流石の鉄壁宰相の表情にも、そこでちょっと困惑が見えた気がした。
シモンが宰相の立場を気遣っていることは嫌でも分かるだろうし、元々副官として、それほど無能という訳ではないんだろう。私はつんと顔を逸らして言う。
「……宰相閣下と示し合わせて、人に薬を盛ろうとしたくらいなので、もう少し耐性はあるかと。というか、彼、腹芸出来なさすぎじゃないですか」
「……そのようだ」
だけどそこは、フォローしきれなかったらしい。私もあえてそれ以上は触れずに、話を戻す。
「それじゃ真面目な話ですけど、宰相閣下。公爵邸に本当にお世話になっても構わないんですか?あと、家庭教師なりなんなりを付けていただくことは可能ですか? 今会話は出来ていますし、周辺諸国の情勢も多少は理解していますけど、この部屋の本棚にある本の背表紙の意味は理解出来ません。だから多分文字は読めないと思います。社交マナーとか、向こうで学ぶ必要のなかった科目もありますから、足りない部分も多々ありますよ」
そう聞いたエドヴァルドの表情が僅かに動いた。
「……向こうでは、優秀な学校に通っていたと聞いたが」
「そうですね。官僚になるための勉強をするはずでした。まあ、実質一ヶ月ほどしか通えていませんので、独学付け焼き刃の知識しか、まだありませんけど」
「官僚……」
「あ、意味が通じませんか? しいて言うなら、宰相閣下が普段なさっているようなお仕事をするために、必要な知識を学ぶところです」
大学では経済学部に進むつもりだったとか、在学中の諸々の試験突破だの資格取得だの、さらに全国転勤のある官僚、あるいは総合商社に就職をして、日本中あるいは世界各国を飛び回れれば、家に寄り付かなくて済むと思っていた――なんて、どれもこれも説明不可能だ。
ざっくり考えて、多分、宰相室での仕事が一番近いという気がしただけだ。
しかし宰相閣下にはそれで十分だったらしい。
「……だから経理や領政の補佐が、少しは可能だと言ったのか」
「そもそも文字を学ぶ必要があるって言うことを忘れてましたけど、知識だけなら多少は」
恐らく「異世界転移による補正」とやらは、文字の部分にまでは及んでいない。彼らが妹の補佐役を必要としているのは、決して迂闊すぎる妹の行動を危惧しているだけじゃないように見える。
言葉以外のところで、不都合があるに違いない。
案の定、エドヴァルドはそれに軽く頷いた。
「家庭教師の話に否やはない。そもそもそれは、陛下が聖女に学んでほしいと望んでいたところにも合致する。未だ学びたがらない聖女に代わってその姉が、妹を補佐するために集中して手ほどきを受けるのだと言えば、誰も貴女の公爵邸滞在を面白おかしく吹聴すまい」
「……そうですか」
学びたがらない、とエドヴァルドは確かに口にした。
舞菜が進んで勉強したがるはずがないと思っていたら、やっぱり拒否していたようだ。
まあそこは、今後自分が生計を立てるのにも必要だから、有難く手配してもらっておこう。
「では、邸宅には先触れを出しておく。私は今から陛下に報告にだけ行ってくる。召喚の儀式が朔月の動きに合わせていたために既に外は日が暮れている。本来ならまだ仕事をしている時刻ではあるが、今日はこれも仕事の一環として、貴女を公爵邸へ案内しよう」
「……オセワニナリマス」
心から感謝する気持ちになれていないのは、勘弁してほしい。
頼んでもいないのに、別の世界に呼びつけられたのだから、それは無理だ。
朔月イコール新月ならば、異世界召喚の機会自体はいくらでも訪れそうだと思ったのだけれど、よくよく聞いたところによると、実際は皆既月食に近い現象の時だったらしい。
そうなると、もう次にこの世界でいつ機会が巡って来るか分からない。
妹が呼ばれてから一ヶ月やそこらで私を召喚することが出来たのは、本当に偶然の為せる業だったみたいだ――有難くないことに。
未だに顔が痙攣っているシモンとは違い、恐らくは、そんな暴風吹き荒れる私の内心を察しているらしいエドヴァルドは、頷いただけだった。
「私が陛下の所に赴いている間、必要なら、聖女の部屋に案内させるが」
「お気遣いなく。話すこともありませんので。ここで閣下をお待ちしています」
間髪入れずに返す私に、どうやら二人とも気圧されたらしく、それ以上は何も言わなかった。
「シモンも、今日はもういい。この後、陛下からある程度、今後のことについても指示があるだろう。明日また改めて、話は詰めよう」
「は……」
「意に沿わないことをさせてすまなかった。珈琲の件は、おまえに責任はない」
「っ! 閣下、それは……っ」
エドヴァルドが自分を庇ってくれているのだと気付いたシモンの顔は、申し訳なさよりも、嬉しさが上回っているように見える。
忠犬……と思わず口にしかけたら、何故分かったのか、宰相閣下から速攻視線でのストップがかかった。慌てて口を手で押さえていると、どことなく涙目のシモンが私の方を向いた。
「レイナ殿……私としましては、王宮にいていただきたいと思っている点は変わりませんので、どうかその点はご承知おきください」
「分かってます、ローベルト副官。少なくとも公爵邸にだけは長居をしないよう、早めに必要事項は会得しますね」
「いえ、ですから――」
「私は、王宮にだけはいたくないと思っていることにも変わりありませんので、その点よろしくご承知おきください?」
再度「だけ」を強調して、笑顔でそう返せば、シモンは口ごもり、エドヴァルドは片手で額を覆った。
うん、せっかく尊敬する上司が庇ってくれたのを、自分で台無しにしていたら、世話がないよね。
その後、肩を落としたシモンが部屋を後にしていき、私が壊してしまったコーヒーカップとミルクポットを片付けに、使用人と思しき壮年男性が入れ違いに中に入って来た。
そしてそれを見届けたエドヴァルドが「じきに戻る」と、宰相室を後にする。
……ここに残りたいとは言ったけど、まさか一人で残されるとは思わなかった。
いや、ある程度は舞菜を見ていて免疫があるだろうから、部屋から出るようなことさえなければ、大丈夫と思われたのかもしれない。
現に護衛の騎士二人は、部屋の扉付近でじっと佇んでいるだけだ。
扉付近に張り付いている感じで、とても気軽に話しかけられる雰囲気じゃなかったけど。
「あーあ、計画やり直しかぁ……」
六年越しの独り立ち計画を台無しにされて、ちょっと心が折れそうになったこともあってか、つい愚痴が洩れる。
ピクリと護衛騎士二人が、私のため息交じりの言葉に反応していたけど、私は「独り言です」とだけ、微笑っておいた。
第二章 公爵家の客人
「うわぁ……」
正門から、邸宅の入口までが遠い。
そして見えたら見えたで、前に住んでいた地域に文化財として遺っている、ルネサンス式の旧公爵邸を彷彿とさせる洋館がそこに佇んでいて、思わずため息が漏れる。
貴族社会の中で独り立ちするには、身分も資金も圧倒的に不足してることを実感させられてしまった。
そんなことを考えていたからか、先んじて馬車を下りたエドヴァルドが、無言でこちらに手を差し出したのがエスコートの申し出だということを、一瞬理解しそこねた。
無言で固まるエドヴァルドに、ハッと私も我に返る。
「……ごめんなさい。私の国には、そう言った習慣がないので、気が付きませんでした」
「……いや」
慌てる私に、それが事実と分かったのか、表面的な不快さをエドヴァルドも見せなかった。私は改めて、差し出された掌に自分の手の指をそっと置く。その指は、ごく自然な仕種で包み込まれて、そっと前方へと誘導される。
「……っ」
まさか、現実世界でエスコートをされるのが、これほど羞恥心を煽るものだとは思わなかった。
生意気な口しかきいていない一般市民を相手に、内心がどうであれ貴族としての作法を疎かにしない宰相閣下に流石と言うほかない。
「お帰りなさいませ、旦那様」
頬の赤みが引かないまま、半歩前から手を引かれて建物の中に入ると、玄関ホールの階段の下付近にいた侍女、従僕といった装いの男女複数名が一斉に頭を下げた。
エドヴァルドが現在何歳だったかは不確かだけど、確か〝蘇芳戦記〟のプレイ開始時点では二十九歳だったから、それに近い年齢ではあるだろう。
私には大仰に見えるこの挨拶にも鷹揚に頷いているあたり、その年齢で既に傅かれ慣れている感じがする。
公爵の身分は伊達じゃない――ちょっと感心はしたけど、よくよく考えれば、そもそも私の方が十歳も上の成人男性に対して、取る態度じゃなかった……かもしれない。
ごめんなさい。もう今更だからそんな気持ちはおくびにも出さなかったけど。
「セルヴァン」
「はい、旦那様」
エドヴァルドが声をかければ、居並ぶ中の一人が音を立てず、一歩前へと進み出た。
(わ、リアル執事スタイルな人だ)
私の変な感動はそっちのけに、会話は進む。
「支度は済んでいるか」
「はい。少々時間が足らなかったため簡易的にはなりましたが、お休みいただくのに不都合はないかと」
「ああ。聖女マナの姉君だ。失礼のないよう、皆にも言い聞かせておくように」
「かしこまりました」
もしもし、あの、私は「聖女の姉」と言っても、肩書だけの一般市民なんですが……!
そう叫びたいのは山々だったけれど、心なしかエドヴァルドの背中から「余計なことは話すな」オーラが漂っていて、迂闊に口を開くことが出来なかった。
うん、私は空気の読める女です。
私が楚々とした佇まいを崩さずにいると、またセルヴァンが問う。
「旦那様、お食事は如何いたしましょうか」
「ああ、私も彼女もそれどころではなかった。あるもので構わないから、軽く用意を頼む」
「かしこまりました」
「それと彼女の服は、異国のこの服だけだ。今日は頼んでいた通り既製品の服で構わないから、明日にでも仕立て屋の手配を頼む」
「そう仰るかと思いまして、既に手配させていただきました」
「ならいい」
口を挟む余地もなく、さくさくと話が進んでいく。
「あの……」
「では後程ダイニングルームで」
「……はい」
そうして何やら話がまとまったあと、私は茫然とエドヴァルドを見送ることしか出来なかった。
それから通された部屋は、二間続きというか、高級ホテルのスイートルーム並みの広さだった。寝室のベッドは天蓋付のキングサイズ、明らかにシーツ類も最高級で、それだけでもドン引きだったところに、ノックと共に侍女数名が持参した服に、さらに目が点になった。
「ドレス……」
ワインレッド色のベロア生地というあたりは、落ち着いた雰囲気があっていいのかもしれない。
だけどそもそも、さっき「軽い食事」的なことを耳にしたはずなのに、目の前の服は、どう見ても「ハレの日」用のドレスに見える。
日本では、ついぞお目にかかることもない別世界が目の前に存在していた。
「急ごしらえですので、お好みに合わない部分もあるかと存じますが、その分お顔やお肌を充分に整えさせていただきますので、どうかお任せくださいませ」
そして自分よりも年齢が上であることは間違いない女性たちが、自分に向かって敬語を使い、頭を下げていることにも著しい違和感がある。
「……いえ……こちらこそ、予定外のお仕事をさせてしまっているのでしょうし……というか、邸宅の中での食事に、この服が必要なのかという根本的な疑問が――」
「お嬢様は、異国からお越しとか。習慣の違いなどもあるかと存じますが、主人の心遣いとして、お受け取りいただけますと幸いにございます」
私が表情を強張らせたまま、遠慮しようとしているのを察したのか、そう出るだろうとエドヴァルドから言い含められていたのか、異論の挟みづらい言い方を、彼女はした。
押しは強そうながら、不思議と不快には感じない。
「まあ、私があまりゴネたら、怒られるのは皆さんの方ですもんね……」
諦めたように私がため息を吐き出せば、意外にも「いえ」と返ってくる。
「主人が無表情なために誤解を招きがちですけれど、私ども使用人を理不尽に怒鳴ったりは、よほどの非がある場合を除いてなさいません。異国から来られたばかりで、不安に思われる部分もあろうかと存じます。ですがこのイデオン公爵家は、お嬢様を充分お守り出来るだけの力はある家でございますので、どうぞご安心いただければと」
「……不安?」
「妹である聖女様のためとは言え、いきなり知らない土地に連れて来られて、不安にならないはずがないし、疑心暗鬼になっているところもあるだろうから、充分に世話をしてやってくれ、と」
そう仰っておられました、と言って頭を下げた侍女さんに私は思わず息を呑み込んでしまった。
――宰相閣下、無自覚のツンデレですか。うっかり揺さぶられそうなんですけど。
❀ ❀ ❀
両側に五~六人ずつ座れそうなテーブルなんて、リアルにお目にかかるのは初めてかもしれない。
火のついていない、薪もない暖炉はどういう仕組み……などと思いつつ視線を巡らせると、その前の所謂「お誕生日席」に相当する席に、既にエドヴァルドが腰を下ろしていた。
ただ、私がダイニングルームに入って来たのを確認すると、実にスマートな動作で立ち上がって、私のいる所へと歩いて来る。先ほどのエスコートが頭をよぎって、紺青色の瞳がこちらを映すのに、一瞬ドキリとしてしまう。……しかし。
「……化けるものだな」
化ける。
化けるとか言ってますよ、この方。
そりゃあまあ、日頃はアイブロウと口紅くらいしか持ってなかったし、公爵邸の侍女さんたちが、こちらがドン引きする程盛り上がった結果、彼女たちの手持ちの化粧品をこれでもかと塗りたくられはしましたけれども!
現在、邸宅に女主人がいないため、貴族層向けの化粧品の用意が間に合わなかったらしい。
結婚式にお呼ばれして、貸衣装に身を包みながら、美容院でメイクとヘアセットをお願いした。それが一番近い。
思わず遠い目になっていると、私の後ろで「ゴホン」と咳払いが聞こえた。
「旦那様。恐れながら、妙齢のご令嬢になさる言葉遣いではないと存じます」
さっき私と話していた、しっかり者のお姉さんは、あれからすぐにヨンナと名前を教えてくれた。
この邸宅の侍女長だそうで、エドヴァルドが公爵位を継ぎ、邸宅の主として立つ前から、もうかれこれ二十年以上、公爵邸にいるらしい。
ヨンナさん、おいくつです⁉ といったことや、宰相閣下、いつから公爵家当主に⁉ といったことやら疑問は満載だ。だけど現時点では、どれも関わらないに越したことはない気もしていた。
「……だ、そうだが?」
そんな私を見るエドヴァルドの表情は変わらない。だけど声色は、ちょっとこの状況を面白がっている感じがする。使用人であるヨンナさんが邸宅の主人たるエドヴァルドに苦言を呈することが出来るのは、邸宅全体の風通し、職場環境がいいからだろう。苦言を呈される側も、普段からそれを嫌悪せず、ちゃんと耳を傾けているということになる。
きっとこの公爵邸は、使用人達にとって居心地のいい職場なんだろう。
ヨンナさんは、私を「エドヴァルドに褒めさせたい」みたいだったんだけど、あまり無茶ぶりをしてもらっても、私がいたたまれない。私は「お気になさらず」と、うっすらと首を横に振るにとどめた。
お世辞全開で褒められても裏があるとしか受け取れないひねくれものなので、もうこのあたりで切り上げておいてください。ハイ。
「ドレスを着る慣習が、ない訳ではないのか」
一方エドヴァルドはと言えば、私からは見えないヨンナさんの表情に、圧力を感じたのかもしれない。
多少強引な感じに、話題を切り替えてきた。
「そうですね……婚姻とかお披露目パーティーの時くらいにはなりますけど。それに着たとしても精神衛生上、あまり長い時間保たないですね。だからと言う訳じゃないですが『化ける』と言う代わりに『魔法にかかる』と言った言い方をしたりします。ドレスを脱いで、化粧を落としたら『魔法が解けた』――と」
「……それは興味深いな」
口元に手をやって、本当に、興味を惹かれたと言った仕種を見せたエドヴァルドだったけど、ようやくダイニングルームの入口に立ったままだったことに気が付いたのか、再び、さっきの馬車を下りた時と同じく、右の掌をこちらに差し出してきた。
「では魔法にかかった麗しの姫君、お手をどうぞ」
「⁉」
真顔で何言っているの、この人!
旦那様、その調子です。と言っているのは――セルヴァン?
いやいや、これでクラっときていたら、タチの悪い詐欺に引っかかる未来しか見えない。
この国の生粋の貴族令嬢や舞菜が相手なら、それでいいのかもしれないけど、私は無理!
「……アリガトウゴザイマス」
思わず表情が抜け落ちてしまったあたり、私もあまり、シモンのことを言えないかもしれない。
ビックリしてうっかり腹芸を忘れてしまった……
「宰相閣下」
だから手を引いて、お誕生日席の向かい側にエスコートをしてくれたエドヴァルドが、手を放して椅子を引いたタイミングで、小声で伝えておいた。
「さっきのようなセリフは、どうぞそれに相応しいご令嬢、あるいはウチの妹相手に仰ってください。私は、自分のことはよく分かっていますから、必要以上に気遣ってくださらなくて大丈夫です」
すると何故か、上座に戻りかけたエドヴァルドが驚いたように足を止めた。
「……貴女は」
「はい?」
「王宮でも思ったが……本当に、場に流されないのだな……」
なんだろう。うっかり流されてくれれば手玉にとれるとでも思っていたのだろうか。
「すみません、ご期待に添えなくて。ただ、そもそも閣下も、ご自身の手札にないことを無理して為さらない方がいいと思いますよ。本来は無理して懐柔するより、さくっと相手の弱みを握る派でしょう?」
「……ははっ」
「「「⁉」」」
エドヴァルドはその場でただ笑っただけ――のはずなのに、何故かダイニングルームの使用人全員が、ギョッとしたように邸宅の主人をガン見した。
――物凄く稀少なものを見た、といった目だ。
もしかすると、邸宅内でも冷徹、鉄壁の仮面が標準装備だと思われているのかもしれない。頭の中が花畑でなければ、普通の会話も気遣いも出来る人だと、分かるはずなんだけど。
「……確かに、国王陛下のような詐欺じみた籠絡の手管は、私には無理難題もいいところだな」
そんな本人は知ってか知らずか、軽く咳払いをして、あっという間に笑いを収めてしまった。
今の一瞬の笑みは、貴重なスチルとして、有難く拝受しますが……
「ご自宅なんですから、素で過ごされてもいいんじゃないですか」
「……なるほど、そうか」
何気なく言ったそんな科白を、後で私は盛大に後悔することになる。だけど、その時は何かを一人で納得したかのようなエドヴァルドに気付かないまま、前菜、メイン、デザート、紅茶――の、公爵家的には「軽い晩餐」を有難く頂戴した。
……珈琲じゃなかったのは、王宮での一件のお詫びのつもりだろうかと思いつつ。
素材についてはよく分からないものの、フランス料理のような見た目と味付けで、一通り食べ終えることが出来た。どうやらこの世界の食に関して合わないことはなさそうで、とりあえずはホッとする。
そのうち私も、異世界物語のテンプレ通りに、日本食探しの旅に出たりするのだろうか。
舞菜という軛から逃れて暮らそうとするのなら、それもアリなのかもしれないけれど。
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