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第九章 八月の長い夜
糠に釘、豆腐にかすがい(2)
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『せんせぇー!』
扉を閉めに行こうとする八瀬青年から、確かに一瞬、舌打ちが聞こえた。
珍しい。
少なくとも外面、もとり表面上は人当たりのいい八瀬青年が、こうも苛立ちを見せるとは。
顔見知りになって数日とは言え、菜穂子でもそこはちょっと意外に思った。
『せんせぇー! おうたー! さっちゃんのうた、うたってくれるってゆったー‼』
『…………さっちゃん』
それ以上は、八瀬青年がピシャリと扉を閉めてしまったので、言葉ではなく音としてでしか子どもの声が捉えられなくなった。
『すみません、騒がしくしてしまって。すぐにここの官吏に賽の河原に戻させますので』
『あ……でも、もうちょっと聞きたかった……かも?』
ただ、条件反射のようにうっかりとそう口にしてしまい、祖父母と八瀬青年の視線が不思議そうにこちらを向いた。
『どないしたん、菜穂子』
そう声をかけてきたのは、祖母だ。
『あの子のことは、菜穂子は気にせんでもええよ』
もしかしたら、皆があの子に意識を向けているからと、拗ねているように見えたのかも知れない。
気にしなくてもいいと言いながら、私の頭の上にふわりと手を乗せてくれる。
やっぱり直接は触れないみたいだけど、それでも柔らかい何かが髪に触れたのは感じたような気がした。
『歌はあとでちゃんと歌ってくるさかいに』
『なんでやねん』
ただ菜穂子が何か答えるよりも早く、秒で祖父が祖母に対してツッコミを入れていた。
漫才でもないのに。
どう見ても素の表情で、祖父はいかにも「気に入らない」と言った感じに、両腕を組んでそっぽを向いていた。
『放っといたらええやろう。そんなんやったら、ちょっとゴネたら志緒が言うこと聞いてくれるて、いらん知恵つけよるやないか』
それは、一見すると祖母が子どもにばかりかまけていることへの嫉妬のようで、よくよく聞けば子育ての真理とも言える。
そこは八瀬青年も『あぁ……』と、妙に納得の表情を浮かべていた。
祖母だけが、ちょっと困ったかのように微笑んでいる。
『まあ……生きてたらそうかも知れへんけど、もう死んでしもてるさかいに……それが心残りや言うんやったら、出来る限りのことをしてあげたいのも本当やしねぇ……』
『……っ』
激昂しての反論ではないだけに、祖父も、そして八瀬青年も強くは出れずにいるようだった。
菜穂子としても、当の子どもの気持ちを思うとピシャリとはねつけるのもどうかと思ってしまうので、ここはちょっと子どもの話を広げてみることにした。
この際祖父を折れさせるには、何の話題でも喰いついてみようと思ったからだ。
『おばあちゃん。あの子「さっちゃん」の歌を歌てくれ言うてさっき叫んでたけど、やっぱり名前が「サチコ」やからとか、そんなんで?』
――そして、その後続けられた祖母の言葉に、菜穂子は驚愕をすることになる。
『そうや。あの頃は「サチコ」とか「カズコ」とか「ヨウコ」とかが、女の子で多い名前の代表格みたいなもんやったさかいにな。声がしてるあの子も確かに「サチコ」や。辰巳幸子。ああ、苗字までは別に言わんでよかったな』
『え……辰巳幸子⁉』
既に部屋の扉は閉められていたので、声のほとんどは外には洩れなかっただろうけど、それでも相応の声はその部屋に響いたに違いなかった。
『そうや。そのまんま「さっちゃん」やろう?』
『…………わぁ』
この時点では、他に言いようがなかったかも知れない。
思わぬところで耳にしたその名前に、菜穂子はとっさに次の言葉が吐けなくなってしまっていた。
『なんや、おまえ。あの子ども知っとんのか。いや、生きてるうちに逢うてたらおかしいわな』
ほな、子どもとか孫とかか……? などと祖父がぶつぶつ言ってるのが聞こえるが、菜穂子自身まだハッキリとはさっきの話を頭の中でまとめ切れていない。
『んー……』
菜穂子は、何と説明したものかと指でこめかみをグリグリ揉み解す仕種を受かべて見せた。
扉を閉めに行こうとする八瀬青年から、確かに一瞬、舌打ちが聞こえた。
珍しい。
少なくとも外面、もとり表面上は人当たりのいい八瀬青年が、こうも苛立ちを見せるとは。
顔見知りになって数日とは言え、菜穂子でもそこはちょっと意外に思った。
『せんせぇー! おうたー! さっちゃんのうた、うたってくれるってゆったー‼』
『…………さっちゃん』
それ以上は、八瀬青年がピシャリと扉を閉めてしまったので、言葉ではなく音としてでしか子どもの声が捉えられなくなった。
『すみません、騒がしくしてしまって。すぐにここの官吏に賽の河原に戻させますので』
『あ……でも、もうちょっと聞きたかった……かも?』
ただ、条件反射のようにうっかりとそう口にしてしまい、祖父母と八瀬青年の視線が不思議そうにこちらを向いた。
『どないしたん、菜穂子』
そう声をかけてきたのは、祖母だ。
『あの子のことは、菜穂子は気にせんでもええよ』
もしかしたら、皆があの子に意識を向けているからと、拗ねているように見えたのかも知れない。
気にしなくてもいいと言いながら、私の頭の上にふわりと手を乗せてくれる。
やっぱり直接は触れないみたいだけど、それでも柔らかい何かが髪に触れたのは感じたような気がした。
『歌はあとでちゃんと歌ってくるさかいに』
『なんでやねん』
ただ菜穂子が何か答えるよりも早く、秒で祖父が祖母に対してツッコミを入れていた。
漫才でもないのに。
どう見ても素の表情で、祖父はいかにも「気に入らない」と言った感じに、両腕を組んでそっぽを向いていた。
『放っといたらええやろう。そんなんやったら、ちょっとゴネたら志緒が言うこと聞いてくれるて、いらん知恵つけよるやないか』
それは、一見すると祖母が子どもにばかりかまけていることへの嫉妬のようで、よくよく聞けば子育ての真理とも言える。
そこは八瀬青年も『あぁ……』と、妙に納得の表情を浮かべていた。
祖母だけが、ちょっと困ったかのように微笑んでいる。
『まあ……生きてたらそうかも知れへんけど、もう死んでしもてるさかいに……それが心残りや言うんやったら、出来る限りのことをしてあげたいのも本当やしねぇ……』
『……っ』
激昂しての反論ではないだけに、祖父も、そして八瀬青年も強くは出れずにいるようだった。
菜穂子としても、当の子どもの気持ちを思うとピシャリとはねつけるのもどうかと思ってしまうので、ここはちょっと子どもの話を広げてみることにした。
この際祖父を折れさせるには、何の話題でも喰いついてみようと思ったからだ。
『おばあちゃん。あの子「さっちゃん」の歌を歌てくれ言うてさっき叫んでたけど、やっぱり名前が「サチコ」やからとか、そんなんで?』
――そして、その後続けられた祖母の言葉に、菜穂子は驚愕をすることになる。
『そうや。あの頃は「サチコ」とか「カズコ」とか「ヨウコ」とかが、女の子で多い名前の代表格みたいなもんやったさかいにな。声がしてるあの子も確かに「サチコ」や。辰巳幸子。ああ、苗字までは別に言わんでよかったな』
『え……辰巳幸子⁉』
既に部屋の扉は閉められていたので、声のほとんどは外には洩れなかっただろうけど、それでも相応の声はその部屋に響いたに違いなかった。
『そうや。そのまんま「さっちゃん」やろう?』
『…………わぁ』
この時点では、他に言いようがなかったかも知れない。
思わぬところで耳にしたその名前に、菜穂子はとっさに次の言葉が吐けなくなってしまっていた。
『なんや、おまえ。あの子ども知っとんのか。いや、生きてるうちに逢うてたらおかしいわな』
ほな、子どもとか孫とかか……? などと祖父がぶつぶつ言ってるのが聞こえるが、菜穂子自身まだハッキリとはさっきの話を頭の中でまとめ切れていない。
『んー……』
菜穂子は、何と説明したものかと指でこめかみをグリグリ揉み解す仕種を受かべて見せた。
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