上 下
5 / 92

5

しおりを挟む
俺の頭の中は逆転サヨナラの場面だったので集中していた。
ピッチャーが球をリリースした直後、電車はトンネルに入った。
その瞬間に逆転サヨナラ勝ちという劇的なシナリオで幕を閉じるのではなく、空振り三振をして甲子園で優勝出来なかったという敗北のシナリオもそれはそれで見所はあるのではないかと吊り革を掴む手を見ながら思った。
窓ガラスに反射した俺の顔は他人から見れば無表情に見えるだろうが俺には笑みがこぼれているのが分かる。

俺はワンストライク、ツーボールというカウントからフルスイングしたものの2度、空振りして三振した。
俺はその場で立ち尽くし涙を流した。
チャンスをものに出来ず、台無しにしてしまった俺の気持ちを全て察してくれた優しいチームメイトに抱えられながら俺達は整列する。
相手高校の校歌が始まる。
俺から三振を奪ったピッチャーの顔は見ないつもりでいたがそんな気持ちとは裏腹に俺の目は彼を見ていた。
彼は疲れがあるものの誇らしげな顔で校歌を歌っている。おそらく人生の中で1番、輝いている瞬間だろう。
彼の顔に陽が射して汗がキラキラ光る。甲子園に降り注ぐ真夏の光が勝利者をよりいっそう輝かせていた。
雲一つない青空が妙に清々しくて隠れていたかった。

時間を巻き戻すことも止めることもできない。
俺はチャンスに三振した。
もう全てが終わってしまったんだ。
残酷な時間。
こちらの感情などお構いなしに勝者を中心にスピーディーに事が運ばれて行く。

自分がいかに無力かを思い知らされる。
甲子園の土を持ち帰ろうとするチームメイトの寂しげな背番号を見つめながら俺は呆然と立ち尽くしていた。

ーーーーーガタンゴトン。

聴き慣れた騒音の中で、こんなシナリオもありだなと思うとクスッと笑ってしまった。
今回は誰の目から見ても笑っていると分かるだろう。

ドアが開き多くの乗客が降りて行くのを見てようやく俺は最寄り駅に着いた事に気づいた。
俺以外の乗客が降りたのでホームの先頭で待っていた七三分けのサラリーマンが車内に乗り込もうとしていた。
いきなり現れた俺に七三分けのサラリーマンが少し驚いた顔をしたので「すみません、降ります。」と謝りながら慌てて下車した。

ホームに設置してある時計を見上げると当然、いつもより遅れてはいるが急ぐ必要はなかった。
先程の夢敗れた高校球児の妄想はどうでもよくなって頭から消滅していたが、妄想のおかげで満員電車の中、高橋という最低な人間を一時的に忘れることができて苦痛が和らいだ。

改札口付近に近づくと「ひっくしょん」と甲高いクシャミを連発するお爺さんから距離を置きたくて早歩きで追い越し外に出る。

駅から通勤路周辺に桜はないが春のうららかな風は団扇で優しく煽いでもらったような心地よさだ。
木々は春の訪れを葉を揺らして喜んでいるように思えた。
朝より気温が上がりお天気お姉さんが伝えた通り春本番を肌で感じる。

駅周辺にはお洒落なカフェがある。
道路沿いのカフェには散歩の合間に寄った人やパソコンを使って作業をしている人がいる。
オープンテラスもありダックスフンドを連れた中年女性が春の日差しを浴びコーヒーを楽しんでいる。
俺もカフェに向かいテラス席でカフェ・オ・レを注文してのんびりしたい気分だった。
木目のテーブルに座り、道行く人々を眺めながらカフェ・オ・レを口にする。時間に意味はなく気分次第で1日を自由に過ごしていい。
しかし俺はカフェに入店しなかった。自分の本当の気持ちに蓋をした。
歩くたびに徐々にカフェから遠ざかっていく。
俺は大切なようで決して大切だとはいえない場所へ近づいている。
自らを傷付けるために愚かな選択をしている。
素直な子どもならどちらが楽しいか分かるはずだ。きっと正しい選択をするだろう。
俺はまたネガティヴになりつつあった。

この春の暖かく穏やかな天気とは正反対に俺の精神は天候が激しく移ろいやすくなっていた。
今の気分はくもりだ。まだ雨は降っていないが雨雲が来てどんよりしている。

あの精神科医が教えてくれた通り気を紛らわそうとアレコレ楽しい事を考える。
職場が近づいてきて建物が見えてくると、気を紛らわす事がなかなか思い通りにいかず、息が苦しくなり「わぁっ!」と声を出してしまった。
後ろを振り返ると数人ほど歩行者はいたが距離があったので俺の声は聞こえていないだろう。

しかし、すぐ横にホームレスの男性がいた。
まさか人がいるとは思わなかったので驚きのあまり身体を拗らせ、両腕は右斜め上、同じ方向にピンと伸ばしマヌケなポーズをしてしまった。
ホームレスの男性は三台ある自販機付近にキャリーバックを持って俯いたまま立ち尽くしていた。
彼には聞こえていたはずだ。しかし横顔に表情はない。疲れているのだろう。
いや疲れているのだろうが、もはや疲れた表情さえする気力がなく無表情なのかもしれない。
カフェにいる人々もホームレスも、そして俺も同じ街で同じ時の中で今を生きている。

誰が春の陽気を一番、満喫しているのだろうか?

歩道を歩いていると赤信号で停止しているトラックドライバーがしかめっ面をしていた。
俺はトラックを横切り勤務している会社へ向かう。
何にも感じていないわけではなかったが、これといって先ほどと同じように息が苦しくなるような心境ではなかった。

後ろからきたトラックはすぐ俺に追いつき少しの間だけ俺と並んだ。
顎に山羊のような髭を生やしたドライバーは、しかめっ面のまま溜息をついていた。
トラックは俺を追い抜いて行った。

トラックのリヤドアには私は安全運転を心がけています。と書かれておりドライバーのフルネームが記載されていたのもある。
俺は遠ざかって行くトラックをただボーッと見ていた。
歩いている俺との距離は、どんどん開いていき記載されている名前はあっという間に読めなくなった。














しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

初恋旅行に出かけます

松丹子
青春
いたって普通の女子学生の、家族と進路と部活と友情と、そしてちょっとだけ恋の話。 (番外編にしようか悩みましたが、単体で公開します) エセ福岡弁が出てきます。 *関連作品『モテ男とデキ女の奥手な恋』

恋に不器用な俺と彼女のすれ違い

干支猫
恋愛
高校一年の冬、ひょんなことがきっかけで学年一の美少女・浜崎花音とカラオケに偶然居合わせることになったのだが、主人公の深沢潤と浜崎花音には周囲にほとんど知られていなかった少しばかりの過去があった。 過去、中学時代の一時期だが、同じ中学に通っていた潤と花音は体育委員をきっかけにして知り合った。お互い惹かれていき気持ちを持っていたのだが、素直になれずに言葉にして伝えることがないどころか、心にもないことを口にしてしまう。そうして近付いた距離は知り合う以前と同じようになって中学を卒業することになってしまった。 その後、偶然同じ高校に進学したのだが、中学の時のように話すことはないまま月日だけが過ぎていった。 そんな二人が再び出会い、距離が近付いては離れて、又、潤の周囲にいる人物達を巻き込んで繰り広げられる普通の高校生の普通の恋愛。

メモリーズ 〜遠い遠い昔、広島の遥か彼方で〜

MIKAN🍊
青春
1970年代後半、舞台は広島県のとある田舎町。高校3年の主人公高杉孝一は父と妹の3人でのんびりと暮らしていた。彼の悩みは自分が落ちこぼれ生徒だという現実。でも勉強は嫌いだし、なんだかつまらない。何か楽しいことはないのかな?とテレビと空を見つめる毎日だった。そんなある日、退屈さを紛らわせるため悪友と出かけたツーリングで憧れの女子と急接近する羽目に…。大学受験への焦りや不安。女子の出現によって変化していく友情。いつの間にか不良へのレールを加速し始める高杉。大人になった主人公が回想する形で描く古き良き時代の青春グラフィティ。笑いの後には涙が、涙の後には虹が出るかも?

わけありのイケメン捜査官は英国名家の御曹司、潜入先のロンドンで絶縁していた家族が事件に

川喜多アンヌ
ミステリー
あのイケメンが捜査官? 話せば長~いわけありで。 もしあなたの同僚が、潜入捜査官だったら? こんな人がいるんです。 ホークは十四歳で家出した。名門の家も学校も捨てた。以来ずっと偽名で生きている。だから他人に化ける演技は超一流。証券会社に潜入するのは問題ない……のはずだったんだけど――。 なりきり過ぎる捜査官の、どっちが本業かわからない潜入捜査。怒涛のような業務と客に振り回されて、任務を遂行できるのか? そんな中、家族を巻き込む事件に遭遇し……。 リアルなオフィスのあるあるに笑ってください。 主人公は4話目から登場します。表紙は自作です。 主な登場人物 ホーク……米国歳入庁(IRS)特別捜査官である主人公の暗号名。今回潜入中の名前はアラン・キャンベル。恋人の前ではデイヴィッド・コリンズ。 トニー・リナルディ……米国歳入庁の主任特別捜査官。ホークの上司。 メイリード・コリンズ……ワシントンでホークが同棲する恋人。 カルロ・バルディーニ……米国歳入庁捜査局ロンドン支部のリーダー。ホークのロンドンでの上司。 アダム・グリーンバーグ……LB証券でのホークの同僚。欧州株式営業部。 イーサン、ライアン、ルパート、ジョルジオ……同。 パメラ……同。営業アシスタント。 レイチェル・ハリー……同。審査部次長。 エディ・ミケルソン……同。株式部COO。 ハル・タキガワ……同。人事部スタッフ。東京支店のリストラでロンドンに転勤中。 ジェイミー・トールマン……LB証券でのホークの上司。株式営業本部長。 トマシュ・レコフ……ロマネスク海運の社長。ホークの客。 アンドレ・ブルラク……ロマネスク海運の財務担当者。 マリー・ラクロワ……トマシュ・レコフの愛人。ホークの客。 マーク・スチュアート……資産運用会社『セブンオークス』の社長。ホークの叔父。 グレン・スチュアート……マークの息子。

元おっさんの俺、公爵家嫡男に転生~普通にしてるだけなのに、次々と問題が降りかかってくる~

おとら@ 書籍発売中
ファンタジー
アルカディア王国の公爵家嫡男であるアレク(十六歳)はある日突然、前触れもなく前世の記憶を蘇らせる。 どうやら、それまでの自分はグータラ生活を送っていて、ろくでもない評判のようだ。 そんな中、アラフォー社畜だった前世の記憶が蘇り混乱しつつも、今の生活に慣れようとするが……。 その行動は以前とは違く見え、色々と勘違いをされる羽目に。 その結果、様々な女性に迫られることになる。 元婚約者にしてツンデレ王女、専属メイドのお調子者エルフ、決闘を仕掛けてくるクーデレ竜人姫、世話をすることなったドジっ子犬耳娘など……。 「ハーレムは嫌だァァァァ! どうしてこうなった!?」 今日も、そんな彼の悲鳴が響き渡る。

クラスメイトの美少女と無人島に流された件

桜井正宗
青春
 修学旅行で離島へ向かう最中――悪天候に見舞われ、台風が直撃。船が沈没した。  高校二年の早坂 啓(はやさか てつ)は、気づくと砂浜で寝ていた。周囲を見渡すとクラスメイトで美少女の天音 愛(あまね まな)が隣に倒れていた。  どうやら、漂流して流されていたようだった。  帰ろうにも島は『無人島』。  しばらくは島で生きていくしかなくなった。天音と共に無人島サバイバルをしていくのだが……クラスの女子が次々に見つかり、やがてハーレムに。  男一人と女子十五人で……取り合いに発展!?

使用人の少女が全てをくれた

taro
大衆娯楽
 戦争孤児を引き取った男は、不穏な国際情勢の中、男手一つで少女を育てる。 十年後聡明で美しく成長した少女は男を慕い『お父さん』と呼ぶが、男は決して認めない。  娘と認めず"使用人"と呼ぶ少女を最後まで愛し抜く。  全五話で、二万字ほどです。書き終わってます。  100%泣けるのでぜひ読んでみて下さい。舞台はドイツっぽい国です。

白状してはダメですか。僕は……さよならなんて、したくなかった

百門一新
現代文学
三十五歳の「僕」は、妻に七回目のプチ家出をされた同僚兼友人の泣き事を聞かされている。場所はいきつけの『居酒屋あっちゃん』。感情豊かで喜怒哀楽のたびにこちらを巻き込んでくる彼と、それに付き合う「僕」の話――。 ※「小説家になろう」「カクヨム」等にも掲載しています。

処理中です...