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 これまでの経緯と、情報を可能な限り掛け合わせた。

 六十里のバインダーにあった“未完成に見えた設定”は、未熟ではあったものの、完成していたのだ。
 香奈とカオルの2人が知らなかった情報もあったが、それも含めて曖昧である未完成品として解釈し、補完。物語として作り上げた。

 今この空間で、カオルと能力を共有した瞬間まで、六十里は能力の存在を知らなかった。
 この能力に六十里が苦しんでいるかもしれない…否、いつかは必ず苦しむであろうという想定から間違っていたのだ。
ーー「助けなければ」という、その余計な正義感が、六十里を巻き込む形となった。


 六十里の考えた設定を基準に、考えを改める。
 能力を得た少女、花火。主人公である彼女の配役は六十里ではなく、カオルだった。

 その能力は、花火自身の憧れから派生した『好きな人に触れたい・キスをしたい』という欲望を効能とし、仮に抗ったとしても、2度目の接触でのキスは逃れられない。
 好きな人を前にした時、主人公は能力を使ってキスをする事を強制的に誘われる。

 その効能の結果、カオルにとっての好きな人でありキスをしたのが、香奈、元恋人、六十里だった。

 キスの強制力は2回目の接触。……にも関わらず。
 1度目の接触方法にキスを選択しているカオルは、キス魔、と言われても止むを得ない。

 運命の人となる人は1人。それは、カオル達の接触により、更新された。

 複数いる運命の人の中から1人を確定させる、という工程が生まれる。
その後は六十里の考えた設定同様、『観測者』にする工程へ進む事になる。


 元々、運命の人から観測者にする為の条件に、2度の『接触』が必要だった。

 まず、時間を止めた空間で思い人へ触れる。それはキスに限ったものではなく、体が触れればそれで良い。その時相手は時間の停止を認識する事が……まだ、出来ない。


 一度能力を解除し、再び能力を発動させた時。相手は時間の停止を認識出来る様になっている。
 この時、運命の人は『能力所持者』にもなり、時間停止を解除する事は出来ないが、停止空間を共有出来る。その間も自分での能力発動時と同等で、時計の針や服にも影響し、その場から移動することは出来ない。
 接触を試みる場合、能力発動前に互いが触れ合える距離間にいる必要がある。

 そして。停止した空間が共有出来る状態で再び接触した時、運命の人は観測者となる。

 観測者となった人間は主人公と世界に生じた『時間の歪み』を正すべく、その命を引き換えに歪みを処理する。


 主人公は、能力を使った分だけ、世界で流れている時間より先を生きている。
 その分多く歳をとっているのだ。

 観測者へ、その時間の歪みを押し付ける事により、能力によって流れた時間分の『体の老化』を取り除く。

 能力中に起こった事の記憶は残る。これらの特殊能力を使えた代償として、寿命の確定が発生する。能力を使った分という短い時間が、寿命に成り代わるのだ。
 ここが、1番の問題点だった。短い寿命を背負う運命となるのが『誰』なのか。
 六十里は、あえて記載していなかった。


 その設定を読んだ当時の香奈は、主人公が背負う運命を選んだ。

 短命になった主人公は、その時を迎えて死ぬ。
ーー死んだ主人公への悲しみと罪悪感。
 観測者は生きるという形で罪を背負い、生き地獄を代償に歪みの解消を目指す。

 この結末を、世の中は『バッドエンド』だと言った。メリーエンドの存在を知るプロも、目をつぶったのだ。
ーーこのエンディングを変更しない限り、無名の作家が作ったこの作品なんぞを、世間は受け入れない、と。


 六十里に気付かせる事。沢山の人の目に触れる事を最優先した結果。
 香奈が最後直前まで認め無かった改変エンディングの“たまご”が、生まれる事になる。


 香奈に対し、六十里の設定を読んだ当時の芳には、主人公を生かすエンディングしか思いつかなかった。

 現れた運命の人に短命の運命を背負わせる。
 そのおかげで生き残る主人公。

 彼女の事は何も知らないとはいえ、設定の中の花火と六十里を重ね、考えを寄せようと努力した。
 香奈はその努力は認め、カオルのシナリオを漫画に描き起こし、それをネットに公開したのだ。
 しかし、多少の人の目には触れたものの、目的には程遠かった。

 目的達成の手段として出版社を訪れるも、これ以上世間の目に止まるならば、エンディングを変えろ、と出版社側は一歩も引かなかった。

 香奈は、それを拒み続けた。理由はわかっていた。
ーー作家の伝えたい作品と、沢山の人が読む作品は、イコールとは限らない。

 わかっては、いた。
 それでも、作家の村木薫の思考が邪魔をし、付き纏った。主人公が死なない様にする程度では、胸糞悪い感覚は拭えていなかったのだ。
ーー所詮自分の価値観は、『万人受け』
 自覚するたび虫唾が走った。
 いつのまにか六十里を尊重する気持ちも薄れ、作品世界を捏ねくり回した。

 
 運命の人に、余命短い持病持ちの設定をこじつけた。
 短命になるという代償の価値を軽くし、同時に押し付ける事への罪意識も軽くする。
 主人公が生きる事自らを望んで、悲しまない様にと願い、人生を託すフィナーレ。
 愛する人の人生を背負った主人公は、悲しみは拭えずとも、押し付けた罪を糧に、自分の人生を歩んでいく。

 最高のご都合主義の世界を、作り出してしまったのだ。

ーー自分だけでは作れなかったと自負し、六十里を尊敬し、想い続ける芳。
ーー売れる為だけの作品を書く事から逃れられず、自分の作品が書けない薫。

ーー作家に憧れ、作家気取り。端くれ作家の木村芳。
ーー夢とはかけ離れた形で実現となった、有名作家の村木薫。

 2つが互いの欲望に抗い続けた結果、今のカオルがいるのだった。


「作者のお前が望むエンディングは……死、なんだよな?」
「そ、それは……望む、だなんて」
「とにかく誰かが死ねばいいのか? 主人公が死ななきゃいけないのか? どっちなんだよ!!」
「死んで欲しいんじゃ無い!! そもそも、神様がお告げをくれたのは、主人公のコンプレックスである手首の痣を消す為。リストカや、ピアスで自傷行為する主人公を、救う為という設定でした」
「……ッ!?」
「カオル先輩、消えた傷とか、ありますか?」
「傷なんかねえよ!? リスカも、ピアスだって。なんで俺は選ばれたんだよ!?」
「当時の私は選ばれなかった!! 実際、リスカをする理由になるほどの痣なんて、無いし……リスカとかピアスに、散々憧れるだけで。怖くて、やった事なんてありませんでした」


 六十里は、不謹慎だと思いながらも……香奈の不幸に、憧れてしまった。

 若くして糖尿病になり、腹部に毎日注射を打ち、血糖測定用の機械で、毎日血を出して、それを見てきた。押さえれば必ず止まる事が保証された簡易的出血。
 自称行為とは程遠い、別物だった。

 治療を止めれば死ぬ恐怖など無く、ただ叱られるのが怖かった。その気持ちの一心で、義務的に習慣付けた。

ーー束縛された悲劇のヒロイン。誰よりも可哀想な私を、誰も助けられない。

 自分に、酔っていた。
 酔う事で自分を騙して、辛い現実から目を逸らしていた。

 そんな時、目の前に現れた香奈は理解者なんて程度の存在では無かった。
ーー闇と光。両方の面で憧れる存在だった。

 自分と同等の人生を送り、自分以上の病の悪化状態。精神までも病んでいる香奈に、出会ってしまったのだ。
ーー悲劇も持ち合わせた理想の正当ヒロイン。ヒロイン? ヒーロー? どっちだろう?


 その憧れは、恋かと思った。
 初めてで答えがわからず、同性である事が枷になり、香奈への感情は有耶無耶になった。
 異性であり、非日常な存在の芳は、世間から押し付けられた恋愛知識が、六十里を刺激し、恋だと洗脳した。

ーー香奈のアムカを消してあげたい。綺麗に消えて欲しい。

 その願いから生まれた設定。神様からのお告げは、辛い痛みに耐えた者へのご褒美。
 時計の刺青が浮き出ると同時に、傷が消える。

 今までなにも感じて来なかった、他人への接触の喜び。
 物理的な接触であるキスに、強く興味を持つ様になったのも、設定へと姿を変えた。


「じゃあ、香奈が……主人公の代わりだって言うのか!?」
「カオル先輩も、です」
「だから、俺はリスカも生まれつきの痣もねーって!」
「何とは言わなくて良いです……何か、傷とかじゃ無くても。悩みとか、消えて無いですか?」
「傷じゃ無い、悩み?」
「耐えてきたけど消えない。だから消したいって思って来た、何か。消えて、ませんか?」



******



 まだ、図書室を借りる事すら出来なかった頃。
 香奈がまだ中学生で、カオルは高校に入ったばかりだった。

 漫画やアニメが好きだった香奈は、直ぐに2次創作の世界にハマり、作品を作る立場になった。イラストから始まり、時には漫画やオリジナルにも手を出していたが、夢小説と言うジャンルにどっぷりハマっていた。

 カオルは1次創作の小説オンリー。自分のオリジナル作品だった……と言っても、今読み返すと、どれもが何かっぽい。
 パクり臭いものばかりで、無自覚2次創作でしか無かった。

「香奈。新キャラ考えてみたんだけど……ビジュアル絵に描き起こしてくれない?」
「良いよー。あ、でも、オッサンとか、マッチョはかけないからねー?」
「ちょっとオッサンかも。30代の予定」
「え~!? 無精髭とか、あり?」
「うん、ありあり! 髭の描写、追加するわ」

 描き上がったイラストは、どこかで見た様なキャラクターに仕上がっていたが、言わなかった。指摘したら、自分のオリジナリティの無さが原因だと認める事になる。
 何より、イラストの出来に問題は無く、満足の品だったからだ。

「相変わらず上手いよなー。漫画メインで描けば良いのに」
「私の妄想話は、全部キャラの脳内とか心情ばっかなの。絵にしたところでって感じ?」
「えー? キャラ、動かしたくならないの!? そいつの行動とか未来想像したりしないの?」
「うーん……このキャラ、今このシーンで何考えてるのかな? って深掘りして考えるのが、私は好き。キャラの未来決めるのは作者か、キャラ本人じゃなきゃ。私じゃなく無い?」
「へぇ~……凄いと思うわ、それ」
「ええーーっ!?な、なんで?」
「俺の小説、回りの状況説明ばっかでさ。キャラの心情は、怒った笑った泣いたーで済ましちゃってる気がする。話進めたい、完結したいって気持ちが出ちゃうわ」
「状況説明って大事だよ! 私には話し言葉と例え話しか書けないから。描写しなくて良い様に、いつも脳内に直接! とか夢の中の設定だもん」
「俺達さー……一緒に作ったら、良いんじゃね?」
「はははは!かもね~」


 そう笑った香奈は最初は本気では無かったが、カオルが本気だと気付くと、すぐさま乗り気で協力してくれた。
 香奈は芳の持っていたレベルの文章技術はあっという間に吸収し、イラストの腕もどんどん伸ばして行った。

ーーあれ、これ……俺、必要か? むしろ、邪魔してないか?
 喜ばしい反面、カオルは自分の存在意義を失いつつあった。

 香奈1人で作った方が効率も良いし、俺は必要無い所か…邪魔なのでは?と。

「あのさー……俺、いる?」
「必要に決まってんじゃん!」

 そう多少は濁したものの、ほぼ率直に聞いてしまっていた。同情して欲しいわけでは無かったが、望んでいた返事が返って来て、ほっとしてしまった。
 しかし、緩んだ口は本心を吐くのを止めない。

「いやー、お前1人で作った方が、良くない?」
「無理無理! 私、芳と違って0から1って、生み出せないもん! だから2次創作やってんの!」
「こんなの慣れだって。……っていうか、世の中の作品全部、フィクションな時点で2次創作みたいなもんだよ」
「う~~~ん……確かに! 言われてもれば、そうかもね」
「香奈なら、出来るよ。だからさ……」
「あ~~、もう! 私は、芳の……」
「俺の、何だって?」
「か、芳の考えた作品とか、アイデアが好きなの!」
「……はぁ」
「本当だから! 一緒に考えるのも楽しいし、絵にしたら必ず絶対喜んでくれる、感想くれるって、創作者にとって、大事なんだから!」
「そっか……うん、ありがと」
「こちらこそっ!! ああーーー、恥ずかしい。1人でやれ、とか……もう変なこと言わないでよね!」
「うん、わかった。ごめん」


ーー香奈がいる限り。俺は、0を1にするだけの、読者だ。
 小説家になれない。1にしたそれを50にも100にするのは、香奈だ。
ーー俺には、出来ない。
 探せば簡単に似た物が見つかる程度の物しか、カオルには生み出せない。
 この世の何処かにある物語の紛い物を……ゴミを、作っているだけ。


 自分や好きな人の幸せを願う……その為の犠牲、悪と言った定番かつシンプルな図でしか想像してこなかった彼にとって、香奈の作品は、偉大すぎた。

 謙遜する彼女の作った作品は、カオルの想像出来ない世界だった。
 未知との遭遇しか存在しなかった。


 底のない悲しみと悪意と愛情。
 美しい闇と醜い光が存在し共存する世界。


 読者と作品間で心情の違いで距離を作るも、興味までは逃さない。絶妙なかけき引きだった。
 黒い物語。その結末。それはどす黒い筈なのに、心へ残るのは不快さだけじゃない。感動というだけでは足りない、何かを訴えてきた。

ーーこの才能の塊の横で、俺はこの苦悩を、どう解消したら良いって言うんだ?



******



「その悩みがあったら、なんだって言うんだ」
「神様が耐えたご褒美に、消してくれます」
ーー何だよそれ……香奈が、消えるって言いたいのか!?

「消すって何だよ!!? お前はいつもいつもいつも!! 説明不足なんだよ!?」
「……ごめん、なさい」
「ーーーとにかく。4年だ」

 カオルは、刺青が浮き出ているのであろう自分の手首を差し出した。
 そこに六十里の手のひらを重ねる。
 その瞬間、六十里が脳内に感じたのは、言葉の通りの4年と言う時間だった。

「この能力……4年分も使ったんですか?」
「俺みたいな才能無しが、立派な小説家になるには、だ。
 勉強時間、だけで、4年分だぞ? ……ハハハ。お笑いだろ?」
「この、能力。怖くて、沢山使えない筈なのに……!」

ーー体感は100年くらいだった。一生分位。それも、実際4年ぽっち。

 いくら努力してもその努力する姿は認識されない。
 天才による『奇跡』として評価された。

 回りからのカオルは、毎日飯を食って寝て起きて、本を読むでもなくパラパラ見出したかと思うと本を閉じて、小説を書き始める。それの繰り返し。

 異様な光景。見た本の感想を聞かれた時には、少し面倒臭そうな顔はしたものの、適切に、事細かく言い当てて見せた。
 そんな彼を、回りは瞬間記憶能力カメラアイだと囃し立てた。

ーーふざけるな。忘れるから、話しかけるな……お前達が見えていないだけで、こっちはしっかり飛ばさず読んでいるんだけだ。

 その努力から生まれた作品。沢山の資料を参考に作ったオリジナルの小説。
ーーそんな大層なもの、作れなかった。

 沢山の作品からかき集めたアイディアや感動、衝撃の寄せ集め。
 売れる、人気、流行り、一般、定番、涙、笑い、怒り、共感。
ーー『万人受け』伊東の言葉が、離れなかった。
 忘れないうちに、と文章に書き起こすだけの作業は、創作とは別物。地獄の様な時間だった。

 一生分にさえ感じた地獄の時間は、結果、たった4年分でしか無く。残りの寿命と成り代わると言うのだ。
 この力を手に入れなかったら、小説家になれなかった……という事実が、カオルに突き刺さる。

 能力中は眠れ無かった。
 意識を失えば、時間停止は自動的に解除された。停止中、食事は取れない。
 単純計算で、能力を使ったこの時間は、本の文字を読んでいた『だけ』の時間だ。
ーーこれが実際の時間の流れで実現出来ないのは、明らかだ。

 世間じゃ寝てばかりの瞬間記憶能力カメラアイ持ちの奇跡の天才新人小説家。
 業界では、正に『神』扱いだった、村木薫が。

ーー神になった結果、何もかも失うんだとさ。


「寿命は4年。4年後の今日、俺か、六十里か。はたまた2人共か。関わった全員かもな。」
「何が、言いたいんですか?はっきり言ってくださいよ」
「…………誰が、死ぬんだろうな?」
「私が、全部悪い、ですね」
「そうだ。そうだよな~? ……どうすんだよ、作者さんっ!?」
「私が作り出した物語ですから。結末は、私が決めます。先輩達も、その……元恋人さんも、死なせません」
「で、お前は死ぬの?」
「……人間みんな、いつか死にます」
ーー本当に、そっくりだな、コイツら。

「良いエンディングになる事願ってるよ、六十里先生」
「カオル先輩も、お元気で。香奈先輩にもよろしく」
「それは、無理。言ったらアイツ、自殺するから。悪いけど俺も、死ぬ前提で生きてくから。2度と会う事、無いと思う」
「わかりました。さようなら……お元気で」
「そりゃ勿論。4年、若返る筈だからね。どうせ死ぬんだ、荊道だって諦めてた道、行ってみるよ」

 2人は、目を瞑った。
 次の瞬間、水中から上がったかの様に、音が、匂いが。戻ってきた。解放された足の裏は互いを見つめ合う様にして横になった。

ーー先輩と目が合うのは、気不味かった。
 真っ暗な視界の中、正面に座っていた人物は手際良く荷物を纏め、その場をさったのがわかった。
 ゆっくり瞳を開き、視界が正常になった時には、カオルの姿は無かった。
 店内を見渡し、外まで視線を広げるも、カオルの姿は見当たらなかった。

「すみません! お待たせいたしちゃいましたか!? お食事、お決まりでしたらお伺いします~」

 店内に入ってから、5分もたっていなかった。
 連れに帰られ、残された彼女にしか見えない客人が、店内を見渡す様子を見て、店員が慌てて声をかけてきた。

「あ。じゃあ……パンケーキのダブルと、カルボナーラ。アイスカフェオレと、あったかいソイラテ、下さい」
「あっ! かしこまりました~! お料理、ドリンク……もうお作りしてよろしいですか?」
「はい。出来次第持って来てくれて大丈夫です」
「かしこまりました~。それでは、ご注文繰り返しますー……」

 戻って来ない連れの人間と、同業者に気を遣って……2人分の食事を注文。
ーーそう。これは立派な免罪符。

 新しい人生の始まりを確信した彼女は、お祝いとして2人前をペロリと平げる。
 味も良し、量も良し。満腹で機嫌が良かった。

 店員や他の客からのヒソヒソ声は内容までしっかり聴き取れたが、久々の心地良い満腹感が勝り、気にならない。
 店を飛び出した足はスキップ同然の動きをし、軽く感じた。

 帰り道にアクセサリーショップを梯子し、ピアッサーを複数買った。
 さらに美容院へ寄り、長かった髪をバッサリ切った。
 そのまた帰り道のドラッグストアで、ヘアブリーチ剤と、追加でピアッサーを買った。

 家に帰って、ピアッサーの説明書を見て、準備をする。

 通常の人間は持ち合わせていないであろう、注射時に使っていたアルコール綿でしっかり耳を消毒し、万全の状態の耳へ一瞬の衝撃。そして、予想以下の痛み。

 調子に乗って複数のファーストピアスまみれになった耳は徐々に真っ赤に腫れ、発熱。
 耳か頭か、発症地が分からない痛みに襲われる。

 『糖尿病患者は医師にご相談ください』の文章。6時間の間を開けて、1週間以上の常習は避けましょう、の注意書き。数量制限など無視して、飲み続けた。

 日中、まともに起きていられなかった。食事もまともに取れない。気絶するように眠り続けた。
 暫くの間仕事は休んだ。その際、300位上あった安い鎮痛剤のストックは、あっという間に空にした。


 そんな彼女が無断欠勤明けの久々に出勤。
 休み明けの月曜日にも関わらず、店長はいつも以上の疲労と機嫌の悪さが上乗せされた様子だった。

「私、村木薫先生と結婚する事になったので。仕事辞めますね!」

 切るなと言われていた六十里の髪は、綺麗に耳の隠れるショートボブになっていた。
 脱色もされ、派手な色になったその髪をかき上げると、熟れた果実が顔を覗かせる。光る銀の玉と安いガラスたちは宝石の如く光り輝いて存在を主張する。
 
 その正体は、炎症による腫れの赤みが痛々しく残る耳。
 ぎっしり敷き詰められた様に配置された、ファーストピアスの、“群れ”。
 それに加えて、客にも見せて来なかった、歯を剥き出した満面の笑み。

 不気味×不気味×不気味。最悪な組み合わせを見せつけて。

「お前、何考えてるんだ! どうしちゃったんだよ……大丈夫かよ、お前」
 
 てっきり、辞めさせない! とでも言われるかと思っていた彼女は、予定が狂ったと感じつつも、決めていた言葉を更に告げる。

「この情報、話したの店長だけなんです。この世に知ってるの、店長だけなんで。もし漏洩したら、訴えますから。秘密厳守で、よろしくお願いしますね!」

 ご機嫌な酔っ払い状態。へらへらと笑い、話しを続ける……素面の彼女。

 
ーー誰だ、コイツ。本当にあの六十里花美か!?

 店長は、体も華奢で、一回り以上年下の彼女に……確実な恐怖を感じていた。


 本来、最低でも一ヶ月は必要であろう引き継ぎや求人の手続きを一週間で手配し、完了させた。
 仕事の効率や不利益なんてどうでもいい。とにかく、自分の身の安全を優先する。

ーー薬物、じゃ無いだろうな……とにかく、この厄介者を、出来るだけ早く追い出したい。


 多忙を理由に、送別会は計画しなかった。
 変わり果てた六十里を見たスタッフも、言わずもがな、何も言及してこなかった。

「お、おつかれさーん……げ、元気でな?」
「はい!おつかれっした~! さようなら! 暇な時、遊びに来ます~」

ーー2度と来るなっ!!って、思ってそうな店長の顔。露骨過ぎて……最悪最高。

 六十里は、辞めた。仕事も辞め、我慢も辞め、治療も辞めた。

ーー花火を、作り上げよう。

 六十里花美は、思った。

ーーハナビなら、薔薇が咲く荊道を、走り抜けられる気がするから。



******


 XX月XX日。立花香奈(旧姓木村)。自宅にて。大人1人と、乳児1人。

「よーしよし。良い子に寝ちゃいましたね~……可愛いなあ」

 寝息を立てる赤ん坊。
 うっすらと空いた歯のない口元は可愛いらしく、唾の泡がぷくぷく音を立てた。

「チューしたら、虫歯菌うつっちゃうんだって。パパが言ってまちたよー。彼氏は、歯医者さんちの息子さんに、しようかね~?
 パパは虫歯無いけど、ママとチューしちゃったから……チュー、出来ないのよ?したかった?ごめんねぇー。
 可愛いなあ。パパ、帰って来ない間に、こっそりママと……チュー、しちゃおうか?」


「そっか。この時の為の。バレない為のプレゼントだったのね。
 ……ありがとうね。ハナビちゃん」

 香奈は、時を止めた。可愛い我が子にキスをするも、その唇は虚しくも硬かった。

「ファーストキスはママ。2人だけの内緒よ?」
『ただいまー』

 玄関から、帰宅した旦那の声が聞こえる。
 脱いだ革靴の音、家の中に入る足音。

ーーもう帰って来ちゃった。

 産休延期申請から帰宅した旦那。
 子供と2人きりになる時間は、この先当分は無いと予測できた。

ーーもう一回。一瞬だけだから。

 香奈は再びキスをするも、今度は柔らかく、あたたかく感じた。
 目の前の我が子の唇が閉じ、眉間に皺が寄った。

ーー時間が、止まっていない!?

「あ、見られた!? パパ、今の無し無し! ごめんなさーーいっ!」

 帰宅した旦那に目撃された事に対し、焦りと謝罪の大きな声を上げるも、返事は無い。膝上の我が子を支えながら、恐る恐る振り向く。

 そこには、満面の笑みで一歩踏み出した状態で停止する、不自然な旦那がいた。
 手に持った紙袋が、重力に逆らって、角度をつけて停止している。

「嘘…………なんで?」

 唇を、舐める音。唾が泡立って、ぷくぷくと爆ぜる音。

「夢、だよね?!」

ーーどこからが夢なら。覚めていいのかな。

「あれ? なんだー、いたいた!……て、ごめーん。そんな怖い顔しないでよ。
 寝てたのか。お土産買って来たから、香奈も一緒に食べよう。低糖質プリンだよ」
「え……う、うん。ありがと」

ーー全部夢。悪夢だったんだ。

「良い子に、おねんねしててね。後から、ママも……おねんね、するから」

 ベビーベットに移動し、寝かした我が子は、それに気付くことなく。
 泣く事もなく。寝息も立てず、唇をうっすら開いていた。

 眠っている様にしか、見えなかった。

ーーその瞳が開く事は、2度と無かった。


 4年後の7月7日を待つこと無く、香奈の“それ”は訪れた。

 誰よりも早く、運命を背負ったのは、短時間の観測者として指名を果たした香奈の娘、なのだろうか。

 か弱い命の灯火が消えたのは、ただの運命。悪夢かもしれない。
 その悪夢から目覚めるにはどうしたら良いのか考えた時、夢の中で眠りに着くと良いと聞いた、気がした。

 香奈は悪夢から……逃げられる可能性に賭けて、眠りにつく事にした。


 一人で黙って身をくらましたカオルは、目的を果たした事さえ知らせなかった。
 カオルとハナビが、香奈母子の訃報を知る術は無い。

 2人の死亡原因を知り、ずっと忘れずに覚えているのは……この世で1人、“彼”だけだろう。

 大量の錠剤の殻と、空の注射器が散乱した現場で、倒れている母子を目撃した、香奈の旦那であり、主治医の彼だけだ。





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