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 六十里は、昨日とほぼ同じ時間に出社していた。靴箱は昨日の帰宅時と変わらず、内履き達が踵を見せて並んでいる。
 ナツメの派手な赤い靴も、そのままだった。

ーーまだ、誰も来ていない。

 いつも通りだった。
 無駄にこだわって数分のズレもなく昨日と同じ時間に家を出て来た。何事もなく来たつもりだったが、気持ちは少し急かしていたらしく、いつもより1分早い到着だった。

 数分、待ってしまった。
 昨日と同じ時間を過ぎるも、玄関にナツメが来る気配は無かった。

 六十里にも、自分が常日頃早く来過ぎている自覚はあった。
 昨日の終業後の帰宅時間を改めた様に、出勤時間も遅らせようとも考えた。
 しかし、体はそれを違和感として捉え、それを受け入れなかったのだった。

ーーたった3分。そこに立ち止まるのが限界だった。


 靴を履き替え、タイムカードを打ちに向かう。
 今まで何となく通っていた通路。何も変化は無いのに、何故か違って見えた。1人で通ると、予想以上に足音が響いている事に気が付いた。

 六十里花美の名前が書かれたカードを手に取る。出勤時間を印字する鈍い音も、静かな空間には良く響いた。昨日と同じ光景だった。

ーー同じ過ぎた光景。

 列から飛び出して置かれていたナツメのタイムカードが、無くなっていた。

「ああ、おはよう。六十里さん」
「あっ、おはようございます、工場長」

 露骨に不機嫌そうな工場長が、顔を出した。怒っている……わけでは無さそうだった。六十里を見るなり、困り顔で大きくため息をついた。

「昨日、夏目君となんかあった? なんか、言ってた?」
「いえ、その……お昼を買う場所を知りたいって言うので、近所のスーパーの場所を教えただけです」
「うわぁー、やっぱそれなのかな~……怒ってた?」
「いや……そういう風には、見えなかったです、けど」
「いやねー、俺、昨日社食頼むのすっかり忘れちゃってたんだけどー。
 大丈夫ですって直ぐどっか行っちゃったから、次のお昼はお詫びに奢ろう!……と、思ってたんだけどさぁ」
「何か、あったんですが?」
「あー………辞めるんだってさ」
「ええ!?」
「ねえねえ!! 怒ってた!? そんなに怒ってた!? 本当に何も言ってなかった?? 
 電話では諸事情で通勤が難しくなったので今回は無かった事にーって謝られたんだけど……」
「辞めるって……彼の靴、ありましたよ?」
「今日、ロッカーの荷物取りに来るのと、制服返しに来るって言ってるんだけど……どう思う?」
「どうって……私に聞かれても」
「まあ、カッコいい子だったしね。工場なんかで働くの、嫌になっちゃったのかねぇ……」
「どう、なんですか、ね……ハハハ」
「あ、六十里さんとこの補助、もう少し先になっちゃうから……ごめんね?」
「ああ、はい。わかりました……失礼します」

ーー最悪、だ。
 工場長の言っていた、『六十里さんとこの補助』というのは。
 寿退社で抜けたパートのやっていた仕事の事だった。
 正社員ではなく、毎日出勤では無いパートに任せていた仕事。

ーー単純な部品の補充作業。

 比較的楽な仕事ではあるものの、誰かが掛け持ちでやれるほどの仕事量では無く、正社員1人をその仕事に回すには手に余る。

 残った社員で作業を分配する事になっていったものの、六十里の作業は工程内において関連が深く、1番負担が大きかったのは一目瞭然ではあった。

 仕事が始まらない、成立していない日が続く現状を六十里を含めた皆が苛立っていた。
 パートと六十里の仕事の分配をはっきり理解していない、作業場の離れた作業員達。
 その社員達が後輩だろうと、同僚・先輩の立場でも関わらず、無意識の内に苛立ちを六十里にぶつけている様に感じた。
 六十里もまた、無意識の内にその責任を全て背負い込んでいた。
 
 産休で休暇を取り、半年で戻ると言っていた現場リーダーが戻らないまま一年がたとうとしていた。
 リーダー不在で仕事コンベアを回すも、担当配分は増え続けたが、給料は変わらなかった。

 昼休みも休まず作業しなければ、午後の仕事が成り立たない日が多々あった。
 午前の作業量で余裕が出来た日は、気絶しそうな程の疲労感だった。
 昼休みは食事も取らずに仮眠に費やした。

 朝早く来る様にし、多少体力に余裕が出来たと思ったその時には、もう手遅れだった。
ーー体が食事を受け付けなくなっていた。
 最低限のカロリーを摂取しようと、甘い飲料を体に流し込んだ。大好きな甘いジュースを毎日、ペットボトル一本分。昼休みに1回、一気飲み。
 手早く美味しく摂取出来るという効率重視の幸せだけを糧に、仕事を続けて来てしまった。

ーー食事を早く済ませれば、より多く仮眠時間が取れるから。
 早くロッカールームここを去れば、文句ばかりのわがままなパート達の愚痴を聞かずに済んだから。

 早朝出勤・最終退社を繰り返す日々が当たり前になっていった。
 勤務期間もさほど長く無い平社員の背負う業では、無かった。


 頑張りに反比例して社員は減り、残業と土曜出勤は当たり前。
 低賃金でもお金は貯まっていった。使う時間も理由も、手段も無かったからだ。
 約束された確定の日曜休みは疲労回復に費やす。ただひたすら寝る時間と、一週間分の飲み物の買い出しで終わって、また同じ月曜日が始まる。


ーー終わりを願う毎日だった。
 辛く無い、痛くない範囲で。頑張れる範囲で“無理“をして。
 可能な限り、まわりに迷惑をかけずに、終わらせたかった。

 体はみるみる痩せて行った。
 1人暮らしだった六十里。オーバーサイズの服の下に隠した異常な状態の体を指摘出来る距離感の人間は、いない。
 別で暮らしている大好きな両親や兄弟には、何も伝えていない。バレていない。

ーー死ぬ準備は整っていった。


 そう思っていた矢先だった。
ーー夏目懐目という男が現れたのは。


 ナツメの辞職……というか。内定辞退に、六十里は落ち込んでいる自分に少しだけ驚いた。
 愛着なんて無い仕事場だ。他に行く宛が無いから居るだけの仕事場だった。
 期待などしてない仕事場に人が増えた所で、社員採用が失敗したところで。

 そんな風に思うはずだった。
 目の前に現れたのは、ナツメというイレギュラーだった。

ーーナツメ、だったから。
 他の人間だったら。落ち込んだりせず、何も変わらない時間が流れていただろう。



『僕で良ければ聞こうか、その話』



 生意気な言い草にも関わらず、不思議と苛立ちは無かった。望んでいた返答だったのかもしれない。

 その後ナツメは「また明日!」と一言残し、去り際に手を挙げて駆けて行った。確かに言ったのだ。『また明日』と。

 その言葉を信じて迎えたのが、今日だったのだ。



*****



 午前業務終了を告げるチャイム。
 殆どの社員が作業場を後にし、六十里1人が残る。
 いつも通りの昼休みに、戻ってしまった。

 ナツメの事で気が散った午前中は、今までには無かったミスも多く、精神的に疲れた。
 ミスの原因となった六十里の心情を知る者はいないし、同時に責める者もいなかった。


『皆が責任を押し付けて来るから背追い込む』

ーーとんだ思い過ごしだった。

ーー私は、この仕事場に必要な人間なんかじゃ、無い。

 好きでも無いこの仕事場への義務感が、唯一の支えなっていた。
 この世界に居続ける理由が、ただの執着心だった事に気付いてしまった。

「……ハナビサン?」
「んっ!?」

 顔は、覆った自分の掌の中にあった。
ーー随分と長い時間。真っ暗な世界にいた気がする。

 不意にかけられた声。ナツメを錯覚させるその呼び方に、驚いて顔を上げる。誰も居ないと思い込んでいた彼女は油断しきっていて、涙が溢れ落ちた。
 現実には短い時間でしか無いはずなのに、顔は火照って真っ赤になっているのだろう。
 頬に触れてはいない。側にあるだけの手のひらに、火照った熱が十分に伝わって来る。

「ハナビサン、大丈夫? 今日の事なら、大丈夫ヨー?」

 声をかけたのは、外国人スタッフだった。
 なんの躊躇も無く自分の持っていたハンドタオルを差し出してくれたが、申し訳無さが勝り自分の手首で涙を拭って見せた。
 相手の気持ちを無下にした不安感から、垂れてもいない鼻をすすって、笑い声をこぼす。

「大丈夫。鼻水着いちゃいけないから、大丈夫です」
「イイよー、気にしないカラネー?」
「すみません……ありがとう、ございました」

 そう言うと、満足そうにハンドタオルをしまう。
 話が終わって立ち去るのを見送ろうとするが、相手はハッとして話を続けた。

「今ネー、昨日入ったカッコいいお兄さん辞めちゃうカラーって、下に来てましタヨ。ハナビサン、探してマシたから、呼びに来タ」
「わかりました。ありがとうございます……!」
「マッテ!!」

 食堂の方へ踏み出した六十里を呼び止め、更に発言を続けた。

「居ないならイイよーテ、言われたけどワタシ来たカラ、帰っちゃってるカモ! 
 たぶん玄関行った方がイイよー!」
「わかった! ありがとう!」

 咄嗟の対応と急ぐ気持ちが相まって、今まで崩さずにいた言葉は、短縮されて発せられてしまう。
 言い慣れない言葉使いに恥ずかしくなり、相手の様子を確認した。振り向いて一瞬だけ確認した顔は笑っていて、手を振ってくれていた気がした。
 何もかもを都合良く解釈し続ける自分。

ーーいつものネガティヴはどうした? 私!

 決して軽やかとは言えない足取りで駆けて行く。その一歩一歩が誰も居ない作業場には大きな音を響かせた。
 そんなのお構いなしに、靴箱のある玄関へ向かう。

 こんなにも急いで走ったのは久しぶりだった。
 マスクを着けているせいもあってか、息苦しさのあまり肩を大きく上下させる。眩暈がした。

ーー距離も時間もたいした量を走っていないと言うのに……無様だ。

 やっとの思いで玄関にたどり着く、が。


 ナツメの姿は無かった。


 乱れた息を整えながら、派手な赤い靴のあった場所を見るーーダメ元だった。

 案の定その靴箱は空で、ビニールテープに手書きの『夏目懐目』の名札だけが残っている。一度その名札に手をかけ、剥がして破りたい衝動に駆られるも押し殺した。

 まだ落ち着かない息を整え、ナツメの靴箱から目をそらすと、別の靴箱からはみ出す物が目に着いた。少し派手目な紙袋に包装された何かだった。
 外履きの履物の上に無理矢理詰め込まれたそれは殆ど飛び出していて、絶妙なバランスを保っており、目立っていた。
 冷静さを取り戻しつつある六十里なら、安易に気付く程に。

ーーここ……私の靴箱じゃん。
 その紙袋が入った靴箱は、六十里の靴箱だった事にやっと気が付いた。

 ふらつく意識の中で紙袋を手に取って、留められたシールを丁寧に剥がす。
中には高級そうな焼き菓子と、これまた高級そうなメッセージカード。一回だけ折り畳まれているタイプ物が入っていた。
 少し開いた状態のそれに指を入れ、片手で開く。


【 これ食べてお仕事頑張ってね。これからも仲良くして下さい。よろしくね。 】


ーーきっ……きったない字。

 人の事が言える程では無いと思いながらも。
 六十里はメッセージカードを閉じると、そのまま握り潰した。少し頑丈な紙だったそれは握りつぶすには少し痛かったが、そんなのどうでも良かった。
 その勢いで紙袋も叩き落とし潰してしまいたかった衝動は抑え、焼き菓子は取り出す。空になった紙袋はいとも簡単に握り潰され、拳に収まるサイズまでに小さくなった。

 口の中はカラカラに乾いていて、息苦しい。お腹も全く空いていない。

ーーそれなのに。
 曖昧で理解出来ない感情が、その焼き菓子がそこに存在し続けるのを許さなかった。
 菓子の包装を雑に破かせ、焼き菓子は口に放り込む。
 口に入れた瞬間バターの香りが広がり、咽せるのを身構えていたものの、すんなり喉を通って行った。
ーー何これ…………最悪。

 悔しい程に。憎たらしい程に。
 美味しかった。
 頭に糖が回って、冷静さを取り戻していき、考えも纏まる。

ーー意味がわからない!!!!!

 ……と言う事が、はっきりわかった。

 いつまでも口に残るバターの香りと甘さ。
 本来心地良く感じるそれが、鬱陶して仕方がなかった。
 先程の涙は夢だったかの様に、跡形もなく引っ込んだ。

 機嫌の悪さが隠し切れない足取りでロッカールームへと向かう。
 経由した食堂のテーブル中心には、先程食べたお菓子と同じメーカーらしき包装の箱が見えた。

「あ、ちょっと。ねえねえ! クッキー、1人一個づつだって」
「……はい、どうも」

 パートの社員が必死に声をかけて呼び止めた。名前がわからないのを誤魔化すのがわかった。無様に大きな声で続ける。

「あー、これね。昨日入ったイケメンからのヤツだから。でも、辞めちゃったらしいよ」
「そう、なんですか……」

 言われなくてもわかっていると思いながらも、拳に握りしめていた紙袋だった物と焼き菓子の包装紙を音を立てない様にしてポケットに入れる。
 空いた手でクッキーを選び手に取る。

「良かったら貰うけど?」
「あ、どうもです……」

 ゴミの入ったビニール袋を差し出された。
 ささっとここで食べてしまえる程の、小さなクッキーだったからだ。

 咄嗟に返事をしてしまったので、包装紙を開けてクッキーを取り出し、ゴミになったそれを入れる。
 軽く頭を下げ、クッキーはそのまま手に持ってその場を離れた。

 先程食べた焼き菓子同様、高級感は漂うもののグレードはワンランク下がっているのが目に見えてわかった。
 美味しそうなのには変わりが無く、同じ焼き菓子と言っても小ぶりでシンプルなクッキーだった。
 先程食べたあれはカップの包装紙が無かったし、フィナンシェだろうと予想する。
 冷静に分析する今の自分と、無我夢中で食べた過去の自分が対照的過ぎて、少し恥ずかしくなって来ていた。

 ロッカー手前の位置から事務所奥が見える。ナツメが着ていたであろう作業着が丁寧に折り畳まれた状態で置かれており、その上に新品同然の名札が光っていた。

ーー彼は本当にこの会社を辞めたのだ。

 辞めたと言うのはあくまで噂で、お菓子は入社の挨拶のタイミングがズレた。

ーーそう思っていた……その可能性を、願っていたのかもしれない。

 でも、それも束の間。
 撤去されたタイムカード、全社員への通告、回収された内履の靴、返却された作業着と名札。
 これらが全て揃った時、六十里は現実を突き付けられた。

 手に持ったままだったクッキーを甘いコーヒーと一緒に飲み込む。
 ポケットのゴミをロッカーへ移す際、レモネード味の飴が溢れ落ちた。

 ロッカーの中には昨日買って貰った飴玉の袋。口は既に空いている。
 その隣で、キャラクターの印刷された小さなジップロックの袋に詰められたレモネード味の飴玉が、寂しく並んでいた。
 こぼれ落ちた飴玉もジップロックへ詰めるが、その一つだけが皺だらけで、悪目立ちしていた。


 その日の午後の仕事は、午前中のミスを取り戻せたと思わせる程、好調だった。
 久々に摂取したカフェインと糖分が集中力を高め、気分も良かった。

ーー昨日と今日の出来事の記憶を薄める役目も、多少なりとも有れば良かったのに。

 仮眠も無く迎えた終業は、記憶をはっきり残したまま、六十里を帰路へと向かわせた。
 
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