黒犬と山猫!

あとみく

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行きたくない場所へ

第374話:佐山さんとの別れ

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 京王線のホームのベンチで、何本も電車を見送りながらしばらく仕事の話をした。
「じゃあやっぱりあの女の子たち選んだの中山課長ってこと?」
「そーだよ、どうせ女の子なんて事務へ行くから、あの人顔しか見てないって」
「そうか、まあ、それはそうだけどなあ・・・」
「・・・あ、ねえ、何か食い物持ってない?腹減っちゃった」
「え、じゃあ、どっか食べに・・・」
「ううん、めんどい。何か、飴とかガムでいいからさあ」
 僕は鞄を開けて、さっき<リンリン>からもらった飴を黒井に手渡した。
 何となく、その手のひらに、触れないようにぽとりと落とす。
 隣で座って、正面を向いて喋っていれば大丈夫だけど、手とか膝とか、身体の一部が目に入ると色々まずい感じになってくる。
「ふーん、何かうまい。・・・アメリカン、チェリーキャンディ?」
「あ・・・その、さっき松田さんにもらった」
「松田さんって誰」
「・・・四課に来た派遣さん」
「あーリンリンか」
 飴はもう一つあったので、自分も真っ赤なそれを口に入れる。うん、確かにうまい。
 すると、ふいに手首をつかまれて、個包装のカラを押し付けられた。ああ、はい、ゴミは捨てときます。
「・・・ふふっ、なんか、さ」
「うん?」
「これ、ウケる」
「なにが?」
「だって俺たちのことじゃん。チェリーボーイ」
「・・・は、あっ?」
 一瞬意味が分からなくて、続きの説明もなくて、・・・え、チェリーボーイって、童貞ってこと?
 ・・・それってもしかして、僕たちは、まだやってないから?
 っていうか、男相手は、初めてだから?
「変なこと、言うなよ・・・」
「でも、しょうがない、じゃん?だって変なことしようとしてんだし」
「・・・」
「お前だってその気なんだから」
「・・・な、何言って」
「じゃあ俺だけ?」
「いや、いやそれは」
 黒井は自分の膝をぽんと叩いて、あははといたずらっぽく笑った。
 「やめろよこんなところで・・・」と抗議するとまた手首をつかまれ、指の間に指を差し込まれて、慌てて振り払うけど、ああ、惜しい。
 でも、何だかその手のひらの感じで、これは単なる軽口にすぎなくて、表面上ふざけてるだけだというのが分かった。
 ・・・しばらく沈黙が流れて、電車が入っては折り返し出ていって、何となく、ここがこないだの隅田川の川べりみたいな空気になってきて。
 妙な連帯感みたいなものを感じて。
 僕は黒井に「・・・しようか、変なこと」と言った。言ってしまった。
 黒井は「ま、今日じゃないけどね。・・・今度」と。
「うん、今日じゃない。今度」
「ん。じゃ、そろそろ帰るか」
「そうしよう」
「よし」
 二人で立ち上がって、電車待ちの列に並ぶ。
 どうしてだろう、こうなると何の緊張もなくて、「この人誰だっけ」とも思わなくて、クロが僕の隣にいるのは当たり前のことに思える。
 「いつするんだよ」と訊いたら、「分かんないけど、お前んちが出来たら」と。
「出来たら?」
「テントでするから」
「・・・へっ?あ、ああ、そう」
「だからこの土日で、引っ越しね」
「えっ?・・・あ、はい」
「テントどこで買おっかな。あ、そういや京橋に新しくアウトドアの店ができたらしくてさ・・・」
 並びながらほんの少し肩と腕が触れて、それでやっぱり、「いつする」だの何だのはただ口先だけで、お互い本当は別のことが腹にあると思った。
 でも、そのことも互いに分かってる気がして、「うん、分かってる」ってのを伝えるように余計饒舌になって、僕たちは電車のドア前に立って今までにないほど喋った。
「・・・じゃあさ、土曜は買い物で、日曜はそっちの荷物こっちに運び込んで」
「ああ、じゃ、それで・・・っていうか運び込む隙間はあるわけか?」
「何とかするよ。・・・お前がね」
「くっ、何だよそれ、掃除始めたら一日じゃ足らないぞ」
「ったく、それじゃ今あるもの全部捨てて、お前の好きなように買い直せば?そんでさ・・・」


・・・・・・・・・・・・・・


 帰宅して、食欲は皆無で、思考を停止して家事をして風呂に入って、そして布団に入って電気を消した。
 ・・・。
 ちょっと待て。
 土曜日にテントを買いに行く?
 それってまさか、買ったら早速テントを組み立てて、土曜の夜はここで・・・。
 いやいや、まだテントを張るスペースなんてない。こっちのものを向こうに運んで、色々片付けてからじゃなきゃ無理だ。だから少なくともテントを張れるのは来週の土曜日・・・。
 ・・・って、いうか。
 もしかして、僕がこうやって一人で寝れるのは、・・・明日の、金曜の夜まで?
 その後はずっと、黒井と二人で寝るの?同じ布団で?
 いや、え、どうするんだよ、本人を前にして、オカズにできないだろ。
 一人で出来ないってこと?
 それって大丈夫か?欲求不満で死なないか?・・・あ、いや、そうじゃなくて。
 ・・・。
 もう本番ってこと!?
 無理だろ、何するんだよ、男同士でいったい何をするんだ、俺知らないぞ・・・。
 何も、調べてないし、やり方も分からないし、準備することも分からない。
 病院とかで何かしなくちゃいけないんだろうか?浣腸のようなこと?最初だけでいいのか?する度に??
 コンドームだけでいいのか?何か器具がいる?・・・器具って何だよ、怖すぎるだろ!
 ・・・どうしよう。
 ・・・本当に、本当の本当に、尻の穴なんかにあれを挿れるのか?
 何かの間違いじゃ?だって入るはずないだろう、クロの、あんなの・・・いや、まさか!
「あ、あはは・・・」
 うん、きっと、痛くもなくて大変でもない、何か専用の他の穴が隠れてるんじゃないか?だってそうじゃなきゃ世界中の人がこんなことしてるとは思えない。どっかになかったかな、ヘソ・・・は無理だし、背中にはなさそうだし、でも前にはあれしかなくて、じゃあその真ん中らへんに、何か・・・。
 ない、のか。
 ごくりと唾を飲み込んで、その音が響いた。
 どうしよう。
 どうしようクロ、俺、お前を受け止められないかもしれない。
 お前は知ってるの?どうしたらいいか分かるの?・・・詳しく知ってても嫌だけど、でも二人とも何も知らなかったら、本当にできるの?ただいたずらに僕の恥部をこねくり回すだけの行為になるんじゃ?
 ・・・涙が出てきそうだ。
 無理だって。やっぱ他に挿れるところないの!?
 ・・・ないのが、男ってことか。僕は男だからそんなものないんだ。それが男同士でやるってことなんだ。
 大人しく、ネットでやり方を調べるべきなんだろうけど、どうしても体は画面に向かわなかった。
 もう、全部忘れて、なかったことにしていつものように一人でして寝ようとしたけど、何だか、勃たなかった。


・・・・・・・・・・・・・・


 十一月二十八日、金曜日。
 道を歩こうが電車に乗ろうが、頭の中はどういう体位でやるのかも分からないセックスのことばかり。こんなに朝からセックスのことを考えている会社員なんて僕くらいじゃないか?
 ・・・それでも、それは、欺瞞だ。
 それは分かっていた。
 「男とのセックス」に動揺している振りをして、「黒井彰彦とのセックス」という意味不明な困惑を掘り起こさないよう隠しているだけ。
 ・・・本当に、あいつは、セックスする相手?
 うん、まあ、答えなんか出るはずもない。
 してみなきゃ分からないだろうけど、したら最後という気もする。
 ならもうするしかないんだろうけど、だから、やり方が分からないんだって!
 
 少し早めに会社に着くと、佐山さんから業務の相談ついでに廊下にそっと連れ出され、持っていた紙袋を渡された。何の書類を入れてる袋だっけ、僕への引継ぎ事項だっけと思っていたら、まさか、それは僕への餞別だった。
「あの、ほんとにお世話に、なりました」
「え、いや、そんな、何だか大層なもの・・・」
「いえ、別にそんなあれじゃないんですけど」
「で、でも結構なあれじゃないですか」
 僕はずしりと思い紙袋を持ち上げて見せ、二人で「あれ、あれって」と少し笑った。
「ごめんなさい。皆さんにはお菓子を持ってきたんですけど、ちょっと別のものなので、こんなところで」
「いえいえ、そんな・・・」
「あ、あの、実は黒井さんと二人分なんです。中に、紙袋・・・、あの、三課の方たちには用意してなくて、あ、島津さんは別ですけど、営業さんたちにはちょっと、・・・なので、もしよければ山根さんから」
「え、あ、それはもちろん、渡します」
「あの、同じものなんですけど、一応下のが山根さんので、色違いで・・・お二人の趣味って、あんまり分からなくて」
「ああ、すみません」
「お二人はいつもコーヒーのあの紙カップ持ってる印象だったので、そのまんま・・・コーヒーマグ、なんですけど」
「・・・あ、ど、どうも、それは」
「ご迷惑じゃなければ・・・いいんですけど。あの、実は買ってから、こういうマグとかって、気にする方もいるかなって」
「・・・気に、する?」
「いやその、・・・彼女さんとかいたら、こういうプレゼント、変に思ったり、嫌な気持ちになっちゃったら、申し訳ないって」
「・・・た、たぶん大丈夫、そういうのは別に、うん」
「ふふ、ならよかった」
「っていうか何か、気を遣わせちゃってすいません」
「いえ、本当にお世話になりましたので、大したものじゃないんですけど、気持ちだけ」
「こちらこそ、どれだけお世話になったか」
 そこで何となく就業時間前で人通りが多くなり、僕はクリスマスっぽいカラーの紙袋を目立たないように持って、二人で席に戻った。
 誰かから自分宛に物をもらったという、戸惑いと喜び。
 ずっしり重いそれをデスクの引き出しにしまって、・・・あれ、確か黒井にも色違いで同じものと言ってた?つまり、僕たちのお揃いのマグカップってこと?これから同棲するというタイミングで?
 まるで門出を祝われているようで赤面したくなるが、いや、でも、セックスのやり方がわからないんです佐山さん。・・・うん、佐山さんにだってわかるわけないか。

 ひとしきり馬鹿なことを考え終わった後、二人分のカップに対し、こちらの餞別が二人で一つのお守りはどうなのかという思いがわいてきて、何か追加しなくてはと焦った。


・・・・・・・・・・・・・


 午後はまた研修なので、午前中に急ぎの一件だけ外回り。
 東池袋で保守の見積もりを出し、とりあえずサンシャインに入ってみると、テーマパーク的な施設かと思ってたけど意外と普通の店もあった。成城石井で弁当を買ってイートインスペースで食べ、それからお洒落そうな贈答品を売る店で紅茶セットを物色。そして、いつだったか妊婦にはルイボスティーがいいと佐山さんが言っていた気がして、クッキーとセットになったものを選んだ。千五百円なら値段も手頃だし、ん、「出産の内祝いにも最適」って、まさに今の僕のためにあるような品じゃないか。今日の今日でこういうものを発見できるなんてツイているとしか言いようがない。

 帰社して、いよいよ合同研修。
 主にプライベートな理由でいろいろなことに構っておられず、やや強引にセミナールームAを再び使わせてもらい、ついでにPCを支社のネットワークに繋いでもらった。うん、周囲に最大限気を遣うことで物事がスムーズに進むと思ってたけど、独断で押し切ったって意外とちゃっちゃと進むんだな。僕は黒井流の「楽しんで、したいことをする」仕事じゃなく、「それどころじゃなくて、これしかできない」仕事の方が合ってるかもしれない。

 とりあえず三課全員と、四課は営業デビューした飯塚君と辛島君を除く五人が集まり、今日は全員で見積もりシステムの画面を見ながらおさらいという(僕が楽をできる)無難な内容にした。それぞれが自分の画面を見るから静かだし、三課と四課の意見交換とかもナシ。申し訳ないが僕はこれを時間通り終わらせて佐山さんに餞別を渡さなきゃならないし、最後の自慰になるかもしれない夜の過ごし方も考えなくちゃならないんだ。
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