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同期の結婚式の二次会
第369話:俺たちの犬猫小屋
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先を歩く黒井が振り向いて、こちらを向く。
そしてちょっと気まずそうに言ったのは「・・・結婚したかったのって、マヤちゃん?」という言葉だった。
「・・・」
「だってお前があんな、女の子と普通にお喋りなんかできるわけない」
「・・・」
天井から煌々と、後ろ暗いことなんか何もないようなライトの光。
綺麗で隙のない空間が、何だか妙に息苦しい。
「あれはノリで言った嘘じゃない。分かってる。・・・お前は結婚しないって、言ってくれたけどさ」
「・・・」
「もし、もしも・・・マヤちゃんが、その、・・・俺と、結婚、したいなら」
「・・・」
「ごめん。できない・・・」
・・・そりゃ、できるわけないのは、分かっていてなお、黒井は声を震わせながら、本気で話していた。
本当にできるとか、できないとかいう話じゃないのは、僕だって、そして・・・マヤだって、分かった。
・・・うん。
これはたぶん、ああ、もしも僕が女性であったなら・・・戸籍上、黒井と結婚できる存在だったなら、言われていた話なんだ、きっと。
「俺は、最初、マヤちゃんに正直・・・惚れたけど、でも、やっぱり、結婚って、できない。そういうの、できないんだ俺。<夫>も無理だけど、ついでに言うなら<恋人>も無理。何ていうか、響きとか、意味合いの問題だけど・・・俺が彼女作らなかったのだって、そういう、恋人ってのが無理だから。そういうの馬鹿馬鹿しくて面白くなくて、何ひとつ意味がなくて、やってらんない」
「・・・」
「これは、マヤちゃんだとしても、・・・やまねこだとしても、同じ。これが、俺の、今の本音」
・・・。
・・・え、・・・恋人も、・・・無理?
どういう、こと?
「・・・だ、だって、・・・お前、付き合ってくれって・・・」
「うん、でもそれって<恋人>って意味じゃなくて」
「じゃあどんな意味だよ」
「付き合って・・・って意味」
「なんだ、それ」
「付き合ってくれってこと。俺と一緒に、行ってってこと」
「・・・は?」
「なっちゃんの手紙、聞いただろ?」
「・・・え、・・・あ、夏子さんの」
「やっぱり俺、見守る側なんかにまわれない。走ってる側に、いたい。怪我したって」
「な、何のこと?」
「恋人とか結婚とか、止まってる気がするんだよ。・・・俺、もう、現実でいいって思ったけど・・・でも、止まりたいってことじゃない」
「・・・ちゃんと、意味を、説明してくれ。どういうこと?」
「俺、恋人とか家族とかに見守ってほしいわけでも、支えてほしいわけでもない。恋人や家族として支えることもできない。ねえ分かる?俺、夫にも、彼氏にもなれないんだよ。お前なら意味分かる?」
・・・。
黒井は僕の肩を揺さぶって、自分の胸を拳でどんどんと叩いた。
・・・ああ。
それは何だか、見たことがあるし、知っている。
あの、僕が黒い犬を見てクロを思い出した三月、ホテルの部屋で、お前はそうやって自分の胸に僕の手を当てて、その心音を感じさせた。
そうか、何だか、分かった。
クロは<現実でいい>と言ったけれど、それは恋人や同棲や結婚(的な暮らし)みたいなものに落ち着くという意味じゃなくて、あくまで<現実というフィールド>で走るということだったのか。もう歩みを止めて<普通>になって、健全に一般的にごく当たり前に二人で小さく慎ましく暮らしていくという意味じゃなかったんだ。
「ねえ、ねこ・・・」
「・・・うん、ごめん、・・・クロ、俺、分かった」
ふいに、また、今夢から覚めたような感覚があった。でもそれはマヤから交代したわけじゃなく、我に返った感じ。
・・・僕は今も、そしてさっきのトイレでもこうして黒井と話していたけれども、それはただ、聞いているだけ、意味の通らない部分を問い質していただけだった。
僕はこれまでの間ずっと、黒井が宙を仰いで何を見つめているのか知りたくて、言葉じゃない部分まで潜っていってその意味を探して構築し、黒井自身にすらそれを説明してきたっていうのに、僕はもうそんなことをさっぱりやめて、「意味の分かる話をして、恋人さん?」なんて、よりによって黒井彰彦にまともな文章を紡がせようとしていた。
ああ、アップルパイの匂いに惑わされていたのか。
元々そうだったけど、あの時、黒井を好きになった時点でもう僕は、<普通>・・・うん、それってつまり<親の望む人生>なんて、無理だったんだ。
僕の中で何割か、そうできたらいい・・・それが苦もなくできるならそれがいいことであり、おさまるべきところであり、もしそうなったならこの得体の知れない罪悪感も無色透明の液体になって、部屋中を満たして肺まで満たして、そしたらもうそれを感じなくても済むんじゃないかって、どこかでそんな道を期待してもいた。
親の望みを全部叶えたなら、<果たすべきなのに果たしていない義務>という無言の圧力に対する免罪符ができて、もうそこは、この人生のスゴロクの上がりってことでいいんじゃないかと。
でもこれはたぶん、男の黒井を好きになったから達成できなくなった・・・というわけじゃないんだと思う。
黒井が「夫も彼氏も無理だ」と言ったように、僕はきっと、「息子」が無理なんだ。
<結婚>というキーワードが出てきてからふいに、できないのにできるような気がしてふわふわと漂って、僕は黒井の言葉の裏側を探ることさえやめてしまっていた。結婚にたどりつけば全てが許されるような気がして、お前まで僕の<普通の人生>に巻き込もうとしていた。
「分かった。俺、結婚しないよ。さっきもそう言ったけど、あれは寝ぼけてただけ。お前が言う<現実でいい>っていうやつと、俺の<普通>っていうのを、重ねて見てたんだ。でもそれは全然別のことだった。俺が、結婚に・・・何かを夢見てたのはウソ、では、ないけど、でもそれは、実体のない夢だったんだ」
あのぽっちゃりしたサリナが言っていた「妻の椅子やママの椅子に座るだけ」というのもきっとその通りで、もしそこに「息子の椅子」があって座れるんだったら、僕だってこの世のひとつの幸せを得られるんだろう。
でも僕はきっと息子の椅子にたどり着けない。どんなにまともな女性と結婚できても、表面的には「家庭を持った息子」になれるけれども、本質的には無理なんだ。
・・・それは、僕が、・・・僕の中身が気持ち悪くて、親には理解できない「いけない」ものだから。
僕がその気になれば頑張ってそれを捨てて改心することもできたのかもしれないけど、僕はそうはしなかった。そして成長とともになくなるかもしれないとも思ったけど、実際は思春期から金縛りや幻聴が始まって自殺願望まで抱き、親の理解からはさらに遠くなった。
それを「俺には見して」と言ってくれたのが黒井であって、その相手と結婚したって<親の望む人生>なわけがない、というか完全に正反対じゃないか。
「ごめん、クロ、俺が間違ってた。馬鹿みたいに見誤ってた。まるまる一周すればそこにたどりつくような気がしてたんだ。でも、球体じゃなくて展開図なら対角線上の対極にいるだけだ。フィールドを読み違えてた。・・・もう、こんな愚かなことは人生で二度とやらない。帰ったらこのスーツを捨てるよ」
「・・・あ、ああ、やまねこだ」
「・・・何だよ」
「延々黙りこくって、そんで突然説明口調で喋り出す、理屈屋の、お前だ」
「そ、そんな風に映ってるのか、俺」
「まあね」
「もういいよ、もういい。俺も本音で言う。俺はお前と結婚したかった。その、それは・・・い、いろんな、意味で。マヤのこととか、一般論的な、社会人のライフイベントとしてとか、その、単なる、ごく普通の憧れとか・・・それから親のことも含めて、色んな意味で<結婚>に何かを求めてた。お、お前が、一緒に住むとか、言うから、つい、その先の結婚まで考えて・・・それで絡めとられて迷子になったんだ。・・・でももう撤回する。結婚なんかしない」
顔を上げると、黒井は目を伏せて微笑みながら首をゆっくり横に振り、「・・・上等!」とつぶやいた。
・・・・・・・・・・・・・・
それから黒井はネクタイを思いきり緩めて腰に手を当て、満足したように「それじゃ言うよ」と。
「俺は夫も彼氏も恋人も無理だけど、それでもお前に付き合ってほしい。・・・で、俺は何にもなれないけど、黒犬にだけはなれる」
僕が鼻で笑うと、クロは「くぅーん、ガウガウッ」とおどけた。うん、そういうのも僕にはできない芸当だ。
「だからやまねこ、俺とお前の・・・黒犬と山猫の、家を作る。・・・おまえんちに」
「・・・へっ?」
「お前が俺のところに越してきて、うちから、会社に通うだろ?」
「う、ん・・・?」
「そんで、休みになったらお前のうちに行く」
「・・・はあ」
「そこは、悪いけど、愛の巣じゃなくて、恋人たちの家でもなくて、・・・黒犬と山猫の、犬猫小屋」
「ははっ、な、なんだよ?」
ちょっとだけ、クリスマスの飾りつけのそういう部屋を妄想していた僕は気まずかったけど、でも、気分は晴れ晴れして、何だか楽しかった。ああ、うん、・・・これが僕の居場所なのかも。
「そこは冬でも暖房はなくて、ろくな食いもんもないかもしんないけど、まあ、自分たちの力で頑張るんだよ」
「どうでもいいけど、一体何なんだそれは」
もう僕も笑いが漏れて、クロも、くしゃっと破顔した。
「・・・だから、さ」
「うん?」
「その・・・、・・・お前が、俺に、・・・告白、してくれた、夜、あったじゃん」
「・・・」
「あん時に言ったこと、・・・覚えてる?」
「・・・え、・・・いや、えっと」
「・・・俺、お前と、キャンプしたいって」
「・・・」
・・・そういえば、そんなことを、言ってたような。
「別に、しようと思えばできるけどさ、ただ、一回行って楽しかったねってのじゃ、なくて」
「・・・うん?」
「恒常的にキャンプがしたい」
「・・・くくっ、もう、何なんだよそれ」
よく分からないけど、大真面目に言うクロがおかしくて、でもちょっとわくわくするのと、こそばゆい気もして、それらが内部で笑いに変換されて、腹がひくひくと痙攣した。
黒井は、植え込みの手前の台みたいな(?)ところに後ろ向きにぴょんと跳ねて腰掛け、隣をパンパンと叩いて僕にも乗るよう促した。仕方なく僕はやや不格好にずり上がって、一瞬、警備員や通行人が来ないかさっと見回し、こういうのはちょっと懐かしくて苦笑い。うん、たかが駅の通路の端っこの、明らかにベンチではない部分に二人で座っているというそれだけで、この二人が結婚に向いていないことは証明されているかもしれない。
「・・・だから、キャンプに行くとなったらさ、まずキャンプ場を決めなきゃいけないし、でも、だったらもうどっかの山の一角とか買っちゃって、っていうかその下見とか、っていうかその前に車もいるし、車買うならどれがいいか、カッコいいSUV選ばなきゃだし、でもどっちにしても全部、全然、時間がかかってすぐ来週とか来月とかできないんだよ」
「・・・う、ん?」
「だって家族連れに囲まれて初日の出キャンプとかイヤじゃん。俺がしたいのはそーいうのじゃなくて」
「・・・うん」
「SUVだって、俺はランドローバーのディスカバリーがいいんだけど、結構高いし、納車も何ヶ月も先になるって」
「・・・なるって、・・・って?」
何だそれは・・・外車?
「昨日ディーラーで聞いてきた」
「・・・でぃーらー?」
「一千万あればお釣りがくるって」
「・・・いっせんまん」
「二人なら買えるじゃん?」
「・・・っ、ちょ、ふた・・・か、買う・・・!?」
え、ちょっと待って、一千万を二人でって、一人五百万って、そんな、ポンとは出てこないんですが・・・?っていうか、それならもはや結婚式の方が安いじゃないか!?
「ははっ、だから、買わないって。車も山も買わないし、キャンプ場にも行かない。行くのはお前んち」
「・・・へっ?」
「お前んちにテント張るなら安上がりの犬猫小屋になるだろ?それでいいよ俺は」
「・・・俺の、家に、テント?」
「そう。俺んちに張っちゃうと、一回お前んちに行って二人で着替えてから会社ってなって、月曜の朝大変じゃん?」
「・・・」
黒井は少し冷えたらしい両手を擦り合わせて、「・・・これが、俺の、<現実でいい>ってやつ」と、ひとりうなずいた。
僕はそれを横目で窺って、その沈黙や空気の感じで、今のは黒井が一人で考えて一人でまくしたてたけれども、あくまで<犬小屋>じゃなく、<犬猫小屋>なんだなと分かった。
・・・結婚してと言われるより、こんなことに「付き合って」と言われる方が、・・・はは。
そして僕たちは無言でただ握手をして、手をパチンと叩き、帰路についた。
そしてちょっと気まずそうに言ったのは「・・・結婚したかったのって、マヤちゃん?」という言葉だった。
「・・・」
「だってお前があんな、女の子と普通にお喋りなんかできるわけない」
「・・・」
天井から煌々と、後ろ暗いことなんか何もないようなライトの光。
綺麗で隙のない空間が、何だか妙に息苦しい。
「あれはノリで言った嘘じゃない。分かってる。・・・お前は結婚しないって、言ってくれたけどさ」
「・・・」
「もし、もしも・・・マヤちゃんが、その、・・・俺と、結婚、したいなら」
「・・・」
「ごめん。できない・・・」
・・・そりゃ、できるわけないのは、分かっていてなお、黒井は声を震わせながら、本気で話していた。
本当にできるとか、できないとかいう話じゃないのは、僕だって、そして・・・マヤだって、分かった。
・・・うん。
これはたぶん、ああ、もしも僕が女性であったなら・・・戸籍上、黒井と結婚できる存在だったなら、言われていた話なんだ、きっと。
「俺は、最初、マヤちゃんに正直・・・惚れたけど、でも、やっぱり、結婚って、できない。そういうの、できないんだ俺。<夫>も無理だけど、ついでに言うなら<恋人>も無理。何ていうか、響きとか、意味合いの問題だけど・・・俺が彼女作らなかったのだって、そういう、恋人ってのが無理だから。そういうの馬鹿馬鹿しくて面白くなくて、何ひとつ意味がなくて、やってらんない」
「・・・」
「これは、マヤちゃんだとしても、・・・やまねこだとしても、同じ。これが、俺の、今の本音」
・・・。
・・・え、・・・恋人も、・・・無理?
どういう、こと?
「・・・だ、だって、・・・お前、付き合ってくれって・・・」
「うん、でもそれって<恋人>って意味じゃなくて」
「じゃあどんな意味だよ」
「付き合って・・・って意味」
「なんだ、それ」
「付き合ってくれってこと。俺と一緒に、行ってってこと」
「・・・は?」
「なっちゃんの手紙、聞いただろ?」
「・・・え、・・・あ、夏子さんの」
「やっぱり俺、見守る側なんかにまわれない。走ってる側に、いたい。怪我したって」
「な、何のこと?」
「恋人とか結婚とか、止まってる気がするんだよ。・・・俺、もう、現実でいいって思ったけど・・・でも、止まりたいってことじゃない」
「・・・ちゃんと、意味を、説明してくれ。どういうこと?」
「俺、恋人とか家族とかに見守ってほしいわけでも、支えてほしいわけでもない。恋人や家族として支えることもできない。ねえ分かる?俺、夫にも、彼氏にもなれないんだよ。お前なら意味分かる?」
・・・。
黒井は僕の肩を揺さぶって、自分の胸を拳でどんどんと叩いた。
・・・ああ。
それは何だか、見たことがあるし、知っている。
あの、僕が黒い犬を見てクロを思い出した三月、ホテルの部屋で、お前はそうやって自分の胸に僕の手を当てて、その心音を感じさせた。
そうか、何だか、分かった。
クロは<現実でいい>と言ったけれど、それは恋人や同棲や結婚(的な暮らし)みたいなものに落ち着くという意味じゃなくて、あくまで<現実というフィールド>で走るということだったのか。もう歩みを止めて<普通>になって、健全に一般的にごく当たり前に二人で小さく慎ましく暮らしていくという意味じゃなかったんだ。
「ねえ、ねこ・・・」
「・・・うん、ごめん、・・・クロ、俺、分かった」
ふいに、また、今夢から覚めたような感覚があった。でもそれはマヤから交代したわけじゃなく、我に返った感じ。
・・・僕は今も、そしてさっきのトイレでもこうして黒井と話していたけれども、それはただ、聞いているだけ、意味の通らない部分を問い質していただけだった。
僕はこれまでの間ずっと、黒井が宙を仰いで何を見つめているのか知りたくて、言葉じゃない部分まで潜っていってその意味を探して構築し、黒井自身にすらそれを説明してきたっていうのに、僕はもうそんなことをさっぱりやめて、「意味の分かる話をして、恋人さん?」なんて、よりによって黒井彰彦にまともな文章を紡がせようとしていた。
ああ、アップルパイの匂いに惑わされていたのか。
元々そうだったけど、あの時、黒井を好きになった時点でもう僕は、<普通>・・・うん、それってつまり<親の望む人生>なんて、無理だったんだ。
僕の中で何割か、そうできたらいい・・・それが苦もなくできるならそれがいいことであり、おさまるべきところであり、もしそうなったならこの得体の知れない罪悪感も無色透明の液体になって、部屋中を満たして肺まで満たして、そしたらもうそれを感じなくても済むんじゃないかって、どこかでそんな道を期待してもいた。
親の望みを全部叶えたなら、<果たすべきなのに果たしていない義務>という無言の圧力に対する免罪符ができて、もうそこは、この人生のスゴロクの上がりってことでいいんじゃないかと。
でもこれはたぶん、男の黒井を好きになったから達成できなくなった・・・というわけじゃないんだと思う。
黒井が「夫も彼氏も無理だ」と言ったように、僕はきっと、「息子」が無理なんだ。
<結婚>というキーワードが出てきてからふいに、できないのにできるような気がしてふわふわと漂って、僕は黒井の言葉の裏側を探ることさえやめてしまっていた。結婚にたどりつけば全てが許されるような気がして、お前まで僕の<普通の人生>に巻き込もうとしていた。
「分かった。俺、結婚しないよ。さっきもそう言ったけど、あれは寝ぼけてただけ。お前が言う<現実でいい>っていうやつと、俺の<普通>っていうのを、重ねて見てたんだ。でもそれは全然別のことだった。俺が、結婚に・・・何かを夢見てたのはウソ、では、ないけど、でもそれは、実体のない夢だったんだ」
あのぽっちゃりしたサリナが言っていた「妻の椅子やママの椅子に座るだけ」というのもきっとその通りで、もしそこに「息子の椅子」があって座れるんだったら、僕だってこの世のひとつの幸せを得られるんだろう。
でも僕はきっと息子の椅子にたどり着けない。どんなにまともな女性と結婚できても、表面的には「家庭を持った息子」になれるけれども、本質的には無理なんだ。
・・・それは、僕が、・・・僕の中身が気持ち悪くて、親には理解できない「いけない」ものだから。
僕がその気になれば頑張ってそれを捨てて改心することもできたのかもしれないけど、僕はそうはしなかった。そして成長とともになくなるかもしれないとも思ったけど、実際は思春期から金縛りや幻聴が始まって自殺願望まで抱き、親の理解からはさらに遠くなった。
それを「俺には見して」と言ってくれたのが黒井であって、その相手と結婚したって<親の望む人生>なわけがない、というか完全に正反対じゃないか。
「ごめん、クロ、俺が間違ってた。馬鹿みたいに見誤ってた。まるまる一周すればそこにたどりつくような気がしてたんだ。でも、球体じゃなくて展開図なら対角線上の対極にいるだけだ。フィールドを読み違えてた。・・・もう、こんな愚かなことは人生で二度とやらない。帰ったらこのスーツを捨てるよ」
「・・・あ、ああ、やまねこだ」
「・・・何だよ」
「延々黙りこくって、そんで突然説明口調で喋り出す、理屈屋の、お前だ」
「そ、そんな風に映ってるのか、俺」
「まあね」
「もういいよ、もういい。俺も本音で言う。俺はお前と結婚したかった。その、それは・・・い、いろんな、意味で。マヤのこととか、一般論的な、社会人のライフイベントとしてとか、その、単なる、ごく普通の憧れとか・・・それから親のことも含めて、色んな意味で<結婚>に何かを求めてた。お、お前が、一緒に住むとか、言うから、つい、その先の結婚まで考えて・・・それで絡めとられて迷子になったんだ。・・・でももう撤回する。結婚なんかしない」
顔を上げると、黒井は目を伏せて微笑みながら首をゆっくり横に振り、「・・・上等!」とつぶやいた。
・・・・・・・・・・・・・・
それから黒井はネクタイを思いきり緩めて腰に手を当て、満足したように「それじゃ言うよ」と。
「俺は夫も彼氏も恋人も無理だけど、それでもお前に付き合ってほしい。・・・で、俺は何にもなれないけど、黒犬にだけはなれる」
僕が鼻で笑うと、クロは「くぅーん、ガウガウッ」とおどけた。うん、そういうのも僕にはできない芸当だ。
「だからやまねこ、俺とお前の・・・黒犬と山猫の、家を作る。・・・おまえんちに」
「・・・へっ?」
「お前が俺のところに越してきて、うちから、会社に通うだろ?」
「う、ん・・・?」
「そんで、休みになったらお前のうちに行く」
「・・・はあ」
「そこは、悪いけど、愛の巣じゃなくて、恋人たちの家でもなくて、・・・黒犬と山猫の、犬猫小屋」
「ははっ、な、なんだよ?」
ちょっとだけ、クリスマスの飾りつけのそういう部屋を妄想していた僕は気まずかったけど、でも、気分は晴れ晴れして、何だか楽しかった。ああ、うん、・・・これが僕の居場所なのかも。
「そこは冬でも暖房はなくて、ろくな食いもんもないかもしんないけど、まあ、自分たちの力で頑張るんだよ」
「どうでもいいけど、一体何なんだそれは」
もう僕も笑いが漏れて、クロも、くしゃっと破顔した。
「・・・だから、さ」
「うん?」
「その・・・、・・・お前が、俺に、・・・告白、してくれた、夜、あったじゃん」
「・・・」
「あん時に言ったこと、・・・覚えてる?」
「・・・え、・・・いや、えっと」
「・・・俺、お前と、キャンプしたいって」
「・・・」
・・・そういえば、そんなことを、言ってたような。
「別に、しようと思えばできるけどさ、ただ、一回行って楽しかったねってのじゃ、なくて」
「・・・うん?」
「恒常的にキャンプがしたい」
「・・・くくっ、もう、何なんだよそれ」
よく分からないけど、大真面目に言うクロがおかしくて、でもちょっとわくわくするのと、こそばゆい気もして、それらが内部で笑いに変換されて、腹がひくひくと痙攣した。
黒井は、植え込みの手前の台みたいな(?)ところに後ろ向きにぴょんと跳ねて腰掛け、隣をパンパンと叩いて僕にも乗るよう促した。仕方なく僕はやや不格好にずり上がって、一瞬、警備員や通行人が来ないかさっと見回し、こういうのはちょっと懐かしくて苦笑い。うん、たかが駅の通路の端っこの、明らかにベンチではない部分に二人で座っているというそれだけで、この二人が結婚に向いていないことは証明されているかもしれない。
「・・・だから、キャンプに行くとなったらさ、まずキャンプ場を決めなきゃいけないし、でも、だったらもうどっかの山の一角とか買っちゃって、っていうかその下見とか、っていうかその前に車もいるし、車買うならどれがいいか、カッコいいSUV選ばなきゃだし、でもどっちにしても全部、全然、時間がかかってすぐ来週とか来月とかできないんだよ」
「・・・う、ん?」
「だって家族連れに囲まれて初日の出キャンプとかイヤじゃん。俺がしたいのはそーいうのじゃなくて」
「・・・うん」
「SUVだって、俺はランドローバーのディスカバリーがいいんだけど、結構高いし、納車も何ヶ月も先になるって」
「・・・なるって、・・・って?」
何だそれは・・・外車?
「昨日ディーラーで聞いてきた」
「・・・でぃーらー?」
「一千万あればお釣りがくるって」
「・・・いっせんまん」
「二人なら買えるじゃん?」
「・・・っ、ちょ、ふた・・・か、買う・・・!?」
え、ちょっと待って、一千万を二人でって、一人五百万って、そんな、ポンとは出てこないんですが・・・?っていうか、それならもはや結婚式の方が安いじゃないか!?
「ははっ、だから、買わないって。車も山も買わないし、キャンプ場にも行かない。行くのはお前んち」
「・・・へっ?」
「お前んちにテント張るなら安上がりの犬猫小屋になるだろ?それでいいよ俺は」
「・・・俺の、家に、テント?」
「そう。俺んちに張っちゃうと、一回お前んちに行って二人で着替えてから会社ってなって、月曜の朝大変じゃん?」
「・・・」
黒井は少し冷えたらしい両手を擦り合わせて、「・・・これが、俺の、<現実でいい>ってやつ」と、ひとりうなずいた。
僕はそれを横目で窺って、その沈黙や空気の感じで、今のは黒井が一人で考えて一人でまくしたてたけれども、あくまで<犬小屋>じゃなく、<犬猫小屋>なんだなと分かった。
・・・結婚してと言われるより、こんなことに「付き合って」と言われる方が、・・・はは。
そして僕たちは無言でただ握手をして、手をパチンと叩き、帰路についた。
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