黒犬と山猫!

あとみく

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奇行、同棲、一円玉

第345話:客観的に見た黒井の奇行

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 カタン、と背後で音がして、スマホが水たまりの床を滑った。
 振り返って、それは取り落としたんじゃなく、黒井が放り投げたんだと分かった。
 僕はさっとそれを拾い、トレーナーの腹の部分をまくりあげて裏側で包むように拭きながら、「壊れたらどうするんだ」とつぶやいたけど、頭は何も考えられていなかった。
 大丈夫だ、元のところに戻って立て直すんだ・・・と思うけど、<元のところ>って、どこだ?
 それは僕とクロとの関係のことだけど、昨日の<親友宣言>のせいもあって、今のこの場では笑えばいいのか慰めるのか諫めるのか、立ち位置がよく分からなかった。

 ・・・それでも状況を整理すると、つまり、黒井に昔の知り合いらしき女性が電話してきて、会おうという誘い(たぶん性的な誘いも含む)だったけど、黒井は「今付き合ってる相手がいる」と断った。相手が男だと言ったら、女性はそれを断りの口実だと思って嘘だと言い、黒井はどうやらキレて、途中で電話を切ってそのまま投げた・・・。
 ただ、それだけだ。それだけの出来事は既に完結していて、別に問題もなさそうなのに(いや、あるのか?)、でもそれがうまく頭に入ってこない。

 何か言おうとして「あの・・・」と声をかけると、「ちょっとだけ、聞かれてんのが、嫌だった」と。
「あ、ご、ごめん、そういうつもりじゃ」
「違うよ、なんか、・・・恥ずかしい。俺が、こんな、・・・なんもない女と寝て、もがいてたなんて知られて」
 ・・・「女と寝て」だなんて生々しい言葉に、知らず、手のひらをぎゅっと握る。
 僕はそのまま、抑えようと思ったけど、「誰・・・なの?」と、訊いてしまっていた。
 少しためらった後、ひとつため息をついて、黒井は話した。


・・・・・・・・・・・・・・・


 夏の終わり、だったという。
 いつだったかなと言うから数年前なんだと思っていたら「親父が死んでから・・・」と言うから、それはつい去年の夏、黒井が支社に来る少し前のことだ。
 以前もちらりと聞いたが、春に父を病気で亡くした後、軽い摂食障害のような状態になったらしい。それは精神的ショックによるものだと思うけど、本人が言うには「せっかくだから楽しもうと思って」。馬鹿みたいに際限なく食べて、それから水だけで絶食して、その後勃たなくなった。しかしそれが治ったらどうしてもやりたくなって、本社によく来ていた取引先の女性に声をかけたという。
 親しくなって、食事とかをして、そういう関係になったのかなと思ったけど。 
 黒井の「どうしても」は本当にその場の欲求であって、互いに特定の恋人を作らないタイプと分かるや、そのまま最寄りのホテルへ。「本社のすぐ裏にラブホあるの知ってる?やばいと思いつつ、何か、それがよくて」。・・・ああ、そういえば入社前、本社での集団面接の帰り、一緒になった数人とコンビニを探してたらすぐそこに地味なラブホテルがあって、みんなで赤面してそそくさと引き返したっけ。
 「でも、その一回だけだし、それっきり」。つまり、性行為も結局黒井の<それ>に近づく起爆剤にはならなくて、そして十月、支社への異動が決まった。本当は中途社員を入れる予定だったらしいが、人事の松山が・・・つまり、新人研修で僕を嫌がった黒井を本社に配属させ、支社の納会に写真を撮りに来たあの女性が・・・話を持ちかけたらしい。「山根君はまだ在籍してるけど、もし行きたければ」と。
 ・・・ああ、松山は、僕のことを知ってたのか。
 あの社内報の写真。もしかして松山はあの時あえて僕たちを撮ったのだろうか。

「それで、俺、支社に行くって言った」
「・・・」
「お前に会って、俺がどうなるのか、わかんなかったけど」
「・・・」
「それで今・・・こうなってる」
 そうしてもう一度、黒井はゆっくり僕を抱いて、また冷たい唇を押しつけた。


・・・・・・・・・・・・・・


 僕は、もしかして黒井という男は僕が思っているよりずっと、何ていうか精神的に不安定な人間なのかもしれない・・・と思った。
 あの時はただ、本社勤務だった同期が三課に来た・・・としか認識してなかったけど、黒井にとっては、たぶん僕をジョーカーとした賭けのような行為だった。そのためなら異動も初めての営業職もまるでお構いなし。それってちょっと「変わった人」で済むレベルなんだろうか?僕にはもう分からなくなっている。

 ごく普通の日常では自分に火がつかなくて、そのためならどんどん奇行を重ねてしまう。それを止めよう、止めるべきという力も働かず、行けるところまで突っ走っていく。
 大学の演劇部の降板劇から始まったというその一連の流れの中で、僕が目にしたのはほんの去年の年末からであって、それは全体のほんの一部分だ。
 あの暗闇のトイレでのキス、突然言い出した<本番がしたい>、三月の荒れ過ぎた部屋やオーディション、千葉から帰ってきた時の野宿、ミネラルフェアのおねえさんとの食事・・・等々。
 それらはあくまで、僕にとっては、平凡な人生に降ってわいた「好きな人」の自由で奔放で破天荒な行動だった。そのおかげで、僕は男を好きになってしまった悩みどころじゃなくなったり、あるいはその奔放さにもっと期待してしまったりもした。それに、僕が苦手な、ごく普通の友人関係としての食事や買い物や遊びだとか、気の遣い合いもしなくて済んだ。おまけに、僕の論理力や掃除力?も多いに発揮できたし、金縛りや幻覚を気味悪がられることもなかった・・・。
 ・・・そうか。
 黒井のそれは僕にやや歪んだメリットをたくさんもたらしてくれていて、だから「奇行」だの「精神不安定」だのあまり思わず、これ幸いとただ受け取っていたのか。
 でも本当は、あのミネラルフェアのおねえさんが言ったように、黒井はやや僕に依存するように突っ走っていたかもしれないし、それを僕が助長した一面はある。あの時はなぜ僕が耳鳴りを隠したのかということを考えて、僕は自分自身にも隠している何かがある・・・と分析したけど、黒井については、「クロは<それ>を追い求めている」というだけで満足し、それ以上考えてはこなかった。

 僕はクロを・・・僕の人生に突如現れた燦然と輝く「好きな人」を、どこか神格化さえして信奉していた面もある。クロに言った「この世界はお前には狭い」という言葉は真実だとは思うけど、・・・僕の歪んだフィルターを通さずに見る黒井彰彦は、社会的に見ればやはり、どこか危ういところがあるように思えた。
 ・・・まあ、僕が今こうしてここまで思考を及ばせることができたのは、突然の電話に動揺はしても、「俺なんかもうだめだ」と落胆しなくてもいい距離まで黒井に近づいたから・・・だろう。
 
 しかしそうして、今までで一番近い距離まで来て、急に・・・遠く感じた。
 ・・・なあ、本社時代に、あといったいどれだけの奇行があるの?
 僕が登場しないその物語はあと五年分ほどあるわけで、その中の黒井はクロでも黒犬でもなく、同期が呼ぶ「黒井さん」でもない、本社での未知の存在。その男は、まるで創作や芸術の中でもがいてクスリにまで手を出す俳優や歌手みたいに思えて、そんな人と僕が付き合っているなんて想像もできない。

 そして僕は「戻ろう」とつぶやき、濡れたトレーナーの背中をそっと押してゆっくり歩きだした。


・・・・・・・・・・・・・・・


 部屋に戻るなり「疲れた」と黒井は玄関に座り込み、僕は自分の濡れたトレーナー上下を洗濯機に突っ込んで、バスタブを洗って湯を張った。

 湯が溜まるまで風呂場を掃除して、髪の毛を捨て、シャンプーボトルについたカビをこする。
 それらを洗い流していると、ペタペタと濡れた足音をさせて、黒井がやってきた。
「そろそろ入れる?」
「・・・ごめん、もうちょっと」
「ねえ、ねこさあ」
 シャワーを止めて向き直ると、黒井は少しバツが悪そうにうつむいていた。
「どう、した?」
「・・・その」
「うん」
「・・・」
 すると黒井は、僕の目の前で、濡れそぼったズボンを、下着ごと引き下ろした。
「え、ちょ、ちょっと待て・・・!」
 クロの、それが、目に飛び込んでくる。
 ゆ、揺れてる・・・。
 い、いやいや、僕は慌てて目を逸らし、浴室のドアを閉めようとしたけど、止められた。
「違う、これ、上、くっついて脱げないんだよ!脱がして!」
 そう言って黒井はべったり張りつく黒いトレーナーを脱ごうと四苦八苦し、片腕は伸ばして片腕はあちこち動く、わけのわからないイソギンチャクみたいな生き物になった。
「な、何で先に下を脱ぐんだよ・・・!」
「いいからとにかく助けて!」
「と、とりあえず、風呂場に入れ」
「見えないよ」
 僕と入れ替わりに、足を滑らせないようイソギンチャク部分を支えながら浴室に入らせて、なるべく下は見ないようにトレーナーに手をかける。内側に着ていたTシャツがさらに変な風に絡みついて、手を貸すけど、どっちにどう引っ張ったものか。
「いて、いて!耳が引っかかってる」
「うう、・・・じゃあこっちからか」
 イソギンチャク内部がどうなってるのか分からず、Tシャツを残して先にトレーナーを脱がせようと表面だけつかんで引っ張ったら、また「いてて!」。
「そこ、髪!一緒につかんでる!」
「え、ごめん」
「は・・・ハゲるだろ!」
「・・・そ、それほど引っ張ってない!」
 すると「ぐうう・・・」と唸ったきりイソギンチャクは黙り、僕はなるべく前屈みにさせて、両腕を前に出させて裏返しにトレーナーをひん剥いていった。


・・・・・・・・・・・・・


 とにかく回収した服を洗濯機に入れていると、「ねえ・・・こっち来て」と声。
 黒井は早速湯船に浸かっていて、さっきのフリチンよりはましだ。
「あのさ、ねこ・・・」
「なに」
「俺の頭、洗って」
「・・・へ?」
 湯船のへりから腕と頭をこちらに出し、黒井は神妙な顔で言った。
 これも奇行?い、いやいや、これは普通の、風呂場でイチャイチャしようというスキンシップのおねだり・・・?
 ・・・しかし、答えはどうやら、後者ではなかった。
「その、さっき言った・・・ハゲのこと」
「・・・は?」
「もう、いろいろ恥ずかしいついでに言うけど・・・っていうか俺、この期に及んで、まだお前に言えないこといっぱいあるんだけど・・・。ねえ、この辺」
 黒井は頭を少し前に垂れて、頭頂部の少し後ろの、右側辺りの髪をかき分けてみせた。すっかり濡れている髪は黒く光るばかりで、別に何も見えない。
「この辺、って?」
「・・・あのね、俺、実は、よく言う十円ハゲどころじゃない、ゆで卵ハゲくらい、ここ、ハゲてた。地肌、ツルツルで」
 ・・・は?
 ゆで卵ハゲ?
 黒井は指でその辺りを示すけど、ちょっと、飲み込めない。
 摂食障害に、EDに、ええと、円形脱毛症?
「・・・え、それって、それも去年?」
「うん、去年もだけど、・・・その、演劇部追い出された時、初めてなった。去年のは、再発。おんなじとこ。・・・だからずっと俺、いつまたハゲるかってひやひやしてる。もう髪、あんまり短くしないし、頭洗うのも、あのツルツルした感触、思い出すと嫌だ」
「・・・そう、だったのか」
「別に、痛いとかないし、周りの髪で何とか隠してたけど・・・、死ぬわけでもないって分かっててもさ、<ハゲ>って事実がただ、怖くて嫌で絶望で、そんなことにショックな自分にもまた、落ち込んで」
「・・・う、ん」
 僕はひとまず同意して、足だけかけていた浴室にTシャツとパンツのまま入り、冷気が入らないようドアを閉めた。
「はは、何かさ、ハゲだの勃たないだの、俺、かっこ悪いことだらけ。・・・それでもいいやって、思えた、はず、なんだけど・・・」
 黒井は両手で顔を覆って、「<ハゲ>って、言葉に出すのも嫌で、お前に、言えなかったんだよ・・・」と自嘲気味に笑った。
「・・・そ、そうか。でもその、今は、何ともないみたい、だけど」
「・・・うん。大体、何ヶ月かで生えてくる。でも未だに夢に見たり、ちょっとの抜け毛でもまさかって思ったりする」
「大変・・・だったんだ。その、さっき引っ張って、ごめん」
「俺がハゲって聞いて、・・・失望した?」
 ・・・。
 僕は鼻で笑って、「馬鹿言うなよ」と、その髪に触れた。
 それからしゃがんで目を合わせ、「なあ、馬鹿にするな。そのくらいで失望しない」と告げた。しかし黒井は「かっこつけるなよ。お前だってハゲたら分かる」と目を逸らし、「洗ってて、ハゲあったら教えて」と、湯船からこちらに頭を出した。人の髪なんか洗ったことないけど、僕は何とか、黒犬のシャンプーを始めた。
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