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男同士の恋愛事情
第339話:新人デビュー告知イベント当日
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十月三十一日、金曜日。
今日は新人の告知イベントだからというのもあるけれど、雨も降っているし、上着とネクタイで出勤。本当は、上着で少し尻が隠れるから・・・なんて女々しいけど、電車でも少しだけ安心感があった。
そうして、また色々と、昨日のことを反芻する。
・・・そう、僕たちは、痴漢プレイでもスカートめくりでもいいけれど、とにかく、<えろいこと>を、したがっているということ。
どうして今更クロに手を舐められてあんなによく分からない羞恥心がわいたのかって、それが、えろいことだったからだ。
つまり、今まで、クロはえろくなかったんだ。
クロはずっと僕の<中身>に興味があって近づいて、暗闇のトイレでキスをしたのも、キスがしたかったんじゃなくて唇を噛み切ってやりたくなったから。そんな全ては、クロが<それ>を取り戻すためにもがいている一環の出来事で、僕を試すような意味合いと、そしてその非日常的な行為自体によって<それ>に近づこうとするのと、両方あったんだと思う。
それを、僕は、黒井が僕を好きだから身体に触れてくるのだと思いたかったわけだけど・・・まあ、恋愛の<好き>ではないけど、<好き>が入ってなかったわけでもなかった。
そしてそこに、<えろさ>は、あまりなくて。
ただひたすらに、黒井が、自分の失われた<それ>を求めるのに必死だったってだけ。
でも、今は・・・違う。
黒井はもう自分じゃなくて、僕を、見ている。
自分の<それ>がどうのこうのじゃなくて、ただえろいことがしたくて、僕にえろいことをしてきている。
それで、僕は妙に恥ずかしくなって、セクハラだなんて思ったんだ。
そうだよ、それで、「今はもう、スカートめくりがしたい」。
僕は、黒井が少し寂しそうな目で雪の降る空を見上げたりしながら、僕の気持ちなんかお構いなしにいろいろ言い出して、それを隣で見ているのが好きだった・・・けど。
こうして<えろいことをしたい対象>になってしまって、そんなの恥ずかしすぎるけど、・・・今のクロが気持ちよくなれるなら、いくらでも、何でも、めくってほしいと思った。
・・・・・・・・・・・・・・
しかし、会社に着いて、新人を集めるミーティングルームの予約が、取れていない。
・・・えっ、昨日、やったはずなのに。
集まってもらうのは九時半で、もう、いくらも時間がない。予約なんかしたことないからマニュアルどおりにやったはずだけど、何回見ても予約システムに<営業四課:山根>の文字は見当たらず、新たに取ろうとしてもうまくいかなかった。別のセミナールームで十時から予約出来そうだったけど、十時半から別の予約が入っていて、たった三十分で撤収までしないとならなくなる。時間の変更を新人たちに伝えて、さらに三十分以内でつつがなく出来るだろうか?それしかないならやるしかないだろうが、いやいや、取ったはずのミーティングルーム、別の予約が入ってないなら使っちゃダメなのか?
・・・どうしよう。
課長に相談するか、あるいは、新人のG長に相談するか。
予約は即時では出来ず、<一時間後以降>でないとならないから、十時の予約を取るなら九時前の今しかない。
最初から早速失敗か?
どこか他に、予約せずに集まれる場所はないか?
どうすればいい、誰か、誰か・・・。
思わず、後ろを振り返った。三課の、あの席を。
来たばかりの黒井を急いで廊下に連れ出すと、「あ、ねこ、お前・・・」と朝からにやにや手を握られて口元に持っていかれ、いや、「ちょ、今、だめっ!」。
「何だよ、昨日お前が・・・それに、俺があげたネクタイ」
「え、あ・・・、い、いやそうだけど、今はそうじゃなくて!」
四月に黒井からもらった、萌黄色のネクタイ。ちょっと季節感が合わないけど、半ば無意識に選んでいたのは、勝負ネクタイだとでも思っているのか・・・いや、だから負けそうなんだって!
「なに、どうしたの?」
「じ、実は、ミーティングルームが・・・」
かくかくしかじか、早口でまくしたてると、聞き終わった黒井はふん、と鼻を鳴らして「なんだ、そんなこと」と。
「いやだから、もし十時の予約なら今すぐでないと・・・」
僕が腕時計を見て、黒井もそれにつられ、そこでちょうど九時のチャイムが鳴った。ああ、これでセミナールームの線はなくなる。
「とにかくへーきだからさ、朝礼終わったら俺と来て」
「・・・え、う、うん」
そうしてそれぞれの課の朝礼に出て、焦りと緊張の動悸がおさまらないまま、黒井とともに給茶機の奥の応接スペースに赴いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「あ、いたいた妹尾さん!」
「んっ?あ、黒井くんか、オハヨウ!」
給茶機の奥には受付と応接スペース、セミナールームとミーティングルームがあり、営業のオフィスと違ってこっちには社外からのお客さんがやって来る。そこで受付嬢をする妹尾さんは、オフィスの女子社員とは違うちょっと華やかな制服で朝イチの業務中だった。
「あのさ、これからミーティングルーム使いたいんだけど・・・」
備品のチェックらしく、クリップボード片手に応接スペースをウロウロしながらも、妹尾さんは「おーい、またかいキミ!」と笑い、しかしすぐに「いいよ、何時まで?」と。
「え、おい、何時まで?」
「あっ、えっと、九時半からとりあえず、十時半まで・・・」
「十時半?それなら確か大丈夫だよ。なに、後輩クン?」
「えっ?こいつは後輩じゃなくて、同期だよ。四課のヤマネコウジ」
妹尾さんはソファの前の観葉植物の前に屈んでボードに何かを書き込むと、パッと立ち上がって「うっそー、ゴメン!」と顔の前で片手を立てて謝る。いえいえ、朝のお忙しいところ、謝りたいのはこっちの方ですが・・・。
「黒井くんと新人ちゃんたちはいつも来るから覚えてきたのにね、営業サンはまだ誰が誰だか。いや、顔は絶対見たことあるんだけど・・・で、誰だっけ?」
次は受付のカウンターへと歩みを止めず、アハハッと短く軽快な笑い。それとなく後をついていきながら、僕は「営業四課の山根です」と頭を下げた。
妹尾さんがあらためて何かを確認する間、僕と黒井は受付を訪れた客みたいにその前に立ち、見るともなく高層階からの雨模様を眺めた。
・・・そしてふと、黒井の白いYシャツの手が伸びてきて。
僕の手の指先をきゅっと握った。
妹尾さんからは、見えない位置。
そしてわずかこちらを向き、いたずらっぽく笑う。
たぶんそれは「うまくいったね」という意味だろうが、まさか妹尾さんに直接頼むという裏技があったとは。どうやら黒井は常習犯のようだけど、僕は少し視線を下げて「助かった」と伝えた。
「うん、十時半までね。オッケーだよ。四課の、えーっと・・・」
「・・・山根です」
「イヤッ、だめだこりゃ!やまね、山根くんね。私もうオバチャンだから、物覚えがさあ!」
「ちょっと妹尾さん、本当はそんなトシじゃないでしょ?俺と同じくらいでしょ?」
「えー、黒井くんいくつ?」
「俺、三十」
「若っ!そんなのひよっ子だよ、おとといきやがれ!予約もしとけー!」
妹尾さんと黒井がそんなやり取りをする間、わずかに引っ張っても、黒井は手を離してくれなかった。妹尾さんはもちろんそれに気づくことなく、最後には「終わったら椅子と机は元通り、電気は消してドアは開けたまま!」とおまじないのような決まり文句を授けて僕たちを追い出した。
・・・・・・・・・・・・・・・
コの字型の机の、いわゆる一番偉い人が座る上座に僕が座り、左列にペチャクチャうるさい女子会二人と経理志望の中村君、右列に執事のような山田氏、フレッシュマン岩城君、知性派飯塚君、そして寡黙なゴーレムみたいな辛島君。
ミーティングルームで机のセッティングを終えるなり、5分前に全員がぞろぞろ入ってきて着席した。
・・・なんて居心地が悪いんだろう。
「えー、・・・おはようございます」
とにかくまずは挨拶。それぞれちょっと頭を下げながら挨拶を返してくれるが、フレッシュマンの声に大体かき消された。僕だけびくっと驚くところをみると、他メンバーはもう慣れっこなんだろう。
「ええと、今日は皆さんお忙しいところ、どうも、わざわざお集まりいただき恐縮です・・・」
いや、お客さんってわけじゃなく後輩なんだから、恐縮する必要はないのか。でも<対後輩モード>が備わっていない僕は、どういう話し方をしていいのか分からない。
僕はもう弾かれたように立ち上がり、背後のホワイトボードを使って、書きながら<説明モード>で話すことにした。話すことは大体考えてメモしてきたけど、実際その場に来てみないとわからないものだ。
「えっと、今、皆さんは色々な新人研修を受けながら、十月からは営業同行も始まって、少しずつ実践もしていただいてるところだと思います。皆さんは営業四課に仮配属ということで、実際に来期はどこに配属されるかまだ分かりませんが、今期の間はいったん四課の仕事を一緒にやってもらうことになります。・・・そこで今日わざわざ集まってもらったのは、その四課の仕事をやってもらうにあたり、今よりもうちょっと本格的に、実際の業務に入っていってもらいたいということで・・・」
そしてボードに書いた<営業>の左右に飯塚君と辛島君、<営業事務>の左右に他五名を書いて、真ん中に縦線を引いて二チームに分けた。みんなはもちろん、ぽかんとしてそれを見ている。
「まことに勝手ながら、えー、僕の方で分担を決めさせていただきまして、飯塚君と辛島君は来週から早速、四課の島に来ていただいて、営業を、やってもらいます」
ここでいったん区切って「ええーっ!?」の声を待つけど、絶句しているのか何なのか、意外と反応が薄かった。何だろう、彼らがスムーズに、わだかまりなく業務にあたれるよう頑張って考えたつもりだけど、反応が薄いとむしろ、もっとビシバシ言った方がいいのかなんて思ってしまう。
するとようやく飯塚君が軽く手を挙げ、「あの、来週って、来週からですか」と苦笑い。隣の辛島君は相変わらず無表情。
「ハイ、えっと、来週月曜から、お二人には四課にお引越ししてきてもらって、営業です」
「・・・えっ」
「あー、すみません。もちろんいきなり何かやってもらうわけじゃなく、基本的には、営業同行の続きを重点的に進めてもらうっていうだけです。あと月曜に、僕からじゃなく道重課長からもうちょっとちゃんとした説明がありますので」
それから他五名については、営業二人が担当する契約書や見積もり作成、経費精算、その他資料作成などの営業事務的な面を担当してもらうことを説明した。マニュアルを元に勉強しつつ、案件が発生したら実際に本物の契約書を作ってもらうのだ。
「案件が持ち上がったら、営業はそれがどんな契約なのかを説明し、また営業事務が書類を作ったらそれについて同じように説明し、役割が違ってもお互い何をしているのか分かるような場を設けたいと思います。本来なら営業が自分で契約書まで作るわけでして、それを別の人がやるとなるとちょっと大変ではあるんですが・・・逆に、品番だろうが金額だろうが『ここは何でこうなってるのか』っていう疑問をお互いで徹底的に潰してもらって、契約書まわりをひととおりしっかり覚えてもらえたらと思います」
契約書は全ての基本であり、営業だけでなく事務志望であっても絶対に毎日扱うものなので、と付け加えると、女子会二人がほんの少しうなずいた。経理志望の中村君には申し訳ないが。
ひとまず決めていたのは、毎週金曜の夕方にこうしてどこかに集まって、進捗報告のような会を設けること。営業二人の同行については課長に任せることになるが、営業事務五名への研修は、実はまだ検討中だった。ひとまず一週間くらい同行の様子を見ないと案件がどのくらい発生するものか分からないし、五人をいっぺんに集めるか、個別に説明するか、どんな頻度にするかも来週いっぱいで考えるところ。・・・うん、実は結構見切り発車の出たとこ勝負なんだな。自分が新人だった頃は、完璧なカリキュラムのもとに研修が行われているんだと思って、段取りの悪さに不満というより疑問を持ったものだけど。
今日は新人の告知イベントだからというのもあるけれど、雨も降っているし、上着とネクタイで出勤。本当は、上着で少し尻が隠れるから・・・なんて女々しいけど、電車でも少しだけ安心感があった。
そうして、また色々と、昨日のことを反芻する。
・・・そう、僕たちは、痴漢プレイでもスカートめくりでもいいけれど、とにかく、<えろいこと>を、したがっているということ。
どうして今更クロに手を舐められてあんなによく分からない羞恥心がわいたのかって、それが、えろいことだったからだ。
つまり、今まで、クロはえろくなかったんだ。
クロはずっと僕の<中身>に興味があって近づいて、暗闇のトイレでキスをしたのも、キスがしたかったんじゃなくて唇を噛み切ってやりたくなったから。そんな全ては、クロが<それ>を取り戻すためにもがいている一環の出来事で、僕を試すような意味合いと、そしてその非日常的な行為自体によって<それ>に近づこうとするのと、両方あったんだと思う。
それを、僕は、黒井が僕を好きだから身体に触れてくるのだと思いたかったわけだけど・・・まあ、恋愛の<好き>ではないけど、<好き>が入ってなかったわけでもなかった。
そしてそこに、<えろさ>は、あまりなくて。
ただひたすらに、黒井が、自分の失われた<それ>を求めるのに必死だったってだけ。
でも、今は・・・違う。
黒井はもう自分じゃなくて、僕を、見ている。
自分の<それ>がどうのこうのじゃなくて、ただえろいことがしたくて、僕にえろいことをしてきている。
それで、僕は妙に恥ずかしくなって、セクハラだなんて思ったんだ。
そうだよ、それで、「今はもう、スカートめくりがしたい」。
僕は、黒井が少し寂しそうな目で雪の降る空を見上げたりしながら、僕の気持ちなんかお構いなしにいろいろ言い出して、それを隣で見ているのが好きだった・・・けど。
こうして<えろいことをしたい対象>になってしまって、そんなの恥ずかしすぎるけど、・・・今のクロが気持ちよくなれるなら、いくらでも、何でも、めくってほしいと思った。
・・・・・・・・・・・・・・
しかし、会社に着いて、新人を集めるミーティングルームの予約が、取れていない。
・・・えっ、昨日、やったはずなのに。
集まってもらうのは九時半で、もう、いくらも時間がない。予約なんかしたことないからマニュアルどおりにやったはずだけど、何回見ても予約システムに<営業四課:山根>の文字は見当たらず、新たに取ろうとしてもうまくいかなかった。別のセミナールームで十時から予約出来そうだったけど、十時半から別の予約が入っていて、たった三十分で撤収までしないとならなくなる。時間の変更を新人たちに伝えて、さらに三十分以内でつつがなく出来るだろうか?それしかないならやるしかないだろうが、いやいや、取ったはずのミーティングルーム、別の予約が入ってないなら使っちゃダメなのか?
・・・どうしよう。
課長に相談するか、あるいは、新人のG長に相談するか。
予約は即時では出来ず、<一時間後以降>でないとならないから、十時の予約を取るなら九時前の今しかない。
最初から早速失敗か?
どこか他に、予約せずに集まれる場所はないか?
どうすればいい、誰か、誰か・・・。
思わず、後ろを振り返った。三課の、あの席を。
来たばかりの黒井を急いで廊下に連れ出すと、「あ、ねこ、お前・・・」と朝からにやにや手を握られて口元に持っていかれ、いや、「ちょ、今、だめっ!」。
「何だよ、昨日お前が・・・それに、俺があげたネクタイ」
「え、あ・・・、い、いやそうだけど、今はそうじゃなくて!」
四月に黒井からもらった、萌黄色のネクタイ。ちょっと季節感が合わないけど、半ば無意識に選んでいたのは、勝負ネクタイだとでも思っているのか・・・いや、だから負けそうなんだって!
「なに、どうしたの?」
「じ、実は、ミーティングルームが・・・」
かくかくしかじか、早口でまくしたてると、聞き終わった黒井はふん、と鼻を鳴らして「なんだ、そんなこと」と。
「いやだから、もし十時の予約なら今すぐでないと・・・」
僕が腕時計を見て、黒井もそれにつられ、そこでちょうど九時のチャイムが鳴った。ああ、これでセミナールームの線はなくなる。
「とにかくへーきだからさ、朝礼終わったら俺と来て」
「・・・え、う、うん」
そうしてそれぞれの課の朝礼に出て、焦りと緊張の動悸がおさまらないまま、黒井とともに給茶機の奥の応接スペースに赴いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「あ、いたいた妹尾さん!」
「んっ?あ、黒井くんか、オハヨウ!」
給茶機の奥には受付と応接スペース、セミナールームとミーティングルームがあり、営業のオフィスと違ってこっちには社外からのお客さんがやって来る。そこで受付嬢をする妹尾さんは、オフィスの女子社員とは違うちょっと華やかな制服で朝イチの業務中だった。
「あのさ、これからミーティングルーム使いたいんだけど・・・」
備品のチェックらしく、クリップボード片手に応接スペースをウロウロしながらも、妹尾さんは「おーい、またかいキミ!」と笑い、しかしすぐに「いいよ、何時まで?」と。
「え、おい、何時まで?」
「あっ、えっと、九時半からとりあえず、十時半まで・・・」
「十時半?それなら確か大丈夫だよ。なに、後輩クン?」
「えっ?こいつは後輩じゃなくて、同期だよ。四課のヤマネコウジ」
妹尾さんはソファの前の観葉植物の前に屈んでボードに何かを書き込むと、パッと立ち上がって「うっそー、ゴメン!」と顔の前で片手を立てて謝る。いえいえ、朝のお忙しいところ、謝りたいのはこっちの方ですが・・・。
「黒井くんと新人ちゃんたちはいつも来るから覚えてきたのにね、営業サンはまだ誰が誰だか。いや、顔は絶対見たことあるんだけど・・・で、誰だっけ?」
次は受付のカウンターへと歩みを止めず、アハハッと短く軽快な笑い。それとなく後をついていきながら、僕は「営業四課の山根です」と頭を下げた。
妹尾さんがあらためて何かを確認する間、僕と黒井は受付を訪れた客みたいにその前に立ち、見るともなく高層階からの雨模様を眺めた。
・・・そしてふと、黒井の白いYシャツの手が伸びてきて。
僕の手の指先をきゅっと握った。
妹尾さんからは、見えない位置。
そしてわずかこちらを向き、いたずらっぽく笑う。
たぶんそれは「うまくいったね」という意味だろうが、まさか妹尾さんに直接頼むという裏技があったとは。どうやら黒井は常習犯のようだけど、僕は少し視線を下げて「助かった」と伝えた。
「うん、十時半までね。オッケーだよ。四課の、えーっと・・・」
「・・・山根です」
「イヤッ、だめだこりゃ!やまね、山根くんね。私もうオバチャンだから、物覚えがさあ!」
「ちょっと妹尾さん、本当はそんなトシじゃないでしょ?俺と同じくらいでしょ?」
「えー、黒井くんいくつ?」
「俺、三十」
「若っ!そんなのひよっ子だよ、おとといきやがれ!予約もしとけー!」
妹尾さんと黒井がそんなやり取りをする間、わずかに引っ張っても、黒井は手を離してくれなかった。妹尾さんはもちろんそれに気づくことなく、最後には「終わったら椅子と机は元通り、電気は消してドアは開けたまま!」とおまじないのような決まり文句を授けて僕たちを追い出した。
・・・・・・・・・・・・・・・
コの字型の机の、いわゆる一番偉い人が座る上座に僕が座り、左列にペチャクチャうるさい女子会二人と経理志望の中村君、右列に執事のような山田氏、フレッシュマン岩城君、知性派飯塚君、そして寡黙なゴーレムみたいな辛島君。
ミーティングルームで机のセッティングを終えるなり、5分前に全員がぞろぞろ入ってきて着席した。
・・・なんて居心地が悪いんだろう。
「えー、・・・おはようございます」
とにかくまずは挨拶。それぞれちょっと頭を下げながら挨拶を返してくれるが、フレッシュマンの声に大体かき消された。僕だけびくっと驚くところをみると、他メンバーはもう慣れっこなんだろう。
「ええと、今日は皆さんお忙しいところ、どうも、わざわざお集まりいただき恐縮です・・・」
いや、お客さんってわけじゃなく後輩なんだから、恐縮する必要はないのか。でも<対後輩モード>が備わっていない僕は、どういう話し方をしていいのか分からない。
僕はもう弾かれたように立ち上がり、背後のホワイトボードを使って、書きながら<説明モード>で話すことにした。話すことは大体考えてメモしてきたけど、実際その場に来てみないとわからないものだ。
「えっと、今、皆さんは色々な新人研修を受けながら、十月からは営業同行も始まって、少しずつ実践もしていただいてるところだと思います。皆さんは営業四課に仮配属ということで、実際に来期はどこに配属されるかまだ分かりませんが、今期の間はいったん四課の仕事を一緒にやってもらうことになります。・・・そこで今日わざわざ集まってもらったのは、その四課の仕事をやってもらうにあたり、今よりもうちょっと本格的に、実際の業務に入っていってもらいたいということで・・・」
そしてボードに書いた<営業>の左右に飯塚君と辛島君、<営業事務>の左右に他五名を書いて、真ん中に縦線を引いて二チームに分けた。みんなはもちろん、ぽかんとしてそれを見ている。
「まことに勝手ながら、えー、僕の方で分担を決めさせていただきまして、飯塚君と辛島君は来週から早速、四課の島に来ていただいて、営業を、やってもらいます」
ここでいったん区切って「ええーっ!?」の声を待つけど、絶句しているのか何なのか、意外と反応が薄かった。何だろう、彼らがスムーズに、わだかまりなく業務にあたれるよう頑張って考えたつもりだけど、反応が薄いとむしろ、もっとビシバシ言った方がいいのかなんて思ってしまう。
するとようやく飯塚君が軽く手を挙げ、「あの、来週って、来週からですか」と苦笑い。隣の辛島君は相変わらず無表情。
「ハイ、えっと、来週月曜から、お二人には四課にお引越ししてきてもらって、営業です」
「・・・えっ」
「あー、すみません。もちろんいきなり何かやってもらうわけじゃなく、基本的には、営業同行の続きを重点的に進めてもらうっていうだけです。あと月曜に、僕からじゃなく道重課長からもうちょっとちゃんとした説明がありますので」
それから他五名については、営業二人が担当する契約書や見積もり作成、経費精算、その他資料作成などの営業事務的な面を担当してもらうことを説明した。マニュアルを元に勉強しつつ、案件が発生したら実際に本物の契約書を作ってもらうのだ。
「案件が持ち上がったら、営業はそれがどんな契約なのかを説明し、また営業事務が書類を作ったらそれについて同じように説明し、役割が違ってもお互い何をしているのか分かるような場を設けたいと思います。本来なら営業が自分で契約書まで作るわけでして、それを別の人がやるとなるとちょっと大変ではあるんですが・・・逆に、品番だろうが金額だろうが『ここは何でこうなってるのか』っていう疑問をお互いで徹底的に潰してもらって、契約書まわりをひととおりしっかり覚えてもらえたらと思います」
契約書は全ての基本であり、営業だけでなく事務志望であっても絶対に毎日扱うものなので、と付け加えると、女子会二人がほんの少しうなずいた。経理志望の中村君には申し訳ないが。
ひとまず決めていたのは、毎週金曜の夕方にこうしてどこかに集まって、進捗報告のような会を設けること。営業二人の同行については課長に任せることになるが、営業事務五名への研修は、実はまだ検討中だった。ひとまず一週間くらい同行の様子を見ないと案件がどのくらい発生するものか分からないし、五人をいっぺんに集めるか、個別に説明するか、どんな頻度にするかも来週いっぱいで考えるところ。・・・うん、実は結構見切り発車の出たとこ勝負なんだな。自分が新人だった頃は、完璧なカリキュラムのもとに研修が行われているんだと思って、段取りの悪さに不満というより疑問を持ったものだけど。
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