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男同士の恋愛事情
第334話:束縛しあう恋人
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十月二十九日、水曜日。
朝のルーチン、キャビネ前。
件数表をファイリングしていると佐山さんと島津さんが来て歓談タイムになり、しかし黒井の姿はない。それとなく目の端で探していたら「あ、黒井さん今日いませんよ」と島津さん。
「え?」
「大手さんのところ、サーバ設置で支店三つまわって、夜までって。ああ、やっと計上できるー!」
「そ、そうなんだ」
「何か、これ山根さんに言っとくようにってことで、黒井さん朝礼前からお出かけでしたけど、四課に関係ありました?」
「へっ?・・・い、いや?」
「『アイツに言っといて、ヤマネコに!』とかって、何のことかと思っちゃいました」
すると佐山さんが「わあ、ゆきちゃん、今の似てる!」と。
「え、本当?いやでも、本人もっと、もうちょっとキザな感じ。こう、こんな」
島津さんは人差し指だけやや伸ばした手をひらりと振り回し、デスクの代わりにキャビネをトントンと叩きながら「アイツに言っといて!」をもう一度再現した。確かに黒井なら言いそうな感じで、しかもその「アイツ」は僕なわけで、何だか非常にむずがゆく、羞恥にたえない。
クールに見えて意外とエンターテイナー?な島津さんは佐山さんのアンコールに応えていくつか黒井のマネをしてみせ、しかしやはり律儀に「いや、ここはもっと違うな」と微調整が入る。僕はもう顔を背けて苦笑いするしかない。
一瞬、もうあのカッコつけた自撮り写真を見せて「うわー!」とか言われて、その上で「実は付き合ってるんだけどさ」なんて明かしたい衝動もわいてくるけど、本当にそうしたら一体どんな反応になるんだろう。興味はわくけど、パンドラの匣は閉じておいた。
そして自席に戻り、少ししてから、・・・ああ、黒井から僕への伝言は、つまり、今日は夜まで仕事があるから、水曜でノー残だけど一緒に帰ったりできないということか、と思い当たった。
・・・ああ、そう。
いや、もちろん仕事なんだから仕方ない。サーバ設置なら検収書を今月計上にねじ込むつもりだろうし、しかも滞留案件だったみたいだから、そんな大仕事ならどうしようもない。
・・・けど。
島津さんに伝言を頼まなくたって、僕に直接、メールか電話の一本くらい・・・と、思ってしまった。いやいや、何だか、束縛する彼女みたいか、こういうの。
無意識に、黒い文字盤の腕時計を見る。
今頃、どうしてるだろう。
今日は、会えないのか。
会いたい・・・な。
会えないとなると無性にあの笑顔が見たいし声が聞きたくなってしまって、どうにもたまらず、メールを打った。しかし、<水曜なのに残念だね>も<頑張ってね>も何だか変で、<島津さんから聞きました>とだけ送った。
・・・・・・・・・・・・・・
夕方。
18時半を過ぎて、ぽつぽつ人が帰り始める。
あれからメールの返事も来ないし、僕に急ぎの予定もないわけで、帰る人への「お疲れ様でーす」の声も投げやりになる。黒井が帰社しないと思うとまったく色を失ったように面白くない職場だ。
そろそろ帰るかと思っていると、ふと、後ろに気配。
一瞬、クロかと思って心臓が高鳴ったけど、僕の元を訪れたのは飯塚君だった。
「あの、山根さん、お疲れ様です」
「・・・あ、お、お疲れさま」
突然のことに驚いて、何のことか分からなくなる。えっと、飯塚君、僕に用事、何だっけ、アンケート?
「もしお手間でなければ、一瞬お時間もらえませんか」
「・・・え、えっと、はい」
「すみません。ちょっと教えてもらいたいことがあって、帰りついでに寄っていただければ」
そうして新人の島まで歩きながら、「黒井さん今日いらっしゃらないので、そういう時は山根さんに訊くようにと」とのこと。クロの名前が出て無駄にどぎまぎして、でも勝手に僕を副リーダーみたいに指名されても困ると思いつつ、あいつ、新人にそんなこと言ってるのかなんて思うとちょっと嬉しいような、むずがゆいような。
島に着くと意外とみんなまだ残っていて、どうやら研修の課題などを仕上げているようだった。「この人誰?」という視線がいくつか飛んできて、なるべく飯塚君にくっついて恐縮する。クロじゃなくて悪かったね。
「それで、これなんですけど。何か申し訳ない、帰るところだったのに」
「あ、いやいや、別に大丈夫だから」
飯塚君の席でPC画面を見せられて、それは見積もりシステムのテスト用、つまり新人の練習用のログイン画面のようだった。周りで同じ作業をしている数人が、飯塚君が連れてきた頼りない助っ人を注視する。うん、アンケートと例の営業デビューの件じゃないわけね。
見てみるとよくあるエラー画面で、僕でも対処できたので助かった。いや、対処といっても「これはこういう仕様だから気をつけて」というだけだけど。
「あーそうなんですね、どうもありがとうございます」
「いやいや、何も。っていうかみんなこんなに残ってるなんて、いろいろ大変なんだね」
「いえ、我々もそろそろ上がるところでしたよ」
すると飯塚君は少し声を落とし、みんないつも、何となく帰るタイミングをつかみかねて、一人が帰るとそれに合わせて一斉に帰るのだと説明した。ああ、そういえばそういう時代もあったなあ。男子と女子が軽口を言い合う雰囲気も非常に初々しいし、ここだけまるで別の会社みたいだ。
「それで実は、切り込み隊長が、今日はまだ」
「え、切り込み隊長?」
ああ、さてはあの老執事みたいな山田氏だな、とそちらを見たが、夏のアリのように何かの庶務に励んでいた。そそくさ帰るのは飲み会だけか。
「どうも最近あんまり切り込んでくれないんですよね。仕方ないから僕が代理みたいになってますけど」
そしてふと、山田氏ではない少し変わり者の新人の・・・あのむすっとした顔が浮かんだ。
・・・黒井でさえ<落とせない>、孤高の不破くん。
「それってもしかして、三課に配属の・・・」
「あ、分かります?」
半信半疑でカマをかけたが、当たったらしい。
周りに迎合せず、自分が帰る時が帰る時間だ、という・・・不破隊長。どうやら今は離席中のようだ。
それから飯塚君は帰り支度をし、他の子たちも何となくそういう雰囲気になった。ああ、営業の島より空気の伝播率が高い。
「うーん、しょうがない、それじゃ僕が行きましょう。山根さんもこのまま帰られますか?」
「え、あ、うん」
「じゃ、ちょっと、ぞろぞろ続くと思いますけど・・・」
言い出すのが気まずいと言っている割に、さっさと近隣の島に「それではお先に失礼致します」と声をかけて一礼し、もたもたしている僕に「じゃ、行きましょうか」と声をかける飯塚君は、やっぱり営業デビューで間違いない。むしろ西沢と代わってほしい。
・・・・・・・・・・・・・・
そのままの流れで、新人の一団と一緒に帰ることになってしまった。
とりあえず飯塚君と一緒にいるけれど、いつの間にか彼の隣には前にも見かけた眼鏡君がいて、三人横並びで地下通路を歩く。眼鏡君は大人しいがよく笑う好青年で、二人は何となく高校の同じ委員会って感じで微笑ましかった。眼鏡君は基本的に飯塚君を立てているが、時々「ちょ、違う違う」と手の甲で腕を叩いてツッコミを入れている。
ふと会話が途切れたので、それとなく不破くんのことについて水を向けてみたが、「ああ、いやー、隊長はやっぱり隊長だね」「変わってますよねー」「ブレませんね」などの感想。彼はそれとなく敬遠され、多少親しまれつつ、まあおっかなびっくり扱われているようだ。まあそれはそうだろう。僕は今でも、彼が履いていた、うっすらドクロが刻まれたブーツみたいな革靴を覚えている。
そしてついでに、黒井のことについても聞いてみたいななんて思った頃JRに着いて、後ろの何人かが「お疲れー!」の声とともにそちらに流れていった。
それとなく、ここで解散という雰囲気なのかと思っていつ離脱しようか窺っていると、飯塚君が眼鏡くんに目配せし、「よかったら山根さんも、軽く食べて行きませんか」と、京王地下街のファーストキッチンに誘われた。
・・・・・・・・・・・・・・
三人でハンバーガーを食べながら、うちのシステムや今度のセミナーなど、ごく普通の話題。本当は黒井のことを訊きたいけど、きっかけがなかなかつかめない。あの千葉の新人研修ではどんなだったのか、やっぱり女子に人気があるのか、男子からの印象はどんな感じなのか・・・。
しかしまあ、先輩が一人混じっているのに飯塚君も眼鏡君もさほど気にしておらず、彼らが場慣れしているのか、あるいはまさかこれはナメられているというやつ?・・・あ、もしかして年上なのに奢らなかったから?いやいや、如何せん後輩が全然いなかったからこういうこともよく分からない。
・・・しかし。
「メールは欲しいって言ってるんだよ」
「んー、それって束縛ってやつじゃないかなあ」
後ろの席から聞こえてくる、カップルらしき男女の会話。
ちょうど今朝、似たようなことを思った僕は思わず聞き耳を立て、背後の会話に注意を傾けた。
「その写真、隣の、元カレじゃないの?手繋いでるように見えるけど」
「えー、繋いでないよ、ちょっと重なって見えるだけ。・・・っていうか、もし繋いでたら何なの?」
「うーん、こういうのさ、色々、信頼関係っていうか、話しておいた方がいいと思って」
「話しておくって、何を?」
「たとえば、よく、ハグみたいなことしてるじゃない?そういうの、異性ともされたら困るっていう」
「ハグ?ハグはお友達とならするでしょ?しない?」
「男同士でしないね」
「んー、でもしばらくお別れの時とか、男女関係なくするでしょ?」
「いや、多分しないけど。・・・まあ、それじゃ、俺が女友達とハグしてもいいってことだね?」
「それはさ、普段しない人が急に異性にハグなんて、下心あると思われるよ?きっと」
「するなってこと?」
「しない方がいいんじゃない?」
・・・。
・・・ピリピリとした空気に、思わず身がすくむ。激昂したりせず冷静に話してはいるけど、言葉の端々に険があって、「このポテト辛ーい」なんてつぶやきながらも互いに牽制しあっているのが恐ろしい。
しかしその後、男の方が追加注文をして席に戻ると話題は普通の世間話に移り、ソフト修羅場は終わったかに見えた。しかし、仕事のスケジュールと次の休みの話になると、再び「それはないんじゃない?」「んー、私が一人で飲みに行ったらいけないの?」とまたピリピリ状態。束縛したい男と、縛られたくない女の争いか・・・と背中が痛くなってくるが、男が「それなら俺も別の予定入れとくわ」と言うと、女が「待って、それは待って、待って!」と焦った声でたたみかけた。え、束縛反対派なら相手も自由でいいんじゃないの?結局両方束縛派なの?っていうかもはや、この二人は本当に相手のことが好きなのか?
・・・恋人って、こういうもの?
もしかして、僕たちもそのうち・・・こうなるの?
「そういえば山根さんも・・・」
「・・・あ、えっ?」
背後から目の前の二人に意識を戻し、「山根さんも黒井さんと同期なんですよね?」と訊かれ、どきりとしたが、「あ、ああ、うん」と何とか答える。
「確か一課の鈴木さんも・・・」
飯塚君の問いに「そうそう」と答える前に、眼鏡君が「そっすよね」とうなずく。僕も一緒にうなずいて、何とか頭をこっちの話題に戻さないと。
「鈴木さん、ちょいちょい俺らに絡んでくれて、いい人っすよね」
「そういえば今度結婚式って聞きましたけど。山根さんは行かれるんですか?」
「・・・ああ、式じゃないけど、うちら同期は二次会に呼ばれてて」
「そうなんですね。きっといい奥さんでしょうね。山根さんはご存じです?うちの会社の人?」
「・・・いや、違うと思うけど」
「あ、でも確か、小嶋先生は社内結婚ですよね」
「そうそう、三課の小嶋グループ長と。・・・ひゅう~!」
眼鏡君が若者らしく破顔し、飯塚君も「いいねえ」と笑った。こういう話題、女の子じゃなくても、さすが何でも知ってるんだな、新人は。
「そういや黒井さんも彼女いますしね」
・・・。・・・えっ?
「え、黒井さん?いないって言ってなかった?」
「いや、こないだの飲み会で、いるっつって」
「こないだ?」
「あ、飯塚君来てないか。ほら、シゲやんが腕相撲したって話」
「あー、あれね」
「そうそう、あん時、付き合ってる人いるって言ってた。最近できたのかな、詳しくは全然訊き出せなかったけど・・・あ、山根さんなら知ってます?」
・・・そうだった、新人の飲み会で腕相撲がどうとかいう時、女子に言い寄られた黒井は<付き合ってる人がいる宣言>をしたのだと言っていた。まったくモテる彼氏は困る・・・じゃなくて、えっと、この場合どうすべき?
「えー、うん、あんまり、その・・・」
全く知らないと嘘をつくのもあれだけど、でも知ってるとも言えないし、かといって「いるらしいねー」と思わせぶりに濁すのも演技くさくて、どうしていいか分からない。
・・・でも。
「知らないかあ」とつぶやかれたらちょっとカチンときて、つい「知ってるけど」と言ってしまった。いや、俺の馬鹿!
「え、どんな人なんですか?」
「あ、それは・・・」
「やっぱ美人ですか?」
「んー、それはどうかな・・・」
美人、では・・・ないな。
「こう、芸能人に例えると?」
「あ、あんまり、芸能人に詳しくなくて」
「えー、でもどうやって知り合うんだろう。何か、会社員って意外と出会いがなくないすか?」
どうやら我が社の恋愛事情が気になるらしい眼鏡君がそれとなく僕に同意を求め、つい「まあねえ」なんて答えたけど、ん、もしかして訊かれてもいないけど「彼女いない人」として認識されている?・・・いやいや、ここでそれを訊かれても余計にややこしくなるけど。
「え、で、黒井さんはどういう出会いの彼女なんですか?」
「・・・さ、さあ、それは」
ああ、まずい、設定を何も考えてない。ここで喋ったことは新人全員に伝わってしまいそうだし、まあ本人と口裏を合わせれば済むかもしれないけど、そんなのは黒井に迷惑だろう。
・・・って、いうか。
恋人として、そんなことも、きちんと話してはいない。
これじゃ、後ろのカップルのことをとやかく言えないか。
「あ、分かった」
ふいに飯塚君がニヤニヤとうなずき、「え、なになに?」と眼鏡君が促した。え、いや、まさか?
「黒井さんの彼女、きっと・・・社内の人なんですよ。だから山根さんも言えないんだ。違います?」
「・・・えー、っと」
「あっ、図星?図星ですか?そっか!あん時、飲み会でもなー・・・っんか変だったんですよね。えー、誰ですか?黒井さんと付き合ってそうな人?・・・ちょ、まさか実は佐々田ってことないよな?」
「え、佐々田さん?違うでしょ」
ああ、社内といっても本社とか、向こうのフロアの業務部の人とかだと思っててくれればまだいいかと思ったけど、まさかその佐々田さんは新人か?黒井が新人に早速手を出したとなったらまずいだろうし、佐々田嬢の名誉にも関わる。
「あの、佐々田さんって?」
「ああ、佐々田澪(みお)って、何かすごい肉食系っていうか、黒井さんにも結構ガンガンいってて、・・・あれ、でもあの飲み会でもそうだったから違うか」
「彼女、こないだから高浦グループ長にべったりだけどね」
「うそっ、全っ然タイプ違うじゃん!」
・・・みおちゃん、がどうしたとか、黒井から聞いたことがある気がする。とにかくその子が変に疑われたりする心配はなさそうだし、クロを諦めてもくれたみたいで助かった。うん、ちゃんと話し合うまで迂闊なことは言わないようにしよう。
その後、ふと思い出して、僕たちの同期で、新人一年目で早速営業に手を出して妊娠して辞めていった肉食系女子の話をしたら、さすがの彼らも初耳だったらしく、<黒井さんの彼女>の件は飛んでいってくれた。そして、いつの間にか後ろのカップルはまた普通に世間話をしていて、ちょっと、恋人というものが怖くなった。
朝のルーチン、キャビネ前。
件数表をファイリングしていると佐山さんと島津さんが来て歓談タイムになり、しかし黒井の姿はない。それとなく目の端で探していたら「あ、黒井さん今日いませんよ」と島津さん。
「え?」
「大手さんのところ、サーバ設置で支店三つまわって、夜までって。ああ、やっと計上できるー!」
「そ、そうなんだ」
「何か、これ山根さんに言っとくようにってことで、黒井さん朝礼前からお出かけでしたけど、四課に関係ありました?」
「へっ?・・・い、いや?」
「『アイツに言っといて、ヤマネコに!』とかって、何のことかと思っちゃいました」
すると佐山さんが「わあ、ゆきちゃん、今の似てる!」と。
「え、本当?いやでも、本人もっと、もうちょっとキザな感じ。こう、こんな」
島津さんは人差し指だけやや伸ばした手をひらりと振り回し、デスクの代わりにキャビネをトントンと叩きながら「アイツに言っといて!」をもう一度再現した。確かに黒井なら言いそうな感じで、しかもその「アイツ」は僕なわけで、何だか非常にむずがゆく、羞恥にたえない。
クールに見えて意外とエンターテイナー?な島津さんは佐山さんのアンコールに応えていくつか黒井のマネをしてみせ、しかしやはり律儀に「いや、ここはもっと違うな」と微調整が入る。僕はもう顔を背けて苦笑いするしかない。
一瞬、もうあのカッコつけた自撮り写真を見せて「うわー!」とか言われて、その上で「実は付き合ってるんだけどさ」なんて明かしたい衝動もわいてくるけど、本当にそうしたら一体どんな反応になるんだろう。興味はわくけど、パンドラの匣は閉じておいた。
そして自席に戻り、少ししてから、・・・ああ、黒井から僕への伝言は、つまり、今日は夜まで仕事があるから、水曜でノー残だけど一緒に帰ったりできないということか、と思い当たった。
・・・ああ、そう。
いや、もちろん仕事なんだから仕方ない。サーバ設置なら検収書を今月計上にねじ込むつもりだろうし、しかも滞留案件だったみたいだから、そんな大仕事ならどうしようもない。
・・・けど。
島津さんに伝言を頼まなくたって、僕に直接、メールか電話の一本くらい・・・と、思ってしまった。いやいや、何だか、束縛する彼女みたいか、こういうの。
無意識に、黒い文字盤の腕時計を見る。
今頃、どうしてるだろう。
今日は、会えないのか。
会いたい・・・な。
会えないとなると無性にあの笑顔が見たいし声が聞きたくなってしまって、どうにもたまらず、メールを打った。しかし、<水曜なのに残念だね>も<頑張ってね>も何だか変で、<島津さんから聞きました>とだけ送った。
・・・・・・・・・・・・・・
夕方。
18時半を過ぎて、ぽつぽつ人が帰り始める。
あれからメールの返事も来ないし、僕に急ぎの予定もないわけで、帰る人への「お疲れ様でーす」の声も投げやりになる。黒井が帰社しないと思うとまったく色を失ったように面白くない職場だ。
そろそろ帰るかと思っていると、ふと、後ろに気配。
一瞬、クロかと思って心臓が高鳴ったけど、僕の元を訪れたのは飯塚君だった。
「あの、山根さん、お疲れ様です」
「・・・あ、お、お疲れさま」
突然のことに驚いて、何のことか分からなくなる。えっと、飯塚君、僕に用事、何だっけ、アンケート?
「もしお手間でなければ、一瞬お時間もらえませんか」
「・・・え、えっと、はい」
「すみません。ちょっと教えてもらいたいことがあって、帰りついでに寄っていただければ」
そうして新人の島まで歩きながら、「黒井さん今日いらっしゃらないので、そういう時は山根さんに訊くようにと」とのこと。クロの名前が出て無駄にどぎまぎして、でも勝手に僕を副リーダーみたいに指名されても困ると思いつつ、あいつ、新人にそんなこと言ってるのかなんて思うとちょっと嬉しいような、むずがゆいような。
島に着くと意外とみんなまだ残っていて、どうやら研修の課題などを仕上げているようだった。「この人誰?」という視線がいくつか飛んできて、なるべく飯塚君にくっついて恐縮する。クロじゃなくて悪かったね。
「それで、これなんですけど。何か申し訳ない、帰るところだったのに」
「あ、いやいや、別に大丈夫だから」
飯塚君の席でPC画面を見せられて、それは見積もりシステムのテスト用、つまり新人の練習用のログイン画面のようだった。周りで同じ作業をしている数人が、飯塚君が連れてきた頼りない助っ人を注視する。うん、アンケートと例の営業デビューの件じゃないわけね。
見てみるとよくあるエラー画面で、僕でも対処できたので助かった。いや、対処といっても「これはこういう仕様だから気をつけて」というだけだけど。
「あーそうなんですね、どうもありがとうございます」
「いやいや、何も。っていうかみんなこんなに残ってるなんて、いろいろ大変なんだね」
「いえ、我々もそろそろ上がるところでしたよ」
すると飯塚君は少し声を落とし、みんないつも、何となく帰るタイミングをつかみかねて、一人が帰るとそれに合わせて一斉に帰るのだと説明した。ああ、そういえばそういう時代もあったなあ。男子と女子が軽口を言い合う雰囲気も非常に初々しいし、ここだけまるで別の会社みたいだ。
「それで実は、切り込み隊長が、今日はまだ」
「え、切り込み隊長?」
ああ、さてはあの老執事みたいな山田氏だな、とそちらを見たが、夏のアリのように何かの庶務に励んでいた。そそくさ帰るのは飲み会だけか。
「どうも最近あんまり切り込んでくれないんですよね。仕方ないから僕が代理みたいになってますけど」
そしてふと、山田氏ではない少し変わり者の新人の・・・あのむすっとした顔が浮かんだ。
・・・黒井でさえ<落とせない>、孤高の不破くん。
「それってもしかして、三課に配属の・・・」
「あ、分かります?」
半信半疑でカマをかけたが、当たったらしい。
周りに迎合せず、自分が帰る時が帰る時間だ、という・・・不破隊長。どうやら今は離席中のようだ。
それから飯塚君は帰り支度をし、他の子たちも何となくそういう雰囲気になった。ああ、営業の島より空気の伝播率が高い。
「うーん、しょうがない、それじゃ僕が行きましょう。山根さんもこのまま帰られますか?」
「え、あ、うん」
「じゃ、ちょっと、ぞろぞろ続くと思いますけど・・・」
言い出すのが気まずいと言っている割に、さっさと近隣の島に「それではお先に失礼致します」と声をかけて一礼し、もたもたしている僕に「じゃ、行きましょうか」と声をかける飯塚君は、やっぱり営業デビューで間違いない。むしろ西沢と代わってほしい。
・・・・・・・・・・・・・・
そのままの流れで、新人の一団と一緒に帰ることになってしまった。
とりあえず飯塚君と一緒にいるけれど、いつの間にか彼の隣には前にも見かけた眼鏡君がいて、三人横並びで地下通路を歩く。眼鏡君は大人しいがよく笑う好青年で、二人は何となく高校の同じ委員会って感じで微笑ましかった。眼鏡君は基本的に飯塚君を立てているが、時々「ちょ、違う違う」と手の甲で腕を叩いてツッコミを入れている。
ふと会話が途切れたので、それとなく不破くんのことについて水を向けてみたが、「ああ、いやー、隊長はやっぱり隊長だね」「変わってますよねー」「ブレませんね」などの感想。彼はそれとなく敬遠され、多少親しまれつつ、まあおっかなびっくり扱われているようだ。まあそれはそうだろう。僕は今でも、彼が履いていた、うっすらドクロが刻まれたブーツみたいな革靴を覚えている。
そしてついでに、黒井のことについても聞いてみたいななんて思った頃JRに着いて、後ろの何人かが「お疲れー!」の声とともにそちらに流れていった。
それとなく、ここで解散という雰囲気なのかと思っていつ離脱しようか窺っていると、飯塚君が眼鏡くんに目配せし、「よかったら山根さんも、軽く食べて行きませんか」と、京王地下街のファーストキッチンに誘われた。
・・・・・・・・・・・・・・
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・・・しかし。
「メールは欲しいって言ってるんだよ」
「んー、それって束縛ってやつじゃないかなあ」
後ろの席から聞こえてくる、カップルらしき男女の会話。
ちょうど今朝、似たようなことを思った僕は思わず聞き耳を立て、背後の会話に注意を傾けた。
「その写真、隣の、元カレじゃないの?手繋いでるように見えるけど」
「えー、繋いでないよ、ちょっと重なって見えるだけ。・・・っていうか、もし繋いでたら何なの?」
「うーん、こういうのさ、色々、信頼関係っていうか、話しておいた方がいいと思って」
「話しておくって、何を?」
「たとえば、よく、ハグみたいなことしてるじゃない?そういうの、異性ともされたら困るっていう」
「ハグ?ハグはお友達とならするでしょ?しない?」
「男同士でしないね」
「んー、でもしばらくお別れの時とか、男女関係なくするでしょ?」
「いや、多分しないけど。・・・まあ、それじゃ、俺が女友達とハグしてもいいってことだね?」
「それはさ、普段しない人が急に異性にハグなんて、下心あると思われるよ?きっと」
「するなってこと?」
「しない方がいいんじゃない?」
・・・。
・・・ピリピリとした空気に、思わず身がすくむ。激昂したりせず冷静に話してはいるけど、言葉の端々に険があって、「このポテト辛ーい」なんてつぶやきながらも互いに牽制しあっているのが恐ろしい。
しかしその後、男の方が追加注文をして席に戻ると話題は普通の世間話に移り、ソフト修羅場は終わったかに見えた。しかし、仕事のスケジュールと次の休みの話になると、再び「それはないんじゃない?」「んー、私が一人で飲みに行ったらいけないの?」とまたピリピリ状態。束縛したい男と、縛られたくない女の争いか・・・と背中が痛くなってくるが、男が「それなら俺も別の予定入れとくわ」と言うと、女が「待って、それは待って、待って!」と焦った声でたたみかけた。え、束縛反対派なら相手も自由でいいんじゃないの?結局両方束縛派なの?っていうかもはや、この二人は本当に相手のことが好きなのか?
・・・恋人って、こういうもの?
もしかして、僕たちもそのうち・・・こうなるの?
「そういえば山根さんも・・・」
「・・・あ、えっ?」
背後から目の前の二人に意識を戻し、「山根さんも黒井さんと同期なんですよね?」と訊かれ、どきりとしたが、「あ、ああ、うん」と何とか答える。
「確か一課の鈴木さんも・・・」
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「鈴木さん、ちょいちょい俺らに絡んでくれて、いい人っすよね」
「そういえば今度結婚式って聞きましたけど。山根さんは行かれるんですか?」
「・・・ああ、式じゃないけど、うちら同期は二次会に呼ばれてて」
「そうなんですね。きっといい奥さんでしょうね。山根さんはご存じです?うちの会社の人?」
「・・・いや、違うと思うけど」
「あ、でも確か、小嶋先生は社内結婚ですよね」
「そうそう、三課の小嶋グループ長と。・・・ひゅう~!」
眼鏡君が若者らしく破顔し、飯塚君も「いいねえ」と笑った。こういう話題、女の子じゃなくても、さすが何でも知ってるんだな、新人は。
「そういや黒井さんも彼女いますしね」
・・・。・・・えっ?
「え、黒井さん?いないって言ってなかった?」
「いや、こないだの飲み会で、いるっつって」
「こないだ?」
「あ、飯塚君来てないか。ほら、シゲやんが腕相撲したって話」
「あー、あれね」
「そうそう、あん時、付き合ってる人いるって言ってた。最近できたのかな、詳しくは全然訊き出せなかったけど・・・あ、山根さんなら知ってます?」
・・・そうだった、新人の飲み会で腕相撲がどうとかいう時、女子に言い寄られた黒井は<付き合ってる人がいる宣言>をしたのだと言っていた。まったくモテる彼氏は困る・・・じゃなくて、えっと、この場合どうすべき?
「えー、うん、あんまり、その・・・」
全く知らないと嘘をつくのもあれだけど、でも知ってるとも言えないし、かといって「いるらしいねー」と思わせぶりに濁すのも演技くさくて、どうしていいか分からない。
・・・でも。
「知らないかあ」とつぶやかれたらちょっとカチンときて、つい「知ってるけど」と言ってしまった。いや、俺の馬鹿!
「え、どんな人なんですか?」
「あ、それは・・・」
「やっぱ美人ですか?」
「んー、それはどうかな・・・」
美人、では・・・ないな。
「こう、芸能人に例えると?」
「あ、あんまり、芸能人に詳しくなくて」
「えー、でもどうやって知り合うんだろう。何か、会社員って意外と出会いがなくないすか?」
どうやら我が社の恋愛事情が気になるらしい眼鏡君がそれとなく僕に同意を求め、つい「まあねえ」なんて答えたけど、ん、もしかして訊かれてもいないけど「彼女いない人」として認識されている?・・・いやいや、ここでそれを訊かれても余計にややこしくなるけど。
「え、で、黒井さんはどういう出会いの彼女なんですか?」
「・・・さ、さあ、それは」
ああ、まずい、設定を何も考えてない。ここで喋ったことは新人全員に伝わってしまいそうだし、まあ本人と口裏を合わせれば済むかもしれないけど、そんなのは黒井に迷惑だろう。
・・・って、いうか。
恋人として、そんなことも、きちんと話してはいない。
これじゃ、後ろのカップルのことをとやかく言えないか。
「あ、分かった」
ふいに飯塚君がニヤニヤとうなずき、「え、なになに?」と眼鏡君が促した。え、いや、まさか?
「黒井さんの彼女、きっと・・・社内の人なんですよ。だから山根さんも言えないんだ。違います?」
「・・・えー、っと」
「あっ、図星?図星ですか?そっか!あん時、飲み会でもなー・・・っんか変だったんですよね。えー、誰ですか?黒井さんと付き合ってそうな人?・・・ちょ、まさか実は佐々田ってことないよな?」
「え、佐々田さん?違うでしょ」
ああ、社内といっても本社とか、向こうのフロアの業務部の人とかだと思っててくれればまだいいかと思ったけど、まさかその佐々田さんは新人か?黒井が新人に早速手を出したとなったらまずいだろうし、佐々田嬢の名誉にも関わる。
「あの、佐々田さんって?」
「ああ、佐々田澪(みお)って、何かすごい肉食系っていうか、黒井さんにも結構ガンガンいってて、・・・あれ、でもあの飲み会でもそうだったから違うか」
「彼女、こないだから高浦グループ長にべったりだけどね」
「うそっ、全っ然タイプ違うじゃん!」
・・・みおちゃん、がどうしたとか、黒井から聞いたことがある気がする。とにかくその子が変に疑われたりする心配はなさそうだし、クロを諦めてもくれたみたいで助かった。うん、ちゃんと話し合うまで迂闊なことは言わないようにしよう。
その後、ふと思い出して、僕たちの同期で、新人一年目で早速営業に手を出して妊娠して辞めていった肉食系女子の話をしたら、さすがの彼らも初耳だったらしく、<黒井さんの彼女>の件は飛んでいってくれた。そして、いつの間にか後ろのカップルはまた普通に世間話をしていて、ちょっと、恋人というものが怖くなった。
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燈和(トウワ)は、いつも独りぼっちだった。
燈和の母は愛人で、すでに亡くなっている。愛人の子として虐げられてきた燈和は、ある日家から飛び出し街へ。でも、そこで不良とぶつかりボコボコにされてしまう。
そして、目が覚めると、3人の男が燈和を囲んでいて…話を聞くと、チカという男が燈和を拾ってくれたらしい。
チカに気に入られた燈和は3人と共に行動するようになる。
不思議な3人は、闇医者、若頭、ハッカー、と異色な人達で!
独りぼっちだった燈和が非日常な幸せを勝ち取る話。
塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
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