黒犬と山猫!

あとみく

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まだ、恋人ではない僕たち

第312話:腕時計の不在と、魔法の石

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 逃げるように外回りに出て、とりあえずコンビニに駆け込んだ。
 何だか甘いものを食べたくなってチョコの棚を見に行くと、あの<オランジェット>と同じシリーズのアップル版が出ていて、すぐに買った。ほんのりとシナモンが香って、蜜林檎が甘かった。
 甘さを烏龍茶で押し流して、電車に乗る。クセで腕時計を見て、左腕が妙に涼しかった。昨日までずっと当たり前についていたものが、今日はふいに無い。
 ・・・まだ少し、動悸は続いていた。
 空いた座席に座って、鞄を開けて、内側のポケットから小さな巾着を取り出す。中身を手のひらに取り出すことはせず、指を入れて触れた。冷たく、あるところは鋭利で、あるところはざらざら、あるところはツルツルしている。
 クロにもらった、緑色の蛍石。根拠もないのに、それに力があると信じられる僕の<魔法の石>。
 これでいいんだ、と思った。
 なぜだか、信じられる。
 あのキスが・・・、十時四十七分のあのキスが、あれは性欲とかそういうのじゃなくて、僕を黙らせようとかそんなのでもなくて、何て言ったらいいか何も分からないけど、あれはこの石のようなものだった。
 ・・・つまり、あれが、・・・クロだ。
 あれが黒井の、<中身>。
 僕が見たことのなかった、黒井彰彦本人。
 
 僕は巾着に包まれた石を強く握った。尖った部分が少し手のひらに刺さって、でもそれがもたらす感触に<痛み>なんて名前はついていない。
 黒井は、空っぽなんだ、もう<それ>がないんだと、ずっと寂しげな顔で空を見上げていた。
 その失くした<それ>が、あれだった。
 暗闇のトイレで、血を見たくて唇を噛み切ったという、その衝動の<本体>みたいな純粋なものが、十時四十七分に現れた。だから黒井は「できた」と言ったし、呆けた泣き笑いで「さんきゅ」なんて言ったんだ。
 彼は、まるで早死にするロックスターみたいな熱で、舞台の上にいた。そんな感じが、した。

 ・・・僕が「好き」って言ってない話なんか、これっぽっちも聞いてないな。
 でもそんなこと、どうでもよかった。どうでもよくなってしまった。
 いつだってそうだ。僕が本当に真剣に悩んだり苦しんだりしてることを、なぜかクロはいつも自分の何かでさっさと上書きしてしまう。ドラマを一緒に観ると言ったり、スーパーに行くと言い出したり、その度にまた別のことが起こって、僕の人生が進んでいく。
 だからやっぱり、僕たちはラブラブの恋人なんかじゃなく、両足を突っ込む勢いで互いの人生に<付き合って>いるだけなのかもしれない。


・・・・・・・・・・・・・・


 夕方、課長の「ノー残ですよー」の声で水曜であることを思い出し、後ろを振り返ったが、黒井はいなかった。コーヒーを汲みに行く振りでそれとなく席を見たが、客先から直帰なのでなければ、先に帰ったみたいだった。
 帰る前に明日のスケジュールを確認し、営業のTODOリストで黒井の分をこっそり見る。特に直帰でもないし、普通に更新されているし、まさかあのまま非常階段からどこかへ行ってしまったなんてこともなさそうだった。
「お先でーす」
「はいおつかれー」
 ついまた元・腕時計の左手首を見て、苦笑い。入社以来買い替えてもいないそれが突然なくなって、入社以来見たこともない黒井彰彦を見た。何だかおかしなものだが、気分はすっきりしていて、楽しかった。先に帰っちゃったみたいだけど、別に気にならなかった。
 それは、ただ気にしていないのとは、少し違う。
 問題もないし困っていないから大丈夫、という意味じゃない。
 そうじゃなくて、・・・僕が、僕でいる感じがした。僕がここにいて、誰のためでもなく、どのルールに従うでもなく、自分でいる。交際マニュアルをきりきりめくるでもなく、クロの期待にどう応えていいか計算するでもなく、ただ自分でいる僕は、先に帰ってしまったクロが今何を考えているのかに左右される必要がなかった。
 それは、本来の自分になったクロに影響されたのかもしれないし、あるいは、クロが<それ>を取り戻すために生きる、ということから解放されたような安堵かもしれないし・・・。
 ・・・ああ。
 もしかして、もう、「好きだ」って言ってもいいのかもしれないから、落ち着いているのか。
 そうかもしれない。
 きっと、クロはもう、「受け止められる」。
 もちろんそんなことは本人に訊かなきゃ分からないことだけど、十時四十七分、<魔法の石>であるクロと通じ合った僕は、それを信じられた。
 僕の「好き」を、今のクロは、受け止めてくれる。
 地下通路を歩きながら、何だか泣いてしまいそうだった。
 結局、やっぱり、おかしな方法で、意味不明なやりとりで、僕たちは繋がっている。
 その性急なキスを拒んでまで訴えたかったことを、こんな形で叶えてくれるんだ、お前は。


・・・・・・・・・・・・・・


 帰り道、まだ雨が降っていたが、時間も早いのでスーパーに寄った。黒井と来たあのスーパー。さっきは泣きそうだったけど、今度は笑みが漏れる。ゆっくりと売り場を見て回り、フルーツの盛り合わせと、ローストビーフにサラダ、そしてアップルのシードルワインを買った。どれにも半額シールはついていないし、何かの名目のためにそうしたわけでもなく、ただそれを見て、ぴんと来て、食べたくなって選んだ。好きなものを好きなように買うってこういうことなのか。

 帰宅してコンポで音楽を流しながら夕飯を食べ、風呂に浸かり、ドライヤーで頭を乾かした。その間ずっとにやにやして、油断すると何かが込み上げてきて泣くとか抜くとかしてしまいそうだった。
 ・・・だって。
 会ったこともなかった、そして、実は少し怖れてもいた、<それ>を持っている黒井彰彦本人は。
 今更、胸が熱くなって痺れるようなかっこよさで。
 ・・・僕は、惚れていた。
 そして、初めて見た彼がそういう存在で、自分が男ながらに惚れこんでいて、なおかつそれが言葉を交わさなくても通じたんだという、そのこと自体が嬉しかった。寝ていても頬が緩みそうになりつつ、満足して眠った。


・・・・・・・・・・・・・・・


 十月十六日、木曜日。
 新人同行、二回目。
「どうも、お疲れ様です」
「あ、うん。お疲れ」
 飯塚君はいつもどおり落ち着いていて、やはり安心感があった。
 会話のテンポや、よく聞こえなかった時の聞き返し方だとか、「・・・ああ、それは・・・そうですね」と意外と低い声で、しかしおかしそうに笑うリアクションが、まるで何年も前から知っているみたいに、しっくりきた。
 昨日の今日で妙に余裕がある僕は、やや客観的に分析を続ける。どうしてこのコミュニケーションはこんなにストレスが少ないのか。
 それはたぶん、相手のことを考えておたおたと戸惑い、迷う回数が、格段に少ないからだ。
 まあ、それでいうと横田だって少ないけども、もう少し、違った。
 横田と話している時、もちろんいちいち緊張したりはしないけど、多分少し、見栄を張っているというか、相手に合わせている。面倒くさい、馬鹿らしい、こんなことやってられるか・・・そういう共通の、いわば階段の踊り場みたいなものがある。僕と横田のお互いの円はそこが重なっていて、だからいつもそこに集まって「めんどくせー」とだべる。僕は半階分、いつも移動している。
 でも、飯塚君とは、ほとんど移動をしないまま、本当にルームメイトのように喋れるのだ。別に、共通の話題というほどのものでもないが、あの道は分かりにくいだの、何とかがやりにくくて何とかの方がいいだの、そんなものが自然に出てくる。気負うものがない。僕と彼が本質的に似ているというわけでもないと思うが、もしかしたら彼の踊り場部分がすごく広くて、だから彼と一緒にいる人はみんな移動する必要がなく、居心地がいいのかもしれない。
「ところで、変なことを訊くけどさ。飯塚君、血液型は?」
「あー、・・・まあ、Aですよね」
「ああ、そうか」
「山根さんは・・・違うんですか」
「え、俺はBだよ」
「そうですか。・・・Bはマイペースって言いますけどね、うーん、それほど、は、見えないですね」
「・・・うん、まあ。俺さ、大体、当たってないんだ、占いは。血液型も、星座とか、全般的に」
「でもそういうのって大体、言われればまあそうかもってこと書いてないですか?」
「まあそうだけどね。でも、俺の場合どうも、正反対が多い気がする。獅子座は人気者で社交的で、おまけに自信家、とか」
「はは、全然違いますか」
「一つもぴんとこないね」
「別に、生まれた日でどうとかって、根拠も分かりませんけどね。だったら、長男とか、末っ子とか、家族構成の方が説得力が・・・、山根さんは一人っ子ですか」
「え・・・うん」
「それは、そんな感じします」
「え、そうなの?どこが?」
「んー、何でしょうね。上に反発したり、それか甘えたり、・・・下をかわいがったり、面倒みたり、いじめたりって、どれも当てはまらない感じ・・・?」
 何となく飯塚君が僕を上から下まで眺め、僕は「そうなのか・・・」と、・・・照れては、いなかった。信頼できるスタイリストに服を任せているような感じ?うーん、それとも、もしかして良好な関係の兄弟だったらこんな感じもありうるのか?
「・・・って、着きましたか」
「えっ?・・・あっ、そう、ここ。よく分かったね」
「一応、ググって見ときましたんで」
「さすが」
「暇なんですよ。テレアポも終わってやることなくて、こんなんでいいのかってくらい、パソコンいじってるだけなんで」
「ええ、そうなの?」
「はい。だから同行、楽しみにしてました」
「はは、そっか」
「実は僕、今日が初めてなんで、あの、どうぞお手柔らかに・・・」
「初めて?でも別に緊張しなくていいよ」
「いや、します、けど」
「ただ大人しくしててくれればいいからさ。俺だってそんなうまくはできないし」
 ちょっと薄暗い吹き抜けのロビーには誰もおらず、黙って奥に進む。静寂の中、エレベーターを呼ぶ手が重なりそうになり、お互い引っ込めて、僕がボタンを押した。
 そして「・・・じゃ、いい?行くよ」「・・・はい」で神妙な顔をして二人で乗り込み、ドアが閉じると、どちらからともなく吹き出した。「何かおかしいですね」「ほんとだよ」「でも本当、いろいろ実践で教えてもらいたいので」「わ、分かったって。っていうか、・・・思ってるよりすぐ済むから」「すぐ済みますか」。
 そしてまたちょっと笑って、「山根さん、ちょっとえろいですね」「そ、そっちこそ、変なこと言わない」「すいません」とたしなめ、受付の電話を取った。その後はごく当たり前にロープレの見本みたいな御用伺いをして、その調子で近くの二件目も回って、一緒に帰社した。


・・・・・・・・・・・・・・・


 どんなに気が合っても、沈黙が苦じゃなくて会話のペースが同じでも、えろいだなんてにこやかに言われても、それ以上の意味で<好き>になんかならない。
 当たり前だ。
 僕は何度も、クロより高いであろう長身のその肩や腕なんかをちら見して、そこに触れたいのかどうかを考えた。
 触れたくないほどの嫌悪感などはないが、特に、触れたいとは思わなかった。
 そのことに、何度も安心した。
 そして、クセで左の手首を見るたび、思い出す。
 やっぱり僕はクロだけが好きなんだ。
 
 何かの帳票を見たいとかで、飯塚君を引き連れてデスクに戻り、横田が「どうぞどうぞ」とまた席を空けた。飯塚君は岩城君と違って学ランの応援団みたいに突っ立ったりせず、「じゃあどうも失礼します」とふつうに座り、「あー、これですね」と僕のパソコンを覗き込んだ。
「ここの関数ってどうなってます?」
「ん?えーと・・・そ、そんなとこいじらないな。何で?」
「いや、ちょっと・・・」
 彼はエクセルに詳しくて、今まで別シートでリンクしていなかったところをちゃっちゃと作り直してくれた。どうやら暇を明かして共有フォルダをくまなく検分していたようで、たぶん僕より既に詳しいんじゃないだろうか。試算表のそんなとこ、本当は見たことすらないよ。
 一応ロックがかかってるファイルのパスワードまでこっそり教えてあげて、「勉強になります」と彼は帰っていった。

 後からまた、出すぎた真似をしたんじゃないか、気を許しすぎたんじゃないかと焦りがわきそうになったが、形にならないまま霧散していった。
 後から<今日はありがとうございました!>とちょっと若々しいメールが来て、負けずに<こちらこそ!>と一言返した。
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