黒犬と山猫!

あとみく

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初デートに奔走

第283話:ノアの方舟のつがい

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 再び現れた屋内施設は「両生爬虫類館」で、先ほどの小獣館より大きく、ちょっとした水族館みたいな雰囲気だった。入り口で「えー、みんな入るの?私、ちょっと無理」と男女グループの女の子が渋っていて、ああ、見るのも嫌なほど苦手な人もいるわけか。
 そして中に入ると確かに、ヘビにトカゲにカエルにヤモリにと、これでもかというほど爬虫類と両生類が並んでいて、黒井はずっと「ああ、ああ、目が、石みたい・・・」「ううっ、ヤモリ、さわりたい・・・」とひたすら僕の腕を強くつかんで興奮していた。僕のことなんか一ミリも見ないまま、気になるところは何度も往復し、目は爬虫類に釘付け。ちょっとだけ、先ほどの女の子にこの姿を見せたら、イケメンでも「ちょっと無理」かなと思うと笑えた。ヤモリが好きだと言ってはいたが、爬虫類全般がこんなに好きだったとは。
 展示の前ですっかりしゃがみ込み、「俺のこと見てるかな」とその無機質な網膜に映りたくて仕方がない黒犬は、本当に、まるで吸い込まれるように一心にそれを見つめていた。
 隣のその髪を見下ろして、ほんの少し触れたくなって、でも指は空を切り、僕もその小さなトカゲを見つめる。
 一瞬、山猫がそれをさっと口にくわえているところが浮かんだ。
「クロ、後ろから人、来てるから」
 やんわりと立たせて背中から肩に手を回し、促して順路を進む。「あっち、空いてる」と水辺の環境を模した水中展示へ向かい、ああ、もしかして、僕はトカゲに嫉妬して「この犬は俺のだ」と言わんばかりに肩を抱き、小さな勝利に浸ってるのかと思うと、ちょっと驚いた。
 しかし、黒井が何も言わないので、肩から手が、離せない。
 後ろから人が来ても、まだ。
 そのまま少し身を寄せて「どういうのが好き」と訊くと、小さく「カイマンが好き」と返ってきて、一周したけどイリエワニしかいなかった。そのイリエワニにしても全く置き物みたいに水中で動く気配がなく、「動かないし行こう」と声をかけたが、「動かないのを見てる」と。
 まだ肩に手をかけたまま、隣でしゃがんで、一緒に見た。
 確かに、呼吸すらしていないようで、何かのオブジェかと錯覚する。生物だという実感がつかめず、さらに目を凝らして近づき、ああ、これじゃあ山猫は食われてしまうか。
 すると、それを悟られたかのように「あのね、ジャガーなら、カイマンを襲って、勝つんだよ」と、しゃがんだまま低いところで目を合わせた。
「ジャガーは、ワニを、食べるってこと?」
「うん。喉のとこ噛んで、重いのに、軽々陸に運んでっちゃうんだ」
「ふうん・・・強いんだね」
「ジャガーはすげー泳ぐし、でかいし、強いよ」
「ふうん・・・」
 そして前に向き直るとふいにワニが動いて、僕は思わず立ち上がった。
 ジャガーに負けてワニにも負けて、手も離してしまって、少しみじめな気分。でもその中に何かがあった。それはやはり優越感のような、焦がれる気持ちのような、あるいは支配欲のような何か。たぶんデートとかレンアイじゃない方面の、ピンク色ではない尖った感情たち。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 それから不忍池に少し戻り、屋根のあるテラスで再び一服することにした。目の前にはカメレオンのマークがついた軽食屋とグッズ売り場があり、黒井は「あー、カメレオン好き」と、中のぬいぐるみを眺めた。
「うわ、思ったよりいろいろある。何かこういうの、全部集めたくなるよね。全部の生き物、ぜーんぶ部屋に詰め込んで遊びたい」
 僕は自販機で買ってきたお茶を渡しながら、ちらりとそのぬいぐるみを見た。うん、こういうの、お店の人に「これ全部」って言って包んでもらえばいいのかな。
「部屋に詰め込んで、っていっても、まあ三十個くらい?」
「え、・・・違う違う、ここにあるのじゃなくて、世界中の全ての生き物のぬいぐるみ。全種類。そんなのって楽しくない?」
 地球上の全生物?ああ、それなら「これ全部」は財布がいくつあっても足りないか。
「全種類って、ゾウとかキリンじゃなく、アフリカゾウとかアミメキリンってレベル?あと絶滅したやつは?」
「・・・ふうん、絶滅したのは除く。種は・・・どこまで分類するか、面倒くさいな。見た目全然変わんないのもいるし、でも全然違うのは分けたいし・・・っていうか、そんなとこまで考えてたら楽しさが減らない?」
 僕は「減らない」と答えて隣の軽食に目を移し、やはりさっきのカレーでは少し足りなかったらしく、小腹が空いていた。「何食う?」と訊くと「んー、フランクフルト」で、僕はポテトを選ぶ。変に照れたりしないで普通に会話してるのが、ちょっと嬉しい。贅沢な悩みか。

 ずっとしていた眼鏡をはずし、ぼんやりと池を眺めながらの軽食タイムは、至福だった。テーブルで向かい合いじゃなく、隣に座ってこの景色で、お茶が美味しい昼下がり。
「あのさ、さっきの・・・やっぱ、アミメキリンで」
「ん?」
「何かさ、ふと思ったら、ノアの方舟じゃん?」
「・・・ああ、全部の生き物、全種類」
「だから絶滅しちゃったのはやっぱりなしで、今生きてるやつだけ。面白くない?」
「うん、なるほど。ぬいぐるみでもいいけど、ホログラムデータとかで保存しておいて、DNAサンプルもつけて、それなら案外かさばらない」
「・・・いや、かさばってもいいからさ、ぬいぐるみのふわふわが気持ちいーんじゃん。全部の種類、全部、つがいで、さ・・・」
 その時、目の前をカップルが横切っていき、それからすぐ、斜め前に別のカップルが座った。彼らは学生でも夫婦でもなく、僕たちと同じ年くらいの、大人のカップル。二人の距離は近くて、でもイチャつく風でもなく、さらりと寄り添っている。
 何となく、その後ろ姿を、見ていた。
 男性の腕をつかまえたまま、その肩に、小柄な女性の首がぴったりともたれかかる。
 別に、驚くほどの光景でも何でもないのに、・・・さっきからカップルなんかたくさんすれ違っているのに、急に、何とも言えない気持ちになった。
「・・・やまねこ」
「・・・え、あ、なに?」
「行こう、俺、トイレ」
「ああ、うん」
 黒井がトイレに向かい、僕は食べたもののゴミを捨てて、そしてふと気がついた。
 ・・・僕たちは、方舟に乗る、つがいになれない。
 そうか、うん、そんなのはずっと分かってたはずで、忘年会のあの夜からそうだったはずで、でも告白されて動物園まで来て、気持ちは半分、世間公認の初デートだった・・・。
 浮かれてた、のかな。
 男二人でも特に違和感なく、ごく普通に園内を回って、ただ楽しく過ごしてたけど・・・。
 飲み会をして電話をして、お前のお母さんから鍋までもらって、同僚にデートの相談のようなことまでして、すっかり一般人にでもなったつもりでこんな場所まで来てしまった。もちろん楽しかったし、動物園に来るのに男も女もないけれど、急に何だかものすごく、ものすごく自分が現実を見てなかったような気持ちになって、どこかへ落ちそうだった。
 ・・・西沢が、横田に何かを吹聴したとかいう被害妄想も、誤解だったのに。
 でも今思うと、あれは被害妄想でも何でもなくて、誤解だったことが誤解だったとさえ思えてくる。
 ・・・何を言ってるんだ、馬鹿馬鹿しい。目の前にカップルが座ったからって、それで今日の全てが覆されるなんてことはないはずだ。男二人が、友達だろうが親友だろうが、休みの日に動物園で動物を見て何が悪い。誰に何を言われる筋合いもない。別に、公衆の面前でキスしたわけでもあるまい、し・・・。
 ああ、新宿では、したのか。
 したんだな、しかも、僕から。
 すると黒井がトイレから戻って、ハンカチで手を拭いていて、やっぱりあの夜を思い出した。
 僕の中の理屈は、金曜日の深夜に新宿で酔っぱらいがキスしたって、何の問題もないと言っているけれど。
 別の理屈は、<お前が、漏らしたな>と言った。
 頭の中だけの特別で大切な関係を、路上キスなんて行為で、世間に晒してしまった。別に、それを実際に誰が見ていたとかは関係なくて、ただ意味合いとして、クローズのものがオープンになり、漏れ出てしまった・・・。
 片想いなら、どこにも絶対、漏らさなかったのに。
 やっぱり、お前が、好きだなんて、言うから。

「あの、ねこ、・・・どうした?」
「う、ううん、何でもない。・・・ちょっと、あてられただけ」
「・・・気に、すんなよ」
「・・・」
 何だ、お前も、気づいてたのか。
 でも・・・気にすんなって、何だよ。お前のせいだろ。
 お前が俺を好きになったって、それを言わずに片想いでいたら、何も漏れたりしなかったんだ。お互いの想いはお互いできちんと密閉され、それなら誰にも邪魔できなかった。
 僕は、ずっと、そうしてきたのに。
 お前は、簡単に、一日も待たず、言いやがって・・・。
「おい、やまねこ、だいじょうぶ、か・・・」
 少し後から、ぱたんと、傘が倒れる音がした。
 思いきり、黒井に強く抱きついていた。理屈が紡ぐ言葉は理にかなってはいたけど、正解じゃない。俺はお前が好きだし、ただそれだけ。肩と背中の厚みと骨の感じ、首元のにおい、くっついてる胸元の温かさ、きっとびっくりしているだろうけど、嫌がってはいないと分かる、その存在感。
 さらに力を込めて「・・・クロ」と耳元にささやくと、「うん」と返事。
「俺恥ずかしすぎる。めまいがする・・・いや、したことにしてくれ。ベンチに座らせて」
「・・・、ふふっ、お前、ほんと、しょうがないやつ」
「は、はやく。頼む」
 黒井は笑いながら、抱きついた僕を引きはがし、腕を肩に回して「ほら、歩ける?」と僕を支えた。僕はもう羞恥心で全身の力が抜けてしまい、たぶん本当にめまいもしてきて、世界が揺れた。
「傘、かさを落とした、拾って」
 本当は傘のことなんてどうでもいいけれど、これは往来を通る人へのパフォーマンス。急にめまいがして、一緒に来ていた友人にしがみついちゃっただけなんです。
「わかってるよ、ほら、もう」
 ベンチで横になる僕の顔に、自分が今手を拭いたハンカチを乗せて、黒井は傘を取りに戻る。ハンカチは半分濡れて冷えていて、それは僕と世界とを遮断してくれるとともに、気分が悪くて倒れちゃった人の演出にもなっていて、クロはいったいいつからこんなに気が利く犬になったんだろうと思った。
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