黒犬と山猫!

あとみく

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八月、夢と花火と旅行の準備

第244話:前日

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 その後延々一時間以上愚痴を聞かされ、先ほどと違う女の子が「あのー、お電話、部長からです」と告げに来てようやく解放された。上司は顔色を変えて「え、なに、部長?やだやだ、いないって言っとけよー」と小走りで隣に向かい、やがて「ハイお電話かわりました」とまったく違う声色。
「どうも、お疲れ様でございまして、本当に申し訳ありません・・・」
 ひらひらとエレガント風な服装に、茶色いウエーブの長い髪。さっきの、プリントTシャツにスニーカーのカジュアルな子とは対照的な女性が声をかけてくれた。
「あ、いえいえ、とんでもない」
「あの、部長がこのフロアにいてくれればいいんですけど、あいにく本社が下の階なんですよ。もう、本当、本来我々が聞くべきなんですけど、派遣さんがお盆休みになってちょっと忙しくて、すみません生贄みたいになってしまって・・・」
「い、生贄って・・・はは、いえいえお気になさらず。お盆は行く先がなくて、貴重な訪問先ですから」
「ですよねえ。うちも、主人が休みで娘を見てて、私が一人仕事に行くっていう変なことになってて」
「あ、お子さん、いらしたんですか」
「ええ、娘が、五歳で」
「五歳!・・・そうは見えないですね」
「あー、いえいえそんなことないんですよー?もうアラサーも越えてしまいましたから・・・、え、山根さんは、もっとお若いですよね?」
「え、えっと、アラサー、ですね」
「ご結婚はされてない?」
「ええ、残念ながら」
「いえいえ、まだまだ全然、全然大丈夫ですよ。ほら、さっきの人も、四十になるのにまだですから。男性はまあ、四十過ぎてもまだいいとは思うんですけどね、でもいい加減お嫁さんもらってもらわないと、ねえ、これが・・・」
「・・・えっと、これ?」
「ほら、・・・愚痴が、長いでしょう?あれ、家庭で吐き出して欲しいんですよね。ああいう人にこそいいお嫁さんが必要なのに、まあ、そうはいきませんわね、あれじゃ」
「はあ、ええ、何て言っていいか」
 その後、彼女の話も三十分近く続いた。愚痴ではないが、聞き上手なので仕事のことや一人暮らしのことなど、いろいろ聞き出されてしまうのだ。思うに、こうして世話焼きがてら聞いてしまう彼女が、愚痴っぽい上司を作ってしまう一端でもあるのではないか?
 やがてもう一人の、つまり最初に案内してくれた子がやってきて、「あのー、そろそろ締め、ダブルチェックして?」と彼女を連れて行き、小声で「ちょっとズルいよ!」「ごめーん!」の応酬。そして再び最初の子が僕を廊下に連れて行った。カードキーをかざしてもらわないと帰れないのだ。
「っていうか何時間いたんですか?お仕事大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫です、この時期暇なので・・・」
「何かすいませんね、代わる代わる、こんなんで。っていうか、是非うちの上司になってくれませんか?その方が話が早いし、みんなでそう言ってたところです」
「えっ!?ええっと・・・か、考えときます」
「もうねこでもいいって言ってるんですよ」
「へっ?」
「いや、さっきの彼女が飼ってる猫。もう、猫ちゃんが座ってるだけの方が仕事がはかどる!いや、はかどらないか。可愛くて・・・」
「は、はあ」
「あ、ごめんなさい、山根さんが猫と同列って意味じゃないですよ。山根さんならシステムのことも分かるし、もう、完璧です。いえ、山根さんと猫で完璧です」
「そ、そうですか、それはどうも」
「じゃ、これに懲りずまた来て下さいね。あ、お土産待ってます、なんちゃって」
「は、はい。あの、こちらこそ例の過去データの件、いつでも電話して下さい」
「えーと、五日ということは・・・木、金、土・・・火曜日以降ですね。了解です」
「それではどうも、失礼いたします」
「はーい、こちらこそお世話様です。よろしくお願いしまーす。・・・あっ、よい旅を!」

 腕時計を見るともう夕方で、何もしてないのに疲れたけど、冗談でもスカウトされたりしてちょっぴり嬉しかった。僕と猫であそこの上司の席に座り、そこに黒井が案内されてくるのもありかな?毎週のようにやって来て、何時間も隣で話して、猫と遊んで、「じゃあまた来るね!」と帰っていくのだ。あの二人もきっと、「また来てほしいですね」「山根さんを上司に据えてよかった」と言ってくれるだろう。うん、そしたらそのうち僕が追い出されて猫と黒井があそこに座るかな。そしたら僕は・・・いいお嫁さんになって、家庭でお前の愚痴を聞くから・・・。
 あ、明日、か。
 どうしよう、心の準備が、これっぽっちも出来てないよ。


・・・・・・・・・・・・・・


 帰社して、今さっきのシステムの件を関口に話したら、「そんな依頼受けんな!」と一喝された。ついその場で安請け合いしてしまうのは悪いクセだ。このくらい自分でいじって解決できれば問題はないんだけど、そこまでは出来ないわけで。
「電話一本で駆けつけるとか安易に言うなよ。別に、出来る出来ないじゃなく、そういう態度が、後々をやりにくくすんだからさ」
「・・・はい、そうですね。考えてませんでした」
「分かった?・・・もういいよ」
「すみません」
 手でシッシッと追い払われ、野良猫よろしくとぼとぼと立ち去る。でも、「暇だったら行ってやる」とつぶやいたのが聞こえ、なんだ、あんただって安易にそんなこと言って、甘やかしたら後々がやりにくくなるぞ。
 ・・・有難いけど。
 何とか休み前を暗い気持ちで過ごさなくて済み、僕はデスクに戻ってもう一度やっておくべきことをチェックした。ああ、<17時まで!>の星印のふせんは、島津さんに月曜のジュラルミンを頼むこと・・・!

「はい、ああ、いいですよ。私がやっときます」
 佐山さんに持たせるわけにいかないし、当日僕がいなければ率先してやってくれるだろうけど、一応きちんと頼んでおかないと。ああ、差し入れのチョコでも買うんだった。
「月曜日お休みなんですね。・・・あれ、確か黒井さんも有給だ」
「あ、そう、それで、その」
「ああ、じゃあ月曜は私ら二人しかいないんだ。何か、元々そうだったのに、変な感じですね。もう四人でやるのが当たり前になってて」
「うん、その、迷惑かけます」
「いえ、どうせまだ暇でしょうし、のんびりやりますよ。どうぞごゆっくり」
「申し訳ない」
「実は私も九月にお休みもらおうと思ってて、じゃあその時お願いしますね」
「オッケー、了解です。ってまあ、三課のことはよくわかんないけど」
「大丈夫ですよ、あの人も分かってないから」
 島津さんはちら、と黒井の席を見遣る。あ、もう帰ってきてたのか。
「だ、大丈夫じゃないじゃん」
「だからそれまでに覚えて下さい」
「何だ、高くついたなあ」
「覚えて、教えるところまでお願いします」
「は、はは、そりゃきつい・・・」
 島津さんは笑わずにちょっと止まって、おもむろにデスクの引き出しを開け、分厚いクリアファイルの契約書を一通取り出した。かがみを見ただけで、うわ、個別契約のめんどくさそうなやつ。金額もまさにケタ違いで、でもそれが見えないほど訂正印だらけ。
 その印は、ああ、黒井なわけね。
「分かりました?」
 つい、とそれをしまって、島津さんは姿勢を崩さないまま「ああ、もう五時だ」と。我が社のクールビューティーは最小限の愚痴と、時間の正確さが売りだ。


・・・・・・・・・・・・・・・


 17時上がりの島津さんを見送って、その足で黒井の元に向かった。
 さっきの契約金額におののいたけど、でも、だからこそ今行ってしまわないと、腰が重くなって動かないだろう。
 ・・・八桁、あったよな。
 そんなの、取ったこともない。下手したら僕の数字の何ヶ月、いやいや何年分?
 もちろん毎月あんなの取ってくるわけじゃないだろうし、計上だって年度末の日付だったから、毎年引き継いでる大型(たいてい厄介な)案件、いわゆる<ネバー計上案件feat.その年の担当者>なのかもしれない。はは、誰が言ったか知らないが、うまいこと言ったもんだ。
 まあ、島津さんにとっては金額の多寡より正確な記入をお願いしたいところだろうし、引き継いだんじゃなく取ってきたんだとしてもあんなのネバー案件化する可能性は大なわけで、しかしそれでも、声をかけるのをちょっとためらうほど威力はあった。僕たちは、うん、<向こう側>に行ってないときは、こうして会社で仕事をしてるわけで。お前が有能なことに関して嫉妬や羨望なんかないけど、劣等感はくすぶるわけだ。
「あ、あの、コーヒー、行かない?」
「・・・うん、いいよ」
 黒井は見積もりを途中でほったらかして、「上書きすれば」と言っても「別にいいよ」と。
 さっき見た契約を頭から追い払い、復旧ポイントをその手前に設定してリストアを試みた。どうやらうまくいったようだが、別に、緊張してるのはいつもと同じか。
「あ、あのさ、今日、帰れそう?」
「うん?」
 一緒に帰ろうよ、とは安易に言えない僕だ。
「あ、いや、明日のこととか、話した方がいいかなって」
「明日のことって、どんな?」
「だから、その、・・・飛行機の時間とか、空港の、何番とか、何分前に集合とかお昼はどうするとか」
 っていうか、何時の飛行機かすら知らないんだよ僕は。ネットで検索したけど、島根空港というのが出雲空港のことなのか、それとも萩・石見空港のことなのか、飛行機の後の交通手段とかも、もう前日になっちゃったのに、まだ何も知らないんだよ。
「ええ?そんな、今全部わかんないよ」
「あ、だから、帰りながら・・・」
「うん、悪いけど俺、一緒に帰りたくない」
「え・・・あ、そう、ごめん」
 ・・・えっ、な、なに。
 振られた?
 ぜ、前日に、振られたの俺は?
「・・・あ、あの、でも聞かないと、俺明日、どうすればいいか」
 ほとんど消え入りそうな声で訊いた。いや、別に来るなって言われれば行かないけど、もし行くんだとしたら教えてもらわないと、家を出れなくて、ですね・・・。
 黒井が黙ってコーヒーのボタンを押している間、何だっけ何だっけと必死に考えたけど何も浮かばなかった。
 僕の番が来て、もう怯え切って震えそうな手でボタンを押し、じっと下を向いた。何で、何で?どうしてこうなってんの??
「・・・だってさあ」
 ようやく黒井が口を開き、僕はもう飛びつかんばかりに、しかし表向きはゆっくりと「・・・うん」と相槌を打った。
「・・・何か、ずっと一緒だったらさあ、うーん、何か、つまんないじゃん」
「・・・え?」
「だってねこはつまんなくない?そんなじゃ、会社の出張みたいじゃん。じゃあ明日何時ですね、よろしく、とか」
「え、えっと、それはそうだとしても、でもやっぱり」
 と、とりあえず、何か怒らせたわけではない?またこいつの気まぐれの問題?・・・いや、ああ、また僕が、何時何分、地球が何回まわった時?をやっちゃったのか。
「えー、いいじゃん、旅行は朝イチで集合だよ。始発で来ればいいじゃん」
「いいじゃんって、でもそれを・・・」
「もうさ、旅は道連れって感じでさ、偶然会って行ったらいいよ。あっ、俺もこっちなんですよ、みたいな。それがいいよ、面白そう」
「いや、な、何言ってんだ。そんな不確実じゃ俺は飛行機に乗れないよ」
「ええ?」
 黒井が冗談めかした笑い、ではなく、面倒くさそうにそっぽを向くので、柄になく、ちょっと怒った。それでも声をひそめて、給茶機に人が来ないのを確かめて。
「お、お前、ちょっと会うだけならそれでもいいけど、俺はそっちにお世話になるんだし、飛行機だって取ってあるんだし、いい加減なこと言うなよ、遊びじゃないんだ!」
「・・・遊びに、来るんじゃないの?」
「あっ・・・い、いや」
 つ、つい、ご挨拶に伺うことが念頭にあって、ああ、そっか、黒井としては「遊びに来てよ」以上のものではないわけで・・・。
「ご、ごめん。お前があんまり自分勝手だから」
「はは、素直にそう言えばいいのに」
「・・・俺が、悪いわけ」
「そうだよ。・・・ね、それじゃまた見たんじゃない?男の子が死ぬ夢」
「・・・」
「何だよ。俺・・・お前に、甘えてるから、さ。お前だってそうしてくれて、いいのに」
「・・・」
「・・・じゃ、始発で。待ってる」
 そう言って、黒井は紙コップのふちを指先で持って、腕は伸ばして、先に歩いていった。そこからこぼれたコーヒーが床に染み込んで見えなくなっていくのを待って、僕は、自分はこぼさないように液体の表面をじっと見ながらゆっくり歩いた。


・・・・・・・・・・・・・


 そこから先のことは、よく覚えていない。
 何度か帰り支度をして、はっとして何か忘れてないか気になって、また広げて。
 ひどく傷ついたような気もしたし、でも、胸が詰まるほど甘い気もした。
 甘い・・・、「お前に、甘えてる」?
 あいつは、俺に、甘えてるの?
 「一緒に帰りたくない」って言ったのも、僕の理詰めに愛想尽かしたんじゃなく、気持ちのまま生きてるのを、俺には、出せるってこと・・・?
 どうしよう、それは決して僕の理屈のこじつけじゃなく、そうなんじゃないかってちゃんと思えるんだけど、でも、それと同時に、同じだけ、鋭いトゲで刺されてるのも感じる。
 ・・・黒井と五日間も、いられるだろうか。
 甘いキスをもらいながら、腹をナイフで裂かれている。
 僕が進んで身を差し出すのは、お前が好きだから、というより、そうされたいから、か。
 
 帰宅して、鞄に入れたスケッチブックの、黒井が描いた僕のページだけ破って押入れに入れた。目覚ましをこれでもかとかけて、寝た。
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