黒犬と山猫!

あとみく

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妙な耳鳴りと魔法の石

第204話:おねえさんになりたい

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 ようやく、佐山さんのことを黒井に言える。
 まだ何もしていないのだけど、全部言っちゃうんだと思ったら、飛んで行きそうな解放感だった。
 もう、やっぱり、黒井のことが好きだ。
 社内なのにあの石を握り締めて、胸が熱い。
 そして、思わず振り返って、微笑まれて、忘れていた何かに思い至った。
 ・・・ああ、<おねえさん>、だ。
 そっか、食事に、行くんだっけ。
 それで、朝から「おはよう」って上機嫌、なんだっけ・・・。

 でも、会社で若い子に囲まれてるより、上品な大人の女性とお茶でもしてくれた方が、いいような気もした。何だか絵になるし、きちんとわきまえた人だったら、まあ少しくらい、いいかなって・・・。
 僕は軽井沢みたいな高原で、黒井と、その<おねえさん>が並んで歩いているところを思い浮かべた。白いワンピースがはためき、おねえさんが大きめの帽子を押さえて、黒井がその肩をそっと引き寄せる。いつの間にか教会に着いていて、白いタキシードとウェディングドレス、花びらのシャワー、そして、誓いのキス・・・。
 ・・・。
 ・・・だめだっ!
 机を叩いて西沢をビビらせ、またすいませんと謝った。でも、それでもだめだ。どうしてだろう、黒井にはあの新人たちや、あるいは可愛らしい菅野なんかより、年上のしっとりした女性がしっくりきてしまう。
 いつも女なんかうざいなんてほざいてるあいつが、「感じのいいお姉さん」なんて言うからだ!
 くそ、どうしよう、馬鹿みたいに心配だ。何の根拠もない、明日空の天井が落っこってきたらどうしよう、みたいな軽いパニック。
 あいつが、・・・あいつが結婚しちゃったらどうしよう!!
 食事って、ランチ?ディナー?まあ、一応仕事中なんだしたぶん夕飯だろうが、黒井のことだからわかったもんじゃない。だとしたら、昼前に阻止しなければもう、これから会ってしまうかも・・・。
 僕に本物の魔法の石をくれた黒井が、どっか、行っちゃうかもしれない・・・!

 11時50分、矢も盾もたまらず、電話した。一度留守電になったが、二度目に、出た。
「・・・あ、もしもし?」
「あ、その、俺だけど!」
「うん?どしたの?」
 外を歩いてるような騒音。まだレストランの席についてるってわけじゃなさそうだ。
「あ、あ、あのさ。俺、あの・・・!」
「え?どうしたんだよ、何かあった?」
「け、け・・・」
「へ?」
「結婚・・・して・・・」
「・・・えっ?」
 ほとんど無我夢中というか、忘我状態だった。俺は何を言ってるんだ。戻ってこい、まともな人間に戻ってこい・・・!
「な、なに、結婚?」
「そう、あ、あの、結婚・・・結婚詐欺かもしれないから、絶対、その、うまい話に、乗るなって・・・」
「え、なに、今日会う人のこと?別に、そんなんじゃないと思うけど?心配しすぎだよ」
「そう、かな。だったら、いいけど」
「え、もしかしてそれで電話してきたの?」
「・・・ごめん」
「はは、別にいいけどさ。変なの」
「で、でもほんとに、おかしなことになるなよ・・・?」
「大丈夫だって。別に、食事するだけだよ。いや、まあ、チャンスがあれば、・・・わかんないけどさ」
「お、おい!」
「何事もチャレンジだって。なんて、はは、俺何言ってんだろ。あ、じゃ、食券買うから」
「あ、うん、ごめん」
「じゃね」
 ・・・。
 ・・・ああ。
 そうか、クロは、ちやほやされたり、きゃあきゃあ言われるよりも、今回の来場者プレゼントみたいに、出来ないとなると燃えるタイプじゃないか。
 だから、まとわりついてくる女の子より、なかなかなびかないお姉さんの方が、いいんだ。
 ・・・しかも。
 クロは、サイコロ振った偶然で訪れたものを、自分の力でつかみたいと思っている。
 今回みたいな、たまたまの出逢い、まさかというような縁、そしてきっと、チャレンジして「まだだめよ」なんて言われたら、火がついてしまうかも・・・!
 や、や、やばい。
 こんな凡庸な俺なんか、何も太刀打ちできない。
 神田を歩き、秋葉原まで出て、デパートの中二階のベンチにへたりこんだ。
 鞄の内ポケットの、僕の魔法の石を外側から撫でる。
 どうしよう、お願い、俺からあいつを奪わないで。


・・・・・・・・・・・・・・


「だって、無理だよ。自信がない。俺なんか選ぶわけない・・・」
 自動的に首は横に揺れる。言葉と感情と身体の一致。
「結婚してとか、口走っちゃったじゃん。はは、しょうがないな・・・」
 客先のビルの屋上で、小雨の降る灰色の空を見上げてつぶやく。
「でもさ、これだって、くれたじゃん。お前にあげたいんだって、こんな・・・」
 巾着を取り出し、左手で握った。硬くとがった角が、ゆるく手のひらを刺す。
「しかも、聞き間違いかもしんないけど、そんな、・・・す、・・・好きだからとか、はは、ないか。言ってないかそんなこと。違うんだよねきっと・・・」
 いったい何をやってるんだか。でもちょっと、吐き出さないとおかしくなりそうなんだ。お前との距離が、近くて遠くて、わかんないんだよ。

 ・・・おねえさんに対する、嫉妬はなかった。
 ないから余計、怖かった。
 栗色で長めの、ウエーブがかった髪。
 上品なワンピース。
 優しく包み込んでくれるような微笑み。
 「ええ」とか「そうね」とか、花のような声で、甘えさせてくれる・・・。
 まあ、すべては愚かな男の勝手なイメージだ。もしも本当にこんな人が実在したら、僕なんか回れ右でその視界から消えるべく立ち去るけど、お前がそのちょっとグラマーな胸に顔をうずめるところは容易に想像できた。お前のこと理解出来るの僕だけだなんて息巻いてたけど、ミーハーな女子なんかじゃなく、こういう<おねえさん>なら、黒井を包んで、そして、自由にしてやれるのかもしれない。「大丈夫よクロ、あなたならきっと出来る・・・」、そう囁いたら、あいつは立ち上がっちゃうんだ。「絶対やるから」って、自分との戦いに勝っちゃうんだ・・・。
 ・・・俺もそんなおねえさんになりたい。
 本気でそう考えている自分がいて、引きつった笑みさえ漏れなかった。
 それから、「ねえ、クロ?」って少し語尾上がりで呼ぶ声が妙に生々しく再生されて、女優か、何かのキャラクターか?と頭をひねり、とうとうシナプスが繋がってそれが分かった。
 ・・・マヤ、だ。
 マヤはそんな清純ではなさそうだけど、でも、確かにそれは僕の中の何がしかのイメージの<おねえさん>像なんだろう。そして、そんなふうになれば黒井が振り向いてくれる、そんなふうになって黒井と過ごしたいって願望も、僕の中には確かにあったんだろう。
 そして僕は雨に濡れる屋上ガーデンの青い花を見つめ、衝動的にアルミの椅子から立ち上がったら、軽い眩暈がした。強く風が吹いて、それであったかなかったか分からない耳鳴りも打ち消されて、「ねえクロ、ほんとは、あたし、こわいよ・・・」とつぶやくマヤの声も、聞こえなかった。


・・・・・・・・・・・・・・・


 帰社して、ノー残で、あいつはわざわざ僕の席に立ち寄って、「んじゃ!」と肩を叩いて出て行った。何だか勝負にもならなくて、「振られた」の一言も出なかった。
 昼を抜いていたからずっと腹が鳴っていて、西沢と横田が呆れて笑いながら、「山根君もう帰ったら?」「いや、ほんま、こんな鳴ってる人初めて見たわ」と。
 それでも今日中にやらなきゃいけないことは全部やって、結局島で最後まで残ってしまった。「おい、お前も上がれよ」と言われないのでもう少し、もう少し、とやっていたら、いつの間にか課長と二人きりだ。
 そして、三課の誰かが帰ったタイミングで、課長が「・・・あのねえ」と。
「はい?」
「あの・・・佐山さんから、聞きました」
「あ・・・は、はい」
「ま、彼女派遣さんだから、もちろん派遣会社とのあれがあるわけで、向こうの営業ともね、また相談してってことになるんだけども」
「・・・はい」
 課長は西沢の椅子に腰掛け、「お前さんにはね、話してほしいってことだったから」と、詳しい話を聞かせてくれた。


・・・・・・・・・・・・・・・


 予定日は年末から年明けくらいとのことだった。
 ・・・もちろん、出産予定日、のことだ。
 そんなものがもう分かるのか、と、そんなことを思った。
「派遣会社のあれで、まあたぶん秋頃かね、産休なりなんなり取ってもらうことになるわけだけど、彼女としては出来ればまたここに勤めたいって言ってくれたけどもね、そこまではまあ、来年、あるいは再来年のことは、残念ながらこちらとしても保証できるわけじゃないってことは、もちろん彼女も承知の上でね」
「・・・はい」
「・・・で、今のところ、結婚を、その、婚約も含め、白紙に戻したと、言ってました」
「・・・」
「・・・指輪を、してなかったね」
「・・・」
「婚約の話はまあちらっと聞いてて、そんときは、結婚してもこのまま旧姓で働き続けますよーなんて、言ってたんだけどね」
「・・・そう、です、か」
「その、こういうのはあれだけど」
 そして課長は声を落とし、「堕ろすとかは考えてなくて、シングルマザーになる覚悟だって、言ってました」と。
「だからその、式はいつ?とか、旦那様は、みたいな話題は、まあ、少なくとも我々の間ではNGってことで、ね」
 島津さんには、彼女から直接言ったらしい。そして、それ以外にここまでの詳細を知ってるのは、今のところ課長と僕と、支社長と中山課長。しかしいずれはお腹が大きくなって分かってしまうわけで、そうしたらみんなその手の話題を悪気なく振ってくるだろう。
「まあ、そればっかりは仕方ないからね」
「それでも、ぎりぎりまでいてくれるんですか?」
「うん、むしろ、仕事がしたいって、言ってたね・・・」
 しばらくしたら、四課のメンバーにだけはそれとなく課長から言ってくれるということだった。
「だからまあ、お腹が目立ってくるまではとりあえずおれと、お前と、島津さんでね、出来るだけフォローしてあげて。つわりとかもあるだろうし、お前、重いもの全部持ってやれよ?」
「も、もちろんです」
 そこでSSの誰かが通りがかり、何となくお開きになった。
「そういうわけで、頼むな」
「はい」
「お前、何かひょろいからなあ。もうちょっと鍛えとけよ?ジュラルミンなんか十個くらい持てるように」
「十個は無理、っていうか、そのために鍛えるんですか・・・?」
「はは、いい機会じゃない、ねえ。そしたらまあ、万が一ってことも、あるかもしれないぞ?」
「え?」
「いや、彼女、結構お前を頼りにしてたからさあ。いやいや、わかんないよ?」
「わ、わかんないことないですよ」
 笑いながら課長は立ち上がって席に戻り、「遅くまで悪かったね」と振り向きはせずに言った。


・・・・・・・・・・・・・・


 佐山さんの話でちょっと頭が真っ白になり、自分の今の状況を見失った。
 何を考えて、何をしてたんだっけ。
 ・・・シングルマザー?
 指輪を撫でながら、あんなに幸せそうだったのに?
 婚約して、子どもが出来てなお、心は離れてしまうということ・・・?
 いや、きっと、子どもが出来たから、か。
 地下通路を少しゆっくりめに歩きながら、しかし、他人の人生だ、と思う。
 佐山さんが僕のことを好きで、子どもの父親になってほしい、なんて言われたら、自分のこととして真剣に考えるけど。
 今の時点で僕が、佐山さんの人生のあれこれについて考えても仕方がないし、考えるべきでもない。打ち明けられたからってちょっと踏み込みそうになっている自分が、気持ち悪いと思った。
 そうして遠ざけて、僕は僕のことをやろうと思って、ああ、黒井は<おねえさん>のところに行ったんだと思い出した。
 ・・・更に、足取りが重くなる。
 そうかそうか、もういいよ、よろしくやってくれ。ただ避妊だけはちゃんとしろよ?・・・お前なら、今日の今日でそこまでいっちゃうかもしれないし、何たって、ホテルで食事してるんだ。「部屋を、取ってるの」なんて言われて、ああ、あんなちゃんとしたホテルにコンドームなんて置いてないか。こないだ持ってないって言ってたし、そこのドラッグストアで買って、届けてやろうか・・・。
 売り場の前で、薄いだの、ゼリーがついてるだの、装着しやすいだの、黒井が好みそうなのを選んだ。何やってるんだと苦笑いしつつ、しかし、こんなものを手に取るのも久しぶりで、通りがかる人に「そういう機会がある人なのね」って目で見られるのがちょっとこそばゆい。いや、ないんですけどね。いや、見られてもないけどね。
 せっかくなので、機能性よりも、おねえさんが箱を拾ってじっくり見てしまった時にいやらしさのないもの、という視点で選んだ。するとやっぱりこの、ユナイテッドカラーズ・オブ・ベネトンでどうだろう。これなら間違いがないんじゃないか。たとえ今日出番がなくとも、別に腐るものじゃなし、鞄に忍ばせておけば、二回目、三回目のデートで役に立つかもしれない。
 じっくり見てしまった手前、棚に戻して帰るのも何だか微妙な感じになって、もうえいや、で買うことにした。別に、黒井にあげなくたって、僕にだっていつ何時そんな機会が訪れるかもしれないし!

 いつも買ってるから慣れてます、という顔もたぶん出来てなくて、ちょっと太めの女性がそれを紙袋に入れ、それから普通のビニールに入れてくれる間、ひたすら目が泳いでしまった。用もないのに何を買ってるんだ?
 店を出て、黒井がまだいるであろうホテル方向か、大人しく駅に行くかと迷い、とりあえず携帯を取り出した。会社ではサイレントモードにしてるけど、まあ、まさか「ねこ、ゴム買ってきて!」なんてメール、来てるはずない・・・。 
 ・・・。
 えっ。
 着信?
 留守録?
 く、黒井彰彦?
 おいおい、いつ?ついさっき?もう今々で必要なわけ!?ってゴムの話なわけないか・・・。
 僕はとりあえず留守録を聞きながら、ホテル方向に歩き出した。


・・・・・・・・・・・・・・


 留守録を二回聞き返すけど、どうもおかしな様子で、要領を得なかった。
 誰かと間違えてる?それにしても不自然だけど。
 それは会話の途中から始まっていて、「・・・んとですか、ああ、それはちょっとまずいです、か。すいません。・・・分かりました、それじゃすぐに・・・」とか言っていた。誰かと話している最中に、押し間違えて僕に電話がかかってしまった?でもたぶん例の食事の最中だろうに、女性とするのがこんな会話?それとも、得意先から呼び出されるか何かして、食事はナシになった?
 走りかけていた足はやがて止まって、携帯を見つめてため息をついた。
 まあ、少なくとも、喘ぎ声とともに避妊具を要求する声ではないんだし。
 これを聞いた上で僕は何をどうすることも出来ないし、出来ることといえばかけ直して何だったのか訊くことくらいけど、何だかそれもためらわれた。
 本当に何かの用事なら、またかけてくるだろう。
 サイレントモードを解除し、一応着信音量を最大に設定していると、どこからか「ああーーっ」という叫び声。変な人がいるな、と思ってきびすを返し歩き出すと、誰かがこっちに走ってくる気配・・・。
 とっさに、ナイフが脇腹に突き刺さる準備と、それから、何か応戦出来るような、折り畳み傘でも出すか?って思考をめぐらし、どん、と後ろから抱きつかれたら、肘打ちと、それから第二段で握った携帯をその顔めがけて突き立てる・・・。
「・・・あっぶな!!」
「・・・わ、わあ!な、なに、お前・・・」
 途中で力を抜いたら手のひらから携帯がすっぽ抜けて、地下通路をすべっていった。
「な、何すんだよ、なにすんだよ!!」
「だ、だって、だって、お前だって、思わない・・・!」
「馬鹿、ばか、俺だよ。お前来てくれたんじゃないの?俺を助けに来てくれたんじゃないの・・・?」
 黒井は鞄を落として僕に抱きつき、「ひいい」と変な声を出した。僕はその体温で腹が透けてしょうがなかったけど、それより先に、いろんなランプがついた。
「おい、クロ、何があった。やっぱり変な組織だった?脱法ハーブとかじゃないだろうな。拉致されかかったりしてないか?新宿警察署、すぐそこだ」
 抱きつかれているのを断腸の思いで引きはがし、両腕をつかんで、「顔は覚えてるか?早くしないと似顔絵が作れないし、何か、証拠になるものとか・・・ああ、携帯でそれを録音しようとした?でも相手の声は入ってなかったよ・・・。他に、何か、写真とか・・・」、しかし黒井は「・・・そんなじゃないよ」と横を向いて拗ね、「でも怖かったんだ」と言った。
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