黒犬と山猫!

あとみく

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今を生きる黒犬、過去からたどる山猫

第155話:ひとりの時間

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 電車の中で、黒井は黙り込んでいるし、僕は望月にメールを打たなきゃならないし、でも、それでもあの場でそのまま見送るよりはマシだったと自分に言い聞かせた。黒井は別に不機嫌というわけではなく、ただ、ずっと少し遠い目をしていた。<自分の力>のことを考えているのだろうか。
 道なき道を歩いたら神社に着き、そこで手のひらに舞い降りた桜を強引なやり方で奪い取り、しかしそれが黒井にとってどんな意味を持つのか、推し量ることはできない。僕は黒井が欲しいのなら何だってあげたいと思うけど、「欲しい?」「うん」「じゃああげる」というやりとりでは、何かが違うのだということだけは理解した。・・・ならどうすればいいかと言われても、分からないけれど。

 電車は、あっと言う間に桜上水に着いてしまう。ホームに入る頃「じゃあね」と微笑まれて、せめて改札口まで見送ることすら、はばかられた。明日はどうするの、の一言すら切り出せないまま、ドアが、開く。僕の中に、さすがにゆうべあそこまでしておいて、こんな、「じゃあね」で終わるような別れはしないよね、と信じている僕がいて、みっともなく騒ぐなよ、と牽制した。そしてその直後に、あそこまでって何だよ、何様のつもりだよ、とまた別の僕。告白も出来ず、「好き」を受け止められないなんて言われたくせに、お前はあいつの何だっていうんだ?お嫁さん?笑わせるな。あいつが「じゃあね」で一ヶ月留守にするなら、それだけの存在だってことだろ。いい加減思い知れって!
 結局黒井は一人で降り、ホームから、去りゆく電車の中の僕を無言で見送った。手も振らないし、笑いもしないけど、でも、ただ、見てはいた。微かな、ほんとうに微かな笑みで、確かに僕を見ていた。
 拒否されたわけでもなく、喧嘩したり、怒らせてしまったわけでもないけど、心には重い塊。まだ明日と、一応月曜の夜もあるじゃないか、と自分を励ましても、慰められもせず、どうしていいかも分からなかった。
 ・・・僕が、一喜一憂しすぎなんだろうか。気分も、選択も、意思さえも黒井に依存して、「自分の生き方とか、ないのかよ」とつっこみたくなるけど、今のところないからしょうがない。
 そうして自分の駅に着いて、降りて、思いっきり肩を落としてふらふらと歩いた。でもそうして一人になって、黒井が見ていないと思ったらどれだけダメでもいいかと思って、少し気が楽になった。部屋に帰って久しぶりに自分の家の空気を吸い込み、巣穴に戻ったような安心感があって、気が抜けて、へたりこんだ。

 シャワーを浴び、きちんと歯を磨いて、寝間着に着替えて布団に入った。ほんの一日ぶりなのに、布団に入って一人で眠るということが、寂しいというより新鮮に感じるほどだった。
 耳にはまだ、花見の時の喧噪と残響がこびりついている。うとうとしながら、耳鳴りのようなそれに身を任せて、一人であることを感じた。黒井に寄っかかっていないと何者でもなくなってしまいそうな僕が、一人で寝ようとしている。ともすると崩れてしまいそうだけど、見慣れた天井を眺めて、踏みとどまっていた。
 やがて、少し、地に足が着いた。
 会社の人たちにも、黒井にも依存しない、自分だけの自分。そういうものがあるとすればそれは今のような瞬間で、目を閉じて眠りにつく前にはいつも拷問シーンとか、気色の悪い死体とかが幻聴とともに浮かぶような、通常運転のフラットな僕。
 ああ、まな板の鯉で、その先にはあの寂寞が待っている、本来の僕だ。
 急に、この家を出た金曜の朝までのことだけでなく、今日のことさえ遠く感じられた。っていうか、何もかもが遠い。会社とか、仕事とか、何だっけ?三月とか、四月とか、いつのことだっけ・・・。全てのことからぎゅうんとすごい速さで遠ざかっていくような、その加速まで体で感じるのは、たぶん寝る前の、階段から落ちるような痙攣の感覚と同じなんだろう。部屋の静寂と反比例して耳鳴りがぐちゃぐちゃと喋りはじめ、花見の喧噪が再生される。でも、そこから遠ざかっていって、また静寂。黒井のイメージと、身体がキモチイイという感覚。でもすぐに他のイメージにかき消されて、海の波のうねりで上下したり、砂浜に打ち上げられて濡れた砂をつかんだり、満天の星を見たりする。それが桜の花びらに変わって、降ってくるそれを舌に乗せ、そうしてあいつの舌が入ってくる。裸で抱き合ってキスをして、息づかいまでリアルな妄想。それも一瞬で消えて、また砂浜に一人で寝ている。そして、布団で一人で寝ている。手のひらでシーツを触って、砂じゃない。僕はただ、この身体にこの脳みそが載っただけの僕だ。
 このままでいたい。
 会社員としての自分なんて、どうでもいい。
 名前のついてない、ただ一個の存在でいたくて、そしてあいつと向き合いたい。千葉とかじゃなく、名もない砂浜で海を見ながら、一緒にいれたらいい。時間なんか経たなくて、現実のことなんかどうでもよくて、そして、お前がお前を取り戻すのを、一番近くで感じていたい。
 うっとりするけれどもそれは現実にはならないから、ただ夢想する。胸から、身体が満たされていく感覚。一度大きく息をして空気を肺に満たし、満ち足りた感覚をだめ押しで、あらためて眠りについた。現実逃避かな、現実逃避だね・・・でも、明日は日曜なんだし、今だけ、いいじゃないか。ここは僕のうちで、僕の布団で、僕は一人なんだから。僕の脳みそで、僕が見たい夢を見たって、いいはずだ。頭蓋骨をかち割られるまでは、この頭の中は、僕だけの世界だ・・・。


・・・・・・・・・・・・・・・


 遅刻かと思って携帯を見て日曜日だと確認し、二度寝した。昼頃起きて、洗濯をし、米を炊き、押し入れにしまいこんだものを引っ張り出して、コンポにかけた布も取った。クリーニングに出すスーツをまとめ、出かけようとした玄関で靴を磨く。心拍数が上がることのない、実にフラットな日常。黒井のことを忘れたり封印するのでもなく、かといって会えなくなることを考えて泣きわめくでもなく、ただ少し遠く、好きだなあと思っていた。自分に好きな人がいるという、当たり前のような、あり得ないような、でもやっぱり満たされる感覚。黒井が、何か欲しくなれば自分の力で奪い取る、そういう力があるってことを容易に信じられるから、敢えて何かしようという気も起きなかった。
 今日になってようやく、あいつは別に、急に心変わりして僕を遠ざけたりしたんじゃなくて、ただ、千葉に行く前にもうちょっと自分と向き合いたかっただけじゃないかって、そう思えた。
 毎日、海に行くって、そう言ってたよな。
 何となく二人で海を見たような気がして、うん、それは昨日の夢想か。っていうか逆に、海の話を聞いたからそんなことを想像したんだろう。

 クリーニング屋で内ポケットから封筒が出てきて、何たる失態。さすがに冷や汗が出て、焦った。落としたりなくしたりしてたら、どうするつもりだったんだ。
 上から触って、たぶんキーホルダー的なものはついていないから、何か、絶対になくさない、なくせるわけないようなものをつけておかなくては。万が一のことがあっても、GPSとかがついていて探せるような装置とか、ないのかな。携帯みたいに鳴らせば部屋のどこにあるか分かるような・・・っていうか、携帯につければいいのか。

 スーパーに寄って、久しぶりの買い物。あ、いや、昨日黒井の家でスープを作ったか。それも何だか遠い感じがした。
 増税前だとかいって、缶詰だとかカレールーとか、ついたくさん買い込んでしまった。まあ、四月に入ればさすがにこの連日の残業もおさまってきて、自炊出来るだろう。残業してたことすら、まるで去年のことみたいに感じるけどね。

 夕方、遅い昼食だか早い夕飯だか分からないものを食べた。
 トマト缶を買ったので、とろけるチーズで久しぶりのトマトチーズリゾット。春キャベツなんか入れたりして、生のパセリも散らして、ああ、うまいじゃん。
 食べながら、黒井のことが気にならないかといえば嘘になるけど、でも、やっぱり、あいつのことを信じられた。・・・なんて言ったら偉そうだけど、でも、あいつは大丈夫だと思ったし、そしてあいつが大丈夫なら僕も大丈夫だった。
 洗い物をしていると、玄関からノックの音と、「クロネコヤマトでーす!」。あれ、何か通販で頼んでたっけ?「はーい!」と大声を出し、手の洗剤を流して拭く。もう一度ノックが聞こえるので、「はい!!」分かってますから!今開けますから!
 ドアを開けようとして、ふと何かが気になって、覗き穴から覗いた。
 ・・・まさか。
 クロ、じゃ、ないよね・・・。
 しかし、穴からは光も射してないし、何も見えなかった。え、塞がれてる?
「あの・・・荷物、誰からってなってます?」
 ドア越しに呼びかける。一瞬の沈黙の後、「えー・・・、えっと、クロイさん」と返事。その名を聞いて反射的にドアノブに手を掛けるけど、でも、普通差出人のこと、ちゃんと様付けしないか?
「それ、誰宛てになってます?」
「・・・山根様宛てです」
「フルネームで読んでもらえます?」
「・・・やまねこうじさま」
「あの、おたくクロネコさんじゃないでしょう」
「・・・え、な、何で」
 僕は玄関を開けて、「クロイヌさんでしょう」と、目の前に立っている男を見た。スーツ姿のその男は、「・・・あたり」と言って、嬉しそうに笑った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「い、いらっしゃい」
「うん」
 黒井は玄関に入って、でも、そのままそこで突っ立っていた。
「え、えと・・・?」
 何だろう、玄関先で済むような、用事?
「ねえ、何か気づかない?」
「え・・・?」
 キッチンから振り返って、黒井を見る。ああ、髪がさっぱりした?それから、見慣れないちょっとお洒落目のスーツ。鞄はいつもと同じで、えっと、あとは、靴がピカピカ・・・。
「・・・す、すごく、お洒落だね。どこ行くの?」
「もうちょっとさ、絶賛とかないの?上から下まで新調して、美容院まで行って、そんだけ?あと、ズボンが細くてかがみたくないから、これ、やって」
 そう言って下を見る。・・・靴ひもを、とれってこと?
「・・・」
 まあ、玄関は狭いし、腰掛けるスツールだとかもないし、ここで買ったばかりのスーツの尻が裂けても、かわいそうだし。
 僕は黒井の前に片膝ついてひざまずき、恭しく、その上品で高そうな革靴のひもを解いた。色は、いつものより少し明るめのブラウン。靴磨きみたいに、足を置く台があればもうちょっと様になるんだけどな。
 両方ひもを解いて指紋をつけないように少し緩め、でもこれ、いつもならかかとでかかとを押さえて乱暴に脱いじゃうけど、こんな新品、どうやって脱ぐんだろう。片方ずつ、手で脱がすしかないか。僕はその右の足首を持って、ああ、台なんか、自分でいいか。
 左膝を台にして靴を直接載せた。瞬間、ためらうように足が引っ込みそうになるけど、そのまま足の重さが乗って、一瞬の、無言の応酬。・・・僕はこれでいいし、お前も、これで、いいってことだ。
 そして、かかとの部分の靴底を押さえ、足首を引っ張り上げた。その足が僕の隣に着地して、次は左足が浮く。それを捕まえて同じように脱がせ、靴を揃えて、綺麗に並べた。革の匂いがして、傷一つない。磨いたばかりとはいえ、底が磨り減った僕の靴なんか霞んでしまう。
 僕が靴に見とれていると、「お、おい、俺より靴がいいの?」とちょっと戸惑いがちな声。ま、まさか、そんなこと。
「い、いや、いい靴だなあって」
「それより、いい匂いしてるけどさ、あ、これ久しぶり」
 鍋の蓋を開け、僕の明日の朝食を発見する。おたまですくって口に運ぶけど、ちょっと、垂れるって!
「おい、だめだめ!」
 すんでのところでおたまをひったくる。
「何だよ、いいじゃん」
「スーツにこぼすだろ。早速染み作ってどうすんだ」
「あのー、俺、別に服と靴が歩いてきたんじゃないんですけど」
「・・・じゃあ上着はハンガーに掛けて。っていうか、座り込むならズボンも脱いで。っていうか、トマトの染み作るくらいならシャツも脱いで」
「身ぐるみ剥がされるの?」
「お洒落してうちなんか来るな」
「しょうがないよ。明日この格好で行くんだから」
「・・・本社?」
「そう。そんでそのまま、向こう」
「・・・え、もう、あし、た?」
「・・・前泊、して、準備。もう荷物、送ってあるから」
 上着を脱ごうとするので、後ろから脱がせてやった。裏地がすべすべで気持ちいいし、脱いだばかりの体温があたたかい。
 カットしたばかりの襟足から、ふんわりとシャンプーか整髪料の香り。薄い藤色っぽく見えたシャツは、近くで見ると青とピンクっぽい二色の細いストライプ柄で、ネクタイとよく合っていた。間違っても僕がしないような、紫とピンクの中間くらいの色の、プラムみたいなつややかなネクタイ。
 ・・・そうか、明日にはもう、いないのか。
「何か、俺なんかお手伝い係なのにさ、新人に混ざんないように色付きのシャツにしてねとか、別に、この年で混ざんないよ」
「・・・わかんないよ、みんな、老け顔かも」
 んなわけあるか、と黒井は笑い、そして、っていうか俺老けてる?と焦った。
「はは、そんなことないよ。ちゃんと、大人っぽい」
「ふん、お前は童顔」
「わ、悪かったな」
 それも脱いで、とシャツを指さし、この部屋に不釣り合いなお洒落な人が解体されていく。うん、服と靴が歩いてきたんじゃなくて、ちゃんとお前と話したいよ。いや、すっごく似合っててどきどきしたし、惚れ直したけど。

 結局いつものトレーナー下のズボンにパーカーを羽織らせて、リゾットを食べてるのはいつもの黒犬だった。
「あのね、俺風呂に入りに来たの」
「・・・は?」
「うち、何か、詰まっちゃって」
「へ?」
「何とかしといてね」
「・・・」
 食べ終わった黒井にコーヒーを淹れてやり、ヨーグルトにドライフルーツを入れて出したら、それも食べた。こんなにゆっくりもてなすようなことをするのは、初めてかもしれない。来ると分かっていれば、ハーゲンダッツの期間限定サクラ味のアイスとか、買っておいたのに。
 しかし、そう言うと、「だから分かってない!」と憤慨された。
「前もって決めたら、そうなるって、当たり前じゃん。俺はその時その場のその気分でやりたいことがやりたいの!」
「で、でも、ちゃんと決めてその通りにやれば・・・」
「決めて、出来て、そんでどーすんの?」
「そ、そしたら、達成感もあるし、それに次そうなった時スムーズに出来るし、基礎が出来たら応用だって・・・」
「ない、ない!次も基礎も応用もない!ただその時の気分がよくなるかどうかであって、それ以上のこと何も考えることないよ」
「でも、出来なきゃ気分もよくならない」
「いいんだよ、ハズレがないならアタっても嬉しくない。もう分かってることに挑戦しても意味ないよ。だから、お前が俺のこと」
 ・・・。
「・・・?」
 突然言葉は途切れて、テーブルで向かい合い、見つめ合ったまま沈黙。・・・え、お、俺が、お前のこと、なに・・・?
「・・・何でもない」
 急に黒井は目を逸らし、視線を泳がせ、曲げた人差し指で唇をせわしなくなぞったりした。咳払いをして、「べ、べつに・・・」なんてつぶやいて、自分の足やズボンをさする。ヨーグルトのスプーンを上げて、下げて、また上げて、でも食べない。そしてため息。わけもなく僕も恥ずかしくなって、「え、えっと、風呂わかしてくる!」と、立ち上がった。それが余計におかしな雰囲気を際立たせて、僕は黒井の言葉を反芻しながら、急いで風呂場に駆け込んだ。一瞬、ほんの一瞬だけちらりと振り返ったら、黒井は手のひらで口元を覆って、焦点の合わない目を見開いていた。
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