黒犬と山猫!

あとみく

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暗闇の邂逅

第148話:直接伝わる、心臓の音

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「そ、っか、よかったね」と黒井は言った。
 それから、「え、でも、どうやって?」とか、「いいなあ」とか、「羨ましい」とか「ずるい」とか「何で?」とか言った。ああ、そうだ、また僕は一人で満足に浸って、お前を見ていなかった。
「ねえ、お前は今どんな感じなの?それって、やっぱり、・・・」
 言葉は途切れ、んー、とか、短いため息なんかが漏れた。うん、的確な形容詞はない。たとえ取り戻したとなっても、流動的で、定まらない。
「うん、まだ、全然、何だろう、情緒不安定は続いてるけどさ。・・・未来がある、生きてる意味がある。・・・ははっ、クサいね。何言ってんだろう。恥ずかしいな」
 その本人に向かって、言っちゃっている。でも、羞恥心の向こうに、少し快感が見えた。ああ、全部言ってしまいたい。言ってはいけない、絶対だめだって思ってたこと、みんな・・・。
「・・・そっか。そうなんだ・・・。・・・ねえ、それ、何か、きっかけ、とか・・・」
 途切れ途切れの、搾り出すような、努めて明るい声。
 でも、最後はほとんど聞き取れない尻すぼみ。
 核心に近づいて、その悲痛な声で、少し分かった。
 そんな、自分自身の、自分だけの欠落を、欠陥を、人に訊かなきゃならないなんて。
 「教えて」って頼むのが、どれだけ屈辱的か。
 ・・・しかも、軽蔑されて、顔も見たくなかった俺、なんかに。
 ・・・お前は、強いよ。
「・・・きっかけ、きっかけは、その、何でもないことで・・・、ただ座って、ぼうっとしてて、通りを眺めててさ、その時、散歩中の・・・」
 黒い、犬を見て・・・。
 胸がどきどきして、でも、あれ、なんか違うって思った。
 確かに、あの犬がそれを呼び戻した。「クロ」って名前が引き金になって、お前の記憶が溢れてきた。
 でもそれは、ただの、きっかけだ。
 きっと犬じゃなくても、何でもよかった。
 その前にもう、準備は出来ていた。あとは何かのきっかけでそれが起こるだけだった・・・。
 あの日のことを思い出す。銀座の人混みを歩きながら、そう、異動って何だって、うん、利根さんからその話を聞いて、「黒井さん」って呼ばれて、異動は僕じゃないって思い当たった瞬間から、緊張とめまいが始まって・・・。
「そうだ、それで、本当にそれを失うって思ったら、分かってないはずなのに、思考には出てこないのに、奥の方で、たぶん本気で焦ったんだ。残ってた最後の自分が、反応したんだ。それで、どんどん膨らんで、でも俺はわかんないから意味も分からずどきどきして、何で、何でこんな焦って、緊張してんだって・・・」 
「・・・」
 息を詰めて、聞いている。僕も、止まらない。
「それで、引き金が引かれたらもう、どうしてこんなこと忘れてたんだって、今までいったい何してたんだって・・・」
 あのホテルの部屋の、天井が蘇る。そう、お前のこと思い出したのに、でも、いなくなるんだって、泣いた・・・。
 沈黙が続くので、黒井が「・・・うん?」と促す。
「でも、それを、思い出したんだけど、その時はもう遅くて・・・」
「うん?」
「それで一瞬絶望したんだけど、でも、違うって分かって・・・」
「・・・」
「それから、でも、いったん寝たらおさまったりして、でもやっぱりそれじゃだめだって・・・」
「・・・」
「な、何言ってるのかわかんないよね。うん、でも、取り戻したって言ったけどさ、まだ本当には取り戻してなくて、ただ、ああ、もう諦めるって決めたからいったん落ち着いて・・・」
 あの日の、異動の話を聞いた瞬間から記憶をたどって、そして、ここに来るときの葛藤とか、インターホンを押した時とか、玄関に入ったときとか、うん、ほんの一瞬前までずっとぐちゃぐちゃだった。今、暗闇が訪れて、お前が聞いてくれて、怖い夢を見たあと背中を撫でてもらってるみたいに安心してるだけだ。
「い、今の、ほんのちょっと前までずっとまだぐちゃぐちゃで、うん、もう遅いのか、諦めるのか、それも決められなくて、ただここに歩いて・・・」
 だめだな、思考がそのまま推敲もせず口に出ちゃってる。盛大な独り言だ。記憶をたどって、<今>にまでたどりついて、タイムシフト再生がリアルタイム放送に追いついたから、ここからは、もう、実況生中継だ。
「お、お前が今、聞いてくれたから、落ち着いてるんだ。こうやって、誰に喋ってんのかわかんない真っ暗な中で、自分のこと吐き出して、聞いてくれる人がいて、まあ、見えないけどさ、いや、見えないのがいいのかもしれないけどさ、それで落ち着いたから、こうして話せるくらいになったんだ。ん、ああ、何か本末転倒だな。うまく喋れないよ。とにかく、今は落ち着いてるんだけど、でも取り戻した何かは、全然腹の底におさまってはいないんだ。また拡散しちゃうのか、どうなのかな、でもその方がいいのか、どうなのか、お前に訊かなきゃわかんなくて、それでここに来て・・・」
「・・・え、俺に?」
「・・・うん。あの、クロ、そこに、いるの?」
「いるよ」
「俺、そっちに・・・」
 リアルタイム生中継は、もう台本がない。
 思ったことを、いや、思う前の衝動を、何も経由せずに、行動に移し、・・・カメラを回して、何も映らないけど撮り続けて、クロの今を、撮らなくちゃ・・・。
 足を動かして、何かを倒しながらずらしていって、どうにか膝を床につける。四つん這いの体勢で、手探りでいろんなものをよけて、そこに足を運び、またよけて、少しずつ進んで・・・。
「ど、どうしたの?俺に、何?」
 暗闇の中近づいてくる僕に、少し緊張したような、戸惑ったような声。ああ、そこに、いるんだね。
「俺、お前に、訊かなきゃなんなくて・・・、俺が、どうしたらいいのか、教えて、もらわないと・・・」
「え、何、どういうこと?」
 声が、どんどん、近づいた。
「お前、いるの、この辺?」
「・・・ここに、いるよ」
「あ、これ、足?」
「そ、そうだよ。く、くすぐったい」
「何かお化け屋敷みたいだ」
「お前、お化け?」
「・・・どうかな。真ん中だ」
 人間でも、お化けでもない。
 日常でも、非日常でもない。
 取り戻したけど、まだ取り戻せてない。
 その身体を、温かい体温を探り当て、肩や、胸を、見えないまま撫でた。そして、髪を触り、頬に触れた。衣類の山みたいなものの上で、半分壁にもたれて、変な体勢で横たわっているみたいだった。
「教えてほしいんだ。俺がどうしたらいいのか、お前に決めてほしい」
「き、決めるって、何を・・・」
「自分で決められなかったんだ。何を選ぶにもどっかの自分に邪魔されて、一歩も進めなくて、それで・・・」
「な、何で、俺、なの・・・?」
「え、それは・・・」
 そんなの、え、何でって・・・。
「お前しか、いないから。だって俺が取り戻したのって・・・」
 カチャン。
 どこか、耳の奥で音がして、生中継のカメラの電源が落ちた。目が慣れてうっすらとぼやけていた輪郭すら残像になって消えていき、もう何も映っていない。
 どこかとどこかが直結で繋がれ、それは、発音される。
「俺がなくして、取り戻したのって、お前なんだよ、クロ。だから、お前しか、いないんだ」
「・・・おれ?」
「お前がいない人生なんか、戻れないし、戻りたくないし、意味がないんだ。お前と会ってから、俺は変わったんだよ。俺、お前のこと、ずっと・・・」
「ちょ、ちょっと、ま、待ってよ。な、何のこと?何か、え、・・・お前、何を」
「言わせてよ。ずっと、ずっと言いたかった。俺、お前が」
「だから、待てって!」
「邪魔するなよ!もう言わせてくれ!」
「だめだ!言われても、言われても俺にはわかんない!だから、待ってよ。お願い、言わないで」
「わかんないって何だよ。やっぱり、・・・だめ?そんなの、ない、か。そりゃ、そうか」
「違うよ!そうじゃない、そうじゃないけど、だめなんだ。頼むから、・・・」
 ・・・だなんて、言わないで・・・。
 ・・・。
 すき、とは、はっきり聞こえなかった。
 でも、僕はやっぱり、振られたみたいだった。


・・・・・・・・・・・・・


「・・・クロ、お前がそう言うなら、言わないよ。それも一つの道だ。決めてくれてありがとう」
「・・・俺の方が、どうしていいかわかんないよ」
「迷惑かけてごめん。かけないように、って思って来たのに、やっぱりかけちゃってるな。どうしてだろう、いつもならちゃんと抑えるのに、抑えられなくて・・・。この一ヶ月、やっぱりちょっときつかったみたいだ。話聞いてもらって、全部吐き出して、ずっと我慢してたものが・・・うん、緊張の糸が、切れちゃったんだな」
「お前は、ずるいよ。また一人で、そうやって」
「うん。ごめん。でも今はさ、お前の気持ち、少し分かったって思ってるからさ。だから、いつもみたいにうなずいてるだけじゃなくて、ちゃんと聞けると思う。お前の話、聞かせてほしいんだ。どうしてこんな、何を悩んで、こんなに・・・」
 僕は手探りで、その頬と首筋を撫でた。少しざらついて、乾いている。黒井は身動きが取れないまま、息を詰めて、少し顔を背けた。ああ、嫌か、気持ち悪いか、俺。
「・・・いいんだ。帰ってくれって言われたら、帰る。何とか立ち上がって、電気もつけてくよ」
「・・・」
「最後まで、迷惑かけどおしで・・・」
「・・・最後って、なに」
「今分かったよ。俺はここに、それを、さっきのことを言いに来たんだ。でもそれって、ただの自己満足でさ、だからやめようって、思ったのに。・・・お前が支社に戻ってくるとき嫌だろうから、会社も辞めて引っ越そうって、うん、悪いことしたよ、本社に行くほど嫌だったなんてさ、俺がどっかに移ればよかったんだ。だからちゃんと、今度は・・・」
「や、やめてよ、何の、話・・・?」
「ああそうだね、言っちゃったら、そんなの、嫌だよね。自分が辞めさせた、みたいになるのも、気分悪いよね。だめだな、本当、自分が正直に言えばいいと思って、人のこと何も考えてなくて、思ったことそのまま喋っちゃったりしてさ。しかも今だって言い訳がましくそれも喋って、ああ、もう黙ろうか。その方がいいね」
 しばらくの沈黙。そして、がさがさと、黒井が体勢を起こす気配。
「俺を・・・、また俺を、軽蔑してんの?」
「え?」
「俺を嘲笑ってんの?俺がそれを・・・お前のそれを、受け止められないのを、・・・もう諦めて、やっぱこいつだめだって、見捨てんの?」
「・・・え?」
「空っぽな俺の中には、落っこちるだけだよ。そんなこと言われたって、きっとだめだ。怖い、怖いよ。それって怖いんだよ!」
「クロ・・・」
 黒井が僕の身体を探り当て、胸に顔をうずめ、すがりついた。いつも少し見上げたとこにいたお前が、震えて、必死にしがみついてくる。強引に押し倒されたり、気まぐれに抱かれたりする、その体温じゃなくて・・・弱々しく震える、子犬のような熱。
「お願い、俺だって、こんなこと話せるの、お前しかいないよ。周りに合わせないで、やりたいこと出来るの、もう、お前だけだ。責任感じてるなら、ちゃんと助けてよ。お前がぶっ倒れたらまた担ぐから、俺の、なくしたもの、・・・一緒に取り戻してよ・・・!」
「・・・クロ、そんなの、・・・そんなの」
「ねえ!俺だってこんな、恥ずかしいし、嫌だよ。自分の力で全部やるつもりだったよ。でも、物理やっても、何しても、だめで・・・あのね、俺だって、会社辞めるかって、思ってたんだ、お前に言われて・・・!」
「・・・え、な、何で」
「お前が言うから、もう何でもやってみるかって、俺、はは、プロフィール書いてさ、応募したんだ。そしたら通っちゃってさ、二次まで行って、でも蹴って来ちゃったけど」
「え、何?応募って、なに?」
「芸能、事務所だよ。お前が、役者やればって、言うから・・・」
「・・・」
「何か、映画の主演の、新人オーディションだとか、でも他のやつみんな俺より全然若いんだよ。もう、プロフィールに年書くのも嫌でさ、俺、こんな年まで何やってんだって・・・。あの演劇部から何年経って、また芝居やろうとしたって、無理だろって・・・、でも、会社にいてもしょうがない気がして、そしたら千葉に行けとか言われて・・・」
「・・・」
「俺、もうすぐ三十だよ。別に年なんか気にしてないけど、でも、急に、怖くなった。オーディションだって二十代までって制限あったし、たとえ何かやりたくなっても、もう出来なかったらどうしようって、でも焦ったって何にも出て来やしないし、どうしようも、ならなくて・・・!」
 そんで、これだ・・・!と、黒井は自嘲気味に怒鳴り、手探りでそこら辺にあった何かをどこかへ投げつけた。壁か何かに当たって、どん、ガシャン、と鋭い音が響く。
 残響で、少し、耳鳴りがした。
 黒井が顔を上げ、鼻をすすって、しゃくりあげ、息をつく。
 その頭が離れた胸元が、Yシャツが、ぐっしょりと湿っていた。
 マフラーに垂れたよだれ、じゃなくて、今度は、涙と鼻水。
 いつもは僕がみっともなく泣いていたけど、お前が電話とかじゃなく、目の前でこんなに泣いてるのを見るのは、もしかして初めて?あ、いや、見えないけど。
「・・・そんなに、泣くなよ。かっこいい顔が台無しだ」
 僕は何とかズボンからハンカチを引っ張り出し、手探りで涙を拭ってやり、鼻を拭いた。黒井が受け取って、遠慮なく鼻をかんだ。
「・・・別に、かっこよくなんかない。そんなの、言われても嬉しくないし、俺の、力じゃない」
「・・・でも、かっこいい」
「顔なんか、どうでもいいよ。ほら、今だって見えなきゃおんなじだ。俺は、ちゃんと、ここに、それが欲しいんだ」
 黒井はまた僕の手をとって、その心臓に当てた。荒い息をつきながら、やっぱり、強く鼓動している。酸素を求めて必死に水面に向かい、手を伸ばしてもがいているみたい。
 見えないままこんなに近くで向かい合って、手や足が触れていて、本音で話して、だんだん、僕の取り戻したものが腹にしっかりと落ちていくのが分かった。こうしてお前っていう存在がここにいて、この部屋まで来れたから、僕は取り戻すことが出来た。でも、お前のそれはまあ僕ではないわけで、それが明確な、人やモノみたいな対象じゃないのなら、どうしてそれを霧散させずに追い求められるんだろう。
「クロ、お前はどうして、そんなに強いの?俺は、ひと月で、こんなのもう耐えられなかった。どうして走り続けられるの?何がそこまでお前を駆り立ててるんだ?」
「・・・それは、何でだろう、わかんないよ」
「俺は、もう、嫌になって諦めてたよ。人生なんてこんなもんだった、って。どんどん自分が嫌いになって、うん、でも元々自分を好きだったこともなかったって・・・」
「お前は、自分が嫌いなの?」
「嫌い、・・・うん、好きでは、なかった。何をやってもうまくは出来なくて、斜に構えて、理屈や皮肉ばっかりで、でも行動には移せなくて。・・・あ、あの」
「うん?」
「だから、お前に会ってから、それが、もうそれどころじゃなくなって、・・・何だろう、自分が自分でいることが、気持ちよかったんだ」
「・・・ふ、ふうん」
 黒井が少し照れたような声を出したので、急に僕も腹が透けて、照れた。
 ほ、本人が、見えないけど、いるんだよな。
 照れ隠しなのか、黒井ががさがさと動いて、何か軽いものを戯れにどこかに放り投げた。一拍遅れて、遠くでカサリと音がする。
「お、俺はさ、たぶんナルシストなのかな。自分は出来るんだって信じて疑わない自分がいるんだよ。それが当然だって。そういう力が、俺にはあるんだって。だから、出来るはずなのに、どうしてだって焦りばっかりどんどん大きくなって、お前みたいに、元々こんなもんだったなんて思えなくて、まあ、強いっていうならそれが強いんだ」
「・・・そっか」
「ただ、俺も、どうしてここまで諦めが悪いんだって、しがみつくんだって、それはよくわかんない。もう他のこと始めろよとか思うけど、だめなんだ。たぶんお前が呆れるほど、もっともっと、俺は<そう>なんだよ。お前に、ホテルで、あんなことしちゃうくらいには、ね」
「・・・っ、そ、その、あの時は、・・・ごめん」
「いいよ、別に・・・」
 ふわ、と、また湿った場所に黒井が戻ってきた。
 あの、忘年会の、スーツの裾をつかまれた瞬間と同じものが駆け抜ける。
 心臓が跳ね、それがたぶん、伝わっている。
 僕はゆっくり、ためらいながら手をその髪にのせ、そっと頭を、撫でた。
 嫌がられたらすぐに離そうと思ってたけど、そういう素振りはなかったから、左手で背中をさすった。
「ここで、寝ちゃいそう、だ・・・」
「いいよ。足がつっても、こうしてるから」
「・・・お前、どきどきしてる」
「そりゃ、そうだよ・・・」
「・・・っ」
 おでこをぎゅうと押しつけてくる黒井を、好きで、好きで、たまらなかった。更に心臓が速くなって、それが僕の想いを直接伝えているようで、恥ずかしくもあり、快感でもあり、・・・そして、切なくもあった。
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