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怒涛の決算期
第139話:異動
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有楽町。
東京国際フォーラム。
変わる税制と会計制度の云々・・・というサブタイトルがついただだっ広い会場で、出展者側はどこから入るのか、他の人がつけてる腕章や首から提げてるカードはどこでもらうのか、本社の利根さんに聞けばいいと思っていたのだが、そういえば顔を知らないんだからしょうがなかった。うちの社員章をつけていたって見えるわけもない。男性か女性かすら分からない。
しばらくうろうろしていると、何となく見覚えのあるシルエットが見えた。あれ、うちの人?そういえば水曜の午前って誰が来るんだっけ。っていうか昨日の僕の分は誰か代わってくれたのかな。
・・・納品、誰が行ったんだろう。
別に、いいんだけどさ。
でも、一日展示会で羽根伸ばして来いって、それ本当にねぎらいなの?もう余計なことしてくれるな的に遠ざけられたの?こういう風に疑心暗鬼になるから、会社の人間関係って嫌なんだよ。
・・・たぶん、違うな。分かってる。受け取る側の問題だ。前だったら、ちょっと気にしてもすぐ「どうでもいいや」ってうっちゃって、展示会も「うざいな」って、最低限顔出すだけであとは目立たないように抜け出して本屋に行ったり、自分なりに勝手にやっていた。課長に、会社の人に、こんなに依存してなかった。
そろそろ、そういう年齢っていうか、そういう位置になって、僕も自覚が出てきたってこと?・・・違うだろう。そんな殊勝なことじゃない。迷子で泣きそうになってるだけだ。自分がいない。
あ、あの人やっぱうちの人だ。元々水曜午前だった人?遠くてよく見えないけど、遠慮がちに手を挙げたら、こちらに気づいてやってきた。え、っていうか人ダブっちゃった?定員オーバー?なら帰って寝るけど。
「・・・お前、何でいるの?」
「え、あ、ああ・・・」
見たような人は、黒井だった。ああ、水曜一日入ってたんだっけ。
「・・・その、おはよう」
「あ、うん。いや、実は俺、昨日こっちドタキャンになって。元々午後だったんだけど、今日は一日行けって課長が・・・」
「・・・じゃあ一緒だね」
「あ、ああ。でももう一人は?そいつが来るなら俺帰るんだけどな。ん、でも午後は来なきゃだめなのか」
僕は思い出して鞄をあさり、菅野にもらった予定表を出した。水曜の午前中マルがついてるのは・・・あ、何だ横田か。じゃあ昨日だって聞こえてたはずで、知らずに現れるわけないか。
「さて。しかし利根さんって人を探さないと、どうしていいかわかんないな。何となくここで待ってりゃ、あっちから見つけてくれるかな」
「利根次長なら、知ってるよ。たぶんあの人」
「え、どれ?」
黒井は、ちょっと向こうで会場側のスタッフと話している、少しでっぷりめの角刈りのおっさんを指差した。
「ふうん、お前知ってるの?」
「いや、隣の部署だった人」
隣?隣って、本社の?・・・あ、そうか、こいつ本社から来たんだっけ。ああ、なるほど。
僕は利根次長とやらが話し終わるまでの間、微妙に間が持たなくて、適当に話題を振るけど「まあね」とか「そうかも」とか不発に終わり、あとは何となく会場を眺め回して過ごした。何だかその凛々しい顔に見られると自分がみっともなく思えて、なるべく顔を背けた。そのうち次長が何となくこちらを見つけ、今日の説明が始まった。
「えー、おはようございます。本社のITサービス部の利根と申します。支社の皆さんにはいろいろご支援いただきまして、お忙しい中どうもありがとうございます」
いえいえ、どうも、と恐縮し、頭を下げる。隣の黒井は平然と「それで?」って顔で説明を聞いていて、ああ、こいつこういうやつだったな、と思い出した。
「えー、今日はお二人と、それから、11時からまた西尾さんと、それから宮城さんにも入っていただいて、無事最終日を終えたいと思っております。えー、黒井さんと横田さんですか。お二人には・・・」
「横田じゃなくて山根です」と黒井。
「え?あ、そうでした?」
「急遽変わって」
「あ、そうなんですか。失礼しました、山根さんね」
・・・。
お、おい、別に横田だって何だっていいんだよ。これじゃお前が山根で僕が黒井みたいな感じで思われちゃってないか?・・・まあ、別にたった一日、どうでもいいか。
「すみません、じゃあお二人には・・・」
こうして結局<お二人>でまとめられるわけだしね。向こうからすれば日替わりで現れるお手伝いの<支社の人>なんだから、横田でも黒井でも、今更訂正することもないか。それにもし黒井と本社で顔見知りなら、勘違いしてないんだろうし。
結局、ブースにやって来たお客さんに案内をしたり質問に答えたりして、手応えアリならそのまま利根さんに繋ぐ、という、まあ、あるっちゃあるしないっちゃない、という流れだった。僕たちはプロジェクターやデモ機の準備を適当に手伝い、準備万端ってわけでもないまま何となく十時で開幕し、お客さんか、と思って構えたけどただの利根さんの知り合いで、しばらく暇を持て余した。菅野が言ってたとおりだな、何となく同業者っぽいにおいのするスーツ姿が、腕章があるのもないのも、訳知り顔で通り過ぎていく。「まあ、ここの商品は何かしら!」なんて<お客さん>はいない。展示会っていうか、同業者同士の交流会、というより商品見定め&牽制会?
最初は構えていたけど、だんだん、ほとんどは利根さんの知り合いじゃん、と思い、だらけた。黒井が他のブースをうろついている間、僕は「や、どうも、お世話様です」とやって来た人に「いえ、こちらこそ」と頭を下げ、「後でまた寄ります!」と言われ、「恐縮です」と返して終わった。誰も商品なんか見てないけど、いいのかこれ?
そのうち西尾と宮城という若い女の子がやってきて、慣れた手つきでパンフレットを捌き、うちの会社の紙袋に入れた。昨日、一昨日も来ているようで、利根さんと楽しそうに話し、僕に気づくと「お疲れ様でーす」と挨拶してくれた。
何となく見覚えがあると思ったら、西尾という子は例のノー残戦争のときの、渦中の子か。泣いてしまった子、という記憶しかなかったが、こうしてスーツ姿を見るとそんなおぼろげな記憶も曖昧になった。
そのうち黒井が帰ってきて、女の子たちが一段高めの「あ、お疲れ様です!」。・・・ま、そうだろうね。
・・・・・・・・・・・・・・・・
やがてお昼になって、女の子たちはパンフ配りもそこそこにランチへ行く準備を始めた。うん、これって、誰も残ってなくていいの?疑問に思った瞬間に利根さんが「悪いけど、どっちか時間、ずらしてもらえる?」と。あ、じゃあ残ります、と言う前に黒井が「行ってきます」と女の子たちに合流した。「お昼、どっかいいとこある?」「あ、外でホットドックあるんですよ」「いいねそれ、食べたい」「じゃあ一緒に行きますか??」・・・あ、そう。そんなにすぐ後輩の女の子と喋れるもんなんだ。っていうか、僕が同じように話しかけたとしても、「あそこが美味しかったですよー。それじゃお疲れ様です」となるよな。
他のブースも、お客さんも閑散として、僕は小さなテーブルでスケジュール帳を開き、今週の予定を整理した。明日、明後日を越えれば、あと一日だ。計上、計上の嵐もいったんおさまる。消費税は容赦なく上がり、入れ替えの商品の契約は激減して、あとは運用がどうの、処理がどうの、バグがどうのと、文句やクレームばかりがやってくるのだろう。本当に落ち着くのは五月くらいか。ああ、三月が終わっても四月までだって言って、その次も五月が終わるまでだ、とか言い続けるのかな。いったい、いつ終わるんだろう。終わらない、のか。っていうか終わるのは倒産するときか。そして、頑張れば頑張るほど売上が上がって、倒産から遠ざかってるわけね。終わりのない拡大再生産。給料も拡大すればいいけど、昇給はなくて税金だけ上がるからね。
「・・・あの」
「は、はい」
ぼうっとしていると、利根さんから声をかけられた。
「ばたばたしてるでしょう。忙しいときに、ね、どうも」
「あ、いえいえ、こちらこそ。あまり、お役に立ててるのか・・・」
しばし展示会についての近況や、西尾さんたちの働きぶりなどを聞かされ、<へえ、なるほど><そうだったんですか>で相槌。たぶん偉い人なんだろうけど、まあ気さくな人だ。
「でも、ま、大変でしょう。また突然で」
「・・・え、いや、いえ」
ん、何、展示会のこと?別に昨日でも今日でも、どっちでもいいけどさ。
「こないだね、ほら、松山さんと顔合わせて」
「・・・あ、ああ、松山さん」
納会のときに写真を取りに来てた女性だ。
「まあ、例によってお酒の席だったわけで」
「ああ」
そういえば写真そっちのけでビール飲んでたっけ。思い出してうなずくと、利根さんも苦笑した。
「それで、黒井さんの話が出たんですよ。いや、顔合わせる機会がなかったですからねえ、今日も、分からなくて」
「あ、ああ、そうだったんですか」
「いや、松山さんも、急で申し訳ないって、しおらしく言ってましたよ」
「は、はい?」
「いえ、その千葉のことね。助かったって」
「・・・」
「あ、ほら、まあ確かに松山さんの一存じゃないわけですよ。もっと上の、まあ意向があるわけでね。やっぱり今年の採用がね、うん。あ、あれですね、あなたたちはちょうど、多い年でしたか」
「お、多い?」
「その、何期になるのかな」
「あ、ああ、同期、多い年ですね。三十人くらいでした」
「ふむ、でした、というと今は・・・」
「ああ、二十人・・・いや、十五人、くらいですかね」
「やっぱり、三年くらいで?」
「はあ、そうですね。女の子たちが、まあ結婚もあったりで、ぱたぱたっと」
「まあそれは仕方ないね。でも確かそれから後の年は、採用も、ねえ、ぱったりだったでしょう」
「ああ、そうですね。後輩、あんまりいませんね」
僕が少し笑うと、利根さんもふっふっふ、と肩を揺らした。
「ね、この時期にまたっていうのはね。まあ、私は人事じゃないし、別に上の役職でもないからね、あれですけど。でもやっぱりねえ、離職率ってのがある中でね、こうして頑張っていただいて」
「え、いえいえ・・・」
「まあ桜田さんのとこじゃ、数字数字でしょうしね。そいでもって、四月からは異動でね。最近若い人はそういうの嫌がるし、ありがたいことですよ。ま、かくいう私なんて本社から出たこともないしね。ああ、ま、こんな機会でもないとね、あのビルから出ませんから」
利根はまた肩を揺すって笑った。僕はよく分からない笑みで何となくうなずいた。
・・・異動?
誰が?え、四月から、異動?
利根の携帯が鳴って、「ちょっと失礼」と歩き去る。僕は固まったまま。・・・異動?
・・・。
知らされてないだけで、僕は異動になるのか?
だから、この、展示会なのか?
羽根を伸ばして来いって・・・、納品は別の人に任せるって・・・、え、僕はどこかに飛ばされるの??
どこかってどこ?四月から・・・何て言ってた?松山がどうとか、それから、何だっけ、・・・千葉とか?
千葉支社?
・・・何で?
実家が近いから?え、俺実家に戻されるの?まさかあの親、会社に直談判したりしてないよな。さすがにそこまでしないと思うし、僕に一言もなくそれが決まるってこともないと思うけど。え、っていうか、千葉支社に、四月から、異動なの?え、引継ぎとか何もしてないし、あと、四日だよ?いや、三日か。さすがにそこまで何も知らされないってことあるの?どうやって、どこから通うわけ?
・・・聞いてない、聞いてないよ。
「・・・さん、黒井さん」
肩を叩かれた。
「・・・へっ?」
「黒井さん、すいません、ちょっと外すんで、ここお願いします。もし何かあったらこれ」
名刺を渡され、携帯の番号を指差される。何だか分からないままうなずいて、利根が「あ、すいません。それでですね・・・」と歩き出す。ブースに一人取り残され、手の力が抜けて、名刺がひらひらと落ちた。
・・・異動になるのは、僕じゃなくて。
黒井、だ。
東京国際フォーラム。
変わる税制と会計制度の云々・・・というサブタイトルがついただだっ広い会場で、出展者側はどこから入るのか、他の人がつけてる腕章や首から提げてるカードはどこでもらうのか、本社の利根さんに聞けばいいと思っていたのだが、そういえば顔を知らないんだからしょうがなかった。うちの社員章をつけていたって見えるわけもない。男性か女性かすら分からない。
しばらくうろうろしていると、何となく見覚えのあるシルエットが見えた。あれ、うちの人?そういえば水曜の午前って誰が来るんだっけ。っていうか昨日の僕の分は誰か代わってくれたのかな。
・・・納品、誰が行ったんだろう。
別に、いいんだけどさ。
でも、一日展示会で羽根伸ばして来いって、それ本当にねぎらいなの?もう余計なことしてくれるな的に遠ざけられたの?こういう風に疑心暗鬼になるから、会社の人間関係って嫌なんだよ。
・・・たぶん、違うな。分かってる。受け取る側の問題だ。前だったら、ちょっと気にしてもすぐ「どうでもいいや」ってうっちゃって、展示会も「うざいな」って、最低限顔出すだけであとは目立たないように抜け出して本屋に行ったり、自分なりに勝手にやっていた。課長に、会社の人に、こんなに依存してなかった。
そろそろ、そういう年齢っていうか、そういう位置になって、僕も自覚が出てきたってこと?・・・違うだろう。そんな殊勝なことじゃない。迷子で泣きそうになってるだけだ。自分がいない。
あ、あの人やっぱうちの人だ。元々水曜午前だった人?遠くてよく見えないけど、遠慮がちに手を挙げたら、こちらに気づいてやってきた。え、っていうか人ダブっちゃった?定員オーバー?なら帰って寝るけど。
「・・・お前、何でいるの?」
「え、あ、ああ・・・」
見たような人は、黒井だった。ああ、水曜一日入ってたんだっけ。
「・・・その、おはよう」
「あ、うん。いや、実は俺、昨日こっちドタキャンになって。元々午後だったんだけど、今日は一日行けって課長が・・・」
「・・・じゃあ一緒だね」
「あ、ああ。でももう一人は?そいつが来るなら俺帰るんだけどな。ん、でも午後は来なきゃだめなのか」
僕は思い出して鞄をあさり、菅野にもらった予定表を出した。水曜の午前中マルがついてるのは・・・あ、何だ横田か。じゃあ昨日だって聞こえてたはずで、知らずに現れるわけないか。
「さて。しかし利根さんって人を探さないと、どうしていいかわかんないな。何となくここで待ってりゃ、あっちから見つけてくれるかな」
「利根次長なら、知ってるよ。たぶんあの人」
「え、どれ?」
黒井は、ちょっと向こうで会場側のスタッフと話している、少しでっぷりめの角刈りのおっさんを指差した。
「ふうん、お前知ってるの?」
「いや、隣の部署だった人」
隣?隣って、本社の?・・・あ、そうか、こいつ本社から来たんだっけ。ああ、なるほど。
僕は利根次長とやらが話し終わるまでの間、微妙に間が持たなくて、適当に話題を振るけど「まあね」とか「そうかも」とか不発に終わり、あとは何となく会場を眺め回して過ごした。何だかその凛々しい顔に見られると自分がみっともなく思えて、なるべく顔を背けた。そのうち次長が何となくこちらを見つけ、今日の説明が始まった。
「えー、おはようございます。本社のITサービス部の利根と申します。支社の皆さんにはいろいろご支援いただきまして、お忙しい中どうもありがとうございます」
いえいえ、どうも、と恐縮し、頭を下げる。隣の黒井は平然と「それで?」って顔で説明を聞いていて、ああ、こいつこういうやつだったな、と思い出した。
「えー、今日はお二人と、それから、11時からまた西尾さんと、それから宮城さんにも入っていただいて、無事最終日を終えたいと思っております。えー、黒井さんと横田さんですか。お二人には・・・」
「横田じゃなくて山根です」と黒井。
「え?あ、そうでした?」
「急遽変わって」
「あ、そうなんですか。失礼しました、山根さんね」
・・・。
お、おい、別に横田だって何だっていいんだよ。これじゃお前が山根で僕が黒井みたいな感じで思われちゃってないか?・・・まあ、別にたった一日、どうでもいいか。
「すみません、じゃあお二人には・・・」
こうして結局<お二人>でまとめられるわけだしね。向こうからすれば日替わりで現れるお手伝いの<支社の人>なんだから、横田でも黒井でも、今更訂正することもないか。それにもし黒井と本社で顔見知りなら、勘違いしてないんだろうし。
結局、ブースにやって来たお客さんに案内をしたり質問に答えたりして、手応えアリならそのまま利根さんに繋ぐ、という、まあ、あるっちゃあるしないっちゃない、という流れだった。僕たちはプロジェクターやデモ機の準備を適当に手伝い、準備万端ってわけでもないまま何となく十時で開幕し、お客さんか、と思って構えたけどただの利根さんの知り合いで、しばらく暇を持て余した。菅野が言ってたとおりだな、何となく同業者っぽいにおいのするスーツ姿が、腕章があるのもないのも、訳知り顔で通り過ぎていく。「まあ、ここの商品は何かしら!」なんて<お客さん>はいない。展示会っていうか、同業者同士の交流会、というより商品見定め&牽制会?
最初は構えていたけど、だんだん、ほとんどは利根さんの知り合いじゃん、と思い、だらけた。黒井が他のブースをうろついている間、僕は「や、どうも、お世話様です」とやって来た人に「いえ、こちらこそ」と頭を下げ、「後でまた寄ります!」と言われ、「恐縮です」と返して終わった。誰も商品なんか見てないけど、いいのかこれ?
そのうち西尾と宮城という若い女の子がやってきて、慣れた手つきでパンフレットを捌き、うちの会社の紙袋に入れた。昨日、一昨日も来ているようで、利根さんと楽しそうに話し、僕に気づくと「お疲れ様でーす」と挨拶してくれた。
何となく見覚えがあると思ったら、西尾という子は例のノー残戦争のときの、渦中の子か。泣いてしまった子、という記憶しかなかったが、こうしてスーツ姿を見るとそんなおぼろげな記憶も曖昧になった。
そのうち黒井が帰ってきて、女の子たちが一段高めの「あ、お疲れ様です!」。・・・ま、そうだろうね。
・・・・・・・・・・・・・・・・
やがてお昼になって、女の子たちはパンフ配りもそこそこにランチへ行く準備を始めた。うん、これって、誰も残ってなくていいの?疑問に思った瞬間に利根さんが「悪いけど、どっちか時間、ずらしてもらえる?」と。あ、じゃあ残ります、と言う前に黒井が「行ってきます」と女の子たちに合流した。「お昼、どっかいいとこある?」「あ、外でホットドックあるんですよ」「いいねそれ、食べたい」「じゃあ一緒に行きますか??」・・・あ、そう。そんなにすぐ後輩の女の子と喋れるもんなんだ。っていうか、僕が同じように話しかけたとしても、「あそこが美味しかったですよー。それじゃお疲れ様です」となるよな。
他のブースも、お客さんも閑散として、僕は小さなテーブルでスケジュール帳を開き、今週の予定を整理した。明日、明後日を越えれば、あと一日だ。計上、計上の嵐もいったんおさまる。消費税は容赦なく上がり、入れ替えの商品の契約は激減して、あとは運用がどうの、処理がどうの、バグがどうのと、文句やクレームばかりがやってくるのだろう。本当に落ち着くのは五月くらいか。ああ、三月が終わっても四月までだって言って、その次も五月が終わるまでだ、とか言い続けるのかな。いったい、いつ終わるんだろう。終わらない、のか。っていうか終わるのは倒産するときか。そして、頑張れば頑張るほど売上が上がって、倒産から遠ざかってるわけね。終わりのない拡大再生産。給料も拡大すればいいけど、昇給はなくて税金だけ上がるからね。
「・・・あの」
「は、はい」
ぼうっとしていると、利根さんから声をかけられた。
「ばたばたしてるでしょう。忙しいときに、ね、どうも」
「あ、いえいえ、こちらこそ。あまり、お役に立ててるのか・・・」
しばし展示会についての近況や、西尾さんたちの働きぶりなどを聞かされ、<へえ、なるほど><そうだったんですか>で相槌。たぶん偉い人なんだろうけど、まあ気さくな人だ。
「でも、ま、大変でしょう。また突然で」
「・・・え、いや、いえ」
ん、何、展示会のこと?別に昨日でも今日でも、どっちでもいいけどさ。
「こないだね、ほら、松山さんと顔合わせて」
「・・・あ、ああ、松山さん」
納会のときに写真を取りに来てた女性だ。
「まあ、例によってお酒の席だったわけで」
「ああ」
そういえば写真そっちのけでビール飲んでたっけ。思い出してうなずくと、利根さんも苦笑した。
「それで、黒井さんの話が出たんですよ。いや、顔合わせる機会がなかったですからねえ、今日も、分からなくて」
「あ、ああ、そうだったんですか」
「いや、松山さんも、急で申し訳ないって、しおらしく言ってましたよ」
「は、はい?」
「いえ、その千葉のことね。助かったって」
「・・・」
「あ、ほら、まあ確かに松山さんの一存じゃないわけですよ。もっと上の、まあ意向があるわけでね。やっぱり今年の採用がね、うん。あ、あれですね、あなたたちはちょうど、多い年でしたか」
「お、多い?」
「その、何期になるのかな」
「あ、ああ、同期、多い年ですね。三十人くらいでした」
「ふむ、でした、というと今は・・・」
「ああ、二十人・・・いや、十五人、くらいですかね」
「やっぱり、三年くらいで?」
「はあ、そうですね。女の子たちが、まあ結婚もあったりで、ぱたぱたっと」
「まあそれは仕方ないね。でも確かそれから後の年は、採用も、ねえ、ぱったりだったでしょう」
「ああ、そうですね。後輩、あんまりいませんね」
僕が少し笑うと、利根さんもふっふっふ、と肩を揺らした。
「ね、この時期にまたっていうのはね。まあ、私は人事じゃないし、別に上の役職でもないからね、あれですけど。でもやっぱりねえ、離職率ってのがある中でね、こうして頑張っていただいて」
「え、いえいえ・・・」
「まあ桜田さんのとこじゃ、数字数字でしょうしね。そいでもって、四月からは異動でね。最近若い人はそういうの嫌がるし、ありがたいことですよ。ま、かくいう私なんて本社から出たこともないしね。ああ、ま、こんな機会でもないとね、あのビルから出ませんから」
利根はまた肩を揺すって笑った。僕はよく分からない笑みで何となくうなずいた。
・・・異動?
誰が?え、四月から、異動?
利根の携帯が鳴って、「ちょっと失礼」と歩き去る。僕は固まったまま。・・・異動?
・・・。
知らされてないだけで、僕は異動になるのか?
だから、この、展示会なのか?
羽根を伸ばして来いって・・・、納品は別の人に任せるって・・・、え、僕はどこかに飛ばされるの??
どこかってどこ?四月から・・・何て言ってた?松山がどうとか、それから、何だっけ、・・・千葉とか?
千葉支社?
・・・何で?
実家が近いから?え、俺実家に戻されるの?まさかあの親、会社に直談判したりしてないよな。さすがにそこまでしないと思うし、僕に一言もなくそれが決まるってこともないと思うけど。え、っていうか、千葉支社に、四月から、異動なの?え、引継ぎとか何もしてないし、あと、四日だよ?いや、三日か。さすがにそこまで何も知らされないってことあるの?どうやって、どこから通うわけ?
・・・聞いてない、聞いてないよ。
「・・・さん、黒井さん」
肩を叩かれた。
「・・・へっ?」
「黒井さん、すいません、ちょっと外すんで、ここお願いします。もし何かあったらこれ」
名刺を渡され、携帯の番号を指差される。何だか分からないままうなずいて、利根が「あ、すいません。それでですね・・・」と歩き出す。ブースに一人取り残され、手の力が抜けて、名刺がひらひらと落ちた。
・・・異動になるのは、僕じゃなくて。
黒井、だ。
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