黒犬と山猫!

あとみく

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新人の女の子、雪、量子力学

第86話:フリフリスカートの女の子

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 ようやく棒を見つけたので、満足感とともにうちに帰って、本を抱きしめて寝た。まだ中身は見ないまま。眠い。もう眠い。夢の中で一足先に本の世界に行けないかなと思ったけど、起きたときには何も覚えていなかった。っていうか、夕方だった。いい加減、今になってアマゾンからヘッドライトが届いて、一日遅いよ、と思った。悔しいからもう一回行こうかな。
 思い立って、藤井に電話をかけてみた。何を言うか考えていなかったし、女の子の携帯に電話するなんて緊張するはずなのに、なぜか大丈夫だった。相手が変人だって知ってるからかもしれない。
「・・・」
 しかし藤井は出なかった。まあ、そうかもね。そのまま切ってもあれだから、留守電を残す。
「あ、あの、山根です。別に用事というほどの何でも、ないんですけど。・・・えっと、では、また」
 部屋で、留守電に向かって喋るのって、何だか居心地悪いな。独り言なら気にならないのに、などと考えていたら早速電話が鳴った。
「は、はい」
「藤井です」
「・・・あ、ど、どうも」
 ・・・女の子の声がする。誰だ?っていうか藤井って誰だっけ。
「あ、あの、何か都合悪いなら、あとで・・・」
「いえ、取らなくてすみません。留守電に入れてもらう誘惑に勝てなくて」
「・・・え?」
 あ、いつもどおりか。
「それで、何でしょう。メールで、話したいことがあるっていってた、あれのことですか?」
「・・・そう、だっけ」
「忘れてもらっては困ります」
「すいません」
「メール読み上げましょうか。・・・CD受け取りました、どうもありがとう。ついでにコンポまでもらったので重低音がきいて・・・」
「あ、その、いいって!何か恥ずかしいから!」
「・・・この次ですよ。・・・来週まで忙しくて連絡出来そうにありません。今度話したいことがあります。良かったら電話番号も」
「わ、分かったから!」
 しかし、話したいことって何だったんだっけ。本当に思い出せない・・・。
「ごめん、・・・用事は忘れた」
「・・・そうですか。ま、喋ってるうちに思い出すかも」
「ま、そうだね」
「それで、忙しいのはひと段落したってことですか」
「うん、まあね」
「あの、またCD差し上げたいんですけど、セレクトが決まらなくて・・・。もう少し具体的に指定してくれませんか?テクノポップ系で、とか、シンセでまとめて、とか」
「え、ごめん、そういうのよく分かんないよ。・・・あ、でも」
「うん?」
「ああ、ちょっと、ね。これから読みたい本があって・・・それに合わせた曲、とか」
「いいですね。私も何か読むときは必ずそれに合わせたものを聴いてます」
「そうなんだ、すごいね」
「それで、どんな本ですか?」
「あ、えっと、どうしよう」
「え?」
「実はまだ、開けてなくて・・・ああ、でも、見てみようかな」
 後からメールしようかとも思ったけど、何となくそれもいやで、その場で伝えてしまうことにした。携帯を肩ではさんで、袋から、本を取り出す。
 ・・・。
「・・・どうしました?」
「あ、ああ。何だろう。<部分と全体>という本だ。みすず書房」
「ぶぶんとぜんたい・・・みすず、あ、これですね」
「え?」
 どうやら話しながらPCで検索したらしい。
「部分と全体・・・私の生涯の偉大な出会いと対話。W.K.ハイゼンベルク。・・・量子力学、ああ、興味深いですね」
「りょうしりきがく」
「ハイゼンベルクの自伝、ですか。山根さんこういうの読むんですね」
「・・・はいぜんべるく」
「不確定性原理の人でしょう」
「え?」
「SFとかでよく出てくる」
「そうなの?・・・そういえば聞いたこと、ある、かなあ」
「分かりました、量子力学でセレクトします。では作業に移りますので、これにて失礼します」
「あ、はい。失礼致します・・・」
 ツー、ツー。
 ・・・りょうしりきがく?
 僕に読んでほしいものって、SF?


・・・・・・・・・・・・・・・


 ハードカバーの表紙をめくると、最初の遊び紙に、黒のマジックで書かれた<黒井彰彦>の文字。思わず息を飲む。これ、あいつが読んでた本なんだ・・・。
 サイン、ってわけじゃない。しかし自分の名前を書いておくような本って、何だ?黒井の直筆をそれほど見たことはないが、たぶん本人だろう。その四文字を見つめているだけで、そわそわした。こっちが見られているような気分だ。
 まずは外装を観察する。ハードカバーだが、カバーはついていない。傷、汚れがあちこちについている。背表紙にタイトル、著者名、序文と訳者、出版社名。色はやや灰色がかった白。大きさも厚さもごく普通。ページにはいくつかめくり癖のついたあと。裏表紙の手前には何も書いていない。小口部分をよくよく見ると、最初の数ページの色が違った。紙質の違う部分があるらしい。しおりの紐は裏表紙の手前に垂れている。しおりの先はだいぶほぐれてしまっている・・・。
 さて、検分終了。あとは、ページを開く・・・。
 ・・・。
 何となくもったいないのと、あとどきどきして、それ以上開けなかった。愛読書、だったんだろうか。自伝とか言ってたっけ。背表紙のタイトルのフォントがどことなく古い。もう死んだ人だろうか?ハイゼンベルクってなに人?
 タイトルと著者名、りょうしりきがくというキーワードをカゴに入れて、夕飯を作りながら、もてあそぶようにイメージを連ねていった。SFっぽい・・・?ああ、量子力学。突飛なトリックでたまに出てきたっけ。あまりそっちのは読まないんだけどな。スペース戦記とか近未来系とかも。あくまで現実に起こりうる事件が好きなのであって、一番の好みは鑑識もの。地道な作業とひらめきが何にも代え難い快感。ああ、CSIを見直そうかな・・・。
 とにかくカレーを作って、本当はボルシチがよかったけど、福神漬けもないけど、とりあえず食べた。本が気になって仕方ないけど、もう少し我慢。食べたら買い物と、アイロン掛けだ。


・・・・・・・・・・・


 月曜日。枕元の不細工な猫と一緒に起きた。何も、匂いなんかしなくて残念。
 重くなっちゃうけど、お守りみたいに本を鞄に入れる。袋のまま。・・・フランフランのビニールバッグ、こういうとこで買い物するの?
 電車の中で、やけに気分が浮ついて、にやにやした。この本、親友からもらったんだ。何も訊かないで受け取ってくれって・・・ああ!何かもう、やばい。流行りのベストセラーなんかじゃなくて、「これ面白いから読んでみれば?」でもなくて、何も訊かずに受け取れって・・・もうどういうこと?鞄の中の袋に触れるだけで腹がひゅうとする。これ、借りたんじゃないよね、もらったんだよね。ああ、<勝ったら何でもいうことをきく>の結果がこれって、もう、何なの?
 ・・・まるで、バレンタインの本命チョコをもらったみたいな気分。だって、もう二月だしね。
 ・・・。
 ああ、そうだったね。そんなイベントあったね。どうでもいいよ、男同士に関係ないし。
 ・・・ない、よね。
 え、あげちゃうとか考えてないよね俺?
 いやいや、そんな、さすがにまずいですって、暴走しすぎだよ山猫さん・・・。

 月曜朝礼の後、三課の中山課長が四課に来て、女の子を紹介した。
「ええ、おはようございます。今日からしばらく、展示会の準備で手伝ってもらうことになった、菅野さんです。とりあえず三末までいてもらう予定です。三課と四課で、まとめて事務作業等、やってもらおうと思ってます。ええ、皆さんにもね、担当顧客のことでいろいろ連携してもらうことになるので、ちょっと・・・。あ、じゃあまず自己紹介してもらおうかな」
 道重課長はもう顔合わせしているらしく、特に何も言わない。手伝いの子が来るなんて聞いていない四課の面々は何となくきょとんとして女の子を見ていた。
「菅野桃子と申します。短い間ですが、お世話になります。分からないことだらけだと思いますので、いろいろ、教えてくれると嬉しいです。よろしくお願いします」
 菅野がお辞儀をし、島のみんなも会釈を返す。ゆるいウエーブの茶色がかった長い髪に、花柄のカーディガンとフリフリのスカート。何だか若くて可愛い女の子だった。
「あ、彼女ね、まだ制服が間に合ってませんので、今日明日・・・くらいかな。ちょっと私服でお願いしてます。申し訳ありません。・・・では、あー、あとは道重さん。ちょっと名前だけ、教えてあげて」
「ん?ああ、はいはい」
 中山から道重にバトンタッチされた菅野は、初々しい、緊張した面もちでみんなの視線を受けている。
「えーと、まず、こっちがグループ長の長谷川ね。ああ、第一グループっていうのが、島の、こっち側。あっちが第二グループ。で、第一からいくと・・・」
 課長がメンバーを紹介し、菅野がいちいち「よろしくお願いします」と頭を下げる。丁寧で感じがよく、大きな目がぱっちりとしていた。
「・・・で、こっちが山根くん」
「あ、どうも、よろしく」
「菅野です。よろしくお願いします」
「でね、ええと、あ、中山さん!とりあえず席、ここでいいの?」
 向こうから「とりあえずそこで!」の声。え、僕の、隣?何この、転入生の女の子が・・・みたいな展開は。・・・でも今のとこ、ここしか空席がないか。ああ、両隣が埋まっちゃって、しかもこんなきらきらした女の子で、落ち着かないな。
「じゃあ菅野さんね、申し訳ないけど、こいつの隣に座ってやってください」
「か、課長・・・」
「むさ苦しくてごめんね。じゃ、ちょっと資料持ってくるから、待ってて」
「あ、はい」
 道重課長が行ってしまうと、菅野は隣に座った。所在なげな手を膝の上で女性らしく重ねて、僕に向けてはにかんで笑った。甘い、匂いがする。どうしていいか分からなくなったが、横田が隣から、「ああ、何かいいですね、華があって」と言ってくれたので、ちょっと助かった。
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