黒犬と山猫!

あとみく

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女の子から突然告白されてどうしよう

第61話:二兎追う者は一兎も得ず…

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 一つ運んで、切れた血管みたいに放り出されている青いネットワークケーブルを繋ぎ、また取って返す。スーツの腕についた埃を払っていると、望月が寄ってきた。
「山根くんじゃない。久しぶりだね」
「あ、ああ。お疲れ」
「暮れの、飲み以来」
「あー、そっか」
「聞いてるよー、イチ抜けたんだって」
「え?」
「またまたー」
「何?」
 望月は僕の肩に手を回し、少し身を寄せて「来月の十四日さ、例の飲み会またやるけど、来ないんでしょ?」と囁いた。
 来月の、十四日?
 ・・・二月十四日。バレンタイン。
「え、・・・ええ?」
 これって、藤井とのことをからかってるのか?何でもう知ってるんだよ。まあ出所は、横田しか、いないか。
「いやいや、淋しくなるね。また来てほしかったんだけどね。しょうがない。またサカキと、黒井さんと、盛り上がるっきゃないわ」
「・・・いや、別に、まだ」
「いいからいいから!遠慮しない!ね」
 望月は僕の肩をぽんぽんと叩いて、「あ、黒井さんは誘える人だよね」と、黒井の方へ歩いていった。
 しばらく一人で端末を運び、何となく座って一息ついた。
 バレンタインなどというイベントが、ちらりとでも僕と関わる日がやってくるとは。・・・でもまあ、普通が嫌いな藤井がそんなイベントで浮かれるとも思えなかったが。
 半分ほど運び込んだが、Bのあと半分を台車で運び出してもらわないと残りを運び込めなかったので、何となく雑談になった。
「ああ、山根さあ、さっき、小嶋さん、四課まで呼びに行った?」
 金沢が訊いた。
「え、うん」
「じゃあその辺で、ニアミス、したわけ」
「え?・・・ああ、小嶋グループ長?」
「そうそう」
 僕の前の、空いた机の上に金沢が座った。望月も隣に腰を下ろす。最後に来た黒井が僕の隣の椅子に座った。
「何か、なかったの」
「え、何もないよ。秋山さんと話してたからさ、別にお互い、何も」
「ふうん。何か、社内で夫婦ってどうなんだろうね」
 僕が何も返せずにいると、望月が続けた。
「そういや何で苗字も変えたんすかね、しばらく旧姓のまま、やってたのに」
「いや、ほら、もっちー知らない?小嶋グループ長さ、新卒の女の子にやたら人気あって。何かそれで、変えたとか」
「何それ、その子たちへの、牽制?」
「噂、だけどね。え、黒井さん、やっぱ小嶋さんってモテる?」
「うん?どうかな。あの人無口だけど・・・でもまあ、仕事デキるから」
「あー、やっぱそれかあ」
「ですよねー」
 そのまま何となく仕事の話。僕はまた、いつものように適当に相槌を打つ係。そのうち金沢と望月が何となく二人で話しだして、寝不足の僕は話についていくこともなく、ぼうっとした。
 黒井が「疲れたね」とたぶん僕に向けてつぶやき、ため息とともに机に突っ伏した。


・・・・・・・・・・・・・・・・


 ひととおり作業が終わって、台車組と一緒にぞろぞろとセミナールームを後にした。デバッグ組はまだ終わらないらしいが、この人数で押しかけたって邪魔になるだけだろうし、まあ何となく解散になった。
 それとなく、先を歩く黒井のあとにつく。話しかけるわけでもないけど、何となく。シャツの皺を何となく眺めて、給茶機のあたりまで来て急に、さっき上着を放り投げていたことに思い当たった。
「おい、お前、上着」
 肩を叩いて声をかける。黒井は「えっ」と振り返り、「ああ」と言って立ち止まった。
「忘れた」
「・・・だね」
 黒井はルームAに取って返し、僕は、そのまま、席に・・・。
 ・・・別に、ついていくほどじゃ、ないし。
 ねこ、取ってきてくんない?・・・とか、言われないし。
 あ、コーヒーでも、汲むか。それなら、たぶん。
 僕は特に飲みたくもないけど紙コップをセットして、ぐずぐずと飲み物を選ぶふり。別に、用事もないし、何ってわけじゃないんだけど・・・。
 だけど?
 コーヒーのボタンを押して、緊張しながら、それでも続きを考える。・・・だけど、何なんだ?
 黒井のことを、どうするつもりなんだ?あいつとの一ヶ月が突然に途切れて、別の人と別の人生が始まるかもしれなくて、それでも、こうしてそわそわとタイミングを合わせて話せる時間を作ろうとして、・・・いったい何なんだ??
 遠くでパタンと扉が閉じる音がして。
 足音が、近づいてきて。
 何となく慌てて紙コップを取った。・・・が。
 ・・・あれ、何で?
 空だった。ボタンが押せていなかったらしい。そんなことにも気づかなかったのか。
 空のコップを持って、そのまま立ち去ろうか捨てようかもう一度セットしようか迷い、でもその時セミナールームからこちらに来る扉が開いて、その場で逃げるように立ち去るわけにも行かず、結局紙コップをセットした。
 しかし。
「あ、おつかれ」
 黒井はそう言って、僕の後ろを足早に通り抜けて行った。<ただの同僚>という言葉が、ものすごい重さと量で、頭の中に降り注いでいた。


・・・・・・・・・・・・・・・・
 

 藤井からメールが来ることもなく、もちろん黒井から何かあるわけもなく、地下通路を歩いて電車に乗って、金曜が終わった。もう何だか、藤井に告白されたこともまるで夢だったみたいだ。
 自分の手には、何も残っていない。
 せめて藤井が、返事をくれと言ってくれていたら、悩みようもあるだろうに。
 藤井のことも、黒井のことも、いくら悩みたくても、悩むあてもないのだった。僕の中からは、彼らに対して何も出てくるものがない。ただ、気にしてほしくて待っているだけだ。好きだという衝動も、好きだと言われた衝撃も、どちらももう明確には思い出せず、鼓動が小さくなって遠ざかっていくのだった。
 ・・・悩みようもないなら、寝るだけなんだけど。
 急に、部屋がすごく、ちっぽけで、しかしそれと同時に、全く逆に、だだっ広くも感じた。何でもないマンションの、何でもないサラリーマンのワンルーム。でも、そんな場所でも、こんな僕が棲息するには大きすぎる。もう、棺桶くらい狭いところでせいぜい息だけでもしてればいいんだ。
 仕方なく、布団を頭までかぶった。
 そうしたら、だんだん心細くなってきて、息苦しさが不安に変わって、何かがこみ上げてきて、そして、一人で泣いた。声を殺して、トレーナーの袖で涙を拭いながら、泣いた。
 ・・・何にも、できやしない。
 自分にはもったいないような魅力的な誰かが、奇跡的に手を貸してくれたって、怠惰で無能な僕を救えはしない。仕方ない。仕方がない。生まれてからこっち、すっとこうだったんだ。働いて、給料をもらって、自活してるだけでもういっぱいだ。劣等感に押し潰される。何にも出来ない。何にも、何ひとつ、持っていない。
 しゃくりあげて、苦しくなっても、布団から顔を出すことは出来なかった。怖かった。
 ふと、小嶋さんが頭に浮かんだ。小嶋グループ長も。今頃二人は、同じ家で、ひとつところで寝ているんだ。そこには多分楽しさとか安らぎとかがあって、穏やかなんだろう。会社で何があって、何に疲れたって、戻るところがある。自分の居場所。
 ・・・なら、まあ、僕にはここがふさわしいんだろう。
 何だって急に、泣いたりして、怖くなったりして、何があったわけでもないのに、どうしたんだ。無理に笑おうとしたけど、自分の声が嫌でやめた。
 また、アリジゴクに落っこちるのかなあとぼんやりと思った。でも、行ったことのある場所ならそれほど怖くはない。それならいいかと思ったけど、そうはならなかった。
 ・・・酸欠かな。
 苦しくて、頭が布団の下まで落っこちそうだった。それでも顔は出さなかった。ぬるま湯に浸かったまま茹でられるカエルみたいに、じっとしていた。そういえばことわざで<まな板の鯉>というのがあって、習ったときそれを想像して震え上がったことを思い出した。まな板に載せられて、包丁で、切られてしまうのだ。でも僕はただ怖いなというだけじゃなくて、切られてしまうのをどう覚悟して、どう痛みに耐えようか、ひたすら思案していた。力まない方がいいとか、天国のことを考えたらいいとか、いろいろと。何で切られなきゃいけないんだとは思わなかった。その頃から、なぜか自分は切られて当然だと思っていた。
 いや、当然というより、いつか切られるんだと、思っていた。
 そういえばどうしてまだ、切られていないんだろう。
 幼稚園のときに、怖くて嫌だった、鬼や地獄の描かれた絵本。
 ああいうのも、いつか自分に起こることなんだと思っていた。自分が悪いことをしたからとか、人間は罪深い存在だ、とかではない。ただ、予定として、自分にはそれが組み込まれているという強い感覚があった。予防注射みたいに絶対にそれはやってきて、針を刺されてしまうのだ。
 だから、注射だとか、たいていの痛いことは我慢できた。いつか来るそれに比べれば、死ぬほどのものでもないのだ。実際に生活の中で、大したことなど起きはしないし、映画みたいな拷問を受けることもない。血を見る機会すらろくになくて、しかし平穏無事だからこそ、余計にいつか来るそれに備えなくちゃいけない。
 そんなことを考えていたらやがて苦しいのにも慣れてきて、頭がぐらぐら回っている感じも飼い慣らせそうだった。皮膚をぐちゃぐちゃに切り裂かれるよりは、マシじゃないか。まあ、そのあと死体になってしまえば、もう、何もかも、いいんだろうけど・・・。

 何かで自分を傷つけたくて、仕方なかった。
 でも、布団からは出れないし、生憎、手を伸ばして届くところにカッターなんて置いてないし。
 枕元にあるのは、せいぜい、タオル一枚だった。
 首を絞めるのもちょっと違うし、布団の中で苦労して両手を縛った。一方の端をぎゅっと持って、もう一方を口で噛んでギリギリと引っ張る。大した戒めではないけれど、<まな板の鯉>への、ほんの演出だ。何の抵抗も出来ないまま内蔵を抉られてしまう未来を、無力感とともに受け入れるために。これから殺される人間が、自分で自分に目隠しをするみたいな、孤独。
 そういうものに近づいている方が、好きだった。
 突然の恐怖なんて対応できないから、泣き叫ぶ前に、少しずつ慣らさなければ。命乞いなんてしないように、痛みを飼い慣らして、心の芯を鍛えなくては。
 僕はようやく布団を押し退けて、手が使えないから足で蹴り出して、何も掛けずに寝た。冷えた空気に晒されて、守ってくれるものなどない鯉の一夜を明かした。
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