黒犬と山猫!

あとみく

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トマトリゾットでひとやすみ

第29話:恥ずかしい留守電とメール

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 電話の後は、寝て、起きた後も、小学生の時の遠足の日みたいになってしまっていた。
 どうして、こんなに。
 きっと、起伏が激しいから、反動も大きくて。好きな気持ちはもう、名前も付けられないくらいになって、自宅のトイレで座っても、顔のニヤけが止まらない。頭に一足先に春がきて、お花畑が満開だ。
 しかも、ふと油断すると、黒井の声はみーちゃんのそれに重なって、みつのしずくでの記憶が呼び出される。視界がなくて、感覚だけが再生されるからタチが悪い。それはほとんど中毒のようになって、内容は勝手にエスカレートして、止めようがない。
 ただ、電話で話したというだけでドキドキして、それを宝物のように愛でている自分と。
 違うんだけどみつのしずくとか、あのトイレでのキスとかを思い出して性的にぶっ飛んでいく自分と。
 この、プラトニックとエロスの間を反復横飛びしているから、もう、目が回る。しかも、黒井との関係も一日ごとにジェットコースターだし、僕の状態だってアリジゴクとお花畑だし、もう僕の力ではどうしようもない。
 さて。
 黒井を待たせるわけにもいかないから、相当早く家を出た。どうせふつうの足取りでは歩けないのだし、いつもと違う景色を見た方がむしろ落ち着く。桜上水でベンチにでも座って気長に待てばいいだろう。
 まあ、僕の膨らみすぎた期待に反して、来ないということもあるし、来たって、別に、何もないということもある。何せ僕はもう、ごく当たり前のやりとりでは心身ともに満足できなくなっているので、おはようを言って単調に仕事の話なんかされたら、いつ自分のタガが外れるか、分かったもんじゃない。
 正月休みの間、ほとんど「あちら側」とでも呼びたいような世界に、行っていたから。
 「こちら側」が懐かしくもあり、新鮮でもある。そして、逸脱は案外簡単なのだと、そのドアは堅牢でも何でもなくて、すぐ隣で開いているのだと、知ってしまった。
 だから、黒井は自分の「ふつう」が周りに迷惑をかけると言うけれども、今その、世間にとっての「ふつうじゃなさ」を世界で一番求めているのが僕なわけで。
 そんな相手が、朝っぱらから、二人きりの時間をわざわざ作ってくれているわけで。
 みぞおちが、きゅうと締まる。

 電車は空いていて、まあまだ早いから当たり前なのだが、これでは身体が密着する暇もないな、などと朝から不埒な妄想。これがもっと激混みで、あの時と反対で、今度は黒井が僕を押し込みながら入ってきて、そして僕があいつをドアに押しつけて、なんて・・・。
 あ、これもまた、反復横飛び。
 押し倒されたい自分と、襲いたい自分。後者の方が稀だけど、確かにいる。どちらが出るかはその時その時で自分にも分からないが、こちらの振れ幅も結構大きくて、僕に揺さぶりをかけてくる。昨日電話で怒鳴った僕も、根っことしては、後者なのだろう。
 たぶん、それはきっと、黒井への恋心とかじゃなくて。
 抑圧された自己の解放、とか。
 支配と権力の欲求、とか。
 そういうものが、ピュアな恋の素材とは別に、人工調味料みたいにどっさり入っているから、やめたくてもやめられない。加速して、どこまで行くのか分からない。投入するもの全てが起爆材になって、僕を突き動かしていく。
 そして・・・。
 ああ、考え事をしていたら、桜上水に着いてしまった。
 鼓動が早くなる。身体が緊張する。いてほしいけど、まだいなくていいよ。ホームに電車が入って、ゆっくり、先頭へ。
 ・・・。
 ・・・見えた。
 こんなに、早いのに?いつもより、三十分近く。
 寒いのに、そんなの感じていないかのようにまっすぐ、舞散る桜の花びらでも見るかのように。
 腕には、僕のコートをかけて。
 ツリーが出た日に現れた、あの黒井と同じ顔で。
 僕を見つけて、笑った。


・・・・・・・・・・・


「お、はよ」
 たぶんちょっとひきつった顔で、僕は目を逸らした。
「おはよう」
 黒井は昨日のことなど何事もなかったかのように。
 僕たちはどちらからともなく壁際によって、何となく、寄り添った。その距離が一センチ縮まるだけで、電車の床に穴があいて落っこちそうになる。無言で僕のコートを受け取って、その手が、指先が、僅か触れ合った瞬間なんか、もうめまいすら起きそうで。
 重症だな。
 黒井いわく「ちょっとえろかった」満員電車と同じくらい、これはこれで、やばいのだった。
 だって。
 黒井がほんの少しこちらにずれたり、揺れたときに僕の腕を取ろうとしたり。
 全ては、奴隷船以上の乗車率による不可抗力などではなくて、そこに、あいつの、ちょっとした、気持ちや気分が如実に表れていて。
 心拍数だか血糖値だかが、どうにかなってしまいそうだ。
 一瞬ごとに、ただじっとしていたかったり、何かしたかったり、されたかったり、もう逃げ出してしまいたかったりした。
 途中でふと、「何だか久しぶりのような、そうでないような」と、黒井はそれだけつぶやくと、「ね?」という横顔で外を見ていた。僕は「確かに」とだけ返事をして、同じように外を眺めた。

 新宿に着いても、黒井はいつもより言葉少なだった。昨日の電話でのことでぎくしゃくしているのかとも思ったが、そういう雰囲気はなかった。まるで卒業式の朝のような、清々しささえある。もちろん、正月明けの晴れやかな雰囲気が新宿西口にもまだ少し残っているせいもあるけれど。
 え、・・・でも。
 それってまさか、お別れとかじゃないよね?
 思いついてしまった瞬間に、頭が冷たくなった。
 まさかまさか、会社を辞めるとか、異動させられるとか、そういう話になってたり・・・。
 僕は急に怖くなって、そうでないと分かるごく普通の仕事の話題を振ってほしいと願ったが、黒井は妙な微笑みを貼り付けたまま、何も言わなかった。

 とうとうビルの前まで来て、黒井はようやく口を開いた。
「ちょっと早いよね」
 僕は曖昧にうなずいた。早いよね、というより、お前が早く来たんじゃないか。まあ、僕もだけど。
「ねえ、何かあったかいもんでも、飲もっか」
 ビルの前の植え込みに座る。飲もうかというわりに、買いに行く気配はないのだ。僕は鞄から出した携帯を見るともなく一瞥し、まだまだ時間があることを確認すると、自販機へと向かった。黒井はリクエストすることもなく、ただじっとしていた。
 自販機には様々な<あたたかい>が揃っているわけだが、そういえば、僕はあいつの好みを知らなかった。
 甘党?
 コーヒー?
 お茶系?
 ・・・サラリーマンらしく、FIREの微糖くらいで、いいか。
 とりあえず僕も同じものを買って、冷えきった手を温めながら戻った。
 黒井はさっきと同じ姿勢で、地面を見つめていた。
 コーヒーを手渡す前に、「あのさあ」と。
「俺、お前に、頼みがある」
 ・・・。
 思い詰めてるのと、あっけらかんとしてるのの、ちょうど、あいだくらい。
 僕はそろそろ持つのには熱くなってきたコーヒーをコートのポケットに入れ、無言で待った。
 緊張は、する。
 いい知らせ、より、やはり悪い予感を抱いてしまう。
 黒井はふいに立ち上がって、僕の真正面に立ち、えらく近いなあと言いたいくらい近くで僕を見て、言った。
「留守電のことなんだけど・・・!」
「・・・る、るすでん」
「その様子だと、ねこ、もしかして、聞いてない・・・?」
「あ・・・ごめん」
「聞いてない?」
「ちょっと、うっかりしてて」
 本当はわざわざ聞くまいとして聞かなかったのだが、それっきり忘れてもいた。
「聞かずに、消した?」
「い、いや・・・何も、してない。ごめん、大事な用だったのか?い、今聞くよ」
 目の前に本人がいるのに留守録を聞くのもおかしいが、聞いてるはずのものを聞いていなかったという後ろめたさから、僕は慌てて携帯を出した。
「や、ちょっ・・・」
 携帯を開こうとする僕の手を黒井が握って止める。ずいぶん、強引だな。
「何だよ、聞いたらまずいのか?」
「う、うん。ちょっと」
「だって、そんなの、昨日だか一昨日だかに、もう聞いてたかもしれないじゃないか。それを今更、どうしたんだよ」
「お、俺も忘れてたんだよ。今思い出しちゃって・・・ちょっと、あの、まずったかなって、とにかく消して!」
「あ、分かった。俺に罵詈雑言吐いたな?てめえこのやろ死ねって、勢いで入れちゃったんだろう」
「ちが、そ、そんなじゃないって!」
「別にいいよ。怒らないし、こっちだって、いろいろ悪かったと思ってるし」
「いや、違うんだ・・・違うし、それに」
「それに?」
「お前あの時も謝ったけど、俺、謝ってほしくなんかないし、そうじゃなきゃ、俺がお前に借りだか貸しだか作ってるみたいになっちゃうし、でも俺、そういうんじゃなくて、お前と付き合いたいから・・・」
 ・・・うん。
 ・・・ふ、ふつうの意味だ。
 付き合うって言葉に過剰反応したせいで、他の意図が飛んでしまった。な、何だっけ?
「わ、分かったよ、とにかく、消せばいいんだろ?そこまで言うなら、そうするよ」
「はあ・・・良かった」
 まあたぶん、今みたいな、誰が悪いの悪くないのというようなことを、ぐちゃぐちゃ言ったのだろう。確かに、そういうのは改めて聞かれて楽しいものでもない。時が経てば尚更だ。そこのところは、下心とかなしに素直に、普通の友達として、そうしてやろうと思った。
 僕は携帯を開き、留守番電話センターに接続した。そういえば、先入観から黒井だと思っていたけど、そうじゃない留守電だって、あったかも、しれないか。
<ただいま、さん、けんの、メッセージを、おあずかりしております・・・>
 三件も、あったのか。センターの案内が流れる。
<いっ、けんめ、の、メッセージ、じゅう、に、がつ、に、じゅう、く、にち、ごぜん・・・>
 微かに聞こえた音声に、黒井が慌てた。
「ちょ、ちょ、このままだと聞こえちゃうって、は、早く消して」
「いや、もしかしてお前じゃないかもって。三件もあって」
「三件とも俺!」
「で、でも、何番押せば消去になるか・・・」
「や、もう、だめだめって!」
 とうとう黒井は携帯を僕の手からもぎ取ると、後ろを向いて、耳に当てた。
 何やら、わめき声が漏れてくる。
「あっ!わあっ!ちょ、あっち行って!」
 手を使えないので、蹴ってくる。つい、応戦してしまう。
「お前、ちょっと、返せって、ちゃんと消すから!」
「寄るなっ!」
「な、なんだよっ」
 携帯を取り合って、もみ合いになった。ボタンをぐちゃぐちゃに押して、消えたんだか切れたんだか分からない。
「ちょっと、消していいって言ったんだから!」
 結局奪い返すことは出来ず、黒井が、ゲーム機を取り上げた小学生みたいに携帯を高く掲げて僕から遠ざける。
「そうだけど。俺の携帯なんだから、俺が消すって」
「だめって。・・・そ、そういうこと言うと、お前の恥ずかしいメールとか、見てやる!」
 画面を見て、なにやら呼び出そうとする。やれやれ。
「おいおい、彼女がいるでもないのに、何が恥ずかしいメー、ル・・・」
 あ。
 あった。
 あった、よ。
 まずい。
 恥ずかしいメールなんか出してないけど。
 血の気が引いた。
 ・・・黒井からのメール、全件、保護してあるんだよ!
 まずいまずいまずい。いくらなんでも、「おやすみ」だとかそんなメールまで全部保護する男友達とかいない。絶対有り得ない。恥ずかしいとかそういう問題じゃない。場合によっては、今この場でキスして押し倒しちゃった方がよっぽどマシじゃないの、ってくらい、やばい。きゃあ何それ気持ちわるーい、じゃ、済まない!
「あー、あるんだな」
「・・・おい!」
 本気で取り返しにかかる。これはもう、何ていうか、生存を賭けた戦いだ。勝利なくば、明日はなし!
「あっ、くそっ」
「おま、よこ、せっ」
 本当に、小学生か。
 本気で携帯を取り合って、時に腹に膝蹴りを入れ、タックルし、羽交い絞めにする。
「お、おい、諦めろ。そこまですることか」
 肩で息をしながら、じりじりとにじり寄って。
「こ、こっちだって、背に腹は代えられないんだ!」
 何だ、向こうもその気か。
 ただの意地の張り合いなんだろうけど、でも、そこまでして聞かせたくない黒井のメッセージって、何だろう?
 ふとそれを考えた一瞬の隙に。
「よっしゃ!」
「あっ」
 画面を見ようとする手。
 やばい。
 物理的に取り上げるんじゃなく、何とか、気を逸らすっきゃない。
「おい、お前ね、最初は俺に、頼みがあるとか、言っただろ?」
 黒井も仕方なく顔を上げて、「う、うん・・・」とか口ごもる。そうだ、画面を見るんじゃない!
「自分から言っといて、やってることが卑怯なんだよ」
「うっ」
「それが人にものを頼む態度か?ああ?」
「くうっ・・・」
 よし、その調子だ!
「そういう、人を脅すような真似をして、恥ずかしくないのか?弱みを握って屈服させればいいってもんじゃないだろ!」
「あ、やっぱ弱みだったんだ」
「う、うるさい!お前が言うんじゃない!」
 僕も一瞬の隙をついて、携帯を取り上げる。
「あっ!返して!」
「返してじゃない俺のだ!・・・」
 画面を確認して、開かれているのが送信済みメールの目次だと分かり、ほっとした。た、たぶん大丈夫だろう。しかしそれが、留守電を聞こうとしていると見えたのか、黒井は最後の反撃に出た。
「あ、あの!お、お願いします!ど、どうかそれだけは、勘弁してください!!」
 うわ、土下座した。
 朝のオフィスビル前で、やっちゃったよ。あ、ふざけすぎた?
「・・・ちょ、ちょ、お前ね、立ちなさいって。め、目立つから!」
「やだ、絶対、やめないもん!」
「い、言うこと聞け!」
 しゃがみこんで抱えあげようとするが、必死に抵抗されればこっちも振り回されて、結局、地面を這いずり回ることになる。遠巻きに歩いていく人の目が痛い。
「分かったから、ほら、渡すから!」
 噛み付きそうな黒犬は、ガルルルと言わんばかりに威嚇して、携帯を引っつかんだ。
「ただし、俺の見てる前で消すこと!耳、塞いでるから」
 ようやく立ち上がって、二人で植え込みに座る。まだ息が荒い。何で、せっかく買ったあったかいコーヒーなんか飲みたくなくなるほど、コートなんか脱いじゃうほど、暑くならなきゃいけないんだ。
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