黒犬と山猫!

あとみく

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忘年会からはじまった恋

第16話:満員電車の鬼畜プレイ

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「お前、ネクタイ!ネクタイ!」
「ど、どこだ」
「俺の貸すから!」
 丸めて投げつけられる。とりあえず鞄に突っ込む。
「よ、よし、急げ」
「あっち!近道!走れ!!」
 もう、京王線が止まればいい。二日酔いの僕とあいつのためだけに、全世界の電車が止まればいい。
 コートも着ないで。
 シャツのボタンもセクシーなほど開いたままで。
 靴ひもを踏んづける余地がないほど大股で走り抜ける。
 こんな寒空で、小学校のマラソン大会みたいだ。
「やばい、来てる!」
「特急じゃなくて!?」
「あれ、乗らなきゃもうアウト!」
「お前ちょっと轢かれて止めてこい!」
「そんな暇ないよっ!!」
 色々と遅刻の言い訳を考えるけれども、どちらか一人ならともかく、二人いっぺんにはまずい。しかも、黒井が本当は何て言ったのか知らないが、僕たちは昨日の飲み会をフケているのだ。別々の理由でただ遅刻しました、とは思ってもらえまい。
 走るしかないのだ。
 人を押し退け、改札をダッシュで抜ける。ピンポンとかいった?知るもんか。
 先を行く黒井がドアを押さえ、車掌に「すんませんすんません!」と詫びながら待っている。半ば、黒井の胸に飛び込むようにして真正面から突っ込んだ。扉が閉まるが、背中がはさまって、全力でぐいぐいと黒井に身体を押し付ける。後ろから駅員が更に押し込んで、もう完全に密着した。上気した胸が温かい。微妙に背伸びした体勢のままもう動けないから、同じくらいの背になって、頬なんか、くっついている。髭も剃ってないのに。

 次の駅まで、ずっとそのままで。
 押し込まれたのと反対に、今度は僕が冷たいドアに頭も背中を押し付けられて、圧迫されていく。少しずつ息を吐いて耐える。黒井のおでこもドアにくっつきそうだ。僕の右手は黒井の肩に置かれたまま。黒井の右手は、僕の頭の更に上で、ドアの上部をつかんでいる。足の裏がつりそうだ。
 もっと、もっと。
 僕の限界を試すかのように、電車は傾く。肺から最後の空気を出していく。同時に、黒井のベルトのバックルが容赦なく腹に食い込んでくる。たぶん、僕のも、あいつの腹に。・・・アレって、こんな、感じなの?
「く、う・・・」
 痛みに思わず声が漏れる。
 黒井の右手はたぶん、後ろからかかる体重を押し戻しながら、もう痙攣している。
 必死で僕の呼吸を守るべく。
「ごめ・・・ん・・・」
 右耳に、聞こえるか聞こえないくらいの囁き。
 お前、「あの」時も、こんな風にごめんって言うの?
 痛みとともに妄想が仮想現実に格上げされていく。
 ほんの一秒、ふたりの身体があの怠惰なベッドに飛んでいって、繋がっている、光景がまざまざと。
 ひゅう。腰が抜けたって、倒れられもしないんだってば。
 黒井の右手が死んで、だんだん落ちてくる。砦を失って、変な声すら出る。足がつってるんだって。
 そして。
 明大前。
 反対側のドアが開いたその一瞬を狙って、かかとを下ろす。足の裏もアキレス腱もつっているようだが、もう足の感覚が全部なくて、分からない。黒井の足が股間に差し込まれてるんだけど、それだって残念ながら感じない。
 乗り換えの客が降りて、徐々に圧迫が減る。黒井が、低くなった僕の肩に顔をうずめて短く息を詰め、背中で後ろを押して僕たちの間にほんの少しの隙間を作る。二人ともようやく息を吸い込んで、互いの肺の空気でまた隙間は埋まる。何度か胸がついたり離れたりするうち、やっとまともな空間が出来た。
 はあああああああ。
 ようやく息が出来る・・・。
 まあ、まだ向き合って、ほとんど抱き合ってるような状態だけど。
 さすがの僕だって考えつかなかったよ、こんな鬼畜プレイは。良かったけど、ちょっとしばらくはもう勘弁。
 ・・・新宿で降りてから、走れる自信、ないんですけど。

 しかし幸運は訪れるもので、電車のスピードがだんだん落ちていき、やがて止まった。駅でもないのに動かない。
「えー、お客様にお知らせいたします・・・ただいま・・・におきまして・・・安全確認が・・・」
 もしかして。
 遅延?
 遅延証明発行?
 助かるのか?
 黒井と顔を見合わせる、には近すぎるので、お互い体の動くところでつつきあって意思疎通を図る。おい、やったぞ。
 証明書さえゲットすればこちらのものだ。そうなればもう五分遅れるのも十五分遅れるのも同じで、あとは免罪符で知らん顔だ。
 ・・・ふう、よかった。
 ふと安心して、頭を黒井の肩に預ける。目を閉じた。悪いけど、やめろって言われても今は無理だから、お願い。
 まあ、やめろなんて言われないし、おい何だよって反応もされない。こいつはただ黙って、何でもない顔で受け止める。
 大丈夫なんだ、これくらい。
 それが僕に対してだけの反応なのか、っていう大問題は残ったままだけど。

 そうしてしばらく寝て、そしたら新宿について、免罪符をもぎ取り、ふらふらになって会社まで歩いた。黒井が肩を支えてくれたから、何とか歩けた。ここまでしてたどりついたけど、こんなんでこれから仕事なんて出来るのかね。
 ビルの前でネクタイを結ぶ。黒井のネクタイ。
 コートもマフラーもネクタイも、黒井の家に置いてきてしまった。今頃僕の私物が黒井の部屋で冬の日差しを浴びて、ぽかぽかと暖まっているのだろうか。羨ましい。
「はあ。じゃあ行く?」
「行きますか」
「もういろいろ無理だけどね」
 しかし、なぜか突然、今日が何曜日なのかを思い出した。
「あ、でも、もしかして」
「何」
「ノー残業デーだ」
「・・・あ」
 二人で顔を見合わせる。
「・・・帰ろう」
「そうしよう」
「速攻帰ろう」
「チャイムと同時に帰ろう」
 もう泣きそうな笑い。どこに帰るのか、までは、確定してないけど。
 あと、八時間と十一分。僕たちは最終日のツリーに一瞥をくれて、エレベーターに乗り込んだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・


 年末進行、というほどではないだろうが。
 交わした小さな約束は守られることなく、勝手に残業申請は出され済みで。昨日取ってきた案件の他に、遅刻直後に気まずさから電話を取っていたせいで新規の大型案件まで持ち上がって、やることを縦に並べたら天井につくんじゃないかと思った。
 ほとんど息をつく暇もなく、午後からこっち、飲まず食わずで、エクセルとパワポにかかりきりだ。外回りでカレンダーが配りたい。
 見かねて佐山さんがくれたチョコにも手をつけられないまま、陽も落ちるし、チャイムも鳴るし、やがてふつりと空調が切れて空気がすっかり残業モードになる。
 まさかチャイムで帰ったかなと思い、後ろを振り返る。黒井は席にいない。ケータイにはメールも着信もなかった。
 ふいに心配になり、給茶器で粉っぽい熱い茶を汲んで帰る途中に、黒井の席を通りかかってみる。
 PCはスクリーンセーバーになっていて、書類も出しっぱなし。
 まだいるのだ。
 少しほっとした。それにしても汚い机だ。部屋と同じで、がらくたはまとめて端に寄せてある。
「きったないよねえ」
「えっ」
 突然声がかかる。声の主は黒井の隣の席の秋山という、まあおじさんで、僕と同様給茶器から戻ってきたところだった。
「ほんとっすねえ」
「あのね、言ってもダメなの。しょっちゅう侵入してくんだよ。このへん」
 秋山はがらくたを指さしながら、自席に座る。彼の机はいたって綺麗だから、こういうのには我慢ならないんじゃないだろうか。
「こういう人が隣だと、大変ですねえ」
 素知らぬ顔で言ってみる。
「そうなの。何か気になっちゃって。でもね、片づけてやろうとしたら、何か、すっごい怒っちゃってさ」
 へっへっへ、と肩で笑う。何となくいけ好かない、おじさん特有の笑い方。
「ね?何でおれが怒られるのって話じゃない。ほんと、わっかんないよねえ」
 僕は適当にそうっすね、と声をかけ、じゃ、と会釈しその場を離れた。ふむ、しかし、どうやら黒井のキレ癖は、案外小さくいろいろなところで顔を出しているようだ。もしかして、みんなはこういう部分をとっくに知っていて、一歩敬遠しての「黒井さん」だったのか?僕の「黒井さん」のイメージが、ソツのない爽やか青年から、ワケあり?2こ上、デキるけど難しい子?、と移ろいゆく。
 一筋縄ではいかない。
 が、だからこそ、の、恋なのかも。
 黒井が分かりやすい人間じゃないから、惹かれて、いく、きっと。
 だって、毎日がこんなにも、ジェットコースターだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・


 遅々として進まない資料作りと格闘しながら、粗利を課長にチェックしてもらいつつ、ちょうど切れたプリンターの用紙を運んでフロアを往復する。
 その最中。
 何か、騒がしい一角。
 クリスマスの残業に抗議する女の子たち・・・というには、様子が少しおかしい。空気が張りつめていた。
「だって西尾ちゃん、今日の分は頑張って終わらせたんだし」
「大丈夫だから。もう、帰っていいよ」
「もう、こんなんじゃ、かわいそうだよ、見てらんない」
 女の子たちが西尾という後輩を慰めているようだ。当の西尾嬢はほとんど泣きそうな顔で唇を噛みしめている。言葉を発すれば泣き崩れてしまうのだろう、じっと一点を見つめてこらえていた。
 なんじゃらほい。
 女の子たちの対角に、いかにも気まずそうな男子。まるで小学生。
「だってさ、申請はそのままだったんだから、勘違いしたって仕方ないじゃんか。知らなかったんだから」
「もういいじゃん。やめやめ。帰ろ帰ろ。女子は帰んなよ」
「いや、別に、あたしたちはやるけど」
「お、強気」
「予定がないだけですー、なんて」
 互いにいきり立たないよう、乾いた笑いが挟まれる。しかし事態は膠着。誰も帰らないし、仕事にも戻らない。
 何となく、A4用紙の段ボールをいったん床に起き、肩が凝った振りをして遠巻きに様子を伺った。やがて課長が別部署の女課長を伴って現れ、事態は深刻さレベルを三つぐらい上げたようだった。
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