9 / 35
化学物質1
しおりを挟む
冬の遅い夜明け。乳を流したような白がくすんだ藤色の空に横たわっている。
てっきりもういないものと思ったが、覚はまだ隣で熟睡していた。学は目だけ開いて分散していた思考をゆるゆると集め、しばしの間、保留案件について考えることにした。
――とはいえ、猫は学が起きたことに、きっと気づいているだろう。
先ほどまでとほぼ同じ間隔の呼吸を心がけるが、学にも、覚が熟睡とみせてやや浅い眠りであることが分かった。何がどうだから、とはいえない。その違いはただ肌で感じるというよりないもので、理屈のつけられない身体感覚だった。
・・・いや、ふむ、昨夜と同様、学はそのことをよしとしたが、考えてみればそんなことはついぞ、久しい感覚だった。
――隣人の意識を意に介さず、我が思考を貫くとは。
考えが読まれているのでは、とまでは思わないが、石ころではない、精神のある者が視界に入った状態でまともな思考を紡げたことなど、記憶にある限りではもう思い出せなかった。
そして、それを意識してしまってなお、動悸も散漫も訪れない。その気配もない。
それはきっと、学と覚との決定的な違いがもたらしている僥倖だろう。猫は――存在としてのそれでなく、現実の一個体としてのそれは、およそ学にとって何者でもない。小石に等しいとまではいわないが、如何する相手でもない。
だから――本題に戻ろう。
学はまず、昨日自分の身に起こったことを余すことなく時系列に並べ、考えうる限りの検討、対応策、善後策を練ろうとした。練るべきだと思った。そうしてそれが全部済んでしまったらはたして、そのことをさておいて、未来の話をしようと思ったのだ。
――。
やめようか。
ふふっ、と鼻から笑いが漏れた。さすがに覚も起きるだろう。おや、起きないか。それならそれでいい――。
――学は、何も考えずに、庇の向こうの空を見つめた。ただひたすらに、べたっと絵の具を塗ったような藤色。その上に載った重たい感じの横長の雲。
・・・今日から自由、か。
自由というのは、朝に空を好きなだけ見ることだったか。
そんなことがしたいと望んだことは一回もないが、それをしながら深く息を吸い込んで枯葉のにおいを肺に溜め、ゆっくりゆっくり吐いてみれば、もうこれで十分かとも思った。すべてのことが億劫で、そして今日という日は何もしなくていい。一日くらい、食わずとも動かずとも何ということはない。ああ、この充足感。その先の虚無を見て見ぬ振りのもったいぶった優越感。学はもう一度、今度は少々わざと鼻を鳴らした。隣人の機嫌をうかがう必要はなく、期待に添えずとも知ったことではない。
昨日の反芻はやめだ。
未来の算段も、やめだ。
巨塔に行くなら行けばいい。<どんなつもり>だってどうだっていいさ。
――つと、やはり、いや、まるで身体の期待に応えるかのように、腹の底がぐうと重くなり、無意識に右の奥歯を食いしばった。
だめだ。やはりだめだ。それでは落とし前になっていない。「何かが欲しい」。空など見飽きた。やはり「何かが欲しい」。
首を振って、体を起こした。耳を立てて、辺りを見回す。そういえば今日は土曜だ。何だ、どちらにしても空を見る自由はあったのか。
――そして。
数十秒、何とはなしにぼうっと考え、昨日の砂袋の男はどうしたかなと思った。顛末を知っているのは学と覚だけ。同僚はもうその亡骸を発見しているだろうが、その事象の処理方法が何番になろうが、報告先がどこであろうが、もうすべてうやむやに投げ捨てて逃げてきた自分には考える必要もないし、たとえ処理方法が明確になったところで戻るつもりもないし、戻りたくないし、戻らない。
・・・と、そのような、「昨日のこと」に関する曖昧な認識はあった。しかし今、急に突然に、もしかしてこれは「処理ミス」とか「報告漏れ」とかの社内の問題じゃなく、警察が管轄する公の世界の<殺人事件>という枠の話になるのじゃないか? と、この期に及んで初めて、唐突に、思い至った。
まずは、今の今までまったくそのような認識に至らなかったことに驚き、笑いすら出た。ビビったり、ヤバいとも思わなかった。学は自分でも常々、この思考のステージやレベルや領域(フィールド)の狭量さ、融通の利かなさ、遊びのなさ・・・というか、縦横無尽なダイナミズムのなさみたいなものには辟易としていた。しかしまさか、こんなところでそれがいかんなく発揮されるとは。社内のマニュアルと人事にひたすら振り回され、情けなくもそれに自分を合わせ、ジャラジャラのパチンコ台とか、窓を伝う雨だれのような無意味なフロー表をひたすら見つめてその動向パターンを自らにインストールし、心身ともに「ウチ(弊社)」になってしまっていた自分には、「ひとごろし」という文字すら分からなくなってしまっていたようだ。
――土曜の朝に何も考えず空を眺める自由?
・・・糞っくらえだ。
てっきりもういないものと思ったが、覚はまだ隣で熟睡していた。学は目だけ開いて分散していた思考をゆるゆると集め、しばしの間、保留案件について考えることにした。
――とはいえ、猫は学が起きたことに、きっと気づいているだろう。
先ほどまでとほぼ同じ間隔の呼吸を心がけるが、学にも、覚が熟睡とみせてやや浅い眠りであることが分かった。何がどうだから、とはいえない。その違いはただ肌で感じるというよりないもので、理屈のつけられない身体感覚だった。
・・・いや、ふむ、昨夜と同様、学はそのことをよしとしたが、考えてみればそんなことはついぞ、久しい感覚だった。
――隣人の意識を意に介さず、我が思考を貫くとは。
考えが読まれているのでは、とまでは思わないが、石ころではない、精神のある者が視界に入った状態でまともな思考を紡げたことなど、記憶にある限りではもう思い出せなかった。
そして、それを意識してしまってなお、動悸も散漫も訪れない。その気配もない。
それはきっと、学と覚との決定的な違いがもたらしている僥倖だろう。猫は――存在としてのそれでなく、現実の一個体としてのそれは、およそ学にとって何者でもない。小石に等しいとまではいわないが、如何する相手でもない。
だから――本題に戻ろう。
学はまず、昨日自分の身に起こったことを余すことなく時系列に並べ、考えうる限りの検討、対応策、善後策を練ろうとした。練るべきだと思った。そうしてそれが全部済んでしまったらはたして、そのことをさておいて、未来の話をしようと思ったのだ。
――。
やめようか。
ふふっ、と鼻から笑いが漏れた。さすがに覚も起きるだろう。おや、起きないか。それならそれでいい――。
――学は、何も考えずに、庇の向こうの空を見つめた。ただひたすらに、べたっと絵の具を塗ったような藤色。その上に載った重たい感じの横長の雲。
・・・今日から自由、か。
自由というのは、朝に空を好きなだけ見ることだったか。
そんなことがしたいと望んだことは一回もないが、それをしながら深く息を吸い込んで枯葉のにおいを肺に溜め、ゆっくりゆっくり吐いてみれば、もうこれで十分かとも思った。すべてのことが億劫で、そして今日という日は何もしなくていい。一日くらい、食わずとも動かずとも何ということはない。ああ、この充足感。その先の虚無を見て見ぬ振りのもったいぶった優越感。学はもう一度、今度は少々わざと鼻を鳴らした。隣人の機嫌をうかがう必要はなく、期待に添えずとも知ったことではない。
昨日の反芻はやめだ。
未来の算段も、やめだ。
巨塔に行くなら行けばいい。<どんなつもり>だってどうだっていいさ。
――つと、やはり、いや、まるで身体の期待に応えるかのように、腹の底がぐうと重くなり、無意識に右の奥歯を食いしばった。
だめだ。やはりだめだ。それでは落とし前になっていない。「何かが欲しい」。空など見飽きた。やはり「何かが欲しい」。
首を振って、体を起こした。耳を立てて、辺りを見回す。そういえば今日は土曜だ。何だ、どちらにしても空を見る自由はあったのか。
――そして。
数十秒、何とはなしにぼうっと考え、昨日の砂袋の男はどうしたかなと思った。顛末を知っているのは学と覚だけ。同僚はもうその亡骸を発見しているだろうが、その事象の処理方法が何番になろうが、報告先がどこであろうが、もうすべてうやむやに投げ捨てて逃げてきた自分には考える必要もないし、たとえ処理方法が明確になったところで戻るつもりもないし、戻りたくないし、戻らない。
・・・と、そのような、「昨日のこと」に関する曖昧な認識はあった。しかし今、急に突然に、もしかしてこれは「処理ミス」とか「報告漏れ」とかの社内の問題じゃなく、警察が管轄する公の世界の<殺人事件>という枠の話になるのじゃないか? と、この期に及んで初めて、唐突に、思い至った。
まずは、今の今までまったくそのような認識に至らなかったことに驚き、笑いすら出た。ビビったり、ヤバいとも思わなかった。学は自分でも常々、この思考のステージやレベルや領域(フィールド)の狭量さ、融通の利かなさ、遊びのなさ・・・というか、縦横無尽なダイナミズムのなさみたいなものには辟易としていた。しかしまさか、こんなところでそれがいかんなく発揮されるとは。社内のマニュアルと人事にひたすら振り回され、情けなくもそれに自分を合わせ、ジャラジャラのパチンコ台とか、窓を伝う雨だれのような無意味なフロー表をひたすら見つめてその動向パターンを自らにインストールし、心身ともに「ウチ(弊社)」になってしまっていた自分には、「ひとごろし」という文字すら分からなくなってしまっていたようだ。
――土曜の朝に何も考えず空を眺める自由?
・・・糞っくらえだ。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
魔界最強に転生した社畜は、イケメン王子に奪い合われることになりました
タタミ
BL
ブラック企業に務める社畜・佐藤流嘉。
クリスマスも残業確定の非リア人生は、トラックの激突により突然終了する。
死後目覚めると、目の前で見目麗しい天使が微笑んでいた。
「ここは天国ではなく魔界です」
天使に会えたと喜んだのもつかの間、そこは天国などではなく魔法が当たり前にある世界・魔界だと知らされる。そして流嘉は、魔界に君臨する最強の支配者『至上様』に転生していたのだった。
「至上様、私に接吻を」
「あっ。ああ、接吻か……って、接吻!?なんだそれ、まさかキスですか!?」
何が起こっているのかわからないうちに、流嘉の前に現れたのは美しい4人の王子。この4王子にキスをして、結婚相手を選ばなければならないと言われて──!?
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれた女子高生たちが小さな公園のトイレをみんなで使う話
赤髪命
大衆娯楽
少し田舎の土地にある女子校、華水黄杏女学園の1年生のあるクラスの乗ったバスが校外学習の帰りに渋滞に巻き込まれてしまい、急遽トイレ休憩のために立ち寄った小さな公園のトイレでクラスの女子がトイレを済ませる話です(分かりにくくてすみません。詳しくは本文を読んで下さい)
歪像の館と消えた令嬢
葉羽
ミステリー
天才高校生・神藤葉羽(しんどう はね)は、幼馴染の望月彩由美から奇妙な相談を受ける。彼女の親友である財閥令嬢、綺羅星天音(きらぼしてんね)が、曰くつきの洋館「視界館」で行われたパーティーの後、忽然と姿を消したというのだ。天音が最後に目撃されたのは、館の「歪みの部屋」。そこでは、目撃者たちの証言が奇妙に食い違い、まるで天音と瓜二つの誰かが入れ替わったかのような状況だった。葉羽は彩由美と共に視界館を訪れ、館に隠された恐るべき謎に挑む。視覚と認識を歪める館の構造、錯綜する証言、そして暗闇に蠢く不気味な影……葉羽は持ち前の推理力で真相を解き明かせるのか?それとも、館の闇に囚われ、永遠に迷い続けるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる