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1.すごいのきた
しおりを挟む「なんか、すごいのキちゃった」
久しぶりに幼馴染の小野ゆかりの部屋にお呼ばれした悠木堂明貴は、手にした麦茶の入ったコップのフチに口を付けたまま、しばし硬直せざるを得なかった。また幼馴染が妙なことを口走り始めた、とか、巻き込まれる前にとっとと退散しよう、などとは微塵も思っていない。
「……そうか。よかったじゃないか」
彼が心配したのは、また道端で何か拾い食いでもしたのだろうか、という一点のみだった。お互い小学生になり早いもので、五年の月日が経過している。さすがにそういうあまりに野性的な行動は慎むべきだと日ごろから言い聞かせているのだが、どうもいまいち理解していなかったと見える。
「うん……。すごいのがね、キちゃったの」
もう一度、明貴に言い聞かせるようにゆっくりと発言するゆかり。実に見事な真顔であり、とても冗談やからかいを言っているようには見えない。そうだ。彼女はいつだって本当のことしか言わない。自分の中の真実に対してひたむきであり、真摯だ。
「明貴くん、わたしね、ほんとのことしか言わないよ」
「それはわかっているけど」
先ほどからこの調子だ。具体的に何があったのかを口にしない。ただ彼女の中ではとてつもなく「すごいの」であり、困ったことにゆかりはその感覚が幼馴染にも備わっていると思っているのだ。だから言語化せずとも、伝わると信じている。
ゆえに明貴は自身の発揮できる最上級の思考力と、会話における前後の脈略と場の雰囲気により何となくであるが、彼女の言いたいことを察することができるようになっている。
「トイレに行きたいなら、行ってくるといい。僕は別に部屋を荒らしたりはしない」
拾い食いして腹を壊すのは昔からだ。最近はその頻度は減ったようだが、癖自体がなくなったわけではなかったというわけだ。まったくもってやれやれな幼馴染である。いちいち報告することもなかろうに。
「違うよ! お腹なんて壊してないし、拾い食いだって最近はしてないから!」
「……そうか。それはよかった。何年も言い続けてきた甲斐があったというものだ」
明貴は思わず顔をほころばせる。彼女の悪癖にはほとほと困り果てたものだったが、そうか。彼女は克服していたのだな。これは間違いなしに朗報であると、彼は思った。
「あのね、明貴くん。今日はそんなこと報告するために呼んだんじゃないよ。……見て欲しいものがあるの」
「ほう。改まって何を見て欲しいと?」
幼馴染の朗報を聞いた明貴の機嫌は良い。今ならどんなにくだらなく、どんなに口にするのも憚るような普通じゃない趣味をカミングアウトされても笑顔で受け入れることができるだろう。それとも庭先で拾ったドングリでも見せてくれるのだろうか。いいね、子供らしくてとてもいい。可愛い。今の彼のハードルは、近年稀に見るほど低かった。
「……うん。じゃあ見てて。わたしの——変身」
覚悟を決めたように、ゆかりが立ち上がり言った。
胸元から提げていた小さなペンダントを取り出し、己の頭上に掲げる。すると信じがたいことにペンダントの翠玉色の宝石に光が灯り、それが部屋中に広がっていくではないか。
眩しい輝きは徐々に強まっていき、ついに明貴は目を瞑った。しかし不思議なことに、これだけ目映い光だというのに少しも目に痛くない。
優しさすら感じさせる緑の光が弱まると、先ほどと変わらない部屋が広がる。唯一変わっていたのは、目の前に立つゆかりの服装だけだった。
先ほどまで着ていた服ではない。もっと少女趣味満載で、フリルとレースで豪奢にあしらわれていて、頭には大きなリボンの髪飾りがある。先ほど輝いた翠玉色の宝石がそこにはめ込まれているようだった。
唖然とした様子で姿の変わった彼女を見ていた明貴は、やがて小さく頷く。
「……うん。可愛い服だね。お母様に買ってもらったのか?」
「違うよ! 目の前で見てたでしょ!? 変身したんだよ、変身!」
「確かに見事な早着替えだった。驚いたよ、いつの間にそんな特技を身につけたんだ?」
「だから違うの! これは変身で——!」
「それに——うん、いいね。可愛い服だ。とてもよく似合ってるよ。可愛い」
「え——そ、そうかな? ちょっと……派手じゃない?」
「そんなことはない。ゆかりはきちんと着こなせてる。普通の人間にはこうはいかない」
「え、えへへ……ほ、褒めすぎだよ明貴くんは……」
頬を赤らめてはにかむように悶えるゆかり。明貴は満足げにそんな少女を眺めている。コップの麦茶を一口含む。うむ。美味い。
もはや新しい洋服の鑑賞会になりつつあった部屋の中で、唐突に第三者の声が響いた。ゆかり、明貴以外の、いないはずの三人目の人物の声である。
「どうやら信じていないようだね。じゃあ、ボクが説明をしてあげよう」
少女のような、少年のような——どちらとも取れない中性的な声だった。見渡しても部屋の中には二人以外の人間はいない。どこからともなく聞こえてくる謎の声だ。
明貴はこの異常な事態に不意を突かれ、思わず硬直してしまう。
……面妖な。
悪戯だろうか。いいや違う。ゆかりはこんな手の込んだ悪戯をできる知性を有していない。大体、彼女は他人を陥れるだとか、からかってほくそ笑むという発想すら抱くことはないだろう。なぜなら彼女は天使だからだ。
色素の薄い、艶やかに輝く長い髪。切り揃えられた前髪。その下にある大きな黒い瞳。薄い桃色の唇。恥ずかしがるとほんのりと赤く染まる頬——どこをとっても、まるで偉大な何者かによって造られたのではないかというほどの完全なる存在。αでありΩ。それが小野ゆかりだ。
ゆかり。ああ、ゆかり。その名を呟く己の舌の動きすら愛おしい。ゆかり。ゆかり。ゆ・か・り——。
「……何だか別のことを考えてるようだけど、大丈夫かい……?」
「明貴くん? もしもーし?」
「……大事ない。少し考え事をしていただけだ」
そうだ。今はこの異常な事態に対処しなくてはならないのだ。
軽く首を振って雑念を追い出す。まさか本当に面妖な存在がこの部屋の中にいるのだろうか。
そんなことを考えてゆかりを一瞥すると——その、頭の横に、ふわふわと浮遊する白い毛玉が見えた。
「……ッ!」
思わず息を呑む。そして毛玉の中にある、小さな目玉と、目が合ってしまう。
「ボクが見えるようになったみたいだね」
喋った……だと……。
そこには確かに、白い色をした謎の物体がいた。それを凝視した瞬間、慄然たる思いで明貴は確信する。先ほどまでは捉えられなかった存在であるが、間違いない。この生物のようなものが、面妖な気配の正体であるのだと。
凝視し、存在を認識してしまった明貴の体に戦慄が走った。綿毛のような白く美しい体毛を結わえ、一見するとこの部屋に山ほどある愛玩具(ぬいぐるみ)のようにも思えるが——違う。それらは決して喋りはしないからだ。手足は四本あるようだがひどく短く、その貌はどこか猫科の動物を連想させ、しかし冒涜的なまでに簡略化されて造形されているように見えた。体と同じく体毛に覆われた尾のような器官が幼馴染の腕の中で左右に揺れており、それがいつゆかりの首に巻き付き、絞め殺そうとするのか——そう考えただけで明貴は気が狂いそうになる。
「あの、そんなどこぞの神話生物っぽく語られるのってすごく心外なんだけど」
生き物が何か言っているが無視することにする。得体の知れない存在であることに変わりはなかろう。
「ゆかり。そいつから離れるんだ。危険な生物かも知れない」
「危険じゃないよう! ゆかりの友達だよお!」
「しかし……」
ゆかりはぷんぷんとわかりやすく怒りながら生き物を庇っている。明貴ははたと気付く。そうか。その愛玩具のような外見は少女の庇護欲に訴えかけるためのものなのか。
ジッと凝視する。
こいつは何なのだ? 今まで生きてきた中で——といってもまだ十年かそこいらでしかないが——こんな生き物のようなものを見たことはない。
「……危険はないのか?」
「うん。友達だもん!」
「その通り。ボクとゆかりは友達だよ」
少年のような少女のような中性的な声——まるで性別といった概念すらもないのだと言うように、それは少年に向かって語りかけ始めた。
「ボクはあるすぃんくえりえとぅとふ。単純にアルと呼んでくれて構わないよ」
「……アル……」
思わず口に出してしまう。それが目の前に浮かぶ名状しがたき存在の名であった。
「お前は何者だ。何が目的でゆかりに近づく」
喉が渇く。コップの麦茶を一口飲み、そう問うてみる。麦茶は美味い。
「……君は、何か誤解をしてるよ。ボクは君が思っているようなものじゃないんだけど……」
「そうだよ。まずはアルくんのお話を聞いてあげて」
「……わかった。話を聞こう」
「話が通じて助かるよ」
ホッとした様子で胸を撫で下ろすアル。
「じゃあ最初に、ボクたち〝使徒〟のことについて話させてもらうよ」
「……使徒」
その単語は少し前に劇場版が公開されて話題を呼んだ、とあるアニメを彷彿とさせる。
そして〝使徒〟というのは、そのアニメでは理解不能の謎の敵として存在していたものたちの名称でもあった。
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