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【四】元宵節

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 泣き疲れるまで泣き果てた青月せいげつを抱きながら、黄琳おうりんは苦笑する。

(全く、中身はやっぱりまだ大人になり切れていないんだな)

 画師として招かれ、生活面の面倒を見て貰っているはずなのだが――主人の面倒を見る役目は画師の仕事に含まれていたのだろうか?
(いや、そういうんじゃねえな)

 なんだか年の近い弟みたいだった。自分より強くて頼れる、大きな弟。それでも、まだ手を差し伸べられる余地がある。

「――っ危ない!」

 眼前に迫りくる光景に瞠目した。咄嗟に青月せいげつを突き飛ばす。巨大な猪でもぶつかったような、そんな衝撃だった。縛られ、転がされていたはずのほう希祥きしょうがその戒めを解き、こちらへと飛び掛かってきたのだ。

(しまった、あいつ、まだ力を遺していたのか)

 激しい衝撃に耐えきれず、口の中に鉄錆の味が広がった。弾かれ、身体ごと方知県に持って行かれた先は、深い崖。

黄琳おうりん!」

 青月せいげつの声が聞こえた。しかしその表情を確かめる術も無く、崖下へと落ちてゆく。

「く……そ……!」

 下から吹き上がる冷たい風と、落ちゆく衝撃。どこかに掴まろうにも、ほう希祥きしょうががっちりと黄琳おうりんを掴んでいる。

「よくも邪魔をしてくれたな! 青月せいげつを道連れにするはずだったのに!」
「へっ……馬鹿、だな。させねえよ!」

 落下の速度で身が引き千切れそうだが、不思議と笑いが零れてくる。相手の思惑を打ち破っただけでもしてやったりだ。会心の笑みをほう希祥きしょうに見せつけてやる。咄嗟に体が動いただけだったが、自分にしては上出来だったのではないか。

「しかし、お前を道連れにしたことで、青月せいげつは悲しむだろう! 随分お前の絵を買っていたようだからな! あいつは生真面目でお人よしだ。自分を庇って死んでいった者に対して、一生後悔して、悔やみ続けることだろうさ!」
「冗談、じゃ、ねえよ!」

 右手が動くのが幸いだ。考える前に懐から抜き取ったそれを、力の限りほう希祥きしょうの肩に突き刺した。

「ぐああああ! お前、何を……!」

 吹きすさぶ風に包んでいた布が飛び、中から簪が姿を見せる。――幽鬼の少女、孫姜そんきょうが遺していった簪だ。叫ぶほう希祥きしょうの肩に捩じり込むようにして黄琳おうりんは叫ぶ。

孫姜そんきょう! お兄ちゃんに届けてやったぞ! これからはずっと一緒だ!」

 声に呼応するように、ぞわりと空気が淀んだ。

『お兄ちゃん……』

 簪から溢れる瘴気がほう希祥きしょうだけを包み込む。真っ黒な淀みに覆われたほう希祥きしょうの表情が恐怖に染まった。

「な、何だ!? 止めろ、やめろ! はなせ!」
『だいすき……ずっと、一緒よ……』
孫姜そんきょう、俺が、俺が悪かった! やめろ! 来るな!」
「つれねえこと言ってんじゃねえよ、好きでもない男と心中するよりは、いくらかマシってもんだろ!?」

 俺はまだ、死ねないからな。そう呟くと再び孫姜そんきょうの声が聞こえた気がした。

『有り難う……』

 その瞬間、黄琳おうりんの身体がほう希祥きしょうから離れ、逆方向に弾かれる。ほう希祥きしょうの断末魔を聞きながら、共に堕ちてゆく孫姜そんきょうに想いを馳せた。

(最後に助けてくれたのか、ありがとな)

 とはいえ、それは僅かな間のことで、ややあって再び体は落下を始める。黄琳おうりんは空が飛べないわけで、落ちるに身を任せながら天を見上げた。――薄っすらと色づいた空に長庚が光る。その長庚を掴むように、力いっぱい手を伸ばす。

「馬鹿者! 死ぬ気か!」

 腕を掴む感触、引き上げられる感覚。急速に上昇へと転じた衝撃で、胃が飛び出しそうだ。それでも、待ち人の到来に頬が緩むのを隠せなかった。

(ほら、やっぱり)

 抱きしめられて、前を見ることができない。目を閉じたまま「悪かったな」と詫びる。庇ったことを詫びる必要はないのだが、これは心配をかけた詫び、である。

「どうして君は、すぐに飛び降りるのだ! もしも間に合わなかったらどうするつもりだったんだ!」

 おかしなことを聞くものだ。黄琳おうりんは笑った。

「そりゃあ、間に合うって信じてたからに決まってるだろ」
「なっ……」
「間に合ったじゃねか」

 悔しそうな青月せいげつの呻きが聞こえ、笑いを押し殺す。ゆっくりと崖を跳躍していく様子を見て、助かったのだと実感した。安心したら――眠くなってきた。先ほどは青月せいげつに肩を貸してやったのだから、多少は微睡んでも怒られないだろう。

    * * *

 ようやく崖を超え足が地に着いた。宙に浮きっぱなしのままでは、居心地が悪い。

「はぁ、危ないところだったぜ」
「全くだ。先ほどは私を庇ってのことだったとはいえ……無茶をするのもほどほどにしてくれ。他人を大事にするのと同じだけ、自分も大切にするべきだ」
「悪いな、肝に銘じておくよ」

 青月せいげつに礼を言い、離れようとすると――腕を掴まれる。何事か、と問えば厳しい視線が向けられた。

「ところで――お前は誰だ?」
「は? 何を……」
「先ほどまでは確かに黄琳おうりんだった。だが今は違う。黄琳おうりんの中にいた――画仙か」

 長い沈黙が続く。しかしその視線は画仙を逃がさぬと語っている。もはや隠しおおせることはできないと感じ、青月せいげつの言葉を肯定することにした。

『如何にも。儂はかつて画仙と呼ばれていたものである』
「そのような人物がいたことは把握している。だが、それと黄琳おうりんとは無関係だ。彼の身体を返して貰おうか」
『無関係? この男の身体は、儂が転生するための器である。……少々力が強すぎて、逆に儂が封じられることになってしまったがの。あの幽鬼を呼び出す際、多く力を使ってくれたお陰で、こうして出てくることができた、というわけじゃ』
「御託はいい。黄琳おうりんを返して貰おう」
『ほほ、返すと思うか? ようやく長い年月をかけて、意識が表に出ることができたのじゃ。それまでは、あやつの隙をついて左腕を動かすことしかできなんだ。画師を志したのも、儂が内部から働きかけた賜物じゃ。そうでなければあんな才能で画業を為そうなど――』

 ヒヤリと冷たいものが首に当てられた。しかし、青月せいげつが殺せるはずがないことを知っている。

『止しなさい。儂を殺そうとすれば、この器を殺すことになってしまうのだぞ』
「貴様の魂だけを切り裂けば、問題はなかろう」
『できないことは言うものではないぞ。道士にだって不可能な話』
「できると、言ったら?」

 煙るような白が周囲を包む。全てのものが朧げに見え、幻が広がっているようだ。先程まで崖の上に立っていたと思ったはずが、今では全く違う場所に立っているように思えた。それは、彼が見せる幻なのか。気づけば、先ほどまで崖上にいた県官たちも見当たらない。――やはりこれは、彼が作り上げた一種の結界の中であるのか。

 そして最も驚くべきは、青月せいげつの持つ剣の輝きだ。まるで剣を包むように、眩いまでの光が溢れている。まるで、剣自身が光っているような――。そして、遅れて追いかけてきたはずの青月せいげつが、容易く黄琳おうりんの手を掴めた事実。

『よもや……神仙の境地に足を踏み入れているのか!』

 青月せいげつの表情を見て確信した。彼は既に神の領域に達しているのだ。画仙である自分、描いた生き物を現実のものとできるほどの力を持った自分ですら到達できなかった境地に、僅か十九の男が立っている。羨望と口惜しさで、ぎりと歯を軋ませた。

「到達したのは、つい先ほどだ。……黄琳おうりんを助けたい一心で、気づけばそうなっていた。彼は私のために命を懸けてくれた。家族を救ってくれた。彼を害することは絶対に許さない。彼の絵を、生き方を否定するのは断じて許せない」

 画仙は愕然とした。あれほど仙の境地に憧れ、人々を従えて、それでも辿り着ずに無理やり転生をしようとしたというのに。目の前の男は、画仙の器を助けるために、容易く人としての壁を超えてしまったのだ。

(しかし、そうなると抵抗する術がない)

 常人であればなんとでもなる。しかし画仙とて、常人以上――人間を超えた存在とやり合えるほどの力はなかった。とみに、一時的に体を支配しているだけの半端な状態では。

『……分かった、儂の負けじゃ。今日の所は体を返す』
「二度と出てくるな。出てくればすぐにでも消す」

 この男の覚悟が恐ろしかった。しかし、また機会はあるだろう、と思い直す。少しずつ力を溜めて、また奪えば良いのだ。

    *

 微睡みから醒めると、周府の一室に寝かされていた。戸惑う黄琳おうりんをよそに、青月せいげつに抱きしめられた。聞けばまる二日ほど眠ったままで、そのあいだはずっと青月せいげつが看病を続けていたのだと言う。
 慣れない寝台の上、丸めたふかふかの布団に背中を預けながらぼんやりとしていると、青月せいげつが入ってきた。手には盆を、その上には椀が載っている。

「粥を作ってきた」
「あんたが?」
「そうだが」

 作れるのか?という視線を投げかける。

「ちゃんと、周府の厨師に見て貰いながら作った。味も見てもらっている」
「俺は何も言ってねえけど……」
「顔が言っている」
「……」

 ひと匙粥を掬い、口へと運ぶ。予想の数倍、美味いと思う。

「うん、美味いな」

 得意げな青月せいげつに苦笑しながら、少しずつ粥を口に入れる。本当はもっとガッツリしたものが食べたいのだが、少しずつ馴らしたほうが良いと皆に力説されてしまった。お腹は少々寂しいが、心配されていると思えば我慢もできる。

 食事をしているあいだに、あれからどうなったのか、結局なんだったのか、ということを青月せいげつは順を追って話してくれた。

 ほう希祥きしょうは周紫楠しなんのことをずっと想っていた。しかし、結局彼の気持ちは紫楠しなんには届くことはなく、彼女が婚約した相手が貧しい書生だったことで、彼の抱いた想いは狂気へと変わった。

 孫姜そんきょうを騙し、暴漢を装って闘いの果てに紫楠しなんを殺したほう希祥きしょうだったが、互いの腰佩が外れ、どちらが自分のか分からなくなってしまった。片方にはヒビが入っており、持っていればそれだけで怪しまれる可能性もある。だからこそヒビが入っていない腰佩を自分の物として彼は持ち去ったのだろう。

 検屍を担当した張呉ちょうごには、家族を悲しませないためとでも言って、彼女が身籠もっていた事実を伏せさせたに違いない。
 しかし、しゃ涼鸞りょうらんはそのことを、恋人の紫楠しなんから聞いて知っていた。だから、その事実が家族にすら伝えられなかったことに疑問を抱き、張呉ちょうごを問い詰めた。結果として張呉ちょうごの疑念は口止めをしたほう希祥きしょうに向かい――張呉ちょうご孫姜そんきょうの存在に辿り着いた。

 ほう希祥きしょう張呉ちょうごに長年ゆすられていたようで、彼の生活はそのせいか比較的質素なものだったようだ。張呉ちょうごを殺そうと思ったのは、知県を拝命したことで、更に金をむしり取られるのではないかとの不安からだったのかもしれない。

「それから――知県が殺された一件にも、希兄さん……ほう希祥きしょうが絡んでいたのだと思う」

 淡々と青月せいげつは語ったが、未だ彼のことを『希兄さん』と言ってしまい、困った顔をしている。

 蠱怨門殺手であった璃愁りしゅうが、身分を隠して陽城に潜んでいたことに、ほう希祥きしょうはいち早く気づいたようだ。恐らくは孫姜そんきょうの助けがあったのかもしれない。そして、璃愁りしゅうが知県の息子と恋仲であることを知り、うまく利用して知県を排除できないかと目論んだと思われる。彼が知州の元に出立した時期は、陶知県が死ぬ前日――つまり、明らかに陶知県が死ぬ可能性がある日は、陽城から出て疑いの目が向かぬようにしたのだ。

 しかし、彼の尾行に一流の殺手である璃愁りしゅうが気づかぬはずはない。
 すぐさま彼に気づいた璃愁りしゅうに、敗れてしまったのだろう。
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