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【一】蛇妖

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 ひとしきりお詫びの朝餉を堪能したあと、二人は県衙門をあとにした。張りのある長袍が、風に靡いて何だかくすぐったい。
 黄琳おうりんが着ている藍の長袍は、彼が調達してくれたもの。それまで黄琳おうりんが来ていた粗末な長袍は、獄舎に入れられているときに、自分の血やら何やらで随分汚れてしまったのだ。もう何年も着古し黄ばんだ服しか着たことがなかったため、自分がとても似合わぬ恰好をしているようで気恥ずかしい。

「彼は……丁蓬ていほうは私の邸に下宿していたことがあったんだ」
「それはつまり、周知州の邸にってことか?」

 その通り、と青月せいげつは頷く。県尉になるもう少し前の丁蓬ていほうは、知州の下で働いていたそうだ。当時の周知州――青月せいげつの父は、まだ知州ではなく、知県としてこの陽城で暮らしていたのだ。
 丁蓬ていほうは優秀であったが私生活が散漫で、宿舎暮らしにもかかわらず、仕事に没頭するあまり、飯も碌に食べようとしなかった。あるとき空腹で倒れた彼を見かねて、邸に住まわせるようになったらしい。

「父上が知州として赴任されたあとは、丁蓬ていほうの結婚が決まり周府を出て行った。嫁殿の努力のかいあって、彼の生活もようやく人並みになったらしい。おかげで少し太ったと、この前話していた」
「へえ、あの怖い県尉さんにそんな過去があったとはね。知らなかったぜ」

 丁蓬ていほうがあれほど好意的に青月せいげつに接するのは、周知州と青月せいげつへの恩もあるのだろう。青月せいげつに従い、情報を話してくれるのは、青月せいげつが京師からやってきた刑部侍郎だから。そして知県の死によって、県官たちを纏められるものが青月せいげつ以外いないからだ。

「先ほど周侍郎様は『蛇妖に見せかけた』と言ってたけど、蛇妖はいないと思っているのか?」
「その呼び方は落ち着かない、青月せいげつで構わない。いないとまでは言わないが……少なくとも、首筋に蛇妖が食らいつくのは難しいだろうな。あの大きさでは大蛇よりも小さい口になってしまう」

 言われてみれば人間の首筋に二つ印をつけられる程度の牙を持つ蛇は、もはや蛇妖とは言えないほど小さな蛇だろう。大きいといえば大きいが、蛇妖を名乗っていいかは正直微妙なところだ。

「――俺は、蛇妖はいると思ってる」
「どうしてだ?」
「俺が捕まった理由の一つである璃愁りしゅうの絵には、彼女に食らいつく巨大な蛇妖の姿が描いてあった。つまり蛇妖はいて、彼女は蛇妖に襲われるということじゃないかって……」
「君が怪しげな絵を描いたという話は、丁蓬ていほうたちから聞いている。しかし、人気の璃愁りしゅうが蛇妖に食われる絵を描いたとて、それだけで璃愁りしゅうが死ぬわけではないだろう? なのにどうして……君は自分の絵なのに、自分が描いた絵ではないような言い方をするんだ?」

 黙っていても良かったのだが、何となく彼と話していたらつい口から出てしまった。不味いことを言ったなあと思ったが、彼のことを試してみたい気持ちも湧き上がる。

「あんたは画仙って知ってるか? 画聖だとか画神だとか呼び名はいろいろあるらしいけど」
「噂程度に聞いたことはある。描けば絵に命が宿るとまで言われた高名な画師であったとか」
「俺の左腕には、そいつの力が宿ってるんだ」

    *

 描けば絵に命が宿る――そう呼ばれた画仙の力は本物だった。

 二つとない画仙の絵を欲しがるものは毎日のようにたくさんの金錠銀錠を積み上げ、列を成していたらしい。
 彼の絵に憧れ、力に憧れ、たくさんの弟子や信望者たちが彼の元には集まった。やがて彼の住んでいた庵の周りにはたくさんの人々が住むようになり、ある種の集落のような形になった。それを「墨桃会」という。
 画仙はそこで、皇帝か何かのように振る舞っていたそうだ。
 およそ『画仙』などという渾名とは程遠い、贅沢な暮らし。女にも不自由せず、欲しいものは何でも容易く手に入れる。数々の名声を欲しいままにし、人ならざる力を持っていた彼ではあったが、しかしそれでも寿命には勝てなかった。

 ――そうだ、転生して赤子の身体に己の魂を移せばよい。

 幸い彼には、彼を支援してくれるたくさんの信望者がいる。画仙はその中からもっとも自分と相性の良い赤子の身体を選んだのだ。

 その赤子が黄琳おうりんであった。

 しかし所詮は画師風情。幾ら素養があったとはいえ、赤子の身体を乗っ取るという所業は画師程度の人間には難しかったのかもしれない。大金と名声を駆使してたくさんの術師を呼び、転生の術を施したものの、結果は半分成功で半分失敗といったものだった。

 赤子に宿った力は左腕のみで、その力も限定的。それが『誰かの未来を描く力』だったのだ。ついでに右腕には黄琳おうりんの制御で行使できる――『万物に己の代行を課す力』が宿った。その一つが昨晩使った失せ物を探す力だ。画仙のようにはいかないが、墨を媒介にして何かを見通し、探すことが黄琳おうりんにはできる。これは画仙の力が別の形で影響を与えたのだろうと考えている。

 画仙の望みとは裏腹に、黄琳おうりんの意識は消えることなく残り続けた。画仙の意識がどうなったのかは分からない。黄琳おうりんは彼の画力を受け継ぐことはなかったし、左腕だけが辛うじて画仙の頃の絵を引き継いでいるようだ。

 黄琳おうりんに言わせれば――自業自得だくそくらえ、である。

 物心ついたときには画仙の信望者たちに囲まれて、よく分からぬまま郷の人々から世話をされていた。
 こんな不気味な場所にいられるか!
 と思い立って郷を飛び出したのは、いろいろ知恵がついてきたあとだった。

 あとは流れに任せ旅を続け、食えるものを食い、馬の餌を盗み食いしたり、まあいろいろな経験を経て、気づけば画業を志し露店を構えていた。

 画仙にはなりたくなかったのに、どうして画師になろうとしたのかは分からない。もしかしたら、画仙への反抗心や反発心もあったのかもしれないと、今になって思う。画仙の力を受け継いだはずなのに、左手以外の絵は壊滅的だったのも、理由の一端を担っていたかもしれない。――とにかく、十年も自力で生き延びてきた黄琳おうりんはすっかり逞しくなっていた。
 主に胃袋面と精神面で著しく成長し、画力は特に上がってはいない。

    *

「驚いたな……」


 多少なり信じて欲しいと思いはしたが、疑うことなく素直に驚く青月せいげつに、黄琳おうりんのほうが驚いた。

「一瞬も疑うことなく信じるのかよ……」

 大概の人間は『嘘に決まってる』と開口一番に言ってくる。じっと黄琳おうりんの話を聞いていた青月せいげつがようやく口にしたのが『驚いたな』だった。

「信じるも何も、君の失せもの探しの力を考えれば今の話は疑う余地も無い。それに極端に絵柄の違う二つの絵にも納得がゆく。つまり君が描いたあの絵――璃愁りしゅうが蛇妖に襲われる絵は、君の左手が未来の予知として描き上げたものだったのだな」
「まあ、そうなるな。ただ毎度俺の意志とは関係なく描かれる絵なんで、自分の絵とは到底思えないってところさ」

 当たり前だが、どんなにできが良くたって璃愁りしゅうのことが熱烈に好きな客に、璃愁りしゅうが食われる絵を渡せるわけがないし、売れっ子妓女が死ぬ絵など、誰かに見られたら絶対に怪しい奴だと思われるに決まっている。陶知県殺しで怪しまれていたところに、物騒な絵を見つけられ、黄琳おうりんの立場は一層悪くなってしまった。
 左腕の描く絵は大概そのような絵ばかりなので、できるだけ左腕の描いた絵は誰にも見せたくはないのだ。

「しかし、それは使えるかもしれないな」
「は?」
璃愁りしゅうに『不吉な予言が絵に現れた』と言えば、彼女の行動を監視する理由になるだろう。もし本当に蛇妖が襲ってくるのだとしたら……そのときは彼女を守ることができる。一石二鳥の機会に違いない」

 名案だが、本気なのか。
 黄琳おうりんの言葉を疑うことのないこの青年、そして黄琳おうりんの絵を利用して事件解決の糸口を掴もうとする彼の機転。今まで左腕の絵を見せたときは、馬鹿にされたり疎まれたり気味悪がられたり、泣かれたりすることしかなかった。それなのに青月せいげつはそんな黄琳おうりんの力を信じ、そして彼なりの良い方向に進むために左腕の絵を使おうとしている。

「俺も一緒に行く!」

 気づいたら口から言葉が出ていた。
 自分の絵が、この事件にどう関わることができるのか。
 その行く末を見てみたかった。

    *

 戸惑う青月せいげつを説き伏せて、黄琳おうりんは彼とともに璃愁りしゅうのいる華雲楼へと向かった。
 どうして自ら面倒事に首を突っ込むような真似をしたのか、はっきりと断言することはできない。けれど妙な確信があった。
青月せいげつは今まで出会った、どの人間とも違う
 黄琳おうりんのことを馬鹿にしない、蔑まない、恐れない。同じ目線で、語り掛けてくれた。
 彼に助けられたものの、警戒もしたし悪態ばかりついていた。しかし、気づいたら自分の腕に纏わる秘密を語っていた。
 いや、無性に彼に聞いて貰いたくなったのだ。
 多分、試してみたかったのだと思う。
 この真面目で朴訥そうな青年が、自分の過去を聞いて軽蔑するさまを見てみたかったのかもしれない。ある種の賭けにも似たその試みは、黄琳おうりんの完敗で終わってしまった。
 だからもう一度試してみたい。
 本当に黄琳おうりんの力が真実であると確信したとき、彼がどんな反応を見せるのかを。
 恐れるのか、蔑むのか。
 あるいは……。
 希望を抱くのは最後の最後でいいだろう。
 今はただ、青月せいげつという人間を見極めたい。自分の絵を信じた彼が、あの絵をどのように利用するのか、価値を見出すのか、それを見定めたい。
 そう思った。
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