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【一】蛇妖
二
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「おい、見てみなよ。喧嘩だぞ」
細工屋の親父に肩を叩かれ、黄琳は我に返る。どうやら通りの真ん中で男女が言い合いの応酬を繰り広げているようだ。
「頼む! 私との婚約を解消してくれ!」
突然響いた婚約破棄の一言で、皆の視線が一斉に声の主に集まった。思わず手に絵を持ったまま立ち上がった黄琳は、男女のやり取りに耳と目を傾ける。
「驚いたな、あれは陶知県の公子、陶思延様と、胡家のお嬢様じゃないか。白昼堂々、こんな人通りの多い場所で婚約破棄なんて、無体なことなさるねえ」
細工屋の言う通り、女性のほうは肩を震わせ俯いていた。二人のあいだにいかほどの愛情があったのかは分からないが、公衆の面前で一方的に大恥をかかされたのだ。悲しみ以上に屈辱もあるだろう。
「やっぱり、思延、あなたあの璃愁と結婚する気なのね!? 婚約者である私を差し置いて……! あんな妓女ごときに!」
「彼女のことを悪く言うな! 私たちは、璃愁と私は、愛し合っているんだ! 近いうちに彼女を落籍させることも決まっている!」
「……」
璃愁といえば先ほどの客が夢中だった妓女の名前ではないか。あれほど彼女に執着して、絵まで描かせようとしていたのに、その彼女に愛する男がいたのだと知ったら彼はさぞ……いや、考えたくはない。
やがて双方の言い合いは熱を帯び、先ほどまで涙を溜めていた令嬢も従者たちと一緒になって、今や互いに馬事雑言を浴びせかけている。――とはいえ、それは黄琳の知るところではない。他人を慰めるような余裕もないし、二人のあいだに割って入り諫めるような度胸もない。何よりそれは――。
「止さないか。君子たるもの、女子供を泣かせるものではない。少なくともこのような目立つ場所ではなく、二人だけで話し合える場所で言うものだ」
誰もが傍観に徹している中で、ひときわ凛とした声が響き渡った。
「清真剣、青月様だ!」
先ほどまでざわついていた観客たちは、声の人物に向けて一斉に歓声をあげる。
つられて黄琳も男の視線を目で追うと、そこには一人の青年が立っていた。
(まさか、そんな空気の読めないことをする奴がいるなんて……)
正論ではあるが、他人の婚約の話にとやかく言うのは、野暮であり余計なお世話である。陶思延は青月を睨む。
「これは私たちの問題だ! 部外者のあなたにとやかく言われる筋合いはない! 私は知県の息子だぞ!」
陶思延が気色ばみ、青月に向かって殴りかかる。身体を傾けただけで拳をかわした青月は、その手首を掴むと軽く捻り上げた。
「知県の子息であれば、なおのこと。このような醜聞が広まればお父上の名を汚すのではないか」
「くそっ、放せ! 父上に言いつけるぞ!」
「好きにすればいい、だがしかし――」
「『知州様』の二公子様だ!」
誰かが叫んだ声で、二人とも言葉を止めてしまった。知州といえば燐州の長官であり、知県は燐州華陽県の長官である。大ざっぱに言うなら、知県の上司が知州というわけだ。先ほどの声は、それを知ってわざと大声で言ったのかどうなのか、真実は分からない。ともかく、その言葉を聞いた途端に陶思延の顔色が青くなった。
「知州様って、あの周知州様?」
「そう! 周知州様の二公子、青月様だよ! 清雲閣の清真剣! 知らないのかい?」
語り始めたのは、先ほどまで子供たちに物語を語って聞かせていた講釈師だ。ここぞとばかりに大きな声で高らかに言葉を紡ぎ上げる。
「知州の公子という類まれな存在でありながら、幼い頃より名門と名高い清雲閣で厳しい修行を続け、御年十九歳ながらも既に剣の腕は超一流! お人柄は清廉で実直、悪事を良しとせず抑強扶弱の精神を貫く――付けいた渾名が『清真剣』!」
さすがにその声が彼……青月の元まで届いたのか、ちらりと視線を声に向け、僅かに眉を顰めた。
「ふ、ふざけるな! 知州の息子だなんてそんな……」
知州の息子という肩書きに慄いたのか、陶思延は踵を返し走り出す。立ちはだかる青月を突き飛ばそうとしたが躱されて、挙げ句自らが露店の並びに突っ込んだ。
「えっ!? 嘘だろ!?」
陶思延が突っ込んできたとき、黄琳は我が目を疑った。つい先ほどまで傍観者だったはずなのに、いつの間にか巻き込まれている。豪快に几を粉砕した陶思延は、その向こうにいた黄琳を背中から押しつぶしたのだ。突然のことに為すすべもなく潰された黄琳を見止めることもなく、陶思延は転がるようその場から走り出す。振り返りざまにぱくぱくと口を開け、青月に向かって叫んだ。
「と、ともかく! 私は彼女との婚約を破棄する! それだけだ!」
裏返った声で言い捨てて、再び走り出す。慌てて従者たちが「お待ちください! 公子!」と言いながら追いかけて行った。
「あっ……たたた……」
ゆっくり体を起こすが、すぐさま体が悲鳴を上げる。大の男に几ごと全体重で圧し掛かられたのだ。痛いにきまってる。軋む体をさすりながら、よろよろと立ち上がる。几は粉々であるし、竹紙の絵は辺りに散らばってしまったし、散々な一日だ。
細工屋の親父に肩を叩かれ、黄琳は我に返る。どうやら通りの真ん中で男女が言い合いの応酬を繰り広げているようだ。
「頼む! 私との婚約を解消してくれ!」
突然響いた婚約破棄の一言で、皆の視線が一斉に声の主に集まった。思わず手に絵を持ったまま立ち上がった黄琳は、男女のやり取りに耳と目を傾ける。
「驚いたな、あれは陶知県の公子、陶思延様と、胡家のお嬢様じゃないか。白昼堂々、こんな人通りの多い場所で婚約破棄なんて、無体なことなさるねえ」
細工屋の言う通り、女性のほうは肩を震わせ俯いていた。二人のあいだにいかほどの愛情があったのかは分からないが、公衆の面前で一方的に大恥をかかされたのだ。悲しみ以上に屈辱もあるだろう。
「やっぱり、思延、あなたあの璃愁と結婚する気なのね!? 婚約者である私を差し置いて……! あんな妓女ごときに!」
「彼女のことを悪く言うな! 私たちは、璃愁と私は、愛し合っているんだ! 近いうちに彼女を落籍させることも決まっている!」
「……」
璃愁といえば先ほどの客が夢中だった妓女の名前ではないか。あれほど彼女に執着して、絵まで描かせようとしていたのに、その彼女に愛する男がいたのだと知ったら彼はさぞ……いや、考えたくはない。
やがて双方の言い合いは熱を帯び、先ほどまで涙を溜めていた令嬢も従者たちと一緒になって、今や互いに馬事雑言を浴びせかけている。――とはいえ、それは黄琳の知るところではない。他人を慰めるような余裕もないし、二人のあいだに割って入り諫めるような度胸もない。何よりそれは――。
「止さないか。君子たるもの、女子供を泣かせるものではない。少なくともこのような目立つ場所ではなく、二人だけで話し合える場所で言うものだ」
誰もが傍観に徹している中で、ひときわ凛とした声が響き渡った。
「清真剣、青月様だ!」
先ほどまでざわついていた観客たちは、声の人物に向けて一斉に歓声をあげる。
つられて黄琳も男の視線を目で追うと、そこには一人の青年が立っていた。
(まさか、そんな空気の読めないことをする奴がいるなんて……)
正論ではあるが、他人の婚約の話にとやかく言うのは、野暮であり余計なお世話である。陶思延は青月を睨む。
「これは私たちの問題だ! 部外者のあなたにとやかく言われる筋合いはない! 私は知県の息子だぞ!」
陶思延が気色ばみ、青月に向かって殴りかかる。身体を傾けただけで拳をかわした青月は、その手首を掴むと軽く捻り上げた。
「知県の子息であれば、なおのこと。このような醜聞が広まればお父上の名を汚すのではないか」
「くそっ、放せ! 父上に言いつけるぞ!」
「好きにすればいい、だがしかし――」
「『知州様』の二公子様だ!」
誰かが叫んだ声で、二人とも言葉を止めてしまった。知州といえば燐州の長官であり、知県は燐州華陽県の長官である。大ざっぱに言うなら、知県の上司が知州というわけだ。先ほどの声は、それを知ってわざと大声で言ったのかどうなのか、真実は分からない。ともかく、その言葉を聞いた途端に陶思延の顔色が青くなった。
「知州様って、あの周知州様?」
「そう! 周知州様の二公子、青月様だよ! 清雲閣の清真剣! 知らないのかい?」
語り始めたのは、先ほどまで子供たちに物語を語って聞かせていた講釈師だ。ここぞとばかりに大きな声で高らかに言葉を紡ぎ上げる。
「知州の公子という類まれな存在でありながら、幼い頃より名門と名高い清雲閣で厳しい修行を続け、御年十九歳ながらも既に剣の腕は超一流! お人柄は清廉で実直、悪事を良しとせず抑強扶弱の精神を貫く――付けいた渾名が『清真剣』!」
さすがにその声が彼……青月の元まで届いたのか、ちらりと視線を声に向け、僅かに眉を顰めた。
「ふ、ふざけるな! 知州の息子だなんてそんな……」
知州の息子という肩書きに慄いたのか、陶思延は踵を返し走り出す。立ちはだかる青月を突き飛ばそうとしたが躱されて、挙げ句自らが露店の並びに突っ込んだ。
「えっ!? 嘘だろ!?」
陶思延が突っ込んできたとき、黄琳は我が目を疑った。つい先ほどまで傍観者だったはずなのに、いつの間にか巻き込まれている。豪快に几を粉砕した陶思延は、その向こうにいた黄琳を背中から押しつぶしたのだ。突然のことに為すすべもなく潰された黄琳を見止めることもなく、陶思延は転がるようその場から走り出す。振り返りざまにぱくぱくと口を開け、青月に向かって叫んだ。
「と、ともかく! 私は彼女との婚約を破棄する! それだけだ!」
裏返った声で言い捨てて、再び走り出す。慌てて従者たちが「お待ちください! 公子!」と言いながら追いかけて行った。
「あっ……たたた……」
ゆっくり体を起こすが、すぐさま体が悲鳴を上げる。大の男に几ごと全体重で圧し掛かられたのだ。痛いにきまってる。軋む体をさすりながら、よろよろと立ち上がる。几は粉々であるし、竹紙の絵は辺りに散らばってしまったし、散々な一日だ。
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