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【一】蛇妖
一
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暗い獄舎の中に繋がれて、「これはやばい」と黄琳は思った。
周囲には数人の獄卒や胥吏と県尉たちがいて、逃げることを許さない。もっとも、両手をがっちりと鎖で拘束されているのだから、逃げる手段などないのだが。
「言え! 殺したのは、お前だろう!」
「証拠はあがってるんだ!」
もちろん、無実である。
運の悪いことに、殺された男の持ち物を持っていたのがまずかった。更に付け加えるならば、より疑われた原因は、左手が持つ呪われし力のせいだ。『未来を映し出す絵が描ける力』など、言ったところで誰も信じぬだろうし言いたくもない。なのに、あろうことか他人に見られると少々都合の悪い絵を、うっかりこいつらに見られてしまったのだ。
(どうする……?)
目の前の男たちの手には、口にするのも憚られるような恐ろしい拷問の道具が握られている。武術の心得がない黄琳ではひとたまりもない。
絶体絶命の四文字が脳裏に浮かんだ。
「すまぬが、その者の身柄は私に預けてくれないか?」
白い長袍に真っ白な半臂を重ねた、この場にもっとも似つかわしくない人物。彼が一歩獄房の中に足を踏み入れた瞬間、そよ風が駆け抜けたように感じる。
むかつくほどに、爽やかで真面目そうな好青年。
悔しいが、まさにこれこそ天佑だった。
* * *
龍骸国の燐州華陽県は、雄大な運河と豊かな緑に囲まれた肥沃な土地である。東の玉掌江と西の鬚江を結び、北から遠い南の異国まで繋がっているという白髄運河とが交錯する巨大な湖。沈む夕日が水面に掛かり、大輪の花であるかのように見えることから華陽の名は付けられたという。ゆえに――ここ陽城は華陽の最東端であり、金烏の華が最後に降り立つ場所だと人々は語り継ぐ。
玉掌江から流れを引き継いで、陽城の中央を抜ける陽江には、今日も大小様々な船が走る。最近では蛇妖の噂も出たというのに、誰一人とて気にする様子はない。街街角は講釈師の話を聞こうと人々が溢れ、橋の袂には所狭しと露店が立ち並び、道行く人々に高らかに呼びかけていた。
「お嬢さん、簪はいかがですか? 旦那、奥様へのお土産にもお勧めですよ!」
「旦那、顔色が悪うございますよ。一つ占って差し上げましょうか」
並ぶ店の種類も多種多様、客の入りも様々である。
その中に、ひときわ異彩を放つ露店があった。
『森羅妙筆 万象描絵』
宇宙の妙技を以て、何でも描きます――申し訳程度の表装を施した、粗末な幌子が風にひらめく。そこには頬に墨を付けた気だるそうな男が几に頬杖を突いている。緩く留めた髪を脇に流し、褪せて皺だらけの淡黄色の長袍の広袖を捲り上げ、ほつれた帯で適当に縛る姿は、およそ『君子』などという言葉からほど遠い。それがこの露店の店主である唐黄琳であった。
黄琳の対面には蝋黄の長袍を纏う、ふくよかな男が座っている。必要以上に大げさに袖を振り上げるのは、わざとだろう。先ほどから袖が何度も顔に掛かっている。しかし腹は立つが客であるため、損在に扱うこともできない。件のふくよかな客は、先ほどからずっと、冗詞贅句な説教を垂れ続けている。
「なぁ~にが『宇宙の妙技を以て、何でも描きます』だよ。この絵のどこに、傾国傾城の美女、璃愁の美しさがあるんだよ! このインチキ野郎!」
興奮気味に言い捨てた客は、手に持っていた竹紙を握り潰し黄琳に投げつけた。地面に落ちた竹紙の、軽快な音が空しく響く。
「あーあ、せっかく描いたのに……」
遠ざかる地響きを聞きながら、圧搾された竹紙を拾い上げる。
半時辰――。
男が商品――則ち、依頼した絵の出来栄えに対する苦情を語り始めてから商品を丸めて投げつけるまで、既に半時辰が過ぎていた。儲けは無し……どころか紙代や場所代を合わせれば赤字である。
……画業で身を立てるということは、かくも難しいことなのだ。
「大変だったなぁ、黄琳。よりによって璃愁の絵なんてさ。きっと誰が描こうが満足しやしないさ」
先ほどの応酬を見ていたのか、隣で露店を開く細工屋の親父が慰めてきた。
彼の言う璃愁とは、陽城一の売れっ子妓女の名前である。見目良し、歌良し、性格は……知らないが、とにかく新進気鋭の人気絶頂妓女らしい。先ほどの客は、彼女のことを熱烈に慕っているのだそうだ。朝朝暮暮に彼女の姿を見守りたい、絵でもいいから見つめていたい、だから彼女の絵姿を描いてくれ――というのが今回の注文であった。
握り潰された竹紙を開き、己の描いた璃愁を見る。我がことながら忌憚なく言えば、そこに描かれた生き物は、女に見えるかどうかも若干怪しいし、どう転んでも『傾国傾城』には見えない。自分では気に入っているのだが、他人から見ればお察しの通りである。
(実はもう一枚あったんだよな)
几の下に隠したもう一枚を取り出すと、打って変わって見事なでき栄えの絵が顔を出す。先ほど客に見せたものと比べれば、悔しいがこちらのできは申し分ない。問題があるとすれば一つだけ――。
周囲には数人の獄卒や胥吏と県尉たちがいて、逃げることを許さない。もっとも、両手をがっちりと鎖で拘束されているのだから、逃げる手段などないのだが。
「言え! 殺したのは、お前だろう!」
「証拠はあがってるんだ!」
もちろん、無実である。
運の悪いことに、殺された男の持ち物を持っていたのがまずかった。更に付け加えるならば、より疑われた原因は、左手が持つ呪われし力のせいだ。『未来を映し出す絵が描ける力』など、言ったところで誰も信じぬだろうし言いたくもない。なのに、あろうことか他人に見られると少々都合の悪い絵を、うっかりこいつらに見られてしまったのだ。
(どうする……?)
目の前の男たちの手には、口にするのも憚られるような恐ろしい拷問の道具が握られている。武術の心得がない黄琳ではひとたまりもない。
絶体絶命の四文字が脳裏に浮かんだ。
「すまぬが、その者の身柄は私に預けてくれないか?」
白い長袍に真っ白な半臂を重ねた、この場にもっとも似つかわしくない人物。彼が一歩獄房の中に足を踏み入れた瞬間、そよ風が駆け抜けたように感じる。
むかつくほどに、爽やかで真面目そうな好青年。
悔しいが、まさにこれこそ天佑だった。
* * *
龍骸国の燐州華陽県は、雄大な運河と豊かな緑に囲まれた肥沃な土地である。東の玉掌江と西の鬚江を結び、北から遠い南の異国まで繋がっているという白髄運河とが交錯する巨大な湖。沈む夕日が水面に掛かり、大輪の花であるかのように見えることから華陽の名は付けられたという。ゆえに――ここ陽城は華陽の最東端であり、金烏の華が最後に降り立つ場所だと人々は語り継ぐ。
玉掌江から流れを引き継いで、陽城の中央を抜ける陽江には、今日も大小様々な船が走る。最近では蛇妖の噂も出たというのに、誰一人とて気にする様子はない。街街角は講釈師の話を聞こうと人々が溢れ、橋の袂には所狭しと露店が立ち並び、道行く人々に高らかに呼びかけていた。
「お嬢さん、簪はいかがですか? 旦那、奥様へのお土産にもお勧めですよ!」
「旦那、顔色が悪うございますよ。一つ占って差し上げましょうか」
並ぶ店の種類も多種多様、客の入りも様々である。
その中に、ひときわ異彩を放つ露店があった。
『森羅妙筆 万象描絵』
宇宙の妙技を以て、何でも描きます――申し訳程度の表装を施した、粗末な幌子が風にひらめく。そこには頬に墨を付けた気だるそうな男が几に頬杖を突いている。緩く留めた髪を脇に流し、褪せて皺だらけの淡黄色の長袍の広袖を捲り上げ、ほつれた帯で適当に縛る姿は、およそ『君子』などという言葉からほど遠い。それがこの露店の店主である唐黄琳であった。
黄琳の対面には蝋黄の長袍を纏う、ふくよかな男が座っている。必要以上に大げさに袖を振り上げるのは、わざとだろう。先ほどから袖が何度も顔に掛かっている。しかし腹は立つが客であるため、損在に扱うこともできない。件のふくよかな客は、先ほどからずっと、冗詞贅句な説教を垂れ続けている。
「なぁ~にが『宇宙の妙技を以て、何でも描きます』だよ。この絵のどこに、傾国傾城の美女、璃愁の美しさがあるんだよ! このインチキ野郎!」
興奮気味に言い捨てた客は、手に持っていた竹紙を握り潰し黄琳に投げつけた。地面に落ちた竹紙の、軽快な音が空しく響く。
「あーあ、せっかく描いたのに……」
遠ざかる地響きを聞きながら、圧搾された竹紙を拾い上げる。
半時辰――。
男が商品――則ち、依頼した絵の出来栄えに対する苦情を語り始めてから商品を丸めて投げつけるまで、既に半時辰が過ぎていた。儲けは無し……どころか紙代や場所代を合わせれば赤字である。
……画業で身を立てるということは、かくも難しいことなのだ。
「大変だったなぁ、黄琳。よりによって璃愁の絵なんてさ。きっと誰が描こうが満足しやしないさ」
先ほどの応酬を見ていたのか、隣で露店を開く細工屋の親父が慰めてきた。
彼の言う璃愁とは、陽城一の売れっ子妓女の名前である。見目良し、歌良し、性格は……知らないが、とにかく新進気鋭の人気絶頂妓女らしい。先ほどの客は、彼女のことを熱烈に慕っているのだそうだ。朝朝暮暮に彼女の姿を見守りたい、絵でもいいから見つめていたい、だから彼女の絵姿を描いてくれ――というのが今回の注文であった。
握り潰された竹紙を開き、己の描いた璃愁を見る。我がことながら忌憚なく言えば、そこに描かれた生き物は、女に見えるかどうかも若干怪しいし、どう転んでも『傾国傾城』には見えない。自分では気に入っているのだが、他人から見ればお察しの通りである。
(実はもう一枚あったんだよな)
几の下に隠したもう一枚を取り出すと、打って変わって見事なでき栄えの絵が顔を出す。先ほど客に見せたものと比べれば、悔しいがこちらのできは申し分ない。問題があるとすれば一つだけ――。
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