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海誓山盟明和暗(不変の誓い)
119:干将莫耶(二)
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「白暗、いいか?」
普段から修行以外することもない翳黒明はやることも見つけられず、けっきょく翳白暗の部屋に顔を出す。翳黒明の姿を見た翳白暗は、ぱっと顔を輝かせる。
「黒明! どうしたの? 入って、入って!」
走り寄った彼は、すぐさま翳黒明を喜び勇んで迎え入れた。
翳白暗の部屋は翳黒明と大体同じだが、殆ど無駄な物のない翳黒明と違ってもう少し彩がある。机の上に置かれた絵を描くための道具と白い牡丹。それに、棚に飾られた何枚かの風景画。
「黒明が傍に居てくれるから、僕はここで生きていける」
口癖のように翳白暗の言う言葉。翳黒明はその言葉を嬉しく思うが、同時に傍にいることでしか支えられないことをもどかしくも思う。
「いつまでも同じ毎日が続くとは限らないんだぞ」
窘めるようにそう言うと儚い笑みを口元に浮かべ「分かってる」と翳白暗は言った。
翳白暗の表情に意地悪を言ってしまったと黒明は後ろめたい気持ちになる。その後ろめたさを紛らわせるように翳白暗の描いた絵に目を向けると、初めて見る一枚があった。
「また新しい絵を描いたのか? 相変わらず上手いもんだな」
その絵を手に取って翳黒明は見る。迷いのない美しい筆遣いだ。翳白暗は幼い頃から絵を描くのも好きだったが、最近では一層腕をあげたようだ。これなら翳冥宮の外に出ても、絵で食べて行くことができるかもしれない、などと翳黒明は密かに思う。
二人は同じ容姿でありながら、纏う雰囲気は大きく違う。翳白暗の優しさは将来上に立つものとしてはいささか頼りなく思われがちだ。しかし、大人や男たちには敬遠されがちだが、中には翳白暗の優しさや穏やかさに憧れ、羨望の眼差しで見る者もいる。とりわけ女性には人気だった。
しかし、それでも争うことを好まぬ翳白暗は、翳冥宮においては困った存在でしかない。宮主であれば恒凰宮で皆の先頭に立ち、万晶鉱と原始の谷を命がけで守り抜く責務が生じる。そして、次代の宮主でなかったとしても翳白暗は宮主の息子。
原始の谷の伝説に囚われ、どうにかして谷から万晶鉱を盗み出そうとする者たち。彼ら自身のためにも、強い態度と強い力で恒凰宮は相対せねばならないのだ。
果たして優しい翳白暗にそのような役目が務まるのか?
彼の優しさは尊いものだが、生まれた場所が悪かった。
翳冥宮で生まれなかったらこのような暮らしはできなかったかもしれないが、それでも宮主の息子でなかったら。もし使命を背負った翳冥宮で生まれていなかったら。
恵まれた生活の中にいながら、翳白暗はとても不憫に映る。本当なら違った生き方もあったのかもしれないと翳黒明は思う。
いつか自分が宮主になる日が来たら、弟をもっと自由な世界に送ってやりたい。しかしそう思うのは傲慢だろうか。
その答えが出ることはない。
「ねえ、黒明」
取り留めのない考えを巡らせていると、翳白暗に呼びかけられた。
「どうした?」
「うん……黒明はこのあと、時間ある?」
「そりゃあ、あるけど……?」
翳黒明にはみなと違ってこれといった趣味が無い。強いて言うなら稽古をすることくらいなもので、他にあればいまこうして翳白暗の部屋になど来ていないのだ。
「なら……!」
ぱっと翳白暗の顔が明るくなる。しかしそのあと躊躇いがちに俯くと、翳白暗の小さな声が聞こえてきた。
「あの、行きたいところがあるんだけど、翳黒明に一緒に行って欲しいんだ」
「行きたい場所?」
聞き返した翳黒明に、翳白暗はおずおずと頷いた。
道もなく目の前にあるのは果てしなく続く緑。除けても現れるのは緑の葉や草木、重なり合う草木が映し出す影すらも緑を帯び、ともすると緑の中に埋もれてしまいそうな場所。
翳白暗と翳黒明がやってきたのは星霓峰の中でも禁足地――原始の谷にほど近い山奥だ。
――これではどこをどう歩いたのか分からなくなってしまうのではないか。
俄に募る不安と戦いながら、翳黒明は思う。纏わりつく虫たちを払い、翳白暗の後ろ姿を見失わぬよう必死で後をついて歩く。これが大人の足であるならばそこまで不安にもならぬだろうが、いかんせん六歳の子供には厳しいものがある。
「こんなところにいったい何があるっていうんだ?」
先程までは羽虫が入らぬようにと何も言わなかったのだが、ようやく森を抜けた場所まで辿り着いたことで、翳黒明は口を開く。
まだ残っていた朝露に濡れ、どこでつけたのか分からぬような泥がいたるところに付いている。戻ったあとすぐに着替えておかなければ、どこに行ったか問い詰められたら面倒だ、などとつい考えてしまう。
「あのね。僕、この前凄く綺麗な花を見つけたんだ。多分、誰も知らない場所。見たことない花だから、黒明にも見せたくて……」
「もしかして、そのために俺を連れてきたのか?」
恥ずかしそうに翳白暗は頷いた。
「秘密の花だから……こっち」
翳白暗は翳黒明の手を引いて、尚も先へと歩いてゆく。地面が途切れた場所――切り立った崖まで辿り着くと、ようやく翳白暗は歩みを止めた。
「ここって、崖?」
「うん。あのね、このすぐ下……見てみて」
翳白暗がそう言って屈みこむ。翳黒明も這いつくばるようにして崖の下を覗いてみると、白い光が視界の中に入る。
断崖のちょうど中腹部分に少しだけ張り出した足場が見える。そこには一塊の緑があって、仄かに光る白い花が咲いていた。
「光る……花?」
「やっぱり、そう見えるよね!?」
翳黒明の言葉に、翳白暗は嬉しそうに言う。白いからそう見えるだけかと思ったが、瞬いても目をこすっても、やはり微かにその花は光っているように見える。小さくてはっきりとした形を見ることはできないが、あのように光る花を見たことは一度もない。
(もっと近くで見てみたい……)
そんな衝動に駆られるが、おいそれと降りられるような生易しい場所ではないのだ。だからこそ、翳白暗も手ずからこの花を摘むことができず、こうして翳黒明をその場所まで連れてきたのだろう。
「綺麗でしょ? 遠いからちゃんとした形は分からないけど、こんなに美しく光るんだもの。きっと素敵な花に違いないよ。ああ、名前を知ることができたらいいのになあ」
うっとりとした顔で翳白暗はそう言った。
翳黒明は先ほど翳白暗が飾っていた絵を思い出し、
「本当はあの花を絵に描きたかったんじゃないか?」
と尋ねた。
「えっ!? う、うん。描けたらいいなとは思ったけど。でも流石にあんな場所に生えてる花は難しいな。もしかして大きくなった頃にもまだ咲いてたら、そうしたらあの場所まで僕でも行くことができるかも」
「……」
その言葉から、翳白暗は無理をしているのだと翳黒明は察する。もう一度崖の下を覗いて翳黒明は崖から花までの距離を目視した。
この距離くらいならなんとかなるかもしれない。
そう思うや否や、翳黒明の身体は自然に動いていた。
「待ってろ」
そう言うと、素早く崖壁に取り付いてゆっくりと下へと降り始める。
「黒明!? 危ないよ!」
翳白暗が叫ぶ。上を見る余裕は流石になかったので、岩壁を見ながら翳黒明は「平気だ。落ち着けば落ちることはないから」と翳白暗に言った。
頭上から聞こえる泣きそうな翳白暗にそこそこ返事を返しつつ、花の咲く足場へとゆっくり降り立つ。このときばかりは花を踏むことが無いように翳黒明は足場を何度も確認しながら慎重に地に足をつけた。
「うわあ……」
大人なら一人ぶん、子供なら数人ぶんほどの広さの足場だ。思ったよりもしっかりとした地盤なので、暴れない限り崩れることはなさそうだ。
それでも多少の恐れはあって、未だ岩壁に手をついたまま恐る恐る背後を振り返った翳黒明は感極まって声を小さく上げる。
眼前に広がる広大な森と山々。鳥になることができるなら、見える光景はこのようなものだろうか。初めて見る景色の美しさに翳黒明は心を奪われた。
もう季節は過ぎたはずにもかかわらず、遠くの山の頂上は白く染まっている。きっとあれが睡龍の端なのかもしれない。
翳黒明は何度か息を吸っては吐き出し、心を落ち着けると上を向く。
「……大丈夫、ちゃんと降りたぞ」
泣きそうな声で呼びかける翳白暗に、翳黒明は笑顔で手を振った。
「でも、心配だよ。早く戻ってきて」
「慌てるなって。せっかく苦労して降りたんだ。花をすこしだけ摘んだら戻るから」
そう言うと翳黒明は屈みこみ、淡く光る白い花に手を添える。
間近で見てもはやりその花は白く光っていた。真珠のように艶やかな花弁と、濁りの無い清らかな白。見た目は世にある名花のような華やかさはなく、花自体も小さくて控えめ。それどころか花全体を見ても、観賞用の花には程遠い見た目だ。
にもかかわらず、翳黒明はその花を一度たりとも見たことが無い。
どこにでもあるようで、見つからない花――。
その控えめさと可憐さは、どこか翳白暗を思わせると思ったのは、彼が白くて艶やかな髪を持っていたからだろうか。
(また翳白暗が見に来られるように、摘むのは少しだけにしておこう)
そう決めて翳黒明は二輪だけ花を摘み取った。
刹那、ぐらぐらと地面が揺れたことに気づく。
「黒明! 地震だ!」
翳白暗の声がする。どうやら折悪しく地震が起こったらしい。翳黒明は足場と崖壁が崩れないことを願いながら必死で崖の壁面にしがみ付いた。
「………………………………」
どれほどの時間が経過しただろうか。恐ろしさに息を殺してその場で耐えていたが、再び大地が揺れることはなかった。
(どうやらやり過ごせたみたいだ……)
安堵感で力が抜けそうになる。しかし崖に張り付いた状態でそれは禁物だ。翳黒明は「大丈夫だ。いま上にあがる」と翳白暗に呼びかけ、ゆっくりと壁を登り始める。
「あっ!」
登り始めた少し先のところで、翳黒明が掴んでいた岩が根元から剥がれたのだ。
「黒明!!」
翳白暗の叫び声が聞こえる。
――駄目だ、どこかに捕まらないと……。
頭ではそう思っているのだが体は思うように動かない。翳黒明は崖下に投げ出される形で下へ下へと落ちていったのだった。
普段から修行以外することもない翳黒明はやることも見つけられず、けっきょく翳白暗の部屋に顔を出す。翳黒明の姿を見た翳白暗は、ぱっと顔を輝かせる。
「黒明! どうしたの? 入って、入って!」
走り寄った彼は、すぐさま翳黒明を喜び勇んで迎え入れた。
翳白暗の部屋は翳黒明と大体同じだが、殆ど無駄な物のない翳黒明と違ってもう少し彩がある。机の上に置かれた絵を描くための道具と白い牡丹。それに、棚に飾られた何枚かの風景画。
「黒明が傍に居てくれるから、僕はここで生きていける」
口癖のように翳白暗の言う言葉。翳黒明はその言葉を嬉しく思うが、同時に傍にいることでしか支えられないことをもどかしくも思う。
「いつまでも同じ毎日が続くとは限らないんだぞ」
窘めるようにそう言うと儚い笑みを口元に浮かべ「分かってる」と翳白暗は言った。
翳白暗の表情に意地悪を言ってしまったと黒明は後ろめたい気持ちになる。その後ろめたさを紛らわせるように翳白暗の描いた絵に目を向けると、初めて見る一枚があった。
「また新しい絵を描いたのか? 相変わらず上手いもんだな」
その絵を手に取って翳黒明は見る。迷いのない美しい筆遣いだ。翳白暗は幼い頃から絵を描くのも好きだったが、最近では一層腕をあげたようだ。これなら翳冥宮の外に出ても、絵で食べて行くことができるかもしれない、などと翳黒明は密かに思う。
二人は同じ容姿でありながら、纏う雰囲気は大きく違う。翳白暗の優しさは将来上に立つものとしてはいささか頼りなく思われがちだ。しかし、大人や男たちには敬遠されがちだが、中には翳白暗の優しさや穏やかさに憧れ、羨望の眼差しで見る者もいる。とりわけ女性には人気だった。
しかし、それでも争うことを好まぬ翳白暗は、翳冥宮においては困った存在でしかない。宮主であれば恒凰宮で皆の先頭に立ち、万晶鉱と原始の谷を命がけで守り抜く責務が生じる。そして、次代の宮主でなかったとしても翳白暗は宮主の息子。
原始の谷の伝説に囚われ、どうにかして谷から万晶鉱を盗み出そうとする者たち。彼ら自身のためにも、強い態度と強い力で恒凰宮は相対せねばならないのだ。
果たして優しい翳白暗にそのような役目が務まるのか?
彼の優しさは尊いものだが、生まれた場所が悪かった。
翳冥宮で生まれなかったらこのような暮らしはできなかったかもしれないが、それでも宮主の息子でなかったら。もし使命を背負った翳冥宮で生まれていなかったら。
恵まれた生活の中にいながら、翳白暗はとても不憫に映る。本当なら違った生き方もあったのかもしれないと翳黒明は思う。
いつか自分が宮主になる日が来たら、弟をもっと自由な世界に送ってやりたい。しかしそう思うのは傲慢だろうか。
その答えが出ることはない。
「ねえ、黒明」
取り留めのない考えを巡らせていると、翳白暗に呼びかけられた。
「どうした?」
「うん……黒明はこのあと、時間ある?」
「そりゃあ、あるけど……?」
翳黒明にはみなと違ってこれといった趣味が無い。強いて言うなら稽古をすることくらいなもので、他にあればいまこうして翳白暗の部屋になど来ていないのだ。
「なら……!」
ぱっと翳白暗の顔が明るくなる。しかしそのあと躊躇いがちに俯くと、翳白暗の小さな声が聞こえてきた。
「あの、行きたいところがあるんだけど、翳黒明に一緒に行って欲しいんだ」
「行きたい場所?」
聞き返した翳黒明に、翳白暗はおずおずと頷いた。
道もなく目の前にあるのは果てしなく続く緑。除けても現れるのは緑の葉や草木、重なり合う草木が映し出す影すらも緑を帯び、ともすると緑の中に埋もれてしまいそうな場所。
翳白暗と翳黒明がやってきたのは星霓峰の中でも禁足地――原始の谷にほど近い山奥だ。
――これではどこをどう歩いたのか分からなくなってしまうのではないか。
俄に募る不安と戦いながら、翳黒明は思う。纏わりつく虫たちを払い、翳白暗の後ろ姿を見失わぬよう必死で後をついて歩く。これが大人の足であるならばそこまで不安にもならぬだろうが、いかんせん六歳の子供には厳しいものがある。
「こんなところにいったい何があるっていうんだ?」
先程までは羽虫が入らぬようにと何も言わなかったのだが、ようやく森を抜けた場所まで辿り着いたことで、翳黒明は口を開く。
まだ残っていた朝露に濡れ、どこでつけたのか分からぬような泥がいたるところに付いている。戻ったあとすぐに着替えておかなければ、どこに行ったか問い詰められたら面倒だ、などとつい考えてしまう。
「あのね。僕、この前凄く綺麗な花を見つけたんだ。多分、誰も知らない場所。見たことない花だから、黒明にも見せたくて……」
「もしかして、そのために俺を連れてきたのか?」
恥ずかしそうに翳白暗は頷いた。
「秘密の花だから……こっち」
翳白暗は翳黒明の手を引いて、尚も先へと歩いてゆく。地面が途切れた場所――切り立った崖まで辿り着くと、ようやく翳白暗は歩みを止めた。
「ここって、崖?」
「うん。あのね、このすぐ下……見てみて」
翳白暗がそう言って屈みこむ。翳黒明も這いつくばるようにして崖の下を覗いてみると、白い光が視界の中に入る。
断崖のちょうど中腹部分に少しだけ張り出した足場が見える。そこには一塊の緑があって、仄かに光る白い花が咲いていた。
「光る……花?」
「やっぱり、そう見えるよね!?」
翳黒明の言葉に、翳白暗は嬉しそうに言う。白いからそう見えるだけかと思ったが、瞬いても目をこすっても、やはり微かにその花は光っているように見える。小さくてはっきりとした形を見ることはできないが、あのように光る花を見たことは一度もない。
(もっと近くで見てみたい……)
そんな衝動に駆られるが、おいそれと降りられるような生易しい場所ではないのだ。だからこそ、翳白暗も手ずからこの花を摘むことができず、こうして翳黒明をその場所まで連れてきたのだろう。
「綺麗でしょ? 遠いからちゃんとした形は分からないけど、こんなに美しく光るんだもの。きっと素敵な花に違いないよ。ああ、名前を知ることができたらいいのになあ」
うっとりとした顔で翳白暗はそう言った。
翳黒明は先ほど翳白暗が飾っていた絵を思い出し、
「本当はあの花を絵に描きたかったんじゃないか?」
と尋ねた。
「えっ!? う、うん。描けたらいいなとは思ったけど。でも流石にあんな場所に生えてる花は難しいな。もしかして大きくなった頃にもまだ咲いてたら、そうしたらあの場所まで僕でも行くことができるかも」
「……」
その言葉から、翳白暗は無理をしているのだと翳黒明は察する。もう一度崖の下を覗いて翳黒明は崖から花までの距離を目視した。
この距離くらいならなんとかなるかもしれない。
そう思うや否や、翳黒明の身体は自然に動いていた。
「待ってろ」
そう言うと、素早く崖壁に取り付いてゆっくりと下へと降り始める。
「黒明!? 危ないよ!」
翳白暗が叫ぶ。上を見る余裕は流石になかったので、岩壁を見ながら翳黒明は「平気だ。落ち着けば落ちることはないから」と翳白暗に言った。
頭上から聞こえる泣きそうな翳白暗にそこそこ返事を返しつつ、花の咲く足場へとゆっくり降り立つ。このときばかりは花を踏むことが無いように翳黒明は足場を何度も確認しながら慎重に地に足をつけた。
「うわあ……」
大人なら一人ぶん、子供なら数人ぶんほどの広さの足場だ。思ったよりもしっかりとした地盤なので、暴れない限り崩れることはなさそうだ。
それでも多少の恐れはあって、未だ岩壁に手をついたまま恐る恐る背後を振り返った翳黒明は感極まって声を小さく上げる。
眼前に広がる広大な森と山々。鳥になることができるなら、見える光景はこのようなものだろうか。初めて見る景色の美しさに翳黒明は心を奪われた。
もう季節は過ぎたはずにもかかわらず、遠くの山の頂上は白く染まっている。きっとあれが睡龍の端なのかもしれない。
翳黒明は何度か息を吸っては吐き出し、心を落ち着けると上を向く。
「……大丈夫、ちゃんと降りたぞ」
泣きそうな声で呼びかける翳白暗に、翳黒明は笑顔で手を振った。
「でも、心配だよ。早く戻ってきて」
「慌てるなって。せっかく苦労して降りたんだ。花をすこしだけ摘んだら戻るから」
そう言うと翳黒明は屈みこみ、淡く光る白い花に手を添える。
間近で見てもはやりその花は白く光っていた。真珠のように艶やかな花弁と、濁りの無い清らかな白。見た目は世にある名花のような華やかさはなく、花自体も小さくて控えめ。それどころか花全体を見ても、観賞用の花には程遠い見た目だ。
にもかかわらず、翳黒明はその花を一度たりとも見たことが無い。
どこにでもあるようで、見つからない花――。
その控えめさと可憐さは、どこか翳白暗を思わせると思ったのは、彼が白くて艶やかな髪を持っていたからだろうか。
(また翳白暗が見に来られるように、摘むのは少しだけにしておこう)
そう決めて翳黒明は二輪だけ花を摘み取った。
刹那、ぐらぐらと地面が揺れたことに気づく。
「黒明! 地震だ!」
翳白暗の声がする。どうやら折悪しく地震が起こったらしい。翳黒明は足場と崖壁が崩れないことを願いながら必死で崖の壁面にしがみ付いた。
「………………………………」
どれほどの時間が経過しただろうか。恐ろしさに息を殺してその場で耐えていたが、再び大地が揺れることはなかった。
(どうやらやり過ごせたみたいだ……)
安堵感で力が抜けそうになる。しかし崖に張り付いた状態でそれは禁物だ。翳黒明は「大丈夫だ。いま上にあがる」と翳白暗に呼びかけ、ゆっくりと壁を登り始める。
「あっ!」
登り始めた少し先のところで、翳黒明が掴んでいた岩が根元から剥がれたのだ。
「黒明!!」
翳白暗の叫び声が聞こえる。
――駄目だ、どこかに捕まらないと……。
頭ではそう思っているのだが体は思うように動かない。翳黒明は崖下に投げ出される形で下へ下へと落ちていったのだった。
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