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旧雨今雨同志们(古き友と今の友)
110:受付来訪(四)
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「少しいいか?」
鸞快子が煬鳳と凰黎に呼びかける。見上げる小黄に手を差し出すと、彼の口元が弧を描く。小黄は凰黎の袖をぎゅっと掴んでいたが、差し出された手にどうして良いかわからずに凰黎と煬鳳とを交互に見比べた。
「お前の好きにしていいんだよ。そのまま凰大哥の袖掴んでてもいいし、俺んとこ来てもいいし」
そう言って煬鳳は凰黎に抱かれる小黄に向かって手を差し出す。鸞快子が小さく笑った気がしたが、聞かなかったことにした。
小黄はまじまじと鸞快子の手を見つめ、恐る恐るその手を握る。鸞快子は小さく「有り難う」と言って己の掌に載った小黄の手を、もう片方の手で包み込んだ。
「小黄」
鸞快子はそのまま小黄を真っ直ぐに見つめる。仮面を付けていても、その眼差しは真剣なものだとわかる。たとえ相手が、子供であっても。
「君が、助けを必要としていることはあるか?」
彼の口から紡がれた言葉は、煬鳳たちが予想していた言葉とは全く違うものだった。てっきり、尻尾の話を尋ねるとばかり思っていたのだ。
そして、それは先ほど既に聞いて意味がないとわかっている。
それでも鸞快子は小黄にもう一度尋ねたかったのだろうと、そう思っていた。
「……わかんない」
小黄は言われた意味がわからずに戸惑いの表情を隠せない。
「では、言い方を変えよう。君が望むことはあるか? このままここでずっと暮らすことでも、どこかに行きたいというのでも構わない。心のままに、話して欲しい」
「えっと……」
何故そんなことを、と煬鳳は思ったが鸞快子には何か考えがあるらしい。凰黎も彼に問いただすでもなくじっと二人の様子を見つめている。
「僕………………戻らないといけないの……」
俯いた小黄が零した小さな言葉。
その一言に驚いてみなが息を呑んだ。
「小黄、戻るって、どこへ?」
しかし、やっぱり小黄は首を振る。
「わかんない、でも……」
じわりと小黄の瞳に涙が滲む。
「……でも、ここが好き。煬大哥と凰大哥と……善瀧と夜真と、みんな、みんなが好きなの。でも、いつでも思ってる。戻らないと駄目だって……」
彼自身まだ自分のことが何一つわかってはいない。ようやく玄烏門に慣れてきたと思っていたが、心の中ではいつでも『戻らないと』という考えがあったことを初めて知った。
何故なのか、どこに戻るのか。
それは小黄自身もまだ、分からないのだ。
「夜真が言ってた。まだ小黄のことは何一つわからないんだって。睡龍の外にも足をのばしてみたけど、やっぱり皇族や貴族の中にもそれらしい子供のことを探している人物は見つからなかったって」
煬鳳は小声で鸞快子に耳打ちをする。鸞快子は驚いた様子もなく「なるほどな」とだけ言った。
「小黄。……煬大哥と凰大哥はこんど北のほうにある神様の一族の住む場所に行くんだ。君も一緒に行かないか?」
「ちょっと、鸞快子!?」
神様の一族――というのは間違いなく恒凰宮の一族のことだ。そしていきなり小黄を恒凰宮に連れて行くなどと言ったので、驚いて凰黎は声を荒げた。突然そのようなことを言われても小黄とて困るだろう。
とうぜん煬鳳は、小黄が嫌がると思っていたのだが、予想に反して小黄は二つ返事で、
「行きたい!」
と叫んだものだから、これには煬鳳も凰黎も驚いてしまった。
次の煬鳳たちの目的は翳冥宮だ。しかし同時に凰神偉とも顔を合わせるだろうから、鸞快子の言っていることは間違いというわけでもない。
(鸞快子は一体何を考えているんだ?)
訝しく思い、煬鳳は鸞快子の袖を引っ張った。
「おい、どういうつもりだ? あんな小さな子を恒凰宮まで連れて行くなんて。……あそこは険しい山も多いし、子供なんか連れて行る場所じゃないだろ」
「しかし、あそこには原始の谷があるだろう?」
鸞快子の言葉に煬鳳は彼の意図がようやく理解できた。
小黄が何故乗り気だったのかはわからないが、確かに恒凰宮の近くには原始の谷があるのだ。それは、凰黎が以前語ってくれた幼い日の話からも容易く推測することができる。
(つまり、鸞快子は……小黄の失った記憶が原始の谷に行くことで戻るかもしれないって、そう思ってるのか?)
恐らく彼が言いたいのは、万晶鉱の『この世の全てを知ることができる』という伝説のように、小黄の記憶も知ることができると考えているのだろう。
確かに翳冥宮の件が一段落すれば、そういったことも可能なのかもしれない。しかし、果たしてそんなうまく行くのだろうか?
いや、それ以前にだ。原始の谷へ小黄のような幼子を連れて行こうなど、普段は冷静な鸞快子の考えとは思えない。
「全く……随分と突拍子もないことを考えるものですね」
呆れた声で凰黎が溜め息をつく。本来ならば凰黎も強く反対したであろうが、小黄がそれよりも早く「行きたい」と切実に訴えてしまったことで、そうも言えなくなってしまったのだ。
「本人の強い意志でもあるし、それに……記憶がないままなのも辛いだろう。一か八かに賭けてみるのも悪くないと思うが」
鸞快子の言葉に凰黎は思わず立ち上がる。驚いた小黄がびくりと身を固くしたので、煬鳳がすかさず凰黎から小黄を受け取った。
「貴方って人は、原始の谷がどれほど危険な場所か、知っているでしょう!」
「無論だ」
「それなのに何故……!」
いつになく激しい口調の凰黎に煬鳳は驚く。しかし、彼の生い立ちを考えればそれも仕方のないことだろう。
――何故そんな危険な場所に子供を行かせるのか。
凰黎の口はそう言いかけて、しかし口を噤む。
自分が誰なのかわからない、玄烏門や蓬静嶺が手を尽くしても彼の身元が全く分からない。いま、誰よりも不安で仕方ないのは小黄自身なのだ。
万策尽きたとき、もしも自分のことを知るための手段が僅かでも残されているのなら。凰黎だって喜んで同じ言葉を言っていたかもしれない、そう思ったのだろう。
複雑な表情で俯いた凰黎の辛そうな表情を見て、煬鳳は今すぐにでも凰黎を抱きしめたくなった。
夕餉の時間には彩藍方や清粛、それに珍しく蓬静嶺から静泰還までやってきた。久しぶりに戻ってきた凰黎との食事を楽しみたいという気持ちもあったのかもしれない。
普段はいかにもな漢の料理といった玄烏門の食卓であるが、今日ばかりは普段よりは上品な食事が並んでいる。普段は肉一辺倒なのに、珍しく魚の料理があることに煬鳳は驚く。
「珍しいな、魚羹[*1]か?」
以前凰黎が作ってくれた料理は炒めたものだったが、今回出されたのは魚肉と山菜などで華やかに彩られた羹だ。思わず煬鳳が善瀧に尋ねると、彼は嬉しそうに頷いた。
「はい。本来は垂州のほうで獲れる魚を使うのですが、この辺りで獲れる魚で似たようなものを作ってみました。皆様の口に合うと良いのですが」
静泰還は時折小さく「うむ」と頷きながら、静かに食べていた。恐らくは静泰還の好みなどを熟知している善瀧の努力の賜物だろう。
夕餉のときは少し微妙な空気が凰黎と鸞快子の間に流れていたが、夕餉のあとで疲れた小黄が眠りについてみなの心も少し落ち着いたようだ。凰黎もようやく気持ちに整理がついたのか、いまは普段と変わりない様子で茶碗を片付けていた。
「一つ大切なことを聞き忘れていました」
部屋を片付けたあと、凰黎は席を立とうとする鸞快子を呼び止め、もう一度座らせる。懐から丁寧に畳まれた紙を取り出すと、卓子の上に広げてみせた。
それに気づいて立ち上がりかけた静泰還や彩藍方たちも、もう一度腰を下ろす。
「これは……」
その図には煬鳳も見覚えがある。魔界で鬼燎帝が殺されたときに、剣を持っていた禁衛兵の男。当時の皇太子が切りつけたところ、男は紙片となってしまったのだ。
「これは魔界で禁衛兵に成り済ましていた何者かが、自分の分身である人形に描いた呪符です。ではすぐにこの呪符の出所を突き止めることができませんでした。貴方ならわかるのでは?」
「こんな呪符、初めて見たぞ。これってどんな効果があるんだ? いや、人形に描かれていたんなら、やっぱり分身とかそういうものか……」
やはり彩藍方もその呪文の出所は知らないようだ。暫くうんうんと唸ったあとで「う~ん、わからないな」と言って首を振る。
「これは……はっきりとはわかりませんが、いま我々が描いているものより古い呪符の描き方のような気がいたします」
「描き方?」
「そうです。もちろん術の種類や系統によって描き方は大きく変わりますが、同じ効果の呪符だったとしても、時代によって少しずつ描き方が違うのです」
清粛が頷く。
静泰還は何か思うところがあるのか、じっと紙を見つめたまま動かない。どうやら心当たりはあるようなのだが、あと少しが思い出せないようだ。「歳には勝てんな」などと言いながら腕を組んでうんうんと唸っている。
「人の姿を真似るというのは存外に難しいこと。そして、己の姿を紙に写し取ったとしても、相手は魔界の皇帝。現存する術ではすぐに正体がばれてしまうはず。似たような効果の術は数あれど、完璧に人の姿を真似るのは相当高度な修練と技術が必要なはずだ」
鸞快子の言葉を受けた静泰還は不意に「そうか」と声をあげた。その言葉にみなおどろいて一斉に静泰還のことを見る。
「確か……そうだ! 遥か昔に失われた術法だ。間違いない!」
「もしや……消えた邪教の術法、ですか?」
「そのとおり、さすがは鸞快子」
静泰還は鸞快子に向かって頷くと、「良ければみなに話してやってくれないか?」と声をかける。
鸞快子は頷くとみなを見回して呪文の描かれた紙に指を置く。
「その昔、呪術に長けた一族がいたそうだ。しかし彼らの使う術はあまりに強力な術であったため、当然世間からは危険視された。そして邪教の術だと言われ当時の王朝から使用を禁じられ、使えば厳罰に処されたそうだ。結局一族は滅んだのか時の中に消えていったのか、知る者はいない。遥か昔の、火龍が現れる更に前の話だ」
一同は、遥か昔のことまですらすらと説明する鸞快子に舌を巻いた。
しかしそうなると『消えたはずの邪教の術が、何故?』という新たな疑問が出てきてしまう。一つ謎が解ければまた新たな謎。
「いまはこの呪符が消えた邪教の術であるとわかっただけで良しとしよう。考えすぎるのも良くはない。それに、我々は恒凰宮にも行かなければならないのだから」
これ以上考えてもいまは仕方ない。
結局鸞快子の言葉で呪符についての話し合いは終わり、彩藍方と清粛、それに静泰還は蓬静嶺へと戻って休むことにした。玄烏門と蓬静嶺は山を隔てた隣同士、大人ならさほど時間もかからずたどり着ける程度の距離である。こういう時にお互いの住まいが近いというのはやはりとても便利だ。
帰り際に清粛が煬鳳の頸根の痣の具合を見てくれたのだが、当然……苦笑いされてしまった。当然だろう、翳炎を使う頻度は少なかったが、一発一発が大きなものが大きかったのだ。
「以前に比べると随分痕が大きくなりましたね……。この調子で続けていたら何年体が持つのかわかりませんよ」
そこまで言うほど大きくはないのだが、しかし実際この調子で続けていたら三年は持たないだろう。
「そういや、黒明……黒冥翳魔も同じように体の熱が上がるんだよ。いまのあいつの体が彩鉱門の人間のものだから……ってのもあるかもしれないけど、そういうもんなのか?」
彩鉱門の人間、と聞いて傍にいた彩藍方がぴくりと反応したが、膝上の拳を握りしめるだけで何も言わなかった。
清粛は「うーん」と考えたあと、おずおずと煬鳳のほうを見る。
「二人とも、というのは確かに気になります。何か、そうなる切っ掛けがあったのかもしれません」
切っ掛け、といえば初め凰黎は煬鳳の体熱が上がるようになったのを、力を戻して貰ったせいだと気にしていた。しかし、翳黒明も同様の現象があるとなれば、やはり原因は別にあるように思えて仕方ない。
――――
[*1]魚羹……色々な具材の入った魚のスープ。
鸞快子が煬鳳と凰黎に呼びかける。見上げる小黄に手を差し出すと、彼の口元が弧を描く。小黄は凰黎の袖をぎゅっと掴んでいたが、差し出された手にどうして良いかわからずに凰黎と煬鳳とを交互に見比べた。
「お前の好きにしていいんだよ。そのまま凰大哥の袖掴んでてもいいし、俺んとこ来てもいいし」
そう言って煬鳳は凰黎に抱かれる小黄に向かって手を差し出す。鸞快子が小さく笑った気がしたが、聞かなかったことにした。
小黄はまじまじと鸞快子の手を見つめ、恐る恐るその手を握る。鸞快子は小さく「有り難う」と言って己の掌に載った小黄の手を、もう片方の手で包み込んだ。
「小黄」
鸞快子はそのまま小黄を真っ直ぐに見つめる。仮面を付けていても、その眼差しは真剣なものだとわかる。たとえ相手が、子供であっても。
「君が、助けを必要としていることはあるか?」
彼の口から紡がれた言葉は、煬鳳たちが予想していた言葉とは全く違うものだった。てっきり、尻尾の話を尋ねるとばかり思っていたのだ。
そして、それは先ほど既に聞いて意味がないとわかっている。
それでも鸞快子は小黄にもう一度尋ねたかったのだろうと、そう思っていた。
「……わかんない」
小黄は言われた意味がわからずに戸惑いの表情を隠せない。
「では、言い方を変えよう。君が望むことはあるか? このままここでずっと暮らすことでも、どこかに行きたいというのでも構わない。心のままに、話して欲しい」
「えっと……」
何故そんなことを、と煬鳳は思ったが鸞快子には何か考えがあるらしい。凰黎も彼に問いただすでもなくじっと二人の様子を見つめている。
「僕………………戻らないといけないの……」
俯いた小黄が零した小さな言葉。
その一言に驚いてみなが息を呑んだ。
「小黄、戻るって、どこへ?」
しかし、やっぱり小黄は首を振る。
「わかんない、でも……」
じわりと小黄の瞳に涙が滲む。
「……でも、ここが好き。煬大哥と凰大哥と……善瀧と夜真と、みんな、みんなが好きなの。でも、いつでも思ってる。戻らないと駄目だって……」
彼自身まだ自分のことが何一つわかってはいない。ようやく玄烏門に慣れてきたと思っていたが、心の中ではいつでも『戻らないと』という考えがあったことを初めて知った。
何故なのか、どこに戻るのか。
それは小黄自身もまだ、分からないのだ。
「夜真が言ってた。まだ小黄のことは何一つわからないんだって。睡龍の外にも足をのばしてみたけど、やっぱり皇族や貴族の中にもそれらしい子供のことを探している人物は見つからなかったって」
煬鳳は小声で鸞快子に耳打ちをする。鸞快子は驚いた様子もなく「なるほどな」とだけ言った。
「小黄。……煬大哥と凰大哥はこんど北のほうにある神様の一族の住む場所に行くんだ。君も一緒に行かないか?」
「ちょっと、鸞快子!?」
神様の一族――というのは間違いなく恒凰宮の一族のことだ。そしていきなり小黄を恒凰宮に連れて行くなどと言ったので、驚いて凰黎は声を荒げた。突然そのようなことを言われても小黄とて困るだろう。
とうぜん煬鳳は、小黄が嫌がると思っていたのだが、予想に反して小黄は二つ返事で、
「行きたい!」
と叫んだものだから、これには煬鳳も凰黎も驚いてしまった。
次の煬鳳たちの目的は翳冥宮だ。しかし同時に凰神偉とも顔を合わせるだろうから、鸞快子の言っていることは間違いというわけでもない。
(鸞快子は一体何を考えているんだ?)
訝しく思い、煬鳳は鸞快子の袖を引っ張った。
「おい、どういうつもりだ? あんな小さな子を恒凰宮まで連れて行くなんて。……あそこは険しい山も多いし、子供なんか連れて行る場所じゃないだろ」
「しかし、あそこには原始の谷があるだろう?」
鸞快子の言葉に煬鳳は彼の意図がようやく理解できた。
小黄が何故乗り気だったのかはわからないが、確かに恒凰宮の近くには原始の谷があるのだ。それは、凰黎が以前語ってくれた幼い日の話からも容易く推測することができる。
(つまり、鸞快子は……小黄の失った記憶が原始の谷に行くことで戻るかもしれないって、そう思ってるのか?)
恐らく彼が言いたいのは、万晶鉱の『この世の全てを知ることができる』という伝説のように、小黄の記憶も知ることができると考えているのだろう。
確かに翳冥宮の件が一段落すれば、そういったことも可能なのかもしれない。しかし、果たしてそんなうまく行くのだろうか?
いや、それ以前にだ。原始の谷へ小黄のような幼子を連れて行こうなど、普段は冷静な鸞快子の考えとは思えない。
「全く……随分と突拍子もないことを考えるものですね」
呆れた声で凰黎が溜め息をつく。本来ならば凰黎も強く反対したであろうが、小黄がそれよりも早く「行きたい」と切実に訴えてしまったことで、そうも言えなくなってしまったのだ。
「本人の強い意志でもあるし、それに……記憶がないままなのも辛いだろう。一か八かに賭けてみるのも悪くないと思うが」
鸞快子の言葉に凰黎は思わず立ち上がる。驚いた小黄がびくりと身を固くしたので、煬鳳がすかさず凰黎から小黄を受け取った。
「貴方って人は、原始の谷がどれほど危険な場所か、知っているでしょう!」
「無論だ」
「それなのに何故……!」
いつになく激しい口調の凰黎に煬鳳は驚く。しかし、彼の生い立ちを考えればそれも仕方のないことだろう。
――何故そんな危険な場所に子供を行かせるのか。
凰黎の口はそう言いかけて、しかし口を噤む。
自分が誰なのかわからない、玄烏門や蓬静嶺が手を尽くしても彼の身元が全く分からない。いま、誰よりも不安で仕方ないのは小黄自身なのだ。
万策尽きたとき、もしも自分のことを知るための手段が僅かでも残されているのなら。凰黎だって喜んで同じ言葉を言っていたかもしれない、そう思ったのだろう。
複雑な表情で俯いた凰黎の辛そうな表情を見て、煬鳳は今すぐにでも凰黎を抱きしめたくなった。
夕餉の時間には彩藍方や清粛、それに珍しく蓬静嶺から静泰還までやってきた。久しぶりに戻ってきた凰黎との食事を楽しみたいという気持ちもあったのかもしれない。
普段はいかにもな漢の料理といった玄烏門の食卓であるが、今日ばかりは普段よりは上品な食事が並んでいる。普段は肉一辺倒なのに、珍しく魚の料理があることに煬鳳は驚く。
「珍しいな、魚羹[*1]か?」
以前凰黎が作ってくれた料理は炒めたものだったが、今回出されたのは魚肉と山菜などで華やかに彩られた羹だ。思わず煬鳳が善瀧に尋ねると、彼は嬉しそうに頷いた。
「はい。本来は垂州のほうで獲れる魚を使うのですが、この辺りで獲れる魚で似たようなものを作ってみました。皆様の口に合うと良いのですが」
静泰還は時折小さく「うむ」と頷きながら、静かに食べていた。恐らくは静泰還の好みなどを熟知している善瀧の努力の賜物だろう。
夕餉のときは少し微妙な空気が凰黎と鸞快子の間に流れていたが、夕餉のあとで疲れた小黄が眠りについてみなの心も少し落ち着いたようだ。凰黎もようやく気持ちに整理がついたのか、いまは普段と変わりない様子で茶碗を片付けていた。
「一つ大切なことを聞き忘れていました」
部屋を片付けたあと、凰黎は席を立とうとする鸞快子を呼び止め、もう一度座らせる。懐から丁寧に畳まれた紙を取り出すと、卓子の上に広げてみせた。
それに気づいて立ち上がりかけた静泰還や彩藍方たちも、もう一度腰を下ろす。
「これは……」
その図には煬鳳も見覚えがある。魔界で鬼燎帝が殺されたときに、剣を持っていた禁衛兵の男。当時の皇太子が切りつけたところ、男は紙片となってしまったのだ。
「これは魔界で禁衛兵に成り済ましていた何者かが、自分の分身である人形に描いた呪符です。ではすぐにこの呪符の出所を突き止めることができませんでした。貴方ならわかるのでは?」
「こんな呪符、初めて見たぞ。これってどんな効果があるんだ? いや、人形に描かれていたんなら、やっぱり分身とかそういうものか……」
やはり彩藍方もその呪文の出所は知らないようだ。暫くうんうんと唸ったあとで「う~ん、わからないな」と言って首を振る。
「これは……はっきりとはわかりませんが、いま我々が描いているものより古い呪符の描き方のような気がいたします」
「描き方?」
「そうです。もちろん術の種類や系統によって描き方は大きく変わりますが、同じ効果の呪符だったとしても、時代によって少しずつ描き方が違うのです」
清粛が頷く。
静泰還は何か思うところがあるのか、じっと紙を見つめたまま動かない。どうやら心当たりはあるようなのだが、あと少しが思い出せないようだ。「歳には勝てんな」などと言いながら腕を組んでうんうんと唸っている。
「人の姿を真似るというのは存外に難しいこと。そして、己の姿を紙に写し取ったとしても、相手は魔界の皇帝。現存する術ではすぐに正体がばれてしまうはず。似たような効果の術は数あれど、完璧に人の姿を真似るのは相当高度な修練と技術が必要なはずだ」
鸞快子の言葉を受けた静泰還は不意に「そうか」と声をあげた。その言葉にみなおどろいて一斉に静泰還のことを見る。
「確か……そうだ! 遥か昔に失われた術法だ。間違いない!」
「もしや……消えた邪教の術法、ですか?」
「そのとおり、さすがは鸞快子」
静泰還は鸞快子に向かって頷くと、「良ければみなに話してやってくれないか?」と声をかける。
鸞快子は頷くとみなを見回して呪文の描かれた紙に指を置く。
「その昔、呪術に長けた一族がいたそうだ。しかし彼らの使う術はあまりに強力な術であったため、当然世間からは危険視された。そして邪教の術だと言われ当時の王朝から使用を禁じられ、使えば厳罰に処されたそうだ。結局一族は滅んだのか時の中に消えていったのか、知る者はいない。遥か昔の、火龍が現れる更に前の話だ」
一同は、遥か昔のことまですらすらと説明する鸞快子に舌を巻いた。
しかしそうなると『消えたはずの邪教の術が、何故?』という新たな疑問が出てきてしまう。一つ謎が解ければまた新たな謎。
「いまはこの呪符が消えた邪教の術であるとわかっただけで良しとしよう。考えすぎるのも良くはない。それに、我々は恒凰宮にも行かなければならないのだから」
これ以上考えてもいまは仕方ない。
結局鸞快子の言葉で呪符についての話し合いは終わり、彩藍方と清粛、それに静泰還は蓬静嶺へと戻って休むことにした。玄烏門と蓬静嶺は山を隔てた隣同士、大人ならさほど時間もかからずたどり着ける程度の距離である。こういう時にお互いの住まいが近いというのはやはりとても便利だ。
帰り際に清粛が煬鳳の頸根の痣の具合を見てくれたのだが、当然……苦笑いされてしまった。当然だろう、翳炎を使う頻度は少なかったが、一発一発が大きなものが大きかったのだ。
「以前に比べると随分痕が大きくなりましたね……。この調子で続けていたら何年体が持つのかわかりませんよ」
そこまで言うほど大きくはないのだが、しかし実際この調子で続けていたら三年は持たないだろう。
「そういや、黒明……黒冥翳魔も同じように体の熱が上がるんだよ。いまのあいつの体が彩鉱門の人間のものだから……ってのもあるかもしれないけど、そういうもんなのか?」
彩鉱門の人間、と聞いて傍にいた彩藍方がぴくりと反応したが、膝上の拳を握りしめるだけで何も言わなかった。
清粛は「うーん」と考えたあと、おずおずと煬鳳のほうを見る。
「二人とも、というのは確かに気になります。何か、そうなる切っ掛けがあったのかもしれません」
切っ掛け、といえば初め凰黎は煬鳳の体熱が上がるようになったのを、力を戻して貰ったせいだと気にしていた。しかし、翳黒明も同様の現象があるとなれば、やはり原因は別にあるように思えて仕方ない。
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[*1]魚羹……色々な具材の入った魚のスープ。
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